さよならまたね、またいつか。 〜あの世とこの世のあいだご飯〜

 いつの間にか具材のほとんどがなくなった土鍋の上に、しんみりとした空気が流れる。
 すると、理央の鼻先に、湯気とは違う香ばしい匂いが届いた。焼き魚のこんがりとした匂いだ。宗介が「あ」と小さく声をあげて、席を立つ。
 ほどなくして戻ってきた彼の手には、四角い平皿があった。
 その上には、ししゃもが数尾、こんがりとした焼き色をつけて行儀よく並んでいる。
 表面にはてらりと照りのある茶色いソースが塗られていて、仕上げにぱらりと七味唐辛子が散らされていた。

「あ、これってもしかして……さっき朔くんが混ぜてたやつ?」

 理央は思い出して、目を瞬く。
 味噌とマヨネーズ。あの一風変わった組み合わせが、ようやくここでお出ましらしい。

「えぇ、正解です。あれをししゃもに塗って、グリルで焼いただけなんですけどね。お鍋の第二陣が煮えるまでの、箸休めにどうぞ」

 宗介はそう言って、ことりと皿を土鍋の脇に置く。

「でもこんなの、いつの間に……?」
「それは、鍋がもうすぐ出来あがるなーって頃に。グリルにタイマーかけて突っ込んどけば、あとは勝手に焼けてくれるんで」

 諸々の手際の良さに関心するあまり、どうやらすっかり見落としてしまっていたらしい。

「温かいうちにどうぞ」

 勧められるがままに、理央は箸を伸ばして、ししゃもをひと口(かじ)ってみる。
 味噌のこっくりとした風味に、マヨネーズのまろやかさ。七味唐辛子がピリッとしたアクセントになっていて、ししゃもの淡白な味をよく引き立てている。

「……んん、これも美味しい!」

 八尋もひとつ摘まんで、満足そうに目を細めた。

「うん、うまい。こういうのが酒に合うんだよなぁ」
 彼はしみじみとした口調で、宗介を見やる。
「きみは本当に、酒飲みをわかってるよなぁ。自分は飲まないってのに」
「まあ、そこはね」
 宗介は苦笑まじりに肩をすくめた。
「母さんが、毎日晩酌(ばんしゃく)をするタイプの人だったから。母さんの実家、酒造だったんだって」
「えっ酒造!? すごい!」
 理央は思わず声をあげる。
「もしかして、老舗(しにせ)のだったり……?」
「どうなんでしょう、詳しくは聞いてなくて。ただ、お酒へのこだわりはなかなかのものだったなぁ。銘柄とか、温度とか、合わせる料理とか。いつか一緒に飲めるようにって、俺も蘊蓄(うんちく)はいくつか仕込まれてて」

 宗介はそう言いながら、またいったん席を立った。
 冷凍庫を開けて、何やら取り出している。

「ちなみにこれも、母さん直伝(じきでん)なんですが」

 戻ってきた宗介がお盆に載せていたのは、いくつかの小さな酒器とスプーン。
 それから、ぱんと膨らんだフリーザーバッグだ。
 バッグの中身はうっすら白く濁っていて、表面には霜がついている。
 それを見た八尋の目が、ぱっと喜色に染まった。

「これこれ、これを待っていたんだよな!」
「うん。八尋さんお待ちかねの、みぞれ酒だよ」
「みぞれ酒って……?」

 きょとんと目を瞬く理央に、八尋は「その名の通り、みぞれ雪のような、摩訶不思議(まかふしぎ)な酒さ」と言って楽しげに笑う。
「要は、シャーベット状のお酒です」と補足するのは宗介だ。

「日本酒を冷凍庫でゆっくり時間をかけて冷やすと、器に注ぐ衝撃でみぞれ状に結晶化するんですって。確か、過冷却って言うんだったかな……だけど母さんいわく、家庭の冷凍庫だと温度管理が難しくって、なかなかうまくいかないらしいんですよね」

 宗介はそう言ながら、バッグの上から中身を軽く揉んで、ほぐしていく。
 一見すると氷のように固まっていたそれが、手の圧を受けてあっさりとシャーベット状になっていくのだから、理央は思わず目を丸くした。

「だから母さんは、日本酒じゃなく焼酎で作るといいって言ってました。二十度の焼酎なら、冷凍庫に一晩入れておくだけで、完全に凍らずシャーベット状になるから。そっちの方がお手軽なんだ、って」

 ただ、二十五度の焼酎だと家庭用の冷凍庫では凍らないんだ、とも。
 アルコール度数が高いほど凍結温度が下がるから、なのだそうだ。
 宗介はそんな補足をしながら、みぞれ酒を盛った酒器を手渡してくれる。
 理央は一緒に受け取ったスプーンを片手に、そっと鼻を器に近づけた。銘柄自体の風味なのか、ほんのりと柑橘系の爽やかな香りが混じっている。
 しゃくりと(すく)って口に含むと、ひんやりとしたシャーベットが舌の上でほろりと溶けて、酒精がふわりと鼻に抜けた。

「……あ、おいしい。なにこれ!」

 のど越しがひんやりと清々(すがすが)しく、鍋で火照った体の中を、みぞれ酒がすうっと冷ましていく。身体の内側からちょうどいい温度に整えられていくような、そんな心地よい感覚だった。

「母さん、鍋の時はいつも用意してたんです。これがなきゃ始まらないわ、って」
「ははっ、きみの御母堂(ごぼどう)とは、一緒に酒を呑んでみたかったなあ」
「俺がお酒を飲める年になってもここに居たら、一緒に飲んでくれるんでしょ? 母さんの代わりにさ」
「あぁ、勿論だとも! その時は、飽きるまで付き合ってやろうな」

 八尋と宗介はそんな会話を交わして、互いに笑い合う。
 一方、朔はといえば、じっと酒器を見つめてぽつりと呟いた。

「だけど、不思議だね。お酒は過剰に冷やしても、おいしくなるのに」
「あぁ、人の子は過剰に働かせたところで、旨くはならないからなあ。残念だ」
「美味しく、って……えっ、まさか鬼人って、人間も食べるの!?」

 ぎょっとして目を()いた理央に、八尋はにやりと笑ってみせる。

「さあて、どうだかなぁ。そいつは地獄に落ちてからのお楽しみというやつだぜ」
「こらこら二人とも、そう(おど)かさないの」

 宗介はお鍋に第二陣の具材たちを投入する(かたわ)らで、そう苦笑する。

「ほら、食べないよな、朔」
「うん、冗談だよ。罪に応じて呵責(かしゃく)する鬼人はいるけどね」
「あぁ、やっぱりそういう仕組みはちゃんとあるんだ……呵責ってちなみにどういう……?」
「えっと、火で(あぶ)ったり、切り刻んだり、とかかな……」
「ま、きみを死ぬまで働かせた奴らは、相応の地獄に落ちるだろうさ。安心するといい」

 みぞれ酒を酒器ごと豪快に(あお)りながら、八尋がそう太鼓判(たいこばん)を押してくれる。
 理央を過酷な環境で使い(つぶ)した人間たちは、ろくな目に合わないだろう、と。

「地獄に落ちた亡者はもう、死ぬことがない。それこそ身を()にするまで働かされ続けるだろうさ。文字通り(・・・・)、な」
「うん。何十年とかけて、じーっくり呵責をうけることになるよ、きっとね」
「死ねない身であることを、何より辛いと思うだろうなぁ。まっ、それも自業自得というやつだが」

 八尋と朔は顔を見合わせて、ちょっと悪どい顔をして笑う。
 だが、そう聞かされると、少しだけ胸のすく思いだった。

「だけど現世でも、何かしらの処罰を受けてほしいところですよね」

 宗介は思案げに、そう呟く。
 理央は「そうだ、労働基準法!」と手を叩いた。

「さすがに労基も、動いてくれると思うのよねぇ」

 理央の会社は、もう完全に労働基準法に違反していた。
 さすがに人死(ひとじ)にまで出たのだから、労働基準監督署も本格的に動いてくれるはずだった。
 あの業務の実態が明るみになれば、メディアに取り沙汰されるのは確実だろうし、それなりの処罰と改善が成されると思いたいところだ。

「私の過労死で、みんなの労働環境も変わるといいなぁ……なーんて、後ろ向きなのか前向きなのか分かんないけど」

 それでも、うん。と理央は小さく頷く。

「私の死そのものにも意味があったと思えた方が、いくらかマシよね。無駄死にだったなんて、絶対に思いたくないもの」

 言葉にしてみると、本当にそう思えてくるから不思議だった。
 まだ修羅場が年に数回だった頃の、徹夜明け。「あぁしんどかった!」と、チームで酒を()()わした日々を思い出す。
 理央はきっと、あの仕事が好きだった。
 責任を持って働く同僚たちが、逃げ出さずに、誰かのために踏ん張れる仲間が好きだった。だからこそ、彼らの未来に少しでも(さいわ)いがあるといい。

「銭ゲバの経営層なんて、マスコミにめちゃくちゃに叩かれちゃえばいいんだわ! そして死んだ後には地獄行き! 鬼人にぺっちゃんこにすり(つぶ)されちゃえ! あぁ、なんだか活力わいてきた!」

 理央はみぞれ酒を一息にかき込んで「おかわり!」と器を突き出す。
 すると宗介が笑って、すかさずお代わりを注いでくれた。

「もう、やめやめ! いつまでも無気力でしょぼくれてるなんて、私らしくないもの!」
「あはは、メンタル(はがね)の本領発揮ですね。じゃあ今日は、思う存分飲んで食べてください」

 宗介も、八尋も朔も、笑って頷いてくれる。
 土鍋の野菜は再びくつくつと煮え始め、だしを吸って色味がより鮮やかになっていく。
 鍋の第二陣は、もう間もなくだ。


「それにしても、宗介くん。若いのに達観してるのねぇ」

 ししゃもをお(とも)にみぞれ酒を味わいながら、理央はしみじみと呟く。
 鬼人だという八尋や朔はさておき、宗介は高校三年生だったはずだ。
 その割に、こういう話を受け止めることに、ずいぶん慣れているように見える。すると宗介は「ここにいると、たくさんの人と出会いますから」と小さく笑った。

「それに、俺もここに来たばっかりの頃は、違ったんですよ」

 宗介はお玉で灰汁(あく)を取りながら、そう穏やかに呟く。

「だよな?」
「……うん。そうだね」
「あぁ、そうだったそうだった。きみは考えても仕方がないことを、ぐるぐると考えていたなあ」
「うん。だけど、無駄じゃなかった。俺にはあの時間も、意味があったって思ってるよ」

 懐かしい昔話でもするように、三人が顔を見合わせて笑い合う。
 三人の間には、理央の知らない絆や時間の蓄積がありそうだ。そこにちょっぴり疎外感を覚えないでもないけれど、自分にも共に過ごした仲間や友人がいたことを思い出す。
 もう会えないけれど、彼らは理央の記憶の中に生きている。
 それを思い出せてよかったと、理央は静かに目を伏せた。

 要領のいい、上手な生き方ではなかっただろう。
 親より先に逝くことになって、どれほど悲しませただろうと思うと、胸が痛まないわけでもない。
 けれど、逃げ出さずに踏ん張り続けたことを、誰かに恥じる気持ちもなかった。自分の生き様は、たしかに自分で肯定できるものだった。
 だから理央は、自分の不器用さも大事に抱えて、この先の旅路を行く。

 明日はきっと、舟に乗ろう。
 三途の川を渡って、ちゃんと向こう岸へ行こう。

 川の向こうがどんな場所であれ、自分の生き方に胸を張れるのだから、きっともう大丈夫だ。
 理央はくつくつと煮える土鍋を覗き込み、小さく笑った。