世界を望みはしないけど


 秋の夜は訪れが早い。
 すっかり暮れた並木通りは、会社を出たばかりの人々で賑わっていた。飲食店はこれから満席になるのだろうが、司之宮 斎(しのみや いつき)の営む多国籍雑貨店〈minato no iro(みなとのいろ)〉は閉店の時間を迎えるところだ。

「ああ、お嬢。シャッターなど私が」

 斎に「お嬢」と呼びかけたのは、ピシリとスーツを着こなした男だ。背が高く、隙のない身のこなし。服の上からでもわかる胸板。年の頃は三十そこそこか。

「何言ってんの、(たちばな)。あんたいちおうオーナーってことになってるんだから堂々としてなさい」

 斎はぞんざいに言い捨てた。ウッディな店によく似合う優しい雰囲気の見た目に反し、橘に対する態度は高飛車。ツカツカと入り口に向かった斎は自動ドアの電源に手を伸ばした。
 ――が。
 ウィーン。
 ちょうどドアが開く。斎は瞬間的にやわらかな微笑みを貼り付けた。
 その目の前で店に入ってきたのは、ピンクのドレス――しかも胸を真っ赤に染めた女だった。

「離れて、イツキさん!」

 すわ銃撃事件か、と橘が駆け寄る。しかし誰に聞かれてもいいよう反射的に「お嬢」を封印したのは偉かった。斎は忠犬のような橘を手で制する。これは知り合いなので。

「ふえぇーん、イツキちゃぁん」

 泣き声をあげたのはドレスの女だった。

「どうしたのミュウちゃん。それワイン?」
「そーなのぉ。お客さんにビシャン、てやられちゃってぇ」

 斎が「ミュウ」と呼んだ若い女は、胸元も肩もあらわなドレスで立ち尽くしていた。豊かな胸の谷間にワインが流れ込んだのか、お腹にも赤い色がにじんでいる。上着を片手に引っつかみ、もう片手には小さなバッグ。さすがに寒そうなので店の中に入れてやった。
 橘がサッと自動ドアの電源を切り鍵をかけ、シャッターを下ろす。この女が誰かに追われていては困るから。

「イツキさん。こちらは?」

 橘はまだ警戒を解かず厳しい視線だった。斎に妙な人間が近づくのは許容できない。しかし斎はソトヅラ用の和やかな笑顔を作った。

「あ、オーナーすみません、この子お友だちの……近くのアパートに住んでる心結(みゅう)ちゃんでして、ええと、キャバ? ラウンジ? に勤めてまっす」
「キャバク……いや、ならまだ店が開いてすぐだろうに。もう客とトラブったと?」
「ふえぇっ! だってヘルプについた卓でぇ、ヤンチャなお客さんたちでぇ……」

 責めるような橘の声に、心結はベソをかいた。自分がどんくさいことはわかっている。ソファを汚されたので店長にも叱責されたし、「とっととひっこんで着替えろ」と言われ飛び出してきたのだ。

「え、ミュウちゃん。それバックルームで身だしなみを整えろってことじゃないの? 早退しろとは言われてない……」
「へ? あ、そっか!」
「戻んなよ。替えのドレスなら店にもあるでしょ」
「んー、でもぉ……パンツは置いてないもん。なんかグチョってしてるのぉ……」

 心結がぺろりん、と裾をめくって股を確認する。さすがに橘が悲鳴をあげてそっぽを向いた。

「何するんだ、あんたっ!」
「あ、ごめんなさい、パンツの確認したくて……やっぱワイン染みてたよぅ」
「ミュウちゃん、そういうのは家でやろうね」

 斎は苦笑いで済ませた。あぶなっかしい子だとは思うけど、まあパンツぐらい見えても本人が気にしないならいいじゃないか。

「いえ、こっちが見たくないので」

 橘が嫌そうに断言した。心結を見る目がゴミへのそれ。

「さっさと帰って下着を替えたらいい。まったく何故この店に」
「ここの前まで来たらイツキちゃんが見えたんだもん。ちょっと泣きたかったけどぉ、イツキちゃんと話したら元気出た。ありがと」
「どういたしまして。もう閉店だから裏から出てね」

 この店はマンションの一階に入ったテナントだ。ビル内へ通じるドアから廊下を通ってマンション入り口へと誘導し、送り出す。
 汚したくないからと上着を羽織ることもせず、夜風に吹かれワイン染めのドレスで去っていく心結の姿はなかなかドラマチックだった。

「いいえ、街であんなの見かけたら()けますが?」

 店に戻った橘は容赦なく論評する。

「あぶない匂いしかしません。お嬢も交友関係には気をつけてくれないと困りますよ。私はボディガードを兼ねてるので」

 この二人の付き合い。それは斎が高校に入学し、橘が新卒で TSUKASA グループへ入社した頃からだった。なのでもう十年ほどになるか。
 TSUKASA は司之宮家の創業だ。創業一族の一人である斎の登下校の護衛をしながら合間に仕事、というハードな生活をその頃の橘はしていた。

「ミュウちゃんはふわふわしてるけど悪い子じゃないよ。橘も嫌わないであげて」
「……人前でスカートをめくる馬鹿女としか思えません」
「そういうのラッキースケベとか言わない?」
「見たい女のならラッキーですが、それ以外はノーサンキューですね」
「ふうん……?」

 そんなものなのか。男の感覚がわからなくて橘の潔癖さに肩をすくめる。斎はレジを締めながらついでに質問してみた。

「私のは? 見たい?」
「見せてくれるんですか」

 堂々と返ってきた言葉に斎は仏頂面になった。こいつ、正気か?

「……見せないよ」
「そうですか」

 淡々と言う橘を、斎はまじまじと見つめた。これはからかわれたな、うん。
 橘が斎のパンツに興味あるはずはない。二人の始まりは高校生と社会人だった。いつも子ども扱いされ、異性との交流についても重苦しいほどの注意を受けてきたのだ。

 頭が良く武道の心得がある橘のことを、司之宮の家は大学の学費を出して育成した。橘はその恩義のために斎に仕えてくれているだけ。
 橘は会社の仕事もしているが、斎が道楽で始めたような店のことを気にかけ経営を見てくれているのだった。今日も問題が起きていないかチェックしに来てくれていた。

 斎は面倒くさがりだ。なので対外的には橘をオーナーということにして、自分は雇われ店長だと名乗っている。このマンションも実は TSUKASA 不動産が建てた斎の所有物なのだが、いち居住者のフリをしている念の入れよう。
 なので、斎の部屋は最上階ではない。ひとつ下。いくつかドアが並ぶうちの端っこで、一見普通だ。

「じゃね、橘」
「はい。それでは」

 わざわざドアの前まで見送ってくれた橘が一礼してエレベーターに戻っていく。部屋に入った斎はしみじみつぶやいた。

「……まだるっこしいことを」

 リビングに行った斎は、そこにあるドアの鍵を開けた。中にあるのは――上階への階段。しばらくすると上から玄関の開く音と足音が聞こえてくる。

「お帰り、橘」

 声をかけると上のドアも開き、顔を出したのはさっき別れた橘だった。

「ただいま戻りましたよ、お嬢」
「うん知ってる」

 オーナーのフリをして最上階に住まわされている橘の部屋と、斎の部屋。実は室内階段でつながっているのだった。