さよならまたね、またいつか。 ~あの世とこの世のあいだご飯~

 チチチ、という小鳥のさえずりが、遠くから聞こえてくる。
 その音に引っ張られるようにして、意識がふわりと浮上した。理央はもぞりと寝返りを打って、ゆっくりと薄目を開ける。
 目に映ったのは、アパートの自室でも、泊まり込んでいた病院でもない、見慣れない天井だった。けれど、それ以上に驚いたのは身体の軽さだ。
 休日にどれだけ眠っても取れなかった、泥のような倦怠感(けんたいかん)がない。凝(こ)り固まった肩や背中の痺(しび)れも、目の奥に居座り続けていた疼痛(とうつう)も、嘘みたいにきれいさっぱり消えている。

「こんなにスッキリ起きられたの、いつぶりだろ……」

 けたたましいアラームに叩き起こされることもなければ、休日出勤を求める着信に耳を塞(ふさ)ぎたくなることもない、自然で爽やかな目覚め。
 皮肉にも、それが現実ではあり得なかったからこそ──、
(……そうか、私は)
 理央はゆっくりとベッドから身を起こすと、カーテンを開けた。
 とたんに朝日が差し込んで、思わず目を細める。遠くからかすかに聞こえるのは、川の水音だろうか。窓の外には、高く澄みきった冬空が、どこまでも広がっている。

 もう踏ん張らなくていい。
 もう誰かのために、自分を削らなくていい。
 それがこんなにも清々しいだなんて。まるで背中に羽でも生えたみたいだ。
 理央は深く息を吸い込んでから、ゆっくりと吐き出した。

 寝はだけた白装束を軽く整えて階段を降りていくと、ふわりと出汁の香りが鼻先をくすぐる。それに混じって、トントンと、まな板を叩く小気味よい包丁の音も聞こえてくる。
 リビングを覗けば、台所にはエプロン姿の宗介がいた。その足元では、朔がくるくるとよく動き回っている。墨染色の着流しの袖をたすきで括(くく)り、せっせと器を運ぶ姿は少し危なっかしいけれど、可愛らしくもある。
 宗介は理央に気づくと、野菜を切る手を止めて顔を上げた。

「あ、おはようございます。よく眠れました?」
「うん、びっくりするくらいね」

 そう答えると、宗介は安堵したように「よかったです」と微笑んだ。
 そこへ、とたた、と軽い足音がして、朔が足元に駆け寄ってくる。

「……朝ごはん、あなたも食べる?」

 上目遣いに問われて、理央は返答を迷う。
 すると背後から「ちなみに俺は、朝は食わない派だぜ」と、あくび混じりの声が聞こえた。振り向けば、八尋が寝癖だらけの頭をわしゃわしゃと掻きながら、のそのそとやってくる。

「んん、どうしようかなぁ……」

 生きていた頃は、朝食を抜くのがすっかり習慣になっていた。
 大学生の頃からだから、かれこれ十年以上になる。

「……ぜんぶ食べきれなかったら申し訳ないし、遠慮しとこうかな」
「それじゃあきみは、俺と同じであったかい茶でも飲むとするか」

 促(うなが)されるままに食卓につくと、八尋が急須から湯呑みへ、とぽとぽと緑茶を注いでくれた。
 理央と八尋の前には、湯呑みがひとつずつ。対する宗介と朔の前には、ほかほかと湯気をたてる白飯にお味噌汁、焼き鮭に卵焼きが並ぶ。
 向かいから漂ってくる焼き鮭の香ばしい香りに、やっぱり食べると言えば良かったと後悔したのは秘密だ。
 二人の食事風景をそれとなく眺めていると、隣で八尋が「そういや」と口を開く。

「三途の川の由来ってやつを、きみは知っているかい」

 八尋は緑茶を啜りながら、ちらりと横目に理央を見やる。
 理央は少し考えて、首を横に振った。向かいの宗介も目を瞬かせて「それ、俺も知らないかも」と呟く。

「川は分かるにしても、三途ってどういう意味なんだろ……?」
「ね、気になる」

 理央が頷くと、朔がお箸を置いて「むかしはね、川には三つの渡りかたがあったんだよ」と教えてくれた。
 三途の川には、流れの速さや深さの違う瀬が三つあって、生前の罪の重さによって、渡る場所が決まっていたらしい。善人は橋の上を、軽い罪の者は浅瀬を、重い罪の者は流れの速い深瀬を。朔はたどたどしくも、一生懸命に説明してくれる。

「ほら、河原には桟橋があったでしょ。いまは途切れてるけどね、むかしは対岸までつづくながーい橋だったんだよ」
「えっ、あの桟橋が?」
「あぁ、そうだぜ。昔は奪衣婆(だつえば)と懸衣翁(けんえおう)ってのが、川の対岸にいてなぁ。奪衣婆が亡者から剥ぎ取った衣類を、懸衣翁が衣領樹(えりょうじゅ)という木の枝にかけるのさ」
「へぇ、俺も初めて聞いた……だけど八尋さん、着物を木にかけるとどうなるの?」

 宗介の問いに、八尋は「あぁ」と頷く。

「濡れた衣ってのは、相応に重くなるだろう? その枝の垂れ具合で、亡者がちゃんと罪に応じた渡り方をしたかを確かめるんだよな」
「あぁ、なるほど……」

 橋を渡る方法と、浅瀬と深瀬を渡る方法。
 確かに、三途の『途』という文字は『みち』とも読める。
 三途の川というのは、確かに言い得て妙だ。
 でも、だからこそ疑問が湧いてくる。

「だけど私がこれから乗るのって、舟なんでしょ? 橋でも、浅瀬でも、深瀬でもないよね」
「まっ、今となっては奪衣婆も懸衣翁もいないしな。渡り方は舟一択さ。何しろ現代の人の子ってのは、衣を剥ぎ取られるなんざ良しとしないだろう?」

 八尋がそう言って、湯呑みを傾けながら苦笑いする。

「うーん、確かに……?」
「昔はみんな『死後はそういう流れを辿るものだ』と知っていたからこそ、拒否する人間もあまりいなかったんだがなぁ……。現代じゃあ、誰も彼もが急(せ)く腹(はら)だとか、金毘羅(こんぴら)だか天麩羅(てんぷら)に餡子(あんこ)に金子(きんす)だと言って、拒否するようになっちまったんだよなぁ」
「急く腹に──」
「金毘羅だか天麩羅……?」

 一瞬何のことだか分からず、理央は宗介と顔を見合わせる。

「それってもしかして、セクハラのことだったり……?」
「じゃあ金毘羅だか天麩羅に、餡子に金子は、コンプライアンスのこと……?」

 二人で交互に言葉を重ねると、八尋が「あぁ、それだそれ」と膝を打つ。

「要するに、いちいちそこで仕事が滞(とどこお)るから、制度自体が変わっちまったってわけだ」
「えー、そんな理由で変わっちゃったの?」
「あぁ。だが伝統の末路なんて、いつの世もそんなもんだぜ。新しい考え方が多数派を占めた時、古いものはあっという間に追いやられちまう。世知辛(せちがら)いよなあ」

 しみじみと語る八尋の隣で、朔もこくりと頷く。

「だからね、ほんとうはもうずっと、一途(いちず)の川なんだ」
「そうそう。名前だけが残っているというわけさ」
「名前だけ、かぁ……」

 理央は湯呑みを両手で包みながら呟くも、ふと思い至る。

「だけどそういうの、現代でも結構あるよね。筆なんて滅多に使わないのに、いまだに筆箱って呼んでたり」
「あぁ、確かに言いますよね。下駄なんて誰も履いてないのに、下駄箱っていうみたいな」
「そうそう! パソコンの保存マークだってそうだよ。今時フロッピーディスクなんて、誰も使ってないのにね」
「あー、言われてみれば!」
「宗介くんなんて、フロッピーの現物も見たことないんじゃない?」
「確かに、実物は見たことないかも。情報の教科書に写真が載ってたくらいです」
「やっぱり! 私はギリギリ見たことあるよ。うわぁ、ジェネレーションギャップだなぁ」

 理央と宗介は顔を見合わせて、くすくすと笑い合う。
 盛り上がる理央たちに、今度は八尋と朔がきょとんとする番だ。
 その様子がまたおかしくて、ひとしきり笑ってから、理央はお茶をひと口啜る。
 あたたかい緑茶が、ほうっと喉を通っていった。

「だけど、うん。一途の川っていうのも、いい響きよね」

 誰しもが、ただひとつの道を渡っていく。
 そう思えば、怖いという感情が湧くこともない。
 朔と宗介が朝食を食べ終わったのを見計らって、理央は静かに立ち上がった。

「そろそろ行こうかな」


       ◇◆◇

 河原に降りれば、朔が玉砂利の上を駆けていく。どうやら舟をつけてくれるらしい。
 それを待っている間、宗介が後ろ手に持っていたものを差し出してくる。

「これ、よかったらどうぞ」

 見れば、それは透明なタンブラーボトルだった。
 中身は淡い黄緑色をした、優しい色合いの液体で満たされている。

「これ、スムージー?」
「はい。もしかしたら、朝食はいらないって言われるかもな、って思ったので」
 作るの簡単なんですよ、これ。そう言って宗介は柔らかく笑う。
「果物と野菜をざっくり適当に切って、ブレンダーに放り込むだけなんです。身体にもいいし、朝食にもちょうどいいんですよね」
「なぁに? エナジードリンクとゼリー飲料ばっかりだった私への、嫌味のつもり?」

 わざと腰に手を当てて凄んで見せれば「いえ、まさか」と返される。
 それから二人して、ぷっと小さく吹き出した。

「なーんてね。分かってるわよ、次はもう少し、自分の身体に優しくしてあげるつもり」
「えぇ、ぜひそうしてあげてください」

 受け取ったタンブラーボトルは、ひんやりと手のひらに馴染む。
 宗介の気遣いに、理央は「ありがとね」と目を細めた。

「……舟のじゅんび、できたよ」

 朔の声に振り向くと、桟橋の先にはもう小舟が寄せられている。
 理央の足は、自然とそちらへ向いた。河原に座り込んだまま、一歩も動けなかった昨日からすれば、信じられないほどの変化だ。
 朔と八尋、宗介に見守られながら、理央は小舟へと乗り込んだ。
 ぎしりと音がして、舟底が少しだけ深く沈み込む。
 その揺れが落ち着く頃、舟は漕ぎ手もいないのに、するりと岸を離れてひとりでに進み始めた。
 人智を超えた出来事だからこそ、直感で分かってしまう。
 きっともう、後戻りはできないのだろう。
 理央はそっと目を閉じた。

 理央の人生は、ただがむしゃらに働き続けて、気づけば呆気なく終わってしまっていた。
 未練がないと言えば、嘘になるだろう。
 それでも理央は、自分の人生を精一杯に生き抜いた。

 お父さん、お母さん。
 先に行くね。ごめんね。
 だけど、後悔はしてないんだ。
 不器用で、最後まで上手に手を抜けなかったけど。
 それでも私は、私の生き方が好きだったよ。

「……さよなら、またね。またいつか」

 朝霧をかき分けるように、舟はゆっくりと進んでいく。
 向こう岸の輪郭が、少しずつ白い霧の中に浮かび上がってくる。
 理央はそれを眺めながら、胸いっぱいに、川の冷たい空気を吸い込んだ。
 きっともう大丈夫だ。自分の生き様に、ちゃんと胸を張れるのだから。
 
 最後に一度だけ、理央は後ろを振り返った。三人は並んで立ち、手を振ってくれている。
 その光景を、理央はしっかりと目に焼き付けた。

 宗介は今日も、誰かのために料理を作るのだろう。
 それとも、明日にでもこの川を渡ることになるのかもしれない。
 あるいは運よく回復して、現世に戻ることだって。
 その答えは、きっと誰にもわからない。本人でさえも。
 それでもあの場所の温もりは、確かに理央の背中を押してくれた。

「……ありがとう。きっと、忘れない」

 空に翳(かざ)したタンブラーボトルが、朝日を受けてきらりと光った。


 了

【あとがき】
 なんとか間に合ったぁぁああ……!
 この作品は「17歳の“正解”」小説大賞に応募しております。
 ずっとプロットのまま手元で眠っていた本作ですが、この賞の募集を見かけてちゃんと書こうと思い立ちました。
 改行とルビを除けば10万文字と少し。この賞を見つけていなかったら、きっと書き上げられてはいなかった。
 どんな結果になろうとも、書き上げる原動力をくれたこの小説賞のテーマに感謝です。

 感想やレビューをいただけると、飛び上がって喜びます。
 それではまたいつか、別の作品でお会いできますように。

 伊井野いと