「はい、お待ちどうさま」
リビングの食卓につくと、宗介がミトンをはめた手で土鍋の蓋を持ち上げた。すると、白い湯気がふわりと広がって、中空にじんわりと溶けていく。それと同時に、さっきよりもずっと近くから香気が届いた。
昆布だしの旨みと、醤油とみりんのほのかな香ばしさ。その奥に、鶏肉と魚介の旨みがとけ込んだ、丸くて深い匂いだ。理央は思わず、鍋の中を覗き込んだ。
透きとおった黄金色の中を、くたっとしなだれた白葱とえのきが泳いでいる。白菜は芯まで半透明で、いかにも味の染みていそうな様子だ。
春菊の緑は鮮やかで、豆腐はくつくつと揺れながら、お玉で掬われるのを今か今かと待っていた。
「どうぞ、自由に取ってくださいね」
宗介がそう言いながら、理央の前にお椀とお玉を置いてくれる。
その言葉に甘えて、ひと通りの具材を盛り付けたなら。お椀の中にはまた小さなお鍋が生まれて心が躍る。
試しに豆腐をひと切れ口に入れてみれば。あつあつの豆腐は舌の上でなめらかに崩れていって、口の中いっぱいに濃厚な味が広がる。
次いで鶏肉を食べると、やわらかく煮えた肉からは脂の甘みがじんわり滲み出る。
スープの味がよくしみ込んだ白菜も絶品で、えのきは独特の歯応えが楽しい。急ぐ必要もないのに、ハフハフと箸が止まらなかった。
「なぁきみ、そろそろこいつが恋しい頃なんじゃないか?」
そう言って八尋が差し出すのは、銀色の缶だ。
「んん、ビール! 飲みたい!」
「ははっ、そうこなくっちゃなぁ」
手渡された缶のプルタブを起こすと、ぷしゅ、と小気味よい音がして、苦味を予感させる香りがふわりと立つ。理央はゴキュゴキュと喉を鳴らして、一気に半分ほど飲み干した。
「ぷはぁぁぁ」
思わずそんな声が出てしまう。期待通りのほろ苦さが舌の上に広がり、喉を滑り落ちていく。お鍋の熱さとビールの冷たさが、胃の底でひとつになった。
「あぁもう、最っ高の組み合わせ! 本当に美味しい!」
「最近はもっぱら、この外つ国の麦酒が供えられることが多いみたいだが……これもなかなかどうして旨いよなぁ。何しろ、どんな料理にも合うのがいい」
八尋もご機嫌そうに目を細めて、自分の缶ビールに口をつけている。
「だがこの、やたらと小さい容れ物はどうなんだ? 大きな器もあるんだったら、毎回でかい方で供えてほしいもんだ」
残念ながら、大きい器の麦酒ってのは希少なんだ。二杯目からは小さいやつだぜ。
そう言って八尋が指差すのは、テーブルの端に置かれた缶ビールの予備だ。理央もそれを見やって、思わず苦笑いをする。
今飲んでいるのは普通サイズの缶だけれど、予備として積まれているのは、ひとまわり小さな缶だった。135mlのミニ缶──お爺ちゃんのお仏壇に、いつも供えてあったやつだ。
「行き場のない、余りものの供物に贅沢も言ってられないんだが……飲み始めるとあっという間に空になっちまうのが、ちょっとなぁ」
その物言いがあまりにも俗っぽくて、理央はつい笑ってしまう。
鬼人という何だかよく分からない存在が、缶ビールの容量についてぼやいている光景は、妙にシュールだ。
その傍では、宗介がお玉を手に、土鍋の中をかき分けていた。
「朔は鍋が遠いだろ、俺が取り分けるよ」
「しいたけ、多めにしてくれる?」
「はいはい、わかってるよ」
宗介は笑って、土鍋の中から椎茸を探し出しては、せっせと朔のお椀に移していく。
甲斐甲斐しく世話を焼くその様子には、幾度となく繰り返してきた行動であることが透けて見える。きっと、根っからのお兄ちゃん気質なのだろう。
「それにしても、朔くんだっけ? きみ、小さいのに渋いものが好きなのね」
理央は、対面に座る子どもにそう声をかける。
すると、朔はお椀を両手でかかえながら「うん」と頷いた。
「だって、お殿さまの気分が味わえるからね」
「えっ、お殿さま……?」
意外な言葉に、思わず聞き返す。
「あぁ、椎茸って昔は、かなり高級な食材だったらしいですよ」
そう補足してくれたのは、理央の戸惑いを察したのだろう宗介だ。
彼は自分のお椀に具材をよそいながら、これは雑学なんですけどね、と言葉を続ける。
「なんでも、昭和に入って安定栽培ができるようになるまでは、松茸とおなじくらい高価なきのこだったんですって。ちょっとびっくりですよね」
「えっ、そうなの!?」
理央はびっくりして身を乗り出した。
松茸といえば、高級食材の代名詞だ。一方、椎茸はどんなスーパーにも並んでいる、ごくごく庶民的なきのこである。
それが松茸なみに高価だったなんて、にわかには信じがたい。
「あぁ。戦国の頃でも、ひと籠いっぱいに採れようものなら、一生遊んで暮らせる財を築けたというよなあ。かの太閤も、たいそう好んでいたという」
「太閤って、秀吉だっけ?」
「あぁ。派手好き、高値なもの好きの、あの御仁さ。当時の十王の裁定は、俺たち鬼人も大盛り上がりだったなぁ」
八尋はくつくつと笑って、そんなことを言う。
けれど、その口ぶりには妙な実感が乗っていて、それがまた何とも不可思議だった。
「じゃあ私たちって、知らずに贅沢してたのねぇ……」
けれど、そう聞くと余計に美味しく感じられそうだ。
理央は椎茸をひとつ、箸で摘まみ上げる。
笠に十字の飾り包丁が入ったそれは、だしをたっぷり吸って、ふっくらつやつやと膨らんでいた。噛めばほどよい弾力が歯に当たって、じゅわっと味があふれ出す。
「う〜ん、幸せ! ……こういうの、いつが最後だったっけ」
大学生の頃は、毎週のように誰かの家に集まって、鍋パをしていたものだ。
友人たちの中には、不思議と椎茸が嫌いな人も多かった。
香りがきついとか、食感がだめだとか、理由はエトセトラ。理央は昔から椎茸が好きだったから、嫌いな人の分も食べていた記憶がある。
椎茸を入れる、入れないで、くだらない論争に盛り上がったことも懐かしい。
何気ない日常だったからこそ、きっと写真にも残っていない。
けれど、写真に残っていない日々こそが青春だったのだろうと、今なら思う。
「……あーぁ」
理央の箸が、つるりと豆腐を滑る。
「…………どこで間違ったんだろうなぁ、私の人生」
白い塊が半分に割れて、お椀の中にぼちゃんと落ちた。
◇◆◇
「昔はね、大学のサークル仲間と、よく宅飲みとかやってたの」
理央はお椀とお箸をことりと置いて、小さく呟く。
誰に向けているわけでもなく、ただ言葉を吐き出しているだけ。
宗介も八尋も、何も言わずに耳を傾けてくれていた。
朔もまた、お椀から顔を上げてじっとこちらを見ている。
遮りもせず、ただ聞いてくれるのが、今の理央にはちょうど良かった。
「でもね、一緒に遊んでた同期たち、今じゃすっかり疎遠になっちゃったんだ。仕事の忙しさにかまけて、誘われるたびに断ってたら、そのうち声も掛からなくなってさ」
そりゃそうだよね、毎回断られてたら、誘う方も気が引けるもん。
理央はそう自嘲して、缶ビールを両手で包むように持ち、親指で縁をなぞる。
相手が急に冷たくなったわけでも、喧嘩別れしたわけでもない。
ただ、遊ぶ元気がないだとか、休日は少しでも長く寝ていたいだとか。
そんな理由で、先に切り捨ててしまったのは、きっと自分の方だった。
「……私の仕事ってさ、医療系のSEだったんだ」
「えっと、SEってシステムエンジニアのことで合ってます?」
宗介の質問に。理央は「うん」と小さく頷く。
「病院で使う、電子カルテのシステムを作ってる会社で働いてたのね。ほら、患者さんの命に関わる商材を扱ってるからこそ、不具合があったら大問題なわけ。最悪、病院の業務が停止しちゃうからさ」
クライアントの中には、二十四時間ずっと稼働している病院も含まれていた。
だからこそ、夜中だろうが休日だろうが、システムに異常があれば呼び出される。
それは就職活動をしていた頃から分かっていたことだし、業界柄、仕方のないことだとも思っていた。
巡り巡って誰かの命を救うことに繋がるのだと、やりがいさえ感じていたくらいだ。
「最初の方はね、徹夜の修羅場も年に数回くらいだったんだ。だからまぁ、医療系のSEならよくある話だよねって、愚痴りながら笑い話にしてたくらい」
実際、その程度であれば、業界的には珍しくもない話だった。
けれど、入社して六年も経つ頃には事情が変わった。
会社の経営者が代替わりをしたのだ。やり手の二代目は、限界までコストを切り詰め、会社の利益を最大化する方向へと舵を切った。
「それまでは電子カルテ専門だったのにね、急に『今後はレントゲンの画像管理システムも取り扱う』なんて言い出したの。事業の幅を広げるのは、まあ会社としては悪くない判断なんだろうけど……エンジニア、ぜんぜん増やしてくれなかったの。今ある人員配置のまま、業務範囲だけ広げるっていう。ね、意味わかんないでしょ」
「……それは」
宗介が眉をひそめる。
「うん、無茶な話だよね」
理央は力なく笑って、少しぬるくなったビールをあおった。
そこからはもう、年に数回だった修羅場は日常に成り下がってしまった。
最初からそんな職場環境だったなら、きっとすぐに見切りをつけて、転職していただろうと思う。けれど皮肉にも、段階的に増えた負荷は、感覚を麻痺させてしまっていた。
「それにね、六年目ともなると、それなりにスキルもついてくる中堅ポジションなわけ。だからこそ、無理をすれば、なんとか食らいついていけちゃう。それがたぶん、一番よくなかったんだろうなぁ……」
ギリギリ食らいつけてしまうからこそ、つい「もう無理です」とは言いそびれてしまって。そうこうしているうちに、次から次へとタスクが降って湧いてくる、その繰り返しだ。
気づけばもう、立派なブラック企業の社畜が出来あがっていたというわけだった。
「で、その積み重ねの結果がこれ。過労死よ」
理央は缶ビールをテーブルに置いて、ふっと息を吐く。
「日々の無理って、ちゃんと蓄積していってたんだなって思う。今さら気付いたって、もう遅いのにね」
そう呟いた声は、自分でも驚くほどに乾いていた。
「あーあ、私の人生って何だったんだろう。ただ働いて、倒れて、それで終わり」
他人の命を守るシステムを維持するために、自分の命を削っていく。
考えてみれば、本当に因果な働き方だったと、今さらながらにそう思えた。
「その仕事をやめようとは、思わなかったの?」
そう呟くのは朔だ。
お椀を両手で包んだまま、小首を傾げてこちらを見ている。
その目に責める色はなく、ただ純粋に、分からないから聞いている、という顔だ。
理央は苦笑して、首を横に振る。
「まったく思わなかったわけじゃないけど……同僚たちだって、みんな同じようにギリギリで働いてたから。自分が逃げちゃうと、その皺寄せが他の人へ行っちゃうでしょ? だから逃げられなかったのよね……」
自分が辞めたあと、すぐに新しい人員が補充されるとは、理央にはとても思えなかった。
求人を出しても採用には時間がかかるものだし、応募があるかどうかさえ分からない。
自分の抜けた穴は、ずっと埋まらなかった可能性だってある。
あの経営者なら、それを放置しかねないという嫌な確信さえあった。
そうなればきっと、倒れていたのは他の同僚の誰かだっただろう。
理央はただ〝自分のせいで、誰かの負担が増えてしまうこと〟に見て見ぬふりが出来なかった。そして多分、皆が同じことを考えていたからこそ、逃げ出す人は一人もいなかった。
優しさや配慮、責任感。
皮肉にも、そういう現場の善性によって、互いに身動きが取れなくなってしまっていた。
「それならいっそのこと、仲間たち全員で逃げちまえばよかっただろうに」
一人じゃなく、全員で示し合わせて、だ。
八尋はビールの缶を傾けながら、こともなげにそう言った。
「いやいや、そんな無茶な。だってそんなことしたら、病院側に迷惑がかかるもの。それに、患者さんの命に関わることだって──」
「とはいえ、見ず知らずの人間の命と、自分や見知った仲間の命だぜ? 自分や仲間の命を優先しても、バチは当たらないと思うんだがなあ」
ま、そもそも天秤の両方に命が乗っかってるってのが、可笑しな話ではあるんだが。
八尋はまるで天気の話をするみたいに、そう軽く言ってのける。
結果として誰かしらの命が喪われるってんなら、それは人様の命を勝手に天秤に載せた、上の連中の責だろうに、と。
そのあまりにもあっさりとした調子に、理央は思わず言葉を詰まらせた。
実際、理央たち現場のエンジニアは、互いのことを思って我慢した。
患者や病院のためを思って、どれだけ無茶な要求にも、なんとか食らいつこうとしてしまった。
その度を超えた頑張りが、会社の経営層に「この人員体制でも何とかなる」と思わせてしまったのも、きっと事実だろう。
自分たちの我慢は、身を削った献身は、何の意味もなかったのだろうか。
そんな問いが、頭の中をぐるぐると回り始める。
すると、テーブルの向かい側で、朔と宗介が顔を見合わせた。
ふたりはほぼ同時に、小さく苦笑する。
「……八尋って、そういうところあるよね」
「だよなー。竹を割ったみたいに合理的っていうかさ」
「おいおい、俺の味方はいないのかい?」
拗ねたようにふくれてみせる八尋には、朔がじとっとした目で見上げていう。
「みながみな、八尋みたいに考えられたら苦労しないよ」
「そうそう。損得だけじゃ、人の社会は回らないんだよ。頭ではそっちの方が効率的だと分かっていたとしても、感情とか責任感がそうはさせないんだよな」
「……そう、そうなの、そうなのよ!」
宗介のフォローに、理央は思わず身を乗り出す。
そうなのだ。いくら効率的だと分かっていたとしても、逆にどれだけ効率が悪いと分かっていても、気持ちの部分で割り切れないことは、確かにあって。
「頭で理解だけなら出来るのよ、そっちの方が合理的だ、って。だけど納得には、心が混じるのよね。感情が入っちゃう」
言語化すると、すっきり腹落ちするところもあって、理央は大きく頷いた。
頭の片隅では、理央だってちゃんと理解していた。
逃げ出してしまう方が、きっと合理的ではあったのだ。
けれど心では、納得できなかった。
そして、納得できない道を選ぶことは、自分にはできなかった。
だからこそ、選ばなかった if を後悔しても、それこそ意味はないのだろう。
そう思えたら、なんだか少しだけ楽になった気がした。
「それよりも俺、理央さんは強かったんだなって思うな」
「え、強い?」
「はい。だって普通は、体が限界を迎える前に、心が折れちゃうと思うんですよね」
「……言われてみれば、確かに?」
理央はそこで初めて、はたと気がつく。
仕事がしんどいと思ったことは、確かにあった。
けれど、メンタルを病むようなことは、一度もなかったからだ。
「そりゃあ勿論、過労死するまで頑張りすぎるべきではなかったんだろうけどさ。だけど、理央さんたちみたいな人が現場で頑張ってくれたから、救われた命だってあるはずで。……そのことだって、無視するべきじゃないと思いますよ」
医療系のSEは、病院スタッフに謝罪することは多くあれど、患者から謝意を向けられる機会はほとんどない。だからこそ、自分たちの仕事ぶりを肯定してくれるその言葉は、じんわりと心の奥まで染み込んでいく。
景色が少しだけ歪んで見えるのは、きっと土鍋から立ち上る湯気のせいだ。
理央は小さく、そっか、と呟いた。
「私たちが頑張ったおかげで、救われた命もあったかな。私の人生にも、ちゃんと意味があったのかな」
「はい、きっと」
宗介が、迷いなく答えた。
「あったと思うよ」
朔も、こくりと静かに頷く。
「ま、意味のない人生なんて、そうそうないよな」
三者三様の肯定が、なんだか無性に嬉しくて。
理央は目の奥が熱くなるのを感じながら、ありがとう、と小さく呟いた。
リビングの食卓につくと、宗介がミトンをはめた手で土鍋の蓋を持ち上げた。すると、白い湯気がふわりと広がって、中空にじんわりと溶けていく。それと同時に、さっきよりもずっと近くから香気が届いた。
昆布だしの旨みと、醤油とみりんのほのかな香ばしさ。その奥に、鶏肉と魚介の旨みがとけ込んだ、丸くて深い匂いだ。理央は思わず、鍋の中を覗き込んだ。
透きとおった黄金色の中を、くたっとしなだれた白葱とえのきが泳いでいる。白菜は芯まで半透明で、いかにも味の染みていそうな様子だ。
春菊の緑は鮮やかで、豆腐はくつくつと揺れながら、お玉で掬われるのを今か今かと待っていた。
「どうぞ、自由に取ってくださいね」
宗介がそう言いながら、理央の前にお椀とお玉を置いてくれる。
その言葉に甘えて、ひと通りの具材を盛り付けたなら。お椀の中にはまた小さなお鍋が生まれて心が躍る。
試しに豆腐をひと切れ口に入れてみれば。あつあつの豆腐は舌の上でなめらかに崩れていって、口の中いっぱいに濃厚な味が広がる。
次いで鶏肉を食べると、やわらかく煮えた肉からは脂の甘みがじんわり滲み出る。
スープの味がよくしみ込んだ白菜も絶品で、えのきは独特の歯応えが楽しい。急ぐ必要もないのに、ハフハフと箸が止まらなかった。
「なぁきみ、そろそろこいつが恋しい頃なんじゃないか?」
そう言って八尋が差し出すのは、銀色の缶だ。
「んん、ビール! 飲みたい!」
「ははっ、そうこなくっちゃなぁ」
手渡された缶のプルタブを起こすと、ぷしゅ、と小気味よい音がして、苦味を予感させる香りがふわりと立つ。理央はゴキュゴキュと喉を鳴らして、一気に半分ほど飲み干した。
「ぷはぁぁぁ」
思わずそんな声が出てしまう。期待通りのほろ苦さが舌の上に広がり、喉を滑り落ちていく。お鍋の熱さとビールの冷たさが、胃の底でひとつになった。
「あぁもう、最っ高の組み合わせ! 本当に美味しい!」
「最近はもっぱら、この外つ国の麦酒が供えられることが多いみたいだが……これもなかなかどうして旨いよなぁ。何しろ、どんな料理にも合うのがいい」
八尋もご機嫌そうに目を細めて、自分の缶ビールに口をつけている。
「だがこの、やたらと小さい容れ物はどうなんだ? 大きな器もあるんだったら、毎回でかい方で供えてほしいもんだ」
残念ながら、大きい器の麦酒ってのは希少なんだ。二杯目からは小さいやつだぜ。
そう言って八尋が指差すのは、テーブルの端に置かれた缶ビールの予備だ。理央もそれを見やって、思わず苦笑いをする。
今飲んでいるのは普通サイズの缶だけれど、予備として積まれているのは、ひとまわり小さな缶だった。135mlのミニ缶──お爺ちゃんのお仏壇に、いつも供えてあったやつだ。
「行き場のない、余りものの供物に贅沢も言ってられないんだが……飲み始めるとあっという間に空になっちまうのが、ちょっとなぁ」
その物言いがあまりにも俗っぽくて、理央はつい笑ってしまう。
鬼人という何だかよく分からない存在が、缶ビールの容量についてぼやいている光景は、妙にシュールだ。
その傍では、宗介がお玉を手に、土鍋の中をかき分けていた。
「朔は鍋が遠いだろ、俺が取り分けるよ」
「しいたけ、多めにしてくれる?」
「はいはい、わかってるよ」
宗介は笑って、土鍋の中から椎茸を探し出しては、せっせと朔のお椀に移していく。
甲斐甲斐しく世話を焼くその様子には、幾度となく繰り返してきた行動であることが透けて見える。きっと、根っからのお兄ちゃん気質なのだろう。
「それにしても、朔くんだっけ? きみ、小さいのに渋いものが好きなのね」
理央は、対面に座る子どもにそう声をかける。
すると、朔はお椀を両手でかかえながら「うん」と頷いた。
「だって、お殿さまの気分が味わえるからね」
「えっ、お殿さま……?」
意外な言葉に、思わず聞き返す。
「あぁ、椎茸って昔は、かなり高級な食材だったらしいですよ」
そう補足してくれたのは、理央の戸惑いを察したのだろう宗介だ。
彼は自分のお椀に具材をよそいながら、これは雑学なんですけどね、と言葉を続ける。
「なんでも、昭和に入って安定栽培ができるようになるまでは、松茸とおなじくらい高価なきのこだったんですって。ちょっとびっくりですよね」
「えっ、そうなの!?」
理央はびっくりして身を乗り出した。
松茸といえば、高級食材の代名詞だ。一方、椎茸はどんなスーパーにも並んでいる、ごくごく庶民的なきのこである。
それが松茸なみに高価だったなんて、にわかには信じがたい。
「あぁ。戦国の頃でも、ひと籠いっぱいに採れようものなら、一生遊んで暮らせる財を築けたというよなあ。かの太閤も、たいそう好んでいたという」
「太閤って、秀吉だっけ?」
「あぁ。派手好き、高値なもの好きの、あの御仁さ。当時の十王の裁定は、俺たち鬼人も大盛り上がりだったなぁ」
八尋はくつくつと笑って、そんなことを言う。
けれど、その口ぶりには妙な実感が乗っていて、それがまた何とも不可思議だった。
「じゃあ私たちって、知らずに贅沢してたのねぇ……」
けれど、そう聞くと余計に美味しく感じられそうだ。
理央は椎茸をひとつ、箸で摘まみ上げる。
笠に十字の飾り包丁が入ったそれは、だしをたっぷり吸って、ふっくらつやつやと膨らんでいた。噛めばほどよい弾力が歯に当たって、じゅわっと味があふれ出す。
「う〜ん、幸せ! ……こういうの、いつが最後だったっけ」
大学生の頃は、毎週のように誰かの家に集まって、鍋パをしていたものだ。
友人たちの中には、不思議と椎茸が嫌いな人も多かった。
香りがきついとか、食感がだめだとか、理由はエトセトラ。理央は昔から椎茸が好きだったから、嫌いな人の分も食べていた記憶がある。
椎茸を入れる、入れないで、くだらない論争に盛り上がったことも懐かしい。
何気ない日常だったからこそ、きっと写真にも残っていない。
けれど、写真に残っていない日々こそが青春だったのだろうと、今なら思う。
「……あーぁ」
理央の箸が、つるりと豆腐を滑る。
「…………どこで間違ったんだろうなぁ、私の人生」
白い塊が半分に割れて、お椀の中にぼちゃんと落ちた。
◇◆◇
「昔はね、大学のサークル仲間と、よく宅飲みとかやってたの」
理央はお椀とお箸をことりと置いて、小さく呟く。
誰に向けているわけでもなく、ただ言葉を吐き出しているだけ。
宗介も八尋も、何も言わずに耳を傾けてくれていた。
朔もまた、お椀から顔を上げてじっとこちらを見ている。
遮りもせず、ただ聞いてくれるのが、今の理央にはちょうど良かった。
「でもね、一緒に遊んでた同期たち、今じゃすっかり疎遠になっちゃったんだ。仕事の忙しさにかまけて、誘われるたびに断ってたら、そのうち声も掛からなくなってさ」
そりゃそうだよね、毎回断られてたら、誘う方も気が引けるもん。
理央はそう自嘲して、缶ビールを両手で包むように持ち、親指で縁をなぞる。
相手が急に冷たくなったわけでも、喧嘩別れしたわけでもない。
ただ、遊ぶ元気がないだとか、休日は少しでも長く寝ていたいだとか。
そんな理由で、先に切り捨ててしまったのは、きっと自分の方だった。
「……私の仕事ってさ、医療系のSEだったんだ」
「えっと、SEってシステムエンジニアのことで合ってます?」
宗介の質問に。理央は「うん」と小さく頷く。
「病院で使う、電子カルテのシステムを作ってる会社で働いてたのね。ほら、患者さんの命に関わる商材を扱ってるからこそ、不具合があったら大問題なわけ。最悪、病院の業務が停止しちゃうからさ」
クライアントの中には、二十四時間ずっと稼働している病院も含まれていた。
だからこそ、夜中だろうが休日だろうが、システムに異常があれば呼び出される。
それは就職活動をしていた頃から分かっていたことだし、業界柄、仕方のないことだとも思っていた。
巡り巡って誰かの命を救うことに繋がるのだと、やりがいさえ感じていたくらいだ。
「最初の方はね、徹夜の修羅場も年に数回くらいだったんだ。だからまぁ、医療系のSEならよくある話だよねって、愚痴りながら笑い話にしてたくらい」
実際、その程度であれば、業界的には珍しくもない話だった。
けれど、入社して六年も経つ頃には事情が変わった。
会社の経営者が代替わりをしたのだ。やり手の二代目は、限界までコストを切り詰め、会社の利益を最大化する方向へと舵を切った。
「それまでは電子カルテ専門だったのにね、急に『今後はレントゲンの画像管理システムも取り扱う』なんて言い出したの。事業の幅を広げるのは、まあ会社としては悪くない判断なんだろうけど……エンジニア、ぜんぜん増やしてくれなかったの。今ある人員配置のまま、業務範囲だけ広げるっていう。ね、意味わかんないでしょ」
「……それは」
宗介が眉をひそめる。
「うん、無茶な話だよね」
理央は力なく笑って、少しぬるくなったビールをあおった。
そこからはもう、年に数回だった修羅場は日常に成り下がってしまった。
最初からそんな職場環境だったなら、きっとすぐに見切りをつけて、転職していただろうと思う。けれど皮肉にも、段階的に増えた負荷は、感覚を麻痺させてしまっていた。
「それにね、六年目ともなると、それなりにスキルもついてくる中堅ポジションなわけ。だからこそ、無理をすれば、なんとか食らいついていけちゃう。それがたぶん、一番よくなかったんだろうなぁ……」
ギリギリ食らいつけてしまうからこそ、つい「もう無理です」とは言いそびれてしまって。そうこうしているうちに、次から次へとタスクが降って湧いてくる、その繰り返しだ。
気づけばもう、立派なブラック企業の社畜が出来あがっていたというわけだった。
「で、その積み重ねの結果がこれ。過労死よ」
理央は缶ビールをテーブルに置いて、ふっと息を吐く。
「日々の無理って、ちゃんと蓄積していってたんだなって思う。今さら気付いたって、もう遅いのにね」
そう呟いた声は、自分でも驚くほどに乾いていた。
「あーあ、私の人生って何だったんだろう。ただ働いて、倒れて、それで終わり」
他人の命を守るシステムを維持するために、自分の命を削っていく。
考えてみれば、本当に因果な働き方だったと、今さらながらにそう思えた。
「その仕事をやめようとは、思わなかったの?」
そう呟くのは朔だ。
お椀を両手で包んだまま、小首を傾げてこちらを見ている。
その目に責める色はなく、ただ純粋に、分からないから聞いている、という顔だ。
理央は苦笑して、首を横に振る。
「まったく思わなかったわけじゃないけど……同僚たちだって、みんな同じようにギリギリで働いてたから。自分が逃げちゃうと、その皺寄せが他の人へ行っちゃうでしょ? だから逃げられなかったのよね……」
自分が辞めたあと、すぐに新しい人員が補充されるとは、理央にはとても思えなかった。
求人を出しても採用には時間がかかるものだし、応募があるかどうかさえ分からない。
自分の抜けた穴は、ずっと埋まらなかった可能性だってある。
あの経営者なら、それを放置しかねないという嫌な確信さえあった。
そうなればきっと、倒れていたのは他の同僚の誰かだっただろう。
理央はただ〝自分のせいで、誰かの負担が増えてしまうこと〟に見て見ぬふりが出来なかった。そして多分、皆が同じことを考えていたからこそ、逃げ出す人は一人もいなかった。
優しさや配慮、責任感。
皮肉にも、そういう現場の善性によって、互いに身動きが取れなくなってしまっていた。
「それならいっそのこと、仲間たち全員で逃げちまえばよかっただろうに」
一人じゃなく、全員で示し合わせて、だ。
八尋はビールの缶を傾けながら、こともなげにそう言った。
「いやいや、そんな無茶な。だってそんなことしたら、病院側に迷惑がかかるもの。それに、患者さんの命に関わることだって──」
「とはいえ、見ず知らずの人間の命と、自分や見知った仲間の命だぜ? 自分や仲間の命を優先しても、バチは当たらないと思うんだがなあ」
ま、そもそも天秤の両方に命が乗っかってるってのが、可笑しな話ではあるんだが。
八尋はまるで天気の話をするみたいに、そう軽く言ってのける。
結果として誰かしらの命が喪われるってんなら、それは人様の命を勝手に天秤に載せた、上の連中の責だろうに、と。
そのあまりにもあっさりとした調子に、理央は思わず言葉を詰まらせた。
実際、理央たち現場のエンジニアは、互いのことを思って我慢した。
患者や病院のためを思って、どれだけ無茶な要求にも、なんとか食らいつこうとしてしまった。
その度を超えた頑張りが、会社の経営層に「この人員体制でも何とかなる」と思わせてしまったのも、きっと事実だろう。
自分たちの我慢は、身を削った献身は、何の意味もなかったのだろうか。
そんな問いが、頭の中をぐるぐると回り始める。
すると、テーブルの向かい側で、朔と宗介が顔を見合わせた。
ふたりはほぼ同時に、小さく苦笑する。
「……八尋って、そういうところあるよね」
「だよなー。竹を割ったみたいに合理的っていうかさ」
「おいおい、俺の味方はいないのかい?」
拗ねたようにふくれてみせる八尋には、朔がじとっとした目で見上げていう。
「みながみな、八尋みたいに考えられたら苦労しないよ」
「そうそう。損得だけじゃ、人の社会は回らないんだよ。頭ではそっちの方が効率的だと分かっていたとしても、感情とか責任感がそうはさせないんだよな」
「……そう、そうなの、そうなのよ!」
宗介のフォローに、理央は思わず身を乗り出す。
そうなのだ。いくら効率的だと分かっていたとしても、逆にどれだけ効率が悪いと分かっていても、気持ちの部分で割り切れないことは、確かにあって。
「頭で理解だけなら出来るのよ、そっちの方が合理的だ、って。だけど納得には、心が混じるのよね。感情が入っちゃう」
言語化すると、すっきり腹落ちするところもあって、理央は大きく頷いた。
頭の片隅では、理央だってちゃんと理解していた。
逃げ出してしまう方が、きっと合理的ではあったのだ。
けれど心では、納得できなかった。
そして、納得できない道を選ぶことは、自分にはできなかった。
だからこそ、選ばなかった if を後悔しても、それこそ意味はないのだろう。
そう思えたら、なんだか少しだけ楽になった気がした。
「それよりも俺、理央さんは強かったんだなって思うな」
「え、強い?」
「はい。だって普通は、体が限界を迎える前に、心が折れちゃうと思うんですよね」
「……言われてみれば、確かに?」
理央はそこで初めて、はたと気がつく。
仕事がしんどいと思ったことは、確かにあった。
けれど、メンタルを病むようなことは、一度もなかったからだ。
「そりゃあ勿論、過労死するまで頑張りすぎるべきではなかったんだろうけどさ。だけど、理央さんたちみたいな人が現場で頑張ってくれたから、救われた命だってあるはずで。……そのことだって、無視するべきじゃないと思いますよ」
医療系のSEは、病院スタッフに謝罪することは多くあれど、患者から謝意を向けられる機会はほとんどない。だからこそ、自分たちの仕事ぶりを肯定してくれるその言葉は、じんわりと心の奥まで染み込んでいく。
景色が少しだけ歪んで見えるのは、きっと土鍋から立ち上る湯気のせいだ。
理央は小さく、そっか、と呟いた。
「私たちが頑張ったおかげで、救われた命もあったかな。私の人生にも、ちゃんと意味があったのかな」
「はい、きっと」
宗介が、迷いなく答えた。
「あったと思うよ」
朔も、こくりと静かに頷く。
「ま、意味のない人生なんて、そうそうないよな」
三者三様の肯定が、なんだか無性に嬉しくて。
理央は目の奥が熱くなるのを感じながら、ありがとう、と小さく呟いた。
