河原の石は、踏みしめるたび足裏に凹凸を感じる。
けれど、石自体は丸みを帯びているので、慣れてみれば存外に気持ちがいいことが分かった。足つぼマッサージみたいな気分だ。
ごつごつとした大岩をいくつか通り過ぎると、やがては河原と山の境に差し掛かった。
近寄ってみれば、人ひとり分くらいの幅の獣道が、木々の隙間から奥に続いているのが分かる。鬱蒼と茂る常緑樹の下、地を這う根っこが天然の階段のようになっていて、山上まで続いているようだった。
朔と宗介は慣れた様子で、その獣道に分け入っていく。
理央は少しだけ逡巡してから、意を決して二人の後に続いた。
気付けば日も完全に落ちてしまったのか、山道はすっかりと闇に包まれている。
こちらを振り返った朔が鬼火を増やしてくれたため、ふよふよと浮いた蒼白い炎が四つほど、宗介と理央の足元をそれぞれ淡く照らし出した。
宗介などは、寒そうに炎へ手をかざし、歩きながら暖をとっているくらいだ。
あぁ、山道に入ったから、さらに空気が冷え込みでもしたのだろうか。
理央はぼんやりと、そんなことを考える。
だがそれは、知識や経験則から導き出せる推測でしかない。やはり理央には、空気の冷たさを感じることができなかった。
「ねぇ……そもそも亡者になった私に、味覚ってあるの?」
思えば昼間の雪だって、肌に触れる感触は妙に鈍く、温度の感覚すら遠いものだった。触覚や痛覚だってそんな有様なのだから、不安に思ってしまうのは仕方がない。
亡者は食事を摂る必要もなく、空腹も感じないというのであれば、味覚だって不要のはずだ。味覚もまた、生きている頃と同じというわけにはいかないのではないか。
理央が素朴な疑問を口にすると、宗介は肩越しに振り返って小さく笑う。
「亡くなった人にも、味覚だけは生前と変わらずに残ってるそうですよ。なんでも三途の川を渡ったあとに、遺族が供えた供物を口にする機会があるとかで」
言われてみれば確かに、故人へのお供え物は白ごはんだったり果物だったり、はたまたお菓子だったり。食べ物が多い気もする。
「あのね、亡者は死後、七日ごとに十王の裁きをうけるんだ。だけど、遺族の供養の手厚さによっては、減刑されることもあるんだよね。それで、罪が軽くなる亡者はね、遺族が供えたものを食べられるんだよ」
そう補足するのは、宗介の陰からひょっこりと顔を覗かせた朔だった。
朔の説明によれば、亡者は初七日から七日ごとの七回(四十九日)まで、および百か日、一周忌、三回忌に、順次十王の裁きを受けることになるという。
お葬式の後にも故人の追善供養を行うのは、そのつど十王に対して嘆願を行うことで、死者の罪を軽減させるためなのだそうだ。
十王というのは、死者の魂を裁く十人の裁判官のことで、その裁きによって『地獄行きかどうか』が決定される、とのことだった。
「閻魔王はね、五番目だよ」
「一番有名なのに、五番目なのかよって。ちょっと意外ですよね」
朔と宗介が、顔を見合わせてくすくす笑う。
「それはまぁ、確かに……?」
有名である割に、最初でも最後でもないというのは、なんだかちょっと意外かもしれない。
理央はぼんやりとそんなことを考えつつ、再び歩き出した二人の背中を追いかけるのだった。
しばらく傾斜のある獣道を登っていくと、やがて開けた場所に出た。
どうやらそこは、山の中腹にぽっかりと空いた、小さな盆地になっているらしい。
盆地の中央には節くれ立った古木が生えていて、その向こうには、窓から明かりの漏れる一軒家がぽつんと佇んでいる。開けた盆地は、その家の庭になっているようだった。
「三途の川の裏山に、ポツンと一軒家……下からじゃ全然わからなかった」
理央はなんともシュールな光景を前に、そんな感想をこぼしてしまう。
盆地からであれば、場所によっては河原を見下ろせなくもないだろうが、下からはまったく見通せないだろう。
宗介は「ありましたねー、そんな番組」と笑いながら、その家の玄関へと歩いていった。
「医学が進歩したおかげで、臨死体験が長期化しちゃうことも増えてきたらしくって。なので、そういう人たちが一時的に生活するための仮住まいが、川の此岸側に用意されるようになったんですって」
慣れた手つきで玄関の戸を開けながら、宗介はそう説明してくれた。
理央は「へぇ……」と頷きながら、改めてその建物を見上げる。
やや年季の入った二階建てで、屋根は瓦葺き。
庭に面している一階部分には大きなサッシ窓がついていて、見晴らしは良さそうだ。なんでも、空き家をまるっと『お供え』された結果らしい。
宗介が慣れた様子で玄関を上がり、朔もそれに続いていく。
理央も「お邪魔します」と小さく呟いてから、二人の後に続いて家の中へと上がり込んだ。
案内されたフローリングの洋間には、大きめのダイニングテーブルと椅子が四脚。
その奥は対面式のキッチンと繋がっているらしく、カウンターの向こうに冷蔵庫や食器棚が見える。
大きなサッシ窓は先ほどの庭に面しているようで、かなり開放感があった。
「あ、好きなところに座ってくださいね」
そう言い置いた宗介は、部屋の隅のハンガーポールへ、脱いだコートとマフラーを掛けに行く。なんとなくその様子を眺めていると、朔が椅子のひとつを引いてくれた。
理央はひとまず、それに腰を下ろす。
「さて、と……今日は何味の鍋にしようか」
宗介は手早くネイビー色のエプロンを身につけながら、朔と理央を振り返った。
「……ぼくはいつでも食べられるから。あなたが決めていいよ」
朔はといえば、ちらりと理央の方を見上げてそんなことを言う。
「いや、何味と言われても、もう出来合いのスープがあったりするものじゃ……?」
理央の中の鍋つゆのイメージといえば、某ぷちっと入れるだけのお鍋の素を水で薄めるか、自立式パウチに入ったスープをストレートで使うか、そのどちらかだ。少なくとも、大学時代の鍋パーティなんかはそうだった。
だからこそ、味はすでに決まっているものだと思っていたのだけれど。
宗介は「あぁ、出来合いのスープも美味しいですよね。それに出汁を取ったりしなくていいから楽だし」と笑いながら、棚から土鍋を取り出している。
「でも俺は、直前の気分で味を決められるから、鍋つゆはちゃんと自分で作る派で。だからまだ、何味でも選べますよ。水炊きでも、寄せ鍋でも、味噌仕立てのお鍋でも」
「うーん……正直、人の手料理に飢えてるから、手作りなら何でも嬉しいんだけど。……それじゃあ寄せ鍋で」
選んだ理由はなんとなく、いちばん味付けが複雑そうだからだ。安直である。
理央のリクエストに、宗介は笑って「了解です」と頷いた。
「じゃあ朔、冷蔵庫から昆布だし取って。お茶のポットに入れてあるやつ」
「うん、わかった」
背伸びをした朔が冷蔵庫のポケットから取り出したのは、百均でも買えるような、よくあるお茶のポットだった。中には、ほんのり色づいた液体と大きめの昆布が浮いている。
実家で理央の母親もやっていた、だしの作り置きというやつだろうか。『時短よ、時短』と笑っていた母を思い出す。
宗介がポットのだし汁を土鍋に注ぎ込もうとした、そのときだ。
ドサッ、と玄関の方から鈍い音が響いた。
思わず肩を揺らした理央とは裏腹に、宗介と朔は慣れたように顔を見合わせる。
「あ、さっそく届いたな」
「……ぼく、取ってくるよ」
朔はトタタッ、と軽い足取りで玄関の方へ向かっていく。
ほどなくして、彼は自分の上半身がすっかり隠れてしまうほど大きな段ボール箱を抱え、戻ってきた。
段ボールの側面には、マジックペンで雑に『くもつ』と書かれている。いかにも走り書きです、といった様子だ。
配達員と言葉を交わすような声や間もなかったあたり、まるで、玄関先に突如あらわれた置き配を取ってきたみたいだった。
「ありがとな」
宗介はそう言って、朔から箱を受け取ると、それをテーブルの上に置いてベリベリとガムテープを剥がしていく。
つられて中身をのぞき込めば、中には白菜や椎茸、長葱、豆腐、春菊、それに肉や魚など、どれも新鮮そうな食材がぎっしりと詰まっていた。
「ええと、これは今日は使わなくて……寄せ鍋なら、これは入れようかな」
そんなことを呟きながら食材を検分し始めた宗介をよそに、朔は理央を見上げていう。
「さっきも言ったでしょ。現世で亡者にお供えされた供物はね、念じればこっちに届くんだ。仕組みはそれとおんなじだよ」と。
それを受けて、宗介が小さく肩をすくめる。
「ただし、臨死体験者のために供物を用意してくれるのは、遺族じゃなくて鬼人さんらしいんですけどね」
「鬼人って、この子みたいな?」
理央は目を瞬いて、朔を見やる。
特に、今は前髪に隠れてしまっている、額のあたりを。
朔はそんな視線を気にした風もなく「そうだよ」と淡々と答えた。
「みんながみんな、迷わず賽の河原に来れるわけじゃないからね……現世には、さまよう亡者を探して連れてくる鬼人もいるんだ。臨死体験者の希望する品をお供えするのも、現世ではたらく鬼人のおしごとのひとつ、なんだよ」
「余計な仕事を増やしちゃって、ちょっと申し訳ない気持ちはあるんですけどね。おかげさまで、俺は飢えずに済んでるってわけです」
宗介はそう苦笑して、それから「じゃあ、準備はじめちゃいますね」と軽く手を叩いた。
段ボールから取り出した食材を、彼は手際よくキッチンカウンターに並べていく。
だし汁に目分量でぱぱっと調味料を加えるその手つきは、いかにも手慣れている様子だった。
レシピ動画の通り、計量カップで分量を量る味付けしかしたことのない理央とは、料理のスキルに天と地ほどの差があることを思い知らされる。
何か手伝おうかと腰を浮かせた理央だったけれど、これはどう見ても、下手に手を出す方が邪魔になるやつだ。
とはいえ座り直すのも決まりが悪いから、結局、立ったまま見学の構えに落ち着くことにした。
宗介の手元を覗き込めば、鶏肉の筋や余分な脂身が丁寧に外され、ひと口大に切り分けられていく。鱈の白身も、皮目の切りにくさに手こずる様子もなく、あっさりと切られていく。
それらがまるで、クッキング動画でも見ているようなスピード感で進んでいくものだから、理央は思わず感嘆の声を漏らした。
「……すごい、プロの料理人みたい」
すると、宗介は少し照れたように笑い「まさか。そこまでじゃないですよ。それに基本、我流だし」と謙遜する。
けれど、彼の年齢を考えれば、その手際の良さは少しばかり不自然でもあって──。
えびの殻をむいて背わたを取りながら、彼は「うち、母子家庭だったんですよね」と小さく肩をすくめた。
「母さんは仕事で忙しいし、料理とか小さい弟妹たちの世話は、だいたい俺がやってたんです。あ、もちろん無理にやらされてた、ってわけじゃないんですけどね」
気負った風のない言葉には、どこか柔らかい温度がにじむ。
その手つきの奥には、かつての生活の断片が透けて見えるようだった。
白菜は葉と芯に分けられ、葉はざくざくと、芯はそぎ切りに。椎茸に十字の飾り包丁が入ると、ふわりと土と木の混じったような香りが立つ。
それを眺めながら、理央はぽつりと呟いた。
「そういうの、嫌じゃなかったの?」
「え?」
「いや、弟妹のお世話とか、料理とか……」
高校生のころに理央がやっていたことはといえば、勉強と部活くらいだ。
部活を終えて家に帰りつく頃には、晩御飯の支度もだいたいが終わっていて。今にして思えば、ずいぶんと甘やかされていたのだと分かるけれど、それでも、よくある一般的な家庭のありようだったように思うのだ。
少なくとも、理央の高校生活は、料理だとか弟妹の世話に追われるような日々ではなかったから。
だからこそ、そんな疑問が口をついてしまう。
周りはみんな家のことなんてやっていないのに、嫌ではなかったのか、と。
理央の問いに、宗介はぱちくりと瞬きをしてから、首を横に振った。
「嫌なんかじゃなかったですよ。ていうかむしろ、自分から望んだことだったっていうか」
「自分で?」
「そう、自分で。……俺が中学三年のころに、クソ親父の不倫が発覚したんですよねー。詳細は控えますけど、生理的に無理になるような、割とけっこうエグめのやつ」
ズダァン、と心なしか荒い音を立てて、えのきの根元が落とされる。
見間違いでなければ、えのきもまな板から浮いていたような。
思わず跳ねてしまった肩に、宗介は「すみません、つい力が入っちゃって」と苦笑した。
「母さん、そのころは時短勤務だったけど、もとは総合職でバリバリ働いてたんです。希望すれば元の職種に戻れるみたいだったし、クソ親父から慰謝料とか養育費はぶん取れるしで、金銭的には離婚してもぜんぜん問題はなくて。ただ──」
えのきをざっくりと手でほぐしながら、宗介は言葉を続ける。
「そのころはまだ、弟も五歳かそこらで。妹にいたっては、まだ二歳で。母さんはそれが気がかりで、離婚に足踏みしてるようだったから……だから俺、言ったんです。弟妹たちの面倒なら俺がみるから、むしろ離婚してくれた方が嬉しい、って」
クソ親父と、今まで通りに生活する方が無理だったし。
まな板の上に白ネギを横たえながら、彼はこともなげに肩をすくめた。
「それにほら。中学三年なんて、子ども扱いされるよりは、大人として扱われたい年頃でしょ? 母さんが離婚に踏み切ってくれた時は、同じ『家庭を守る側』の大人と見なしてくれたみたいに思えて、嬉しかったくらいです」
「大人として扱われたい、かぁ……」
理央はぼんやりと、そう呟く。
中高生は大人にはなれないし、急いでなる必要なんて、本当はない。
大人になんて、数年もたてば、放っておいても勝手になるものだからだ。
実際なってみて、いいものじゃないと思うし、子どもに戻りたくなることなんてしょっちゅうで。
だけど、大人ぶりたい気持ちにも覚えがあるから、理央は小さく苦笑する。
「……私も子どもの頃は、早く大人になりたいってばっかり思ってたなぁ」
自分で働いて、誰の指図も受けずに生活して、自分のためにお金を使って。「自由」とか「責任」とかいう、いかにもな言葉に惹かれていた。
それは成長過程で誰にでも訪れるはずの、大人への漠然とした憧れと、子どもではいたくないという意地で。一時的な、はしかのような熱病だ。
「今は、違うんですか?」
「そうだなぁ……君より少しだけ大人な私の経験談ではね、年齢による変化って、身体の老化以外にないの。大人になったって、そんなにいいことってないのよ。悲しいことにね」
唯一向上した点といえば、メニューの値段を見ずに好きなだけ注文できるようになったことくらい。
そう付け足せば「俺からすると、そういうのも全部うらやましいですけどね」と笑われる。けれど、その反応さえ懐かしく思えるから、理央はやはり苦笑することしかできなかった。
こればかりはもう平行線だ。大人になってみないと、本当の意味では理解できないに違いない。
理央もかつては子どもだったからこそ、子どもは大人に憧れるものだということを、身をもって知っている。
だからもう、夢のない言葉をこれ以上重ねるのはやめることにした。
「でもきっとさ、嫌じゃなくっても、大変ではあったよね。そんな頃から家のこと背負うなんて」
「あはは、慣れるまではちょっと大変でしたけど……それでも、苦じゃなかったですよ、全然」
宗介はなんでもないことのように笑い、白ネギを斜め切りにし始めた。
ネギの次は春菊、にんじんと、ザルに盛られた野菜はあっという間にこんもりと積み上がっていく。
「料理も、やってみると案外向いてたっていうか。それに、うちの弟妹たちが、天然のおだて上手だったんですよね」
「おだて上手?」
「そう。テレビで見た料理なんかを『ねぇ、あれ作って!』『あれ食べたい』って言ってくるんです。俺なら何でも作れるって、疑いもせずに思い込んでたみたいで」
あんなキラキラした目を向けられると、兄ちゃんとしては応えないわけにいかないっていうか。意地でも応えたくなっちゃうっていうか。
宗介の声が、ふっと柔らかくなる。
まるで目の前に、弟妹たちの顔でも浮かんでいるみたいだ。
「もちろん世の中的には、ヤングケアラー問題だとか、賛否も色々あるんだろうけど。少なくとも俺は、嫌だとかしんどいとかを思ったことはなかったなぁ」
その懐かしむような話しぶりには、無理をしている色も、過去を美化しようとする色も、確かに見当たらない。理央はなんとなく、自分が少し恥ずかしくなる。
大変じゃなかったかと聞いたのは、同情のつもりだったかもしれない。あるいは、そういう境遇を可哀想だと、どこかで決めつけていたのか。
きっと、家庭の事情はそれぞれで。
当事者の感情を他人が決めつけるのは、お門違いというものだ。
「そっか。いいお兄ちゃんなんだね」
えらいね、と声をかけるのも違う気がして、理央は小さく呟いた。
彼の言葉尻がすべて過去形であることには、たぶん触れない方がいいのだろう。そう思いながら、理央は積み上がった野菜のざるに視線を落とした。
そうこうするうちに、どこかへ段ボールを片付けてきたらしい朔が、台所へと戻ってくる。
「……なにか手伝うこと、のこってる?」
「あ、ちょうどよかった。じゃあ、これを混ぜてもらおうかな」
宗介はそう言って、冷蔵庫から意外な調味料を取り出した。
ひとつは、赤みがかった茶色の味噌。もうひとつはマヨネーズだ。
それらを宗介は、小さな小鉢にざっくりと盛りつける。
「え、寄せ鍋になんで?」
思わず声に出てしまった理央に、宗介は悪戯っぽい笑みを向ける。
「これは鍋とは別の、後のお楽しみです。朔、ふたつをよく混ぜ合わせるだけでいいから、頼んだ」
「うん、わかった」
朔はこくりと頷くと、小鉢を受け取って、ダイニングの椅子にちょこんと座る。
中身を混ぜはじめた横顔は真剣で、任された仕事をきちんとこなそうとする様子は愛らしい。
だが、理央の頭の中では、まだ疑問符がぐるぐるとしている。
「ちなみに理央さん。お酒は飲みますか?」
「え、お酒? お酒は好きだけど……」
大学生の頃から、お酒は好きだった。
社会人になってからも、不摂生な生活の中でのささやかな楽しみだったくらいだ。
それが寿命を縮める一因になったと言われれば、否定はできないけれど。
飲まずにはいられないような日々だったのだから、仕方がない。
「ねぇ、もしかしてお酒もあったりするの? だったら飲みたい!」
正直なところ、寄せ鍋ときいては、お酒が恋しくなっていたところだ。
勢い込んで宗介を見やれば、彼は朔から混ぜ終えた小鉢を受け取りながら「じゃあこっちの箸休めの方も、気に入ってもらえるかな」と笑ってみせる。
そんな風に言われると、がぜん期待値が上がってしまう。
箸休めまであるとは、本当に至れり尽くせりだ。
「うわぁ、いよいよ楽しみ。私、ビールも焼酎も日本酒も、なんでも好きなのよね」
「あはは、俺は詳しくないですけど、ぜんぶ揃ってるんじゃないかなぁ。八尋さんがたくさん溜め込んでるんです」
土鍋に食材を敷き詰めながら、宗介が笑う。
「ぜんぶ供物なんだよ、お酒もね」
そう呟くのは、いつの間にか理央の足元にやってきた朔だった。
「亡くなった人にお供えされたものは、黄泉にも届くんだけど……口にできる人とできない人がいるからね」
「口にできない人?」
朔はスプーンをシンクにことりと置いて、理央を振り仰いだ。
「うん。酒癖の悪かった人は、叫喚地獄に落ちちゃうから」
「でも、そういう人に限って、よくお供えされそうなんだよな」
宗介が苦笑まじりにそう言うと、朔は「そうなんだよ」と至って真面目な顔で返す。
「地獄行きになっちゃった人には、飲ませられないから。お供えされても行き場のないお酒たちはね、仕方がないから僕たち鬼人に配られるんだ」
「地獄行き……そっか、そういう人は飲めないんだ」
自分はどうだろうか、と理央は己の記憶を辿ってみる。
そんなに大きな粗相をした覚えはないから、大丈夫だと思いたいところだ。
土鍋の中にぎっしりと食材が収まり、宗介が蓋をする。
それからしばらくは、台所に鍋が煮えていく音だけが満ちた。
やがて、ことこと、ことこと。蓋の空気穴や縁から白い湯気が細くにじみ出て、じわじわと広がっていく。
すると、湯気にまじって、あたりにふわりとだしの香りが漂いはじめた。
思い切り吸い込みたくなるような、なんだか懐かしくなるような匂いだ。
胃袋がきゅうと縮こまるような感覚こそないけれど、口の中にはじわりと唾液が滲んでいく。お腹が空いているかどうかはもう関係なく、理央はただ、早く食べたいとばかり願った。
戸が開く音がしたのは、そんな時だ。
玄関の方から足音が一定のリズムで近づいてきて、洋間の入口に人影が現れる。
「さぁて、支度の方はどうだい? ──とは、愚問だったか」
いい匂いがするなあ、と鼻をひくつかせながら笑うのは、噂の八尋だ。
室内をひとわたり見渡して、彼は期待に満ちた目を細める。
「おつかれさま。もう出来あがるよ」
小皿にだし汁をすくって味見をした宗介は、うん、とひとつ頷いて火を止めた。
けれど、石自体は丸みを帯びているので、慣れてみれば存外に気持ちがいいことが分かった。足つぼマッサージみたいな気分だ。
ごつごつとした大岩をいくつか通り過ぎると、やがては河原と山の境に差し掛かった。
近寄ってみれば、人ひとり分くらいの幅の獣道が、木々の隙間から奥に続いているのが分かる。鬱蒼と茂る常緑樹の下、地を這う根っこが天然の階段のようになっていて、山上まで続いているようだった。
朔と宗介は慣れた様子で、その獣道に分け入っていく。
理央は少しだけ逡巡してから、意を決して二人の後に続いた。
気付けば日も完全に落ちてしまったのか、山道はすっかりと闇に包まれている。
こちらを振り返った朔が鬼火を増やしてくれたため、ふよふよと浮いた蒼白い炎が四つほど、宗介と理央の足元をそれぞれ淡く照らし出した。
宗介などは、寒そうに炎へ手をかざし、歩きながら暖をとっているくらいだ。
あぁ、山道に入ったから、さらに空気が冷え込みでもしたのだろうか。
理央はぼんやりと、そんなことを考える。
だがそれは、知識や経験則から導き出せる推測でしかない。やはり理央には、空気の冷たさを感じることができなかった。
「ねぇ……そもそも亡者になった私に、味覚ってあるの?」
思えば昼間の雪だって、肌に触れる感触は妙に鈍く、温度の感覚すら遠いものだった。触覚や痛覚だってそんな有様なのだから、不安に思ってしまうのは仕方がない。
亡者は食事を摂る必要もなく、空腹も感じないというのであれば、味覚だって不要のはずだ。味覚もまた、生きている頃と同じというわけにはいかないのではないか。
理央が素朴な疑問を口にすると、宗介は肩越しに振り返って小さく笑う。
「亡くなった人にも、味覚だけは生前と変わらずに残ってるそうですよ。なんでも三途の川を渡ったあとに、遺族が供えた供物を口にする機会があるとかで」
言われてみれば確かに、故人へのお供え物は白ごはんだったり果物だったり、はたまたお菓子だったり。食べ物が多い気もする。
「あのね、亡者は死後、七日ごとに十王の裁きをうけるんだ。だけど、遺族の供養の手厚さによっては、減刑されることもあるんだよね。それで、罪が軽くなる亡者はね、遺族が供えたものを食べられるんだよ」
そう補足するのは、宗介の陰からひょっこりと顔を覗かせた朔だった。
朔の説明によれば、亡者は初七日から七日ごとの七回(四十九日)まで、および百か日、一周忌、三回忌に、順次十王の裁きを受けることになるという。
お葬式の後にも故人の追善供養を行うのは、そのつど十王に対して嘆願を行うことで、死者の罪を軽減させるためなのだそうだ。
十王というのは、死者の魂を裁く十人の裁判官のことで、その裁きによって『地獄行きかどうか』が決定される、とのことだった。
「閻魔王はね、五番目だよ」
「一番有名なのに、五番目なのかよって。ちょっと意外ですよね」
朔と宗介が、顔を見合わせてくすくす笑う。
「それはまぁ、確かに……?」
有名である割に、最初でも最後でもないというのは、なんだかちょっと意外かもしれない。
理央はぼんやりとそんなことを考えつつ、再び歩き出した二人の背中を追いかけるのだった。
しばらく傾斜のある獣道を登っていくと、やがて開けた場所に出た。
どうやらそこは、山の中腹にぽっかりと空いた、小さな盆地になっているらしい。
盆地の中央には節くれ立った古木が生えていて、その向こうには、窓から明かりの漏れる一軒家がぽつんと佇んでいる。開けた盆地は、その家の庭になっているようだった。
「三途の川の裏山に、ポツンと一軒家……下からじゃ全然わからなかった」
理央はなんともシュールな光景を前に、そんな感想をこぼしてしまう。
盆地からであれば、場所によっては河原を見下ろせなくもないだろうが、下からはまったく見通せないだろう。
宗介は「ありましたねー、そんな番組」と笑いながら、その家の玄関へと歩いていった。
「医学が進歩したおかげで、臨死体験が長期化しちゃうことも増えてきたらしくって。なので、そういう人たちが一時的に生活するための仮住まいが、川の此岸側に用意されるようになったんですって」
慣れた手つきで玄関の戸を開けながら、宗介はそう説明してくれた。
理央は「へぇ……」と頷きながら、改めてその建物を見上げる。
やや年季の入った二階建てで、屋根は瓦葺き。
庭に面している一階部分には大きなサッシ窓がついていて、見晴らしは良さそうだ。なんでも、空き家をまるっと『お供え』された結果らしい。
宗介が慣れた様子で玄関を上がり、朔もそれに続いていく。
理央も「お邪魔します」と小さく呟いてから、二人の後に続いて家の中へと上がり込んだ。
案内されたフローリングの洋間には、大きめのダイニングテーブルと椅子が四脚。
その奥は対面式のキッチンと繋がっているらしく、カウンターの向こうに冷蔵庫や食器棚が見える。
大きなサッシ窓は先ほどの庭に面しているようで、かなり開放感があった。
「あ、好きなところに座ってくださいね」
そう言い置いた宗介は、部屋の隅のハンガーポールへ、脱いだコートとマフラーを掛けに行く。なんとなくその様子を眺めていると、朔が椅子のひとつを引いてくれた。
理央はひとまず、それに腰を下ろす。
「さて、と……今日は何味の鍋にしようか」
宗介は手早くネイビー色のエプロンを身につけながら、朔と理央を振り返った。
「……ぼくはいつでも食べられるから。あなたが決めていいよ」
朔はといえば、ちらりと理央の方を見上げてそんなことを言う。
「いや、何味と言われても、もう出来合いのスープがあったりするものじゃ……?」
理央の中の鍋つゆのイメージといえば、某ぷちっと入れるだけのお鍋の素を水で薄めるか、自立式パウチに入ったスープをストレートで使うか、そのどちらかだ。少なくとも、大学時代の鍋パーティなんかはそうだった。
だからこそ、味はすでに決まっているものだと思っていたのだけれど。
宗介は「あぁ、出来合いのスープも美味しいですよね。それに出汁を取ったりしなくていいから楽だし」と笑いながら、棚から土鍋を取り出している。
「でも俺は、直前の気分で味を決められるから、鍋つゆはちゃんと自分で作る派で。だからまだ、何味でも選べますよ。水炊きでも、寄せ鍋でも、味噌仕立てのお鍋でも」
「うーん……正直、人の手料理に飢えてるから、手作りなら何でも嬉しいんだけど。……それじゃあ寄せ鍋で」
選んだ理由はなんとなく、いちばん味付けが複雑そうだからだ。安直である。
理央のリクエストに、宗介は笑って「了解です」と頷いた。
「じゃあ朔、冷蔵庫から昆布だし取って。お茶のポットに入れてあるやつ」
「うん、わかった」
背伸びをした朔が冷蔵庫のポケットから取り出したのは、百均でも買えるような、よくあるお茶のポットだった。中には、ほんのり色づいた液体と大きめの昆布が浮いている。
実家で理央の母親もやっていた、だしの作り置きというやつだろうか。『時短よ、時短』と笑っていた母を思い出す。
宗介がポットのだし汁を土鍋に注ぎ込もうとした、そのときだ。
ドサッ、と玄関の方から鈍い音が響いた。
思わず肩を揺らした理央とは裏腹に、宗介と朔は慣れたように顔を見合わせる。
「あ、さっそく届いたな」
「……ぼく、取ってくるよ」
朔はトタタッ、と軽い足取りで玄関の方へ向かっていく。
ほどなくして、彼は自分の上半身がすっかり隠れてしまうほど大きな段ボール箱を抱え、戻ってきた。
段ボールの側面には、マジックペンで雑に『くもつ』と書かれている。いかにも走り書きです、といった様子だ。
配達員と言葉を交わすような声や間もなかったあたり、まるで、玄関先に突如あらわれた置き配を取ってきたみたいだった。
「ありがとな」
宗介はそう言って、朔から箱を受け取ると、それをテーブルの上に置いてベリベリとガムテープを剥がしていく。
つられて中身をのぞき込めば、中には白菜や椎茸、長葱、豆腐、春菊、それに肉や魚など、どれも新鮮そうな食材がぎっしりと詰まっていた。
「ええと、これは今日は使わなくて……寄せ鍋なら、これは入れようかな」
そんなことを呟きながら食材を検分し始めた宗介をよそに、朔は理央を見上げていう。
「さっきも言ったでしょ。現世で亡者にお供えされた供物はね、念じればこっちに届くんだ。仕組みはそれとおんなじだよ」と。
それを受けて、宗介が小さく肩をすくめる。
「ただし、臨死体験者のために供物を用意してくれるのは、遺族じゃなくて鬼人さんらしいんですけどね」
「鬼人って、この子みたいな?」
理央は目を瞬いて、朔を見やる。
特に、今は前髪に隠れてしまっている、額のあたりを。
朔はそんな視線を気にした風もなく「そうだよ」と淡々と答えた。
「みんながみんな、迷わず賽の河原に来れるわけじゃないからね……現世には、さまよう亡者を探して連れてくる鬼人もいるんだ。臨死体験者の希望する品をお供えするのも、現世ではたらく鬼人のおしごとのひとつ、なんだよ」
「余計な仕事を増やしちゃって、ちょっと申し訳ない気持ちはあるんですけどね。おかげさまで、俺は飢えずに済んでるってわけです」
宗介はそう苦笑して、それから「じゃあ、準備はじめちゃいますね」と軽く手を叩いた。
段ボールから取り出した食材を、彼は手際よくキッチンカウンターに並べていく。
だし汁に目分量でぱぱっと調味料を加えるその手つきは、いかにも手慣れている様子だった。
レシピ動画の通り、計量カップで分量を量る味付けしかしたことのない理央とは、料理のスキルに天と地ほどの差があることを思い知らされる。
何か手伝おうかと腰を浮かせた理央だったけれど、これはどう見ても、下手に手を出す方が邪魔になるやつだ。
とはいえ座り直すのも決まりが悪いから、結局、立ったまま見学の構えに落ち着くことにした。
宗介の手元を覗き込めば、鶏肉の筋や余分な脂身が丁寧に外され、ひと口大に切り分けられていく。鱈の白身も、皮目の切りにくさに手こずる様子もなく、あっさりと切られていく。
それらがまるで、クッキング動画でも見ているようなスピード感で進んでいくものだから、理央は思わず感嘆の声を漏らした。
「……すごい、プロの料理人みたい」
すると、宗介は少し照れたように笑い「まさか。そこまでじゃないですよ。それに基本、我流だし」と謙遜する。
けれど、彼の年齢を考えれば、その手際の良さは少しばかり不自然でもあって──。
えびの殻をむいて背わたを取りながら、彼は「うち、母子家庭だったんですよね」と小さく肩をすくめた。
「母さんは仕事で忙しいし、料理とか小さい弟妹たちの世話は、だいたい俺がやってたんです。あ、もちろん無理にやらされてた、ってわけじゃないんですけどね」
気負った風のない言葉には、どこか柔らかい温度がにじむ。
その手つきの奥には、かつての生活の断片が透けて見えるようだった。
白菜は葉と芯に分けられ、葉はざくざくと、芯はそぎ切りに。椎茸に十字の飾り包丁が入ると、ふわりと土と木の混じったような香りが立つ。
それを眺めながら、理央はぽつりと呟いた。
「そういうの、嫌じゃなかったの?」
「え?」
「いや、弟妹のお世話とか、料理とか……」
高校生のころに理央がやっていたことはといえば、勉強と部活くらいだ。
部活を終えて家に帰りつく頃には、晩御飯の支度もだいたいが終わっていて。今にして思えば、ずいぶんと甘やかされていたのだと分かるけれど、それでも、よくある一般的な家庭のありようだったように思うのだ。
少なくとも、理央の高校生活は、料理だとか弟妹の世話に追われるような日々ではなかったから。
だからこそ、そんな疑問が口をついてしまう。
周りはみんな家のことなんてやっていないのに、嫌ではなかったのか、と。
理央の問いに、宗介はぱちくりと瞬きをしてから、首を横に振った。
「嫌なんかじゃなかったですよ。ていうかむしろ、自分から望んだことだったっていうか」
「自分で?」
「そう、自分で。……俺が中学三年のころに、クソ親父の不倫が発覚したんですよねー。詳細は控えますけど、生理的に無理になるような、割とけっこうエグめのやつ」
ズダァン、と心なしか荒い音を立てて、えのきの根元が落とされる。
見間違いでなければ、えのきもまな板から浮いていたような。
思わず跳ねてしまった肩に、宗介は「すみません、つい力が入っちゃって」と苦笑した。
「母さん、そのころは時短勤務だったけど、もとは総合職でバリバリ働いてたんです。希望すれば元の職種に戻れるみたいだったし、クソ親父から慰謝料とか養育費はぶん取れるしで、金銭的には離婚してもぜんぜん問題はなくて。ただ──」
えのきをざっくりと手でほぐしながら、宗介は言葉を続ける。
「そのころはまだ、弟も五歳かそこらで。妹にいたっては、まだ二歳で。母さんはそれが気がかりで、離婚に足踏みしてるようだったから……だから俺、言ったんです。弟妹たちの面倒なら俺がみるから、むしろ離婚してくれた方が嬉しい、って」
クソ親父と、今まで通りに生活する方が無理だったし。
まな板の上に白ネギを横たえながら、彼はこともなげに肩をすくめた。
「それにほら。中学三年なんて、子ども扱いされるよりは、大人として扱われたい年頃でしょ? 母さんが離婚に踏み切ってくれた時は、同じ『家庭を守る側』の大人と見なしてくれたみたいに思えて、嬉しかったくらいです」
「大人として扱われたい、かぁ……」
理央はぼんやりと、そう呟く。
中高生は大人にはなれないし、急いでなる必要なんて、本当はない。
大人になんて、数年もたてば、放っておいても勝手になるものだからだ。
実際なってみて、いいものじゃないと思うし、子どもに戻りたくなることなんてしょっちゅうで。
だけど、大人ぶりたい気持ちにも覚えがあるから、理央は小さく苦笑する。
「……私も子どもの頃は、早く大人になりたいってばっかり思ってたなぁ」
自分で働いて、誰の指図も受けずに生活して、自分のためにお金を使って。「自由」とか「責任」とかいう、いかにもな言葉に惹かれていた。
それは成長過程で誰にでも訪れるはずの、大人への漠然とした憧れと、子どもではいたくないという意地で。一時的な、はしかのような熱病だ。
「今は、違うんですか?」
「そうだなぁ……君より少しだけ大人な私の経験談ではね、年齢による変化って、身体の老化以外にないの。大人になったって、そんなにいいことってないのよ。悲しいことにね」
唯一向上した点といえば、メニューの値段を見ずに好きなだけ注文できるようになったことくらい。
そう付け足せば「俺からすると、そういうのも全部うらやましいですけどね」と笑われる。けれど、その反応さえ懐かしく思えるから、理央はやはり苦笑することしかできなかった。
こればかりはもう平行線だ。大人になってみないと、本当の意味では理解できないに違いない。
理央もかつては子どもだったからこそ、子どもは大人に憧れるものだということを、身をもって知っている。
だからもう、夢のない言葉をこれ以上重ねるのはやめることにした。
「でもきっとさ、嫌じゃなくっても、大変ではあったよね。そんな頃から家のこと背負うなんて」
「あはは、慣れるまではちょっと大変でしたけど……それでも、苦じゃなかったですよ、全然」
宗介はなんでもないことのように笑い、白ネギを斜め切りにし始めた。
ネギの次は春菊、にんじんと、ザルに盛られた野菜はあっという間にこんもりと積み上がっていく。
「料理も、やってみると案外向いてたっていうか。それに、うちの弟妹たちが、天然のおだて上手だったんですよね」
「おだて上手?」
「そう。テレビで見た料理なんかを『ねぇ、あれ作って!』『あれ食べたい』って言ってくるんです。俺なら何でも作れるって、疑いもせずに思い込んでたみたいで」
あんなキラキラした目を向けられると、兄ちゃんとしては応えないわけにいかないっていうか。意地でも応えたくなっちゃうっていうか。
宗介の声が、ふっと柔らかくなる。
まるで目の前に、弟妹たちの顔でも浮かんでいるみたいだ。
「もちろん世の中的には、ヤングケアラー問題だとか、賛否も色々あるんだろうけど。少なくとも俺は、嫌だとかしんどいとかを思ったことはなかったなぁ」
その懐かしむような話しぶりには、無理をしている色も、過去を美化しようとする色も、確かに見当たらない。理央はなんとなく、自分が少し恥ずかしくなる。
大変じゃなかったかと聞いたのは、同情のつもりだったかもしれない。あるいは、そういう境遇を可哀想だと、どこかで決めつけていたのか。
きっと、家庭の事情はそれぞれで。
当事者の感情を他人が決めつけるのは、お門違いというものだ。
「そっか。いいお兄ちゃんなんだね」
えらいね、と声をかけるのも違う気がして、理央は小さく呟いた。
彼の言葉尻がすべて過去形であることには、たぶん触れない方がいいのだろう。そう思いながら、理央は積み上がった野菜のざるに視線を落とした。
そうこうするうちに、どこかへ段ボールを片付けてきたらしい朔が、台所へと戻ってくる。
「……なにか手伝うこと、のこってる?」
「あ、ちょうどよかった。じゃあ、これを混ぜてもらおうかな」
宗介はそう言って、冷蔵庫から意外な調味料を取り出した。
ひとつは、赤みがかった茶色の味噌。もうひとつはマヨネーズだ。
それらを宗介は、小さな小鉢にざっくりと盛りつける。
「え、寄せ鍋になんで?」
思わず声に出てしまった理央に、宗介は悪戯っぽい笑みを向ける。
「これは鍋とは別の、後のお楽しみです。朔、ふたつをよく混ぜ合わせるだけでいいから、頼んだ」
「うん、わかった」
朔はこくりと頷くと、小鉢を受け取って、ダイニングの椅子にちょこんと座る。
中身を混ぜはじめた横顔は真剣で、任された仕事をきちんとこなそうとする様子は愛らしい。
だが、理央の頭の中では、まだ疑問符がぐるぐるとしている。
「ちなみに理央さん。お酒は飲みますか?」
「え、お酒? お酒は好きだけど……」
大学生の頃から、お酒は好きだった。
社会人になってからも、不摂生な生活の中でのささやかな楽しみだったくらいだ。
それが寿命を縮める一因になったと言われれば、否定はできないけれど。
飲まずにはいられないような日々だったのだから、仕方がない。
「ねぇ、もしかしてお酒もあったりするの? だったら飲みたい!」
正直なところ、寄せ鍋ときいては、お酒が恋しくなっていたところだ。
勢い込んで宗介を見やれば、彼は朔から混ぜ終えた小鉢を受け取りながら「じゃあこっちの箸休めの方も、気に入ってもらえるかな」と笑ってみせる。
そんな風に言われると、がぜん期待値が上がってしまう。
箸休めまであるとは、本当に至れり尽くせりだ。
「うわぁ、いよいよ楽しみ。私、ビールも焼酎も日本酒も、なんでも好きなのよね」
「あはは、俺は詳しくないですけど、ぜんぶ揃ってるんじゃないかなぁ。八尋さんがたくさん溜め込んでるんです」
土鍋に食材を敷き詰めながら、宗介が笑う。
「ぜんぶ供物なんだよ、お酒もね」
そう呟くのは、いつの間にか理央の足元にやってきた朔だった。
「亡くなった人にお供えされたものは、黄泉にも届くんだけど……口にできる人とできない人がいるからね」
「口にできない人?」
朔はスプーンをシンクにことりと置いて、理央を振り仰いだ。
「うん。酒癖の悪かった人は、叫喚地獄に落ちちゃうから」
「でも、そういう人に限って、よくお供えされそうなんだよな」
宗介が苦笑まじりにそう言うと、朔は「そうなんだよ」と至って真面目な顔で返す。
「地獄行きになっちゃった人には、飲ませられないから。お供えされても行き場のないお酒たちはね、仕方がないから僕たち鬼人に配られるんだ」
「地獄行き……そっか、そういう人は飲めないんだ」
自分はどうだろうか、と理央は己の記憶を辿ってみる。
そんなに大きな粗相をした覚えはないから、大丈夫だと思いたいところだ。
土鍋の中にぎっしりと食材が収まり、宗介が蓋をする。
それからしばらくは、台所に鍋が煮えていく音だけが満ちた。
やがて、ことこと、ことこと。蓋の空気穴や縁から白い湯気が細くにじみ出て、じわじわと広がっていく。
すると、湯気にまじって、あたりにふわりとだしの香りが漂いはじめた。
思い切り吸い込みたくなるような、なんだか懐かしくなるような匂いだ。
胃袋がきゅうと縮こまるような感覚こそないけれど、口の中にはじわりと唾液が滲んでいく。お腹が空いているかどうかはもう関係なく、理央はただ、早く食べたいとばかり願った。
戸が開く音がしたのは、そんな時だ。
玄関の方から足音が一定のリズムで近づいてきて、洋間の入口に人影が現れる。
「さぁて、支度の方はどうだい? ──とは、愚問だったか」
いい匂いがするなあ、と鼻をひくつかせながら笑うのは、噂の八尋だ。
室内をひとわたり見渡して、彼は期待に満ちた目を細める。
「おつかれさま。もう出来あがるよ」
小皿にだし汁をすくって味見をした宗介は、うん、とひとつ頷いて火を止めた。
