食べ終えた容器を片付けて、ひとしきりぼんやりと過ごしてから、宗介はようやく重い腰を上げる。洗濯物を抱えて庭に降り立てば、陽はもうだいぶ高い所にあった。
ここに来た時、宗介が身に纏っていたのは簡素な病院着だった。そんな格好のまま過ごすのはどうにも落ち着かなくて、最初に数着の普段着を鬼人に頼んだのだ。
下着類とスウェット、それから薄手のパーカーとズボンをいくつか。最低限のローテーションで回しているので、こまめに洗わなければやっていけない。
物干し竿に洗濯物を干しながら、宗介は改めてこの場所を見渡してみる。
どうやらそこは、山の中腹にぽっかりと空いた、ごくごく小さな盆地になっているらしかった。中央には節くれ立った古木が一本生えていて、その古木を臨むように、宗介の寝起きする一軒家がぽつんと佇んでいる。
開けた盆地はそのまま家の庭になっていて、手入れされているのかいないのか判然としない草花が、まばらに生えていた。
そうして視線をあたりに巡らすうち、ふと目の端に鮮やかな色味が映り込む。
洗濯物を干す手を止めて、庭から玄関の方へと回り込んでみれば。玄関扉の足元にはオレンジとりんごがいくつか、そっと置かれている。
「……ごんぎつねか」
宗介は小さく呟いて、しばらくそれを見下ろした。
犯人はわかっている。あの渡し守の子どもだ。
ここに来てすぐの頃「……あまってる供物、あげる」と言ってきたのを思い出す。
亡者に供えられるも、行き場がなく余ってしまったもの。
それを、宗介に分けてくれているらしかった。
あの渡し守の子どもは時折、庭の片隅から、じっとこちらの様子を窺っていることがあった。盆地を囲む木々の隙間から、ひどく遠慮がちな視線を向けてくるのだ。
けれど、こちらから声をかけると、子供はぴゃっと木の陰に引っ込んでしまう。
あるいは、おずおずと木の影から顔を覗かせて「えっと、その……」などと口ごもり。
やがては絞り出すように「……だいじょうぶ?」と言ったきり黙り込んでしまう。
どう返したものか、宗介にもよくわからなかった。
だいじょうぶ、とは、とても言えない。
かといって、馬鹿正直にそう答えるのも憚られる。
うまく言葉が出てこないまま、結局いつも、気まずい沈黙が流れるばかりだ。
最近では『ごんぎつね』よろしく、余り物の供物が玄関口に置かれるようになってしまった。もしかすると、彼なりに慰めようとしているのかもしれない。
「何やってるんだろ、俺……」
あんな小さな子にまで、気を遣わせて。
宗介はため息混じりに呟くと、玄関前に転がるオレンジを拾い上げた。
橙の果実はずしりと重たく、どこか冷たい感触がする。表皮がつるりと光を受けて、いやに鮮やかだ。
「……自分で食べればいいのに」
きっとこの果物たちだって、あの子においしく食べてもらえた方が本望だろう。
このまま宗介の手元に置いておいたところで、冷蔵庫の食材と同じ末路をたどるだけだ。
宗介は果物を返すため、河原へ降りる道を探して歩き始めた。
盆地の縁に沿って少し歩くと、木々の隙間に細道を見つける。
足元には木々の根がのたくっていて、それが天然の階段のようになっていた。
宗介は根っこに足を取られないように、一段一段、慎重に山道を下りていく。
しばらくすると、やがては道の先に、木々が途切れて灰色の大地が見えた。例の河原だ。
平坦な河原へと足を踏み入れれば、足元でじゃり、と丸石たちが鳴る。
探し人は何処だろうと、だだっ広く殺風景な河原を見渡そうとした、その時だった。
「ぜったいに、い・や・よ!」
甲高い声が、宗介の耳に飛び込んでくる。
声のする方へ目をやれば、少し先の岸辺に、小さな人影がふたつあった。
ひとつは、あの渡し守だ。
もうひとつは、白装束をまとった子どもだった。
岩の上に座り込んでいる子どもの髪は、ベリーショートとも呼ぶべき短さで、男の子か女の子かぱっと見では判断がつかない。けれど言葉遣いからするに、女の子だろうか。
渡し守はといえば、その傍らで困ったように眉を寄せている。
その光景に、ふと駄々をこねる妹と、それを持て余す弟の顔が重なった。
幼い妹が「い・や!」とかんしゃくを起こすたびに、弟はいつもああいう顔をした。
自分なりに宥めようとして、けれどうまくいかなくて。
そんな時は、困り顔のまま、助けを求めるように宗介を見上げてくるのだ。
渡し守からすれば、お節介かもしれない。
それでも放ってはおけなくて、気づけば二人に向かって歩み寄っていた。
「……そんなところに座ってたら、おしりが痛くなっちゃわない?」
岩の上の少女が、ぱっとこちらを振り返る。
渡し守の子どもも、驚いたように目を瞬いた。
近寄ってみれば、少女の年齢は弟と同じくらいに見える。八歳くらいだろうか。
けれど、同年代の子どもと比べると、体は明らかに発育が悪かった。
白装束は襟ぐりにかなり余裕があり、鎖骨がくっきりと尖って浮いている。首も肩も棒きれのように細く、どこもかしこも骨ばって見えた。
だが、改めて近くで見れば、隣に立つ渡し守の子ども負けず劣らず華奢だった。
墨染色の着流しの裾からのぞく手足もまた、小枝のように細く、少女のそれと大差がない。二人とも、ちゃんと食べているのか心配になるほどの痩せ方だった。
弟妹たちの年相応に丸い頬や、健康的な肉付き方を知っているせいだろうか。なんだか無性に胸がざわついて、落ち着かない気分になる。
そんなとき頭をよぎったのは、冷蔵庫に眠ったままの食材たちのことだった。
宗介は渡し守の前にしゃがみ込んで、目線を合わせる。
「えっと……朔くん、だっけ」
「……うん」
「この子に、何か食べさせてあげることって、できるのかな」
すると朔は、だいじょうぶだよ、と小さく頷いた。
「……亡者になっても、味覚はあるから」
「じゃあ、俺が寝起きしているあの家にこの子を招くのは、問題ない?」
朔は少しの間、じっと宗介と少女とを見つめた。それから再び、こくりと頷く。
「……日没までなら、いいよ」
「ありがとう」
宗介は小さく安堵の息を吐く。
「それから……できれば君にも食べていって欲しいんだけど、お仕事の都合はどうかな」
そう問えば、朔はちらりと無言で桟橋の方を振り仰いだ。
遠くに見える黒い着流しの男を見やってから、また宗介へと視線を戻す。
「たぶん、だいじょうぶ」
ぼくのきょうの役目は、この人を渡すことだって言われてるから、と。
朔はそう言って、隣の少女を横目に見上げる。
少女は拗ねたように、つんと顎を上げてあらぬ方向を向いていた。
宗介は苦笑して、少女の方に向き直る。
「そういうわけで……とりあえず、何か食べて落ちつかない?」
少女は品定めでもするように、宗介の頭の先から爪先までをじろじろと眺める。
それから、ふん、と小さく鼻を鳴らした。
「いいわよ。お呼ばれしてあげる」
少女はそう、尊大に言ってのける。
宗介は思わず、朔と顔を見合わせてしまった。
女の子は男の子より早熟だと聞くけれど、それにしたって貫禄がすごい。
だが、何はともあれ、承諾は得られたらしい。
「それじゃあ、行こっか」
宗介は二人を促して、来た道を戻り始める。
じゃり、じゃり、と小石を踏む音が三人分、灰色の河原に重なった。
ここに来た時、宗介が身に纏っていたのは簡素な病院着だった。そんな格好のまま過ごすのはどうにも落ち着かなくて、最初に数着の普段着を鬼人に頼んだのだ。
下着類とスウェット、それから薄手のパーカーとズボンをいくつか。最低限のローテーションで回しているので、こまめに洗わなければやっていけない。
物干し竿に洗濯物を干しながら、宗介は改めてこの場所を見渡してみる。
どうやらそこは、山の中腹にぽっかりと空いた、ごくごく小さな盆地になっているらしかった。中央には節くれ立った古木が一本生えていて、その古木を臨むように、宗介の寝起きする一軒家がぽつんと佇んでいる。
開けた盆地はそのまま家の庭になっていて、手入れされているのかいないのか判然としない草花が、まばらに生えていた。
そうして視線をあたりに巡らすうち、ふと目の端に鮮やかな色味が映り込む。
洗濯物を干す手を止めて、庭から玄関の方へと回り込んでみれば。玄関扉の足元にはオレンジとりんごがいくつか、そっと置かれている。
「……ごんぎつねか」
宗介は小さく呟いて、しばらくそれを見下ろした。
犯人はわかっている。あの渡し守の子どもだ。
ここに来てすぐの頃「……あまってる供物、あげる」と言ってきたのを思い出す。
亡者に供えられるも、行き場がなく余ってしまったもの。
それを、宗介に分けてくれているらしかった。
あの渡し守の子どもは時折、庭の片隅から、じっとこちらの様子を窺っていることがあった。盆地を囲む木々の隙間から、ひどく遠慮がちな視線を向けてくるのだ。
けれど、こちらから声をかけると、子供はぴゃっと木の陰に引っ込んでしまう。
あるいは、おずおずと木の影から顔を覗かせて「えっと、その……」などと口ごもり。
やがては絞り出すように「……だいじょうぶ?」と言ったきり黙り込んでしまう。
どう返したものか、宗介にもよくわからなかった。
だいじょうぶ、とは、とても言えない。
かといって、馬鹿正直にそう答えるのも憚られる。
うまく言葉が出てこないまま、結局いつも、気まずい沈黙が流れるばかりだ。
最近では『ごんぎつね』よろしく、余り物の供物が玄関口に置かれるようになってしまった。もしかすると、彼なりに慰めようとしているのかもしれない。
「何やってるんだろ、俺……」
あんな小さな子にまで、気を遣わせて。
宗介はため息混じりに呟くと、玄関前に転がるオレンジを拾い上げた。
橙の果実はずしりと重たく、どこか冷たい感触がする。表皮がつるりと光を受けて、いやに鮮やかだ。
「……自分で食べればいいのに」
きっとこの果物たちだって、あの子においしく食べてもらえた方が本望だろう。
このまま宗介の手元に置いておいたところで、冷蔵庫の食材と同じ末路をたどるだけだ。
宗介は果物を返すため、河原へ降りる道を探して歩き始めた。
盆地の縁に沿って少し歩くと、木々の隙間に細道を見つける。
足元には木々の根がのたくっていて、それが天然の階段のようになっていた。
宗介は根っこに足を取られないように、一段一段、慎重に山道を下りていく。
しばらくすると、やがては道の先に、木々が途切れて灰色の大地が見えた。例の河原だ。
平坦な河原へと足を踏み入れれば、足元でじゃり、と丸石たちが鳴る。
探し人は何処だろうと、だだっ広く殺風景な河原を見渡そうとした、その時だった。
「ぜったいに、い・や・よ!」
甲高い声が、宗介の耳に飛び込んでくる。
声のする方へ目をやれば、少し先の岸辺に、小さな人影がふたつあった。
ひとつは、あの渡し守だ。
もうひとつは、白装束をまとった子どもだった。
岩の上に座り込んでいる子どもの髪は、ベリーショートとも呼ぶべき短さで、男の子か女の子かぱっと見では判断がつかない。けれど言葉遣いからするに、女の子だろうか。
渡し守はといえば、その傍らで困ったように眉を寄せている。
その光景に、ふと駄々をこねる妹と、それを持て余す弟の顔が重なった。
幼い妹が「い・や!」とかんしゃくを起こすたびに、弟はいつもああいう顔をした。
自分なりに宥めようとして、けれどうまくいかなくて。
そんな時は、困り顔のまま、助けを求めるように宗介を見上げてくるのだ。
渡し守からすれば、お節介かもしれない。
それでも放ってはおけなくて、気づけば二人に向かって歩み寄っていた。
「……そんなところに座ってたら、おしりが痛くなっちゃわない?」
岩の上の少女が、ぱっとこちらを振り返る。
渡し守の子どもも、驚いたように目を瞬いた。
近寄ってみれば、少女の年齢は弟と同じくらいに見える。八歳くらいだろうか。
けれど、同年代の子どもと比べると、体は明らかに発育が悪かった。
白装束は襟ぐりにかなり余裕があり、鎖骨がくっきりと尖って浮いている。首も肩も棒きれのように細く、どこもかしこも骨ばって見えた。
だが、改めて近くで見れば、隣に立つ渡し守の子ども負けず劣らず華奢だった。
墨染色の着流しの裾からのぞく手足もまた、小枝のように細く、少女のそれと大差がない。二人とも、ちゃんと食べているのか心配になるほどの痩せ方だった。
弟妹たちの年相応に丸い頬や、健康的な肉付き方を知っているせいだろうか。なんだか無性に胸がざわついて、落ち着かない気分になる。
そんなとき頭をよぎったのは、冷蔵庫に眠ったままの食材たちのことだった。
宗介は渡し守の前にしゃがみ込んで、目線を合わせる。
「えっと……朔くん、だっけ」
「……うん」
「この子に、何か食べさせてあげることって、できるのかな」
すると朔は、だいじょうぶだよ、と小さく頷いた。
「……亡者になっても、味覚はあるから」
「じゃあ、俺が寝起きしているあの家にこの子を招くのは、問題ない?」
朔は少しの間、じっと宗介と少女とを見つめた。それから再び、こくりと頷く。
「……日没までなら、いいよ」
「ありがとう」
宗介は小さく安堵の息を吐く。
「それから……できれば君にも食べていって欲しいんだけど、お仕事の都合はどうかな」
そう問えば、朔はちらりと無言で桟橋の方を振り仰いだ。
遠くに見える黒い着流しの男を見やってから、また宗介へと視線を戻す。
「たぶん、だいじょうぶ」
ぼくのきょうの役目は、この人を渡すことだって言われてるから、と。
朔はそう言って、隣の少女を横目に見上げる。
少女は拗ねたように、つんと顎を上げてあらぬ方向を向いていた。
宗介は苦笑して、少女の方に向き直る。
「そういうわけで……とりあえず、何か食べて落ちつかない?」
少女は品定めでもするように、宗介の頭の先から爪先までをじろじろと眺める。
それから、ふん、と小さく鼻を鳴らした。
「いいわよ。お呼ばれしてあげる」
少女はそう、尊大に言ってのける。
宗介は思わず、朔と顔を見合わせてしまった。
女の子は男の子より早熟だと聞くけれど、それにしたって貫禄がすごい。
だが、何はともあれ、承諾は得られたらしい。
「それじゃあ、行こっか」
宗介は二人を促して、来た道を戻り始める。
じゃり、じゃり、と小石を踏む音が三人分、灰色の河原に重なった。
