さよならまたね、またいつか。 〜あの世とこの世のあいだご飯〜

「はい、お待ちどうさま」

 リビングの食卓につくと、宗介がミトンをはめた手で土鍋の蓋を持ち上げた。すると、白い湯気がふわりと広がって、中空にじんわりと溶けていく。それと同時に、さっきよりもずっと近くから香気が届いた。
 昆布だしの旨みと、醤油とみりんのほのかな香ばしさ。その奥に、鶏肉と魚介の旨みがとけ込んだ、丸くて深い匂いだ。理央は思わず、鍋の中を覗き込んだ。
 透きとおった黄金色(こがねいろ)の中を、くたっとしなだれた白葱とえのきが泳いでいる。白菜は芯まで半透明で、いかにも味の染みていそうな様子だ。
 春菊の緑は鮮やかで、豆腐はくつくつと揺れながら、お玉で(すく)われるのを今か今かと待っていた。

「どうぞ、自由に取ってくださいね」

 宗介がそう言いながら、理央の前にお(わん)とお玉を置いてくれる。
 その言葉に甘えて、ひと通りの具材を盛り付けたなら。お椀の中にはまた小さなお鍋が生まれて心が(おど)る。
 試しに豆腐をひと切れ口に入れてみれば。あつあつの豆腐は舌の上でなめらかに崩れていって、口の中いっぱいに濃厚な味が広がる。
 次いで鶏肉を食べると、やわらかく煮えた肉からは(あぶら)の甘みがじんわり(にじ)み出る。
 スープの味がよくしみ込んだ白菜も絶品で、えのきは独特の歯応えが楽しい。急ぐ必要もないのに、ハフハフと箸が止まらなかった。

「なぁきみ、そろそろこいつが恋しい頃なんじゃないか?」
 そう言って八尋が差し出すのは、銀色の缶だ。
「んん、ビール! 飲みたい!」
「ははっ、そうこなくっちゃなぁ」

 手渡された缶のプルタブを起こすと、ぷしゅ、と小気味よい音がして、苦味を予感させる香りがふわりと立つ。理央はゴキュゴキュと喉を鳴らして、一気に半分ほど飲み干した。
「ぷはぁぁぁ」
 思わずそんな声が出てしまう。期待通りのほろ苦さが舌の上に広がり、喉を滑り落ちていく。お鍋の熱さとビールの冷たさが、胃の底でひとつになった。

「あぁもう、最っ高の組み合わせ! 本当に美味しい!」
「最近はもっぱら、この()(くに)の麦酒が(そな)えられることが多いみたいだが……これもなかなかどうして旨いよなぁ。何しろ、どんな料理にも合うのがいい」

 八尋もご機嫌そうに目を細めて、自分の缶ビールに口をつけている。

「だがこの、やたらと小さい()(もの)はどうなんだ? 大きな器もあるんだったら、毎回でかい方で供えてほしいもんだ」

 残念ながら、大きい器の麦酒ってのは希少なんだ。二杯目からは小さいやつだぜ。
 そう言って八尋が指差すのは、テーブルの端に置かれた缶ビールの予備だ。理央もそれを見やって、思わず苦笑いをする。
 今飲んでいるのは普通サイズの缶だけれど、予備として積まれているのは、ひとまわり小さな缶だった。135mlのミニ缶──お爺ちゃんのお仏壇に、いつも供えてあったやつだ。

「行き場のない、余りものの供物(くもつ)贅沢(ぜいたく)も言ってられないんだが……飲み始めるとあっという間に空になっちまうのが、ちょっとなぁ」

 その物言いがあまりにも俗っぽくて、理央はつい笑ってしまう。
 鬼人という何だかよく分からない存在が、缶ビールの容量についてぼやいている光景は、妙にシュールだ。
 その(かたわら)では、宗介がお玉を手に、土鍋の中をかき分けていた。

「朔は鍋が遠いだろ、俺が取り分けるよ」
「しいたけ、多めにしてくれる?」
「はいはい、わかってるよ」

 宗介は笑って、土鍋の中から椎茸を探し出しては、せっせと朔のお椀に移していく。
 甲斐甲斐しく世話を焼くその様子には、幾度となく繰り返してきた行動であることが透けて見える。きっと、根っからのお兄ちゃん気質なのだろう。

「それにしても、朔くんだっけ? きみ、小さいのに渋いものが好きなのね」

 理央は、対面に座る子どもにそう声をかける。
 すると、朔はお椀を両手でかかえながら「うん」と頷いた。

「だって、お殿さまの気分が味わえるからね」
「えっ、お殿さま……?」

 意外な言葉に、思わず聞き返す。

「あぁ、椎茸って昔は、かなり高級な食材だったらしいですよ」

 そう補足してくれたのは、理央の戸惑いを察したのだろう宗介だ。
 彼は自分のお椀に具材をよそいながら、これは雑学なんですけどね、と言葉を続ける。

「なんでも、昭和に入って安定栽培ができるようになるまでは、松茸とおなじくらい高価なきのこだったんですって。ちょっとびっくりですよね」
「えっ、そうなの!?」

 理央はびっくりして身を乗り出した。
 松茸といえば、高級食材の代名詞だ。一方、椎茸はどんなスーパーにも並んでいる、ごくごく庶民的なきのこである。
 それが松茸なみに高価だったなんて、にわかには信じがたい。

「あぁ。戦国の頃でも、ひと(かご)いっぱいに採れようものなら、一生遊んで暮らせる財を築けたというよなあ。かの太閤(たいこう)も、たいそう好んでいたという」
「太閤って、秀吉だっけ?」
「あぁ。派手好き、高値(こうじき)なもの好きの、あの御仁(ごじん)さ。当時の十王の裁定は、俺たち鬼人も大盛り上がりだったなぁ」

 八尋はくつくつと笑って、そんなことを言う。
 けれど、その口ぶりには妙な実感が乗っていて、それがまた何とも不可思議だった。

「じゃあ私たちって、知らずに贅沢してたのねぇ……」

 けれど、そう聞くと余計に美味しく感じられそうだ。
 理央は椎茸をひとつ、箸で摘まみ上げる。
 笠に十字の飾り包丁が入ったそれは、だしをたっぷり吸って、ふっくらつやつやと膨らんでいた。噛めばほどよい弾力が歯に当たって、じゅわっと味があふれ出す。

「う〜ん、幸せ! ……こういうの、いつが最後だったっけ」

 大学生の頃は、毎週のように誰かの家に集まって、鍋パをしていたものだ。
 友人たちの中には、不思議と椎茸が嫌いな人も多かった。
 香りがきついとか、食感がだめだとか、理由はエトセトラ。理央は昔から椎茸が好きだったから、嫌いな人の分も食べていた記憶がある。
 椎茸を入れる、入れないで、くだらない論争に盛り上がったことも懐かしい。
 何気ない日常だったからこそ、きっと写真にも残っていない。
 けれど、写真に残っていない日々こそが青春だったのだろうと、今なら思う。

「……あーぁ」
 理央の箸が、つるりと豆腐を滑る。
「…………どこで間違ったんだろうなぁ、私の人生」
 白い塊が半分に割れて、お椀の中にぼちゃんと落ちた。


      ◇◆◇

「昔はね、大学のサークル仲間と、よく宅飲みとかやってたの」

 理央はお椀とお箸をことりと置いて、小さく呟く。
 誰に向けているわけでもなく、ただ言葉を吐き出しているだけ。
 宗介も八尋も、何も言わずに耳を傾けてくれていた。
 朔もまた、お椀から顔を上げてじっとこちらを見ている。
 (さえぎ)りもせず、ただ聞いてくれるのが、今の理央にはちょうど良かった。

「でもね、一緒に遊んでた同期たち、今じゃすっかり疎遠(そえん)になっちゃったんだ。仕事の忙しさにかまけて、誘われるたびに断ってたら、そのうち声も掛からなくなってさ」

 そりゃそうだよね、毎回断られてたら、誘う方も気が引けるもん。
 理央はそう自嘲(じちょう)して、缶ビールを両手で包むように持ち、親指で(ふち)をなぞる。

 相手が急に冷たくなったわけでも、喧嘩別れしたわけでもない。
 ただ、遊ぶ元気がないだとか、休日は少しでも長く寝ていたいだとか。
 そんな理由で、先に切り捨ててしまったのは、きっと自分の方だった。

「……私の仕事ってさ、医療系のSEだったんだ」
「えっと、SEってシステムエンジニアのことで合ってます?」

 宗介の質問に。理央は「うん」と小さく頷く。

「病院で使う、電子カルテのシステムを作ってる会社で働いてたのね。ほら、患者さんの命に関わる商材を扱ってるからこそ、不具合があったら大問題なわけ。最悪、病院の業務が停止しちゃうからさ」

 クライアントの中には、二十四時間ずっと稼働している病院も含まれていた。
 だからこそ、夜中だろうが休日だろうが、システムに異常があれば呼び出される。
 それは就職活動をしていた頃から分かっていたことだし、業界柄、仕方のないことだとも思っていた。
 巡り巡って誰かの命を救うことに繋がるのだと、やりがいさえ感じていたくらいだ。

「最初の方はね、徹夜の修羅場も年に数回くらいだったんだ。だからまぁ、医療系のSEならよくある話だよねって、愚痴(ぐち)りながら笑い話にしてたくらい」

 実際、その程度であれば、業界的には珍しくもない話だった。
 けれど、入社して六年も経つ頃には事情が変わった。
 会社の経営者が代替わりをしたのだ。やり手の二代目は、限界までコストを切り詰め、会社の利益を最大化する方向へと(かじ)を切った。

「それまでは電子カルテ専門だったのにね、急に『今後はレントゲンの画像管理システムも取り扱う』なんて言い出したの。事業の幅を広げるのは、まあ会社としては悪くない判断なんだろうけど……エンジニア、ぜんぜん増やしてくれなかったの。今ある人員配置のまま、業務範囲だけ広げるっていう。ね、意味わかんないでしょ」
「……それは」
 宗介が眉をひそめる。
「うん、無茶な話だよね」
 理央は力なく笑って、少しぬるくなったビールをあおった。

 そこからはもう、年に数回だった修羅場は日常に成り下がってしまった。
 最初からそんな職場環境だったなら、きっとすぐに見切りをつけて、転職していただろうと思う。けれど皮肉にも、段階的に増えた負荷は、感覚を麻痺させてしまっていた。

「それにね、六年目ともなると、それなりにスキルもついてくる中堅ポジションなわけ。だからこそ、無理をすれば、なんとか食らいついていけちゃう。それがたぶん、一番よくなかったんだろうなぁ……」

 ギリギリ食らいつけてしまうからこそ、つい「もう無理です」とは言いそびれてしまって。そうこうしているうちに、次から次へとタスクが降って湧いてくる、その繰り返しだ。
 気づけばもう、立派なブラック企業の社畜が出来あがっていたというわけだった。

「で、その積み重ねの結果がこれ。過労死よ」

 理央は缶ビールをテーブルに置いて、ふっと息を吐く。

「日々の無理って、ちゃんと蓄積していってたんだなって思う。今さら気付いたって、もう遅いのにね」

 そう呟いた声は、自分でも驚くほどに乾いていた。

「あーあ、私の人生って何だったんだろう。ただ働いて、倒れて、それで終わり」

 他人の命を守るシステムを維持するために、自分の命を削っていく。
 考えてみれば、本当に因果な働き方だったと、今さらながらにそう思えた。

「その仕事をやめようとは、思わなかったの?」

 そう呟くのは朔だ。
 お椀を両手で包んだまま、小首を傾げてこちらを見ている。
 その目に責める色はなく、ただ純粋に、分からないから聞いている、という顔だ。
 理央は苦笑して、首を横に振る。

「まったく思わなかったわけじゃないけど……同僚たちだって、みんな同じようにギリギリで働いてたから。自分が逃げちゃうと、その皺寄せが他の人へ行っちゃうでしょ? だから逃げられなかったのよね……」

 自分が辞めたあと、すぐに新しい人員が補充されるとは、理央にはとても思えなかった。
 求人を出しても採用には時間がかかるものだし、応募があるかどうかさえ分からない。
 自分の抜けた穴は、ずっと埋まらなかった可能性だってある。
 あの経営者なら、それを放置しかねないという嫌な確信さえあった。
 そうなればきっと、倒れていたのは他の同僚の誰かだっただろう。

 理央はただ〝自分のせいで、誰かの負担が増えてしまうこと〟に見て見ぬふりが出来なかった。そして多分、皆が同じことを考えていたからこそ、逃げ出す人は一人もいなかった。
 優しさや配慮、責任感。
 皮肉にも、そういう現場の善性によって、互いに身動きが取れなくなってしまっていた。

「それならいっそのこと、仲間たち全員で逃げちまえばよかっただろうに」

 一人じゃなく、全員で示し合わせて、だ。
 八尋はビールの缶を傾けながら、こともなげにそう言った。

「いやいや、そんな無茶な。だってそんなことしたら、病院側に迷惑がかかるもの。それに、患者さんの命に関わることだって──」
「とはいえ、見ず知らずの人間の命と、自分や見知った仲間の命だぜ? 自分や仲間の命を優先しても、バチは当たらないと思うんだがなあ」

 ま、そもそも天秤(てんびん)の両方に命が乗っかってるってのが、可笑(おか)しな話ではあるんだが。
 八尋はまるで天気の話をするみたいに、そう軽く言ってのける。
 結果として誰かしらの命が(うしな)われるってんなら、それは人様(ひとさま)の命を勝手に天秤に載せた、上の連中の責だろうに、と。
 そのあまりにもあっさりとした調子に、理央は思わず言葉を詰まらせた。

 実際、理央たち現場のエンジニアは、互いのことを思って我慢した。
 患者や病院のためを思って、どれだけ無茶な要求にも、なんとか食らいつこうとしてしまった。
 その度を超えた頑張りが、会社の経営層に「この人員体制でも何とかなる」と思わせてしまったのも、きっと事実だろう。
 自分たちの我慢は、身を削った献身は、何の意味もなかったのだろうか。
 そんな問いが、頭の中をぐるぐると回り始める。

 すると、テーブルの向かい側で、朔と宗介が顔を見合わせた。
 ふたりはほぼ同時に、小さく苦笑する。

「……八尋って、そういうところあるよね」
「だよなー。竹を割ったみたいに合理的っていうかさ」
「おいおい、俺の味方はいないのかい?」

 ()ねたようにふくれてみせる八尋には、朔がじとっとした目で見上げていう。

「みながみな、八尋みたいに考えられたら苦労しないよ」
「そうそう。損得だけじゃ、人の社会は回らないんだよ。頭ではそっちの方が効率的だと分かっていたとしても、感情とか責任感がそうはさせないんだよな」
「……そう、そうなの、そうなのよ!」

 宗介のフォローに、理央は思わず身を乗り出す。
 そうなのだ。いくら効率的だと分かっていたとしても、逆にどれだけ効率が悪いと分かっていても、気持ちの部分で割り切れないことは、確かにあって。

「頭で理解だけなら出来るのよ、そっちの方が合理的だ、って。だけど納得には、心が混じるのよね。感情が入っちゃう」

 言語化すると、すっきり腹落ちするところもあって、理央は大きく頷いた。
 頭の片隅では、理央だってちゃんと理解していた。
 逃げ出してしまう方が、きっと合理的ではあったのだ。
 けれど心では、納得できなかった。
 そして、納得できない道を選ぶことは、自分にはできなかった。
 だからこそ、選ばなかった if を後悔しても、それこそ意味はないのだろう。
 そう思えたら、なんだか少しだけ楽になった気がした。

「それよりも俺、理央さんは強かったんだなって思うな」
「え、強い?」
「はい。だって普通は、体が限界を迎える前に、心が折れちゃうと思うんですよね」
「……言われてみれば、確かに?」

 理央はそこで初めて、はたと気がつく。
 仕事がしんどいと思ったことは、確かにあった。
 けれど、メンタルを病むようなことは、一度もなかったからだ。

「そりゃあ勿論、過労死するまで頑張りすぎるべきではなかったんだろうけどさ。だけど、理央さんたちみたいな人が現場で頑張ってくれたから、救われた命だってあるはずで。……そのことだって、無視するべきじゃないと思いますよ」

 医療系のSEは、病院スタッフに謝罪することは多くあれど、患者から謝意を向けられる機会はほとんどない。だからこそ、自分たちの仕事ぶりを肯定してくれるその言葉は、じんわりと心の奥まで染み込んでいく。
 景色が少しだけ歪んで見えるのは、きっと土鍋から立ち上る湯気のせいだ。
 理央は小さく、そっか、と呟いた。

「私たちが頑張ったおかげで、救われた命もあったかな。私の人生にも、ちゃんと意味があったのかな」
「はい、きっと」
 宗介が、迷いなく答えた。
「あったと思うよ」
 朔も、こくりと静かに頷く。
「ま、意味のない人生なんて、そうそうないよな」

 三者三様の肯定が、なんだか無性に嬉しくて。
 理央は目の奥が熱くなるのを感じながら、ありがとう、と小さく呟いた。