「……しんけいがしゅ、ってなに?」
隣に座る朔が、宗介の袖を小さく引く。
「確か、がんの一種……ってことで合ってるのかな」
いつだったか、テレビの密着番組で見たことがあるような気がする。
自信がなくて、陽葵に確認するように視線を向けると、彼女は「健康な人の認識なんて、そんなものよね」と肩をすくめた。返す言葉もない。
「そうよ、小児がんだったの。一度は治ったけど、けっきょく再発しちゃったのよね」
そう言いながら、陽葵はオムライスをもうひと匙すくう。
最初の慎重さはだいぶ薄れて、今度はぱくりと勢いよく口に含んでいた。
「がん?」と、まだ理解できていない様子の朔には「体の中の悪い部分が、無限に増えていっちゃう病気かな」とざっくり説明する。
だが、陽葵は死んだことを理解していないわけでも、認めたくないわけでもなさそうだ。
むしろ、冷静に受け止めている雰囲気すらある。宗介は静かに切り出した。
「……舟に乗りたくなかった理由を、聞いてもいい?」
彼女はスプーンをくわえたまま、ちらりと視線を寄越した。
それから、少し考えるように目を伏せたあと、ぽつりと呟く。
「悪い子になってみたかったから」
「悪い子?」
「そう。わたし今まで、ずぅーっと〝お利口さん〟でいたのよね」
陽葵はまるで、他人事のように淡々と話した。
病気になった頃には、もう分別のつく年齢だったからこそ、大人の言うことをよく聞いて、治療も嫌がらない、いい子でいることが当たり前だったのだという。
「医師や看護師さんの言うことだって、一回も破ったりしなかった。だって破れば、死んじゃうんだもの」
「にんじんだって、嫌だったけど、ちゃんと我慢して食べてたのよ。勉強だって、まじめにやったわ」
けれど病魔は、そんなことなどお構いなしに、陽葵の体を蝕んでいった。
治療の甲斐もなく、陽葵の命が助かることはなかった。
「けっきょく死んじゃったんなら、もう悪いことをしたっていいでしょ?〝いい子〟でいるのは、もうウンザリだったの。だから、舟にも乗らないって、わがまま言ってみただけ」
渡りたくない理由なんて、本当は特にないのよね。
そう言って、陽葵はまたぱくりとオムライスを頬張る。
「だけど、飽きたからもういいわ。駄々をこねるのって、意外と疲れるのね」
「……そりゃあ、三日も居座りつづけたたらね」
隣でぼそりと朔がぼやく。どうやらかなり手を焼いていたらしい。
陽葵は「どうも、悪かったわね」と鼻を鳴らし、最後の一口を平らげた。
「分かってるわよ。あとで、舟にはちゃんと乗ってあげる」
「……ほんとう?」
朔がほっとしたように、小さく息を吐く。
「えぇ。だけど、どうせなら吐き出したいこと、ぜんぶ言ってからいこうかしら」
陽葵はスプーンを皿の上に置いて、椅子の背に深くもたれかかる。
「本当は言いたかったけど、言えなかったこと、たくさんあるの」
最後だから、あなたたち、ちょっと付き合ってよ。
そう言って、陽葵は視線を宙に投げた。
◇◆◇
お腹が満たされたからか、それともようやく気が抜けたのか。さっきまでのつんけんした様子は少しだけ鳴りを潜めて、言葉がするすると出てくるようだった。
年齢のわりに言葉が達者なところも、彼女が大人びて見える要因だろう。
陽葵の口調がどこか口語的でないのは、本ばかりを読んでいたからであるらしい。
「だって、テレビをみるのは大きらいだったんだもの。ムカつくのよ。テレビをつけたら、すぐに自殺だとか戦争のこととかが流れてくるでしょ? 病棟の中と外じゃ、ずいぶん命の重さがちがうのねって。……小児病棟のなかに、死にたがってる子なんていないのに」
だったらよっぽど、物語を読んでいる方がマシじゃない。
ハッピーエンドだらけなのには、ちょっと納得がいかないけどね。
だって現実は、そううまくはいかないでしょう?
陽葵はそう、つまらなそうに言う。
だって物語なら、一度治ったらそれでおしまいじゃない、と。
陽葵のがんは、一度は寛解したのち、再発してしまったという。
もう国内の薬では効き目がなく、海外の新薬が最後の希望だったらしい。
「もうすぐ、すごく効くお薬を買えるからね。それを使えば、きっと治るから」
両親は陽葵にそう言い聞かせながら、働きづめの日々を送っていたのだという。
「国内未承認のお薬はね、高額療養費制度の対象外、なんだって」
八歳の子どもには不釣り合いな言葉の連なりを、陽葵は淀みなく口にした。
きっと病院内のどこかで、あるいは両親の会話の端々で、何度も耳にしてきた言葉なのだろう。そう思うと、胸に苦いものが広がる。
彼女の両親は、休日こそ必ずお見舞いに来てくれた。
けれど、平日は夜も仕事を掛け持ちしてお金を稼いでいたのだと、陽葵はいう。
だが、ようやく買えた海外の新薬に、陽葵の体は拒絶反応を示して使うことができなかった。せっかくの薬も、両親の努力も、結局は無駄になってしまった。
「思ったのよね。わたしの体、とうとうお薬にまで好き嫌いをするようになったんだって」
陽葵は皮肉っぽく、そう自嘲する。
「……拒絶反応は、好き嫌いとはまた別だと思うけど」
「そんなこと、わたしが一番わかってるわよ。でもそう思っちゃったんだもの、仕方ないでしょ」
不用意な慰めの言葉は、他ならぬ当事者にぴしゃりと一刀両断される。
朔は膝の上に手を揃えて、ただ静かに陽葵の顔を見つめていた。
しばらくの沈黙ののち、陽葵は小さく呟く。
「……ほんとはね、お仕事なんて増やさなくていいから、平日にも会いにきてほしかった。きくかどうかも分からないお薬なんて、本当はいらなかったの」
けれど〝お利口さん〟でいつづけた陽葵は、その言葉を両親に最期まで言えなかった。言わなかった。そうして最期まで口を噤んだまま、彼女は死んでしまったのだ。
ほんとうは、強がっていただけなの、と陽葵はいう。
パパもママも、私のせいで忙しいんだから、邪魔をしてはいけないって。
わがままを言ってはいけないって、思ってたの。
だって、ちゃんといい子にしてれば、お見舞いの時にはほめてくれるから。
お利口さんねって、わたしのこと抱きしめてくれるから。
だから、病室にひとりっきりでもがまんした。
それだけで、ちゃんとがまんできたの、と。
とうとう堪えきれなくなったように、陽葵の目から涙がこぼれ落ちる。一度流れ始めたそれは、あとからあとから溢れて止まらなくなった。
宗介は思わず席を立って、その小さな背中をさする。しゃくりあげる度に体がはねるのが可哀想で、ゆっくり上から下へと背中を撫でた。
「だけど、どうせ治んないならっ!」
涙に濡れた声が、悲痛な叫びを上げる。
「ほんとうは、ちょっとでも長くそばにいて欲しかったっ……!」
陽葵は宗介のパーカーをぎゅっと掴んでしがみつく。
この年頃の子は、案外、大人が思うよりも人の機微に敏感だ。
それこそ、笑顔の下にある安堵の感情まで読み取ってしまうくらいには。
そして大人は、自分が思うよりも、感情の機微に鈍感なことがある。
それこそ、笑顔の下にある、覆い隠された寂しさに気付けないいくらいに。
難しいな、と宗介は思う。
わずかでも治る見込みがあるのなら、最善を尽くしたい。尽くさずにはいられない。
そう思う親側の気持ちも、大人と子どものあわいにいる宗介には理解できてしまう。
だからこそ、その想いのすれ違いがやるせなかった。
「ほんとうは、ほんの少しでも長く、一緒にいたかったっ! でも、言えなかったぁああ」
堰を切ったように、陽葵は泣きじゃくりはじめる。
宗介はその小さな体を抱きしめて、ただ背中をさすり続けた。
引き攣るような、押し殺すようなその泣き方は、弟妹たちとは違うなとぼんやり思う。
弟妹たちは、涙と鼻水で顔をびしゃびしゃにして、発散するようにギャンギャン泣いていたっけ、と。だけど、その泣き方は年相応の子どもらしくて、宗介は嫌いじゃなかった。
少なくとも、こんな胸を締め付けられるような泣き方をするよりは、ずっといい。
きっと陽葵の本質は、気が強くて、天邪鬼で。
決して〝いい子〟でも〝お利口さん〟でもなかったのだろう。
それでも大人を困らせないように、陽葵は物わかりのいい子を最後まで演じ切った。
聡くて、どうしようもなく優しい子だったのだと、宗介は思う。
隣に座る朔が、宗介の袖を小さく引く。
「確か、がんの一種……ってことで合ってるのかな」
いつだったか、テレビの密着番組で見たことがあるような気がする。
自信がなくて、陽葵に確認するように視線を向けると、彼女は「健康な人の認識なんて、そんなものよね」と肩をすくめた。返す言葉もない。
「そうよ、小児がんだったの。一度は治ったけど、けっきょく再発しちゃったのよね」
そう言いながら、陽葵はオムライスをもうひと匙すくう。
最初の慎重さはだいぶ薄れて、今度はぱくりと勢いよく口に含んでいた。
「がん?」と、まだ理解できていない様子の朔には「体の中の悪い部分が、無限に増えていっちゃう病気かな」とざっくり説明する。
だが、陽葵は死んだことを理解していないわけでも、認めたくないわけでもなさそうだ。
むしろ、冷静に受け止めている雰囲気すらある。宗介は静かに切り出した。
「……舟に乗りたくなかった理由を、聞いてもいい?」
彼女はスプーンをくわえたまま、ちらりと視線を寄越した。
それから、少し考えるように目を伏せたあと、ぽつりと呟く。
「悪い子になってみたかったから」
「悪い子?」
「そう。わたし今まで、ずぅーっと〝お利口さん〟でいたのよね」
陽葵はまるで、他人事のように淡々と話した。
病気になった頃には、もう分別のつく年齢だったからこそ、大人の言うことをよく聞いて、治療も嫌がらない、いい子でいることが当たり前だったのだという。
「医師や看護師さんの言うことだって、一回も破ったりしなかった。だって破れば、死んじゃうんだもの」
「にんじんだって、嫌だったけど、ちゃんと我慢して食べてたのよ。勉強だって、まじめにやったわ」
けれど病魔は、そんなことなどお構いなしに、陽葵の体を蝕んでいった。
治療の甲斐もなく、陽葵の命が助かることはなかった。
「けっきょく死んじゃったんなら、もう悪いことをしたっていいでしょ?〝いい子〟でいるのは、もうウンザリだったの。だから、舟にも乗らないって、わがまま言ってみただけ」
渡りたくない理由なんて、本当は特にないのよね。
そう言って、陽葵はまたぱくりとオムライスを頬張る。
「だけど、飽きたからもういいわ。駄々をこねるのって、意外と疲れるのね」
「……そりゃあ、三日も居座りつづけたたらね」
隣でぼそりと朔がぼやく。どうやらかなり手を焼いていたらしい。
陽葵は「どうも、悪かったわね」と鼻を鳴らし、最後の一口を平らげた。
「分かってるわよ。あとで、舟にはちゃんと乗ってあげる」
「……ほんとう?」
朔がほっとしたように、小さく息を吐く。
「えぇ。だけど、どうせなら吐き出したいこと、ぜんぶ言ってからいこうかしら」
陽葵はスプーンを皿の上に置いて、椅子の背に深くもたれかかる。
「本当は言いたかったけど、言えなかったこと、たくさんあるの」
最後だから、あなたたち、ちょっと付き合ってよ。
そう言って、陽葵は視線を宙に投げた。
◇◆◇
お腹が満たされたからか、それともようやく気が抜けたのか。さっきまでのつんけんした様子は少しだけ鳴りを潜めて、言葉がするすると出てくるようだった。
年齢のわりに言葉が達者なところも、彼女が大人びて見える要因だろう。
陽葵の口調がどこか口語的でないのは、本ばかりを読んでいたからであるらしい。
「だって、テレビをみるのは大きらいだったんだもの。ムカつくのよ。テレビをつけたら、すぐに自殺だとか戦争のこととかが流れてくるでしょ? 病棟の中と外じゃ、ずいぶん命の重さがちがうのねって。……小児病棟のなかに、死にたがってる子なんていないのに」
だったらよっぽど、物語を読んでいる方がマシじゃない。
ハッピーエンドだらけなのには、ちょっと納得がいかないけどね。
だって現実は、そううまくはいかないでしょう?
陽葵はそう、つまらなそうに言う。
だって物語なら、一度治ったらそれでおしまいじゃない、と。
陽葵のがんは、一度は寛解したのち、再発してしまったという。
もう国内の薬では効き目がなく、海外の新薬が最後の希望だったらしい。
「もうすぐ、すごく効くお薬を買えるからね。それを使えば、きっと治るから」
両親は陽葵にそう言い聞かせながら、働きづめの日々を送っていたのだという。
「国内未承認のお薬はね、高額療養費制度の対象外、なんだって」
八歳の子どもには不釣り合いな言葉の連なりを、陽葵は淀みなく口にした。
きっと病院内のどこかで、あるいは両親の会話の端々で、何度も耳にしてきた言葉なのだろう。そう思うと、胸に苦いものが広がる。
彼女の両親は、休日こそ必ずお見舞いに来てくれた。
けれど、平日は夜も仕事を掛け持ちしてお金を稼いでいたのだと、陽葵はいう。
だが、ようやく買えた海外の新薬に、陽葵の体は拒絶反応を示して使うことができなかった。せっかくの薬も、両親の努力も、結局は無駄になってしまった。
「思ったのよね。わたしの体、とうとうお薬にまで好き嫌いをするようになったんだって」
陽葵は皮肉っぽく、そう自嘲する。
「……拒絶反応は、好き嫌いとはまた別だと思うけど」
「そんなこと、わたしが一番わかってるわよ。でもそう思っちゃったんだもの、仕方ないでしょ」
不用意な慰めの言葉は、他ならぬ当事者にぴしゃりと一刀両断される。
朔は膝の上に手を揃えて、ただ静かに陽葵の顔を見つめていた。
しばらくの沈黙ののち、陽葵は小さく呟く。
「……ほんとはね、お仕事なんて増やさなくていいから、平日にも会いにきてほしかった。きくかどうかも分からないお薬なんて、本当はいらなかったの」
けれど〝お利口さん〟でいつづけた陽葵は、その言葉を両親に最期まで言えなかった。言わなかった。そうして最期まで口を噤んだまま、彼女は死んでしまったのだ。
ほんとうは、強がっていただけなの、と陽葵はいう。
パパもママも、私のせいで忙しいんだから、邪魔をしてはいけないって。
わがままを言ってはいけないって、思ってたの。
だって、ちゃんといい子にしてれば、お見舞いの時にはほめてくれるから。
お利口さんねって、わたしのこと抱きしめてくれるから。
だから、病室にひとりっきりでもがまんした。
それだけで、ちゃんとがまんできたの、と。
とうとう堪えきれなくなったように、陽葵の目から涙がこぼれ落ちる。一度流れ始めたそれは、あとからあとから溢れて止まらなくなった。
宗介は思わず席を立って、その小さな背中をさする。しゃくりあげる度に体がはねるのが可哀想で、ゆっくり上から下へと背中を撫でた。
「だけど、どうせ治んないならっ!」
涙に濡れた声が、悲痛な叫びを上げる。
「ほんとうは、ちょっとでも長くそばにいて欲しかったっ……!」
陽葵は宗介のパーカーをぎゅっと掴んでしがみつく。
この年頃の子は、案外、大人が思うよりも人の機微に敏感だ。
それこそ、笑顔の下にある安堵の感情まで読み取ってしまうくらいには。
そして大人は、自分が思うよりも、感情の機微に鈍感なことがある。
それこそ、笑顔の下にある、覆い隠された寂しさに気付けないいくらいに。
難しいな、と宗介は思う。
わずかでも治る見込みがあるのなら、最善を尽くしたい。尽くさずにはいられない。
そう思う親側の気持ちも、大人と子どものあわいにいる宗介には理解できてしまう。
だからこそ、その想いのすれ違いがやるせなかった。
「ほんとうは、ほんの少しでも長く、一緒にいたかったっ! でも、言えなかったぁああ」
堰を切ったように、陽葵は泣きじゃくりはじめる。
宗介はその小さな体を抱きしめて、ただ背中をさすり続けた。
引き攣るような、押し殺すようなその泣き方は、弟妹たちとは違うなとぼんやり思う。
弟妹たちは、涙と鼻水で顔をびしゃびしゃにして、発散するようにギャンギャン泣いていたっけ、と。だけど、その泣き方は年相応の子どもらしくて、宗介は嫌いじゃなかった。
少なくとも、こんな胸を締め付けられるような泣き方をするよりは、ずっといい。
きっと陽葵の本質は、気が強くて、天邪鬼で。
決して〝いい子〟でも〝お利口さん〟でもなかったのだろう。
それでも大人を困らせないように、陽葵は物わかりのいい子を最後まで演じ切った。
聡くて、どうしようもなく優しい子だったのだと、宗介は思う。
