さよならまたね、またいつか。 ~あの世とこの世のあいだご飯~

 ──あのとき母さん、何て言ったんだっけ。
 右腕で妹を抱き、左手で弟の手を引いた母は、宗介を振り返って何かを告げた。
 その唇の動きも、優しく笑んだ表情も。
 川風に揺れた髪も、遠ざかっていく背中も。
 それら全てを鮮明に思い出せるのに、肝心の言葉だけが、どうしても思い出せない。

 『             』

 ぽっかりと白く抜け落ちた記憶の輪郭を、宗介は何度もなぞり続けている。
 家族を乗せた小舟は、もう川の向こう側へと渡ってしまった。
 その答えはもう、宗介の中に探すしかない。

 これはまだ、宗介が灰色の岸辺に立ち尽くすばかりだった頃の話だ。


      ◇◆◇

 (まぶた)を開けないままで目覚めたのは、枕の冷たさのせいだった。
 頬に張りついた布の湿り気が、じわりと現実を(にじ)ませてくる。ひどく気持ちが悪い。
 宗介は身じろいで、ゆっくりと瞼を持ち上げた。
 和室の天井に、畳のい草の匂い。
 生家の自室とはまるで異なる環境に、まだ体が馴染んでいないのだろう。
 眠っては起き、起きては眠って、浅い眠りと覚醒を何度も繰り返すうちに、宗介はいつも決まって夢をみた。
 家族の夢だ。それだけはわかる。
 けれど、それがどんな夢だったのかは、起きるとなぜか思い出せない。
 ひどく幸せな夢を見ていたはずなのに、はっと目が覚めると、音や映像は霧散(むさん)してしまう。幸福の残り香だけを残して、夢さえ宗介を置いていってしまうのだ。

「……なんか最近、こんなことばっかだ」

 誰もいない部屋に、呟きが落ちる。
 ぽっかり空いた胸の穴は、物理的な穴ではないからこそ、埋めようがない。
 錯覚だとしても、それは確かに存在するから、始末が悪い。
 濡れた横髪が頬に張り付く感触が不快で、宗介はのろのろと布団から身を起こした。

 すっきり起きれないのは疲労が溜まっているせいだと言っていたのは、朝のニュース番組の合間の雑学だっただろうか。
 あいにくと、疲れていなくても、すっきり起きられないことはあるみたいだけれど。
 そんなことを考えながら適当に顔を洗い、お湯を沸かす。
 やかんが鳴き始めるのを待ちながら、宗介はカップラーメンの封を開けた。

 あなたはまだ、駄目だよ、と。
 あの日、渡し守の子どもに引き止められた宗介は、小舟に乗ることができなかった。
 唐突に目の前に現れた、猛スピードの対向車。
 耳障りなスキール音に、金属がひしゃげる轟音と衝撃。
 痛みと呼ぶのも生ぬるい熱で身体がかっと燃え上がり、それからは、表面はじくじくと焼かれるように熱いのに、内側からはどんどん冷えていくばかりだった。
 寒いのか、出血によるショック症状なのか、ガタガタと身体が震えだして、次第に感覚や音が遠のいていく。力は入らなくなっていくし、視界はぼやけて黒く(かすみ)がかかる。
 ──これ、死ぬかも。
 そんなことを思いながら意識を手放したものだから、ここが三途の川だと言われた時も、とくに驚いたりもしなかったのだ。
 母と顔を見合わせて、隣に弟と妹がいるのを確認して。
 ただ、四人一緒でよかったな、と。
 みんな一緒に行けるのなら、まぁいいか、と。
 きっと、誰がどう見ても相手の方が悪い事故だったけれど、あまり怒りも湧かなかった。
 だから、案外あっさりと舟に乗り込もうとしたのだ。

 けれど、小舟に片足をかけようとした宗介の手を、何かが引っ張った。
 振り返ると、幼い渡し守が宗介の手首を両手で握っている。
 六歳かそこらの見た目の割に、その力は意外なほどに強く、引き解こうとしてもびくともしない。
「……あなたはまだ、駄目だよ」
 虚を突かれて、宗介が言葉を探しているうちに、舟は川面を滑り出していた。
 母を見上げた妹の「にぃには?」という声も、振り返った弟のきょとんとした顔も、はっきりと覚えている。宗介だって、きっと大差のない表情をしていたに違いない。
 状況が飲み込めず、ただ困惑しているうちに、舟影は川霧の向こうへ消えてしまった。

 あれから何日が経っただろう。一週間は経っている気がする。
 二週間は経っていないだろうか。日にちの概念もひどく曖昧だった。
 宗介はただ漫然と、息を吸って吐くだけの日々を過ごしている。

 沸いたお湯をカップに注ぎ、蓋を閉めて三分待つ。
 そういえば、インスタント麺の在庫が心もとなかったなと、宗介はスマホを手に取った。
 視線を落とせば、バキバキに割れた画面が目に入る。
 そりゃあそうだ。軽自動車があんなにもぺちゃんこになったのだ。スマホが原型をとどめているだけ、奇跡というほかない。
 ひび割れた画面を指でなぞるたびに、微かに引っかかりを感じて慣れないし、事故を思い出すから気が滅入る。宗介はため息をつきながら、メッセージアプリを立ち上げた。

 友達との個別チャットも、クラスのグループチャットも、あの日から一度も更新されることはない。けれど、唯一の例外があった。
 それは、事故後に増えた連絡先との、個別チャットだ。
 なんでも相手は、現世で働いている鬼人なのだという。
 現世を彷徨(さまよ)う亡者の回収が彼の仕事で、人にまぎれて生活しているらしい。
 彼とのチャットに欲しいものリストを送信すれば『お(そな)え物』として届けてくれるとのことだった。

 一度だけ、お金や対価をどうすればいいのかと尋ねたけれど。
『仏壇に供えられたおはぎとか、事故現場に置かれた缶ジュースとか、別に忽然(こつぜん)と消えたりしねぇだろ』
『俺からすれば、スーパーやドラッグストアで品物を手に取って、特定の相手を思い浮かべながら念じるだけ。買わなくても黄泉(よみ)には届くから、金はかかってない』
 とのことだった。
 どんな原理だ、とは思ったけれど、結局深く考えるのは止めにした。
 そんなことを言い出したら、ここにいること自体が理屈では説明できない。

 それからは、生活必需品のリストと雑なスタンプの応酬(おうしゅう)だけを重ねている。
 ひび割れた画面の隙間で行われる、必要最低限の事務的なやりとり。
 それだけが、今の宗介と現世とをつなぐ唯一の糸だった。

「……いい加減、何か作れよって話だよな」

 インスタント麺を追加で頼む文面を打ちながら、宗介は少し、申し訳ない気持ちになる。
 最初に送ったリストには、一通りの調味料と食材とが並んでいた。
 ちゃんと自炊をするつもりだったのだ。少なくとも、あのときは。
 けれど、冷蔵庫には、あの日届いた食材がほとんどそのまま眠っている。
 自分のためだけに作る料理は、口に運ぶたびに砂を噛むようで、ろくに味がしなかった。
 一度だけ試して、それからはもう、包丁を握ってはいない。

 蓋を開けて、箸で麺をほぐす。
 家族が彼岸(ひがん)に渡っても、宗介は変わらず息をする。太陽は昇る。
 死に損ないの腹は減るし、時計の針は規則的に動く。
 眠りは浅いまま、それでも季節の巡りが逆転することはない。
 ──いつまで、こうしてればいいんだろう。
 答えは出ないまま、湯気だけが細く立ち消えていくばかりだ。