「……昨日はいい歳した大人が、情けないとこ見せちゃってごめんね」
翌朝、リビングに姿を現した遼一は、ばつが悪そうに頭を掻いた。
その目元はまだ、かすかに赤い。
けれど、表情は昨晩よりも少しだけ晴れやかで、すっきりとした様子だった。
そのことにほっとしつつ、宗介はいえいえと首を横に振る。
「あのあとは、ちゃんと眠れました?」
「うん、大丈夫。たぶん、ちゃんと本音を吐き出せたおかげだわ」
お夜食もさ、旨かったよ。ありがとね。
そう言って、遼一はどこか吹っ切れたように笑ってみせる。
だがあいにくと、そのお礼の言葉は少しばかり間が悪かった。
ちょうど朔が、リビングにひょっこりと顔を覗かせたところだったからだ。
「あのね、舟のじゅんびがね──」
そう言いかけた朔の表情が、キュピーンと変わる。
「……ねぇ、お夜食って?」
その顔にはありありと『まだ知らないごはんの気配……』と書いてあって、宗介は思わず吹き出した。いつの間にか、朔もすっかり食いしん坊だ。
「はいはい、分かってるよ。朔にも今度、作ってやるから」
宗介が笑いながらそう言えば、朔は「やくそくだからね」と念を押してくる。
あぁでも、せっかくインスタント麺のストックがなくなったのに、もう一度あれを作るとなると、また調達をお願いしなくてはならない。
でもまぁ、それも仕方がないか。
だって朔にあんな顔をされては、そうせざるを得ない。
それに今度は、かつてのように後ろ向きな理由で求めるわけではないのだから、良しとしよう。宗介が朔にそうしてあげたいと思うのだから、それでいい。
そんなやりとりを微笑ましげに眺めていた遼一が、そっと椅子から立ち上がる。
「じゃあ俺、そろそろ行くよ。本当にありがとね」
そう言って玄関へと向かう遼一の背中を、宗介は朔と連れ立って追いかけた。
心なしか、その背中は昨日よりもしゃんとして見えて、宗介は小さく目を瞬く。
河原に降り立てば、川面のさざ波が朝日を弾いて目に眩しい。
気温の上昇を予感させる朝風が河原を吹き抜けて、灰色の玉砂利の上を撫でていく。
桟橋の先にはすでに、小舟が一艘つけられていた。
桟橋に向かって歩く遼一の足取りに、もう迷いはない。
「じゃあね。二人とも、元気でね」
遼一は振り返り、ひらりと軽く手を振ってから舟に乗り込んでいく。
やがて小舟は、スッと音もなく此岸を離れ始めた。漕ぎ手も、オールも棹もないというのに、舟は不思議と、ひとりでに対岸へ吸い寄せられていく。
遠ざかっていく舟の上で、遼一は最後にもう一度、大きく手を振った。
だから宗介と朔も、それに応えるように手を振り返す。
どんどん小さくなっていくその影を、宗介と朔はただ静かに見守っていた。
舟の姿がすっかり見えなくなったところで、朔がそっと、宗介の手を握ってくる。
「……なにか変わった?」
真っ直ぐにこちらを見上げ、朔はこてんと首を傾げる。
「まぁ、うん。ちょっとね」
宗介は頷いて、その小さな手を握り返した。
「考えても仕方がないこともあるって、気づいたんだ」
宗介の言葉に、朔はきょとんと目を瞬かせる。
明日が必ず来るとは限らない。だけどそれは、きっと誰にとっても同じことだ。
みんなそうやって生きている。生きるというのは、そういう不確かさを抱えたまま、それでも今日を積み重ねていくことなのだろう。
だからもう、くよくよと思い悩むのは止めることにした。それだけだ。
「そっか」
朔はそれ以上、何も訊かなかった。
ただ小さく頷いて、宗介の隣にぴたりと寄り添う。
その頭を、宗介はくしゃりと撫でてやった。
おーいと声が聞こえたのは、そんな時だ。
顔を上げれば、桟橋に近づいてくる舟影がある。八尋だ。
「よぉ、帰ったぜ」
墨染色の着流しを翻し、八尋はひょいと舟から桟橋に飛び移る。
朔は「おそいよ」と頬を膨らませ、風に流れる舟を捕まえに駆けていった。
だが、当の八尋はといえば。彼は宗介に視線を向けるなり小さく目を瞠り、それからゆるりと唇の両端を吊り上げる。
「へぇ、たった一晩で、何やら心境に変化があったみたいだなあ?」
「……俺って、そんなに分かりやすい?」
「さぁて、どうだろうなあ」
八尋はそうはぐらかして、くつくつと喉を鳴らすばかりだ。
けれど、八尋を相手に誤魔化しても、きっとすぐに見抜かれてしまうのだろう。
だから宗介は、素直に昨日の経緯を打ち明けることにした。
ちょっとした気づきがあったんだ、と宗介は小さく呟く。
いずれは自分も死んでいく。
死に時はきっと、選べない。
「だけどまだ、生き方は選べるなって。そう思ったただけ」
なんて、自分がようやく辿り着いたその答えも、八尋からすれば既知のことなのだろうけれど。だって多分、うじうじ悩んでいたこともぜんぶ見透かした上で、あえて泳がされていたように思うのだ。
すると八尋は、案の定からからと笑った。
「つくづく人の子ってのは、目まぐるしく変わる生き物だねぇ。悠久を過ごす身からすると、その移り変わりはいっそ面白くさえある」
「……八尋さんって、実はけっこう意地悪なとこあるよね」
「そうかい? 俺はいつでも親切なつもりだがなぁ」
八尋は心外だとばかりに、大仰に肩をすくめてみせる。
「年嵩の者が、助言すべきことと、すべきでないこと。そいつを弁えているってだけの話さ。まっ、愉しみ半分であることは否定しないが」
「……ほら、そういうとこだよ」
思わず渋い顔になる宗介に、八尋はくつくつと笑うばかりだ。
彼はひとしきり笑うと「さぁて、始業とするかね」と立ち上がった。
「始業ならもうしてるよ。八尋はあっちに行くと、帰ってくるのがおそいんだ」
舟を桟橋に繋いだ朔が、ぷくりと頬を膨らませて戻ってくる。
腰に手を当てたその仕草は、精一杯の抗議のつもりらしい。
「もう、一人ぼくが渡しちゃったんだからね」
「おぉ、そいつ悪かったなぁ」
八尋は悪びれもせずに笑いながら、朔の頭をぐりぐりわしゃわしゃと撫で回した。
だがその力加減は、どうやらお気に召さなかったらしい。「もう、雑になでるの、やめてってば」と、朔はぴゃっと宗介の後ろに隠れてしまう。
宗介は苦笑しながら膝をつき、乱れた髪を手櫛で整えてやった。
しばらくされるがままだった朔は、やがてこちらを見上げ、こてんと小首を傾げる。
「あのね、今日は、どんな亡者がくるかな」
宗介は少し考えて、それから小さく笑う。
「さぁ、どうだろうな」
最近は、小さな別れを積み重ねるたびに、少し寂しいと思うようになった。
時には痛みを伴う交流もある。得がたい気付きを得ることもある。
けれど、ほんの束の間の出会いも、別れも。
その一瞬一瞬を、大切に抱えていたい。
そんな刹那の連なりを、ひとつひとつ心に留めておきたいと思うのだ。
翌朝、リビングに姿を現した遼一は、ばつが悪そうに頭を掻いた。
その目元はまだ、かすかに赤い。
けれど、表情は昨晩よりも少しだけ晴れやかで、すっきりとした様子だった。
そのことにほっとしつつ、宗介はいえいえと首を横に振る。
「あのあとは、ちゃんと眠れました?」
「うん、大丈夫。たぶん、ちゃんと本音を吐き出せたおかげだわ」
お夜食もさ、旨かったよ。ありがとね。
そう言って、遼一はどこか吹っ切れたように笑ってみせる。
だがあいにくと、そのお礼の言葉は少しばかり間が悪かった。
ちょうど朔が、リビングにひょっこりと顔を覗かせたところだったからだ。
「あのね、舟のじゅんびがね──」
そう言いかけた朔の表情が、キュピーンと変わる。
「……ねぇ、お夜食って?」
その顔にはありありと『まだ知らないごはんの気配……』と書いてあって、宗介は思わず吹き出した。いつの間にか、朔もすっかり食いしん坊だ。
「はいはい、分かってるよ。朔にも今度、作ってやるから」
宗介が笑いながらそう言えば、朔は「やくそくだからね」と念を押してくる。
あぁでも、せっかくインスタント麺のストックがなくなったのに、もう一度あれを作るとなると、また調達をお願いしなくてはならない。
でもまぁ、それも仕方がないか。
だって朔にあんな顔をされては、そうせざるを得ない。
それに今度は、かつてのように後ろ向きな理由で求めるわけではないのだから、良しとしよう。宗介が朔にそうしてあげたいと思うのだから、それでいい。
そんなやりとりを微笑ましげに眺めていた遼一が、そっと椅子から立ち上がる。
「じゃあ俺、そろそろ行くよ。本当にありがとね」
そう言って玄関へと向かう遼一の背中を、宗介は朔と連れ立って追いかけた。
心なしか、その背中は昨日よりもしゃんとして見えて、宗介は小さく目を瞬く。
河原に降り立てば、川面のさざ波が朝日を弾いて目に眩しい。
気温の上昇を予感させる朝風が河原を吹き抜けて、灰色の玉砂利の上を撫でていく。
桟橋の先にはすでに、小舟が一艘つけられていた。
桟橋に向かって歩く遼一の足取りに、もう迷いはない。
「じゃあね。二人とも、元気でね」
遼一は振り返り、ひらりと軽く手を振ってから舟に乗り込んでいく。
やがて小舟は、スッと音もなく此岸を離れ始めた。漕ぎ手も、オールも棹もないというのに、舟は不思議と、ひとりでに対岸へ吸い寄せられていく。
遠ざかっていく舟の上で、遼一は最後にもう一度、大きく手を振った。
だから宗介と朔も、それに応えるように手を振り返す。
どんどん小さくなっていくその影を、宗介と朔はただ静かに見守っていた。
舟の姿がすっかり見えなくなったところで、朔がそっと、宗介の手を握ってくる。
「……なにか変わった?」
真っ直ぐにこちらを見上げ、朔はこてんと首を傾げる。
「まぁ、うん。ちょっとね」
宗介は頷いて、その小さな手を握り返した。
「考えても仕方がないこともあるって、気づいたんだ」
宗介の言葉に、朔はきょとんと目を瞬かせる。
明日が必ず来るとは限らない。だけどそれは、きっと誰にとっても同じことだ。
みんなそうやって生きている。生きるというのは、そういう不確かさを抱えたまま、それでも今日を積み重ねていくことなのだろう。
だからもう、くよくよと思い悩むのは止めることにした。それだけだ。
「そっか」
朔はそれ以上、何も訊かなかった。
ただ小さく頷いて、宗介の隣にぴたりと寄り添う。
その頭を、宗介はくしゃりと撫でてやった。
おーいと声が聞こえたのは、そんな時だ。
顔を上げれば、桟橋に近づいてくる舟影がある。八尋だ。
「よぉ、帰ったぜ」
墨染色の着流しを翻し、八尋はひょいと舟から桟橋に飛び移る。
朔は「おそいよ」と頬を膨らませ、風に流れる舟を捕まえに駆けていった。
だが、当の八尋はといえば。彼は宗介に視線を向けるなり小さく目を瞠り、それからゆるりと唇の両端を吊り上げる。
「へぇ、たった一晩で、何やら心境に変化があったみたいだなあ?」
「……俺って、そんなに分かりやすい?」
「さぁて、どうだろうなあ」
八尋はそうはぐらかして、くつくつと喉を鳴らすばかりだ。
けれど、八尋を相手に誤魔化しても、きっとすぐに見抜かれてしまうのだろう。
だから宗介は、素直に昨日の経緯を打ち明けることにした。
ちょっとした気づきがあったんだ、と宗介は小さく呟く。
いずれは自分も死んでいく。
死に時はきっと、選べない。
「だけどまだ、生き方は選べるなって。そう思ったただけ」
なんて、自分がようやく辿り着いたその答えも、八尋からすれば既知のことなのだろうけれど。だって多分、うじうじ悩んでいたこともぜんぶ見透かした上で、あえて泳がされていたように思うのだ。
すると八尋は、案の定からからと笑った。
「つくづく人の子ってのは、目まぐるしく変わる生き物だねぇ。悠久を過ごす身からすると、その移り変わりはいっそ面白くさえある」
「……八尋さんって、実はけっこう意地悪なとこあるよね」
「そうかい? 俺はいつでも親切なつもりだがなぁ」
八尋は心外だとばかりに、大仰に肩をすくめてみせる。
「年嵩の者が、助言すべきことと、すべきでないこと。そいつを弁えているってだけの話さ。まっ、愉しみ半分であることは否定しないが」
「……ほら、そういうとこだよ」
思わず渋い顔になる宗介に、八尋はくつくつと笑うばかりだ。
彼はひとしきり笑うと「さぁて、始業とするかね」と立ち上がった。
「始業ならもうしてるよ。八尋はあっちに行くと、帰ってくるのがおそいんだ」
舟を桟橋に繋いだ朔が、ぷくりと頬を膨らませて戻ってくる。
腰に手を当てたその仕草は、精一杯の抗議のつもりらしい。
「もう、一人ぼくが渡しちゃったんだからね」
「おぉ、そいつ悪かったなぁ」
八尋は悪びれもせずに笑いながら、朔の頭をぐりぐりわしゃわしゃと撫で回した。
だがその力加減は、どうやらお気に召さなかったらしい。「もう、雑になでるの、やめてってば」と、朔はぴゃっと宗介の後ろに隠れてしまう。
宗介は苦笑しながら膝をつき、乱れた髪を手櫛で整えてやった。
しばらくされるがままだった朔は、やがてこちらを見上げ、こてんと小首を傾げる。
「あのね、今日は、どんな亡者がくるかな」
宗介は少し考えて、それから小さく笑う。
「さぁ、どうだろうな」
最近は、小さな別れを積み重ねるたびに、少し寂しいと思うようになった。
時には痛みを伴う交流もある。得がたい気付きを得ることもある。
けれど、ほんの束の間の出会いも、別れも。
その一瞬一瞬を、大切に抱えていたい。
そんな刹那の連なりを、ひとつひとつ心に留めておきたいと思うのだ。
