さよならまたね、またいつか。 ~あの世とこの世のあいだご飯~

 陽が傾くのが、少しだけ早くなった。
 盛夏の頃は、夕方になっても空は白く明るくて、なかなか夜が来ないような気がしていたけれど。八月の終わりともなれば、夜を連れてくるのも早くなる。
 薄く透き通る群青色のふちに、淡い黄色が(にじ)む夕空。それを映して、川面がきらきらと絶え間なく揺らめいている。
 宗介は河原の岩に腰を下ろし、ぼんやりと川の流れを見つめていた。
 梅雨が明けてから、ひと月と少し。
 誠二を見送ってから、四十九日が経とうとしていた。

「植物状態、かぁ……」

 ぽつりと落ちた呟きは、さざ波の音にさらわれて消えていく。
 今まではただ漠然と『臨死体験が長引いている』という認識でいただけだった。
 だが、改めて誠二の口から、自分が植物状態であるということを聞かされてしまうと、思うところがないわけではない。
 もちろん、薄々察してはいたことではある。それでも、いざ具体的に告げられると、気の持ちようも変わってくるというもので。宗介は小さくため息をつく。

 もしも、延命治療を打ち切られてしまったら──。

 誠二によれば、宗介の身の回りのことを管理しているのは、母方の祖父母であるらしい。
 あの日に会いに行くはずだった、まだ一度も会ったことのない方の祖父母だ。
 もともと交流があった父方の祖父母とは、両親が離婚してからは疎遠となっているから、他にあてがないのはわかる。だが──。
 顔も知らない、声も知らない、どんな人柄かも分からない。
 そんな人たちの一存で、自分の死を選択されてしまうかもしれない。
 そう考えると、少し怖い。
 宗介は膝を抱えて、そこに顔を埋める。
 自分の意思や感情で、家族のもとに行きたいと願うのとはわけが違う。
 自分の生死が、自分ではない誰かの手に(ゆだ)ねられているというのは、どうにも落ち着かないことだった。

「まぁた物思いに(ふけ)っているなぁ、きみ」

 不意に声をかけられて、宗介ははっと顔を上げる。
 顔を上げれば、目の前には八尋がいた。腰に手を当てた仁王立ちで、こちらを見下ろしている。

「朔坊が毎日ソワついてるぜ。なんて言葉を掛けたものか分からん、ってな」
「……知ってる。また気を遣わせちゃってるよね」

 宗介は苦く笑って、小さく肩をすくめた。
 誠二を見送って以来、ふとした瞬間に考え込むことが増えた自覚はある。
 朔はそれを敏感に感じ取って、宗介が思い悩んでいる時には側にいようとしてくれる。
 それがかえって申し訳なくて、最近はあまり考え事に没頭しすぎないようにしているのだけれど、油断をするとすぐにこれだ。

「何でもないよ──なんて言っても、説得力ないよな、これじゃ」

 だが、さすがにこの悩みばかりは、朔に打ち明けるわけにはいかなかった。
 誰かの一存で、死を選択されるかもしれないことが怖い、なんて。
 村人たちに生贄とされてしまった朔を相手に、馬鹿正直に言えるわけがなかった。

「まっ、悩むのも若人(わこうど)の証だよなあ」

 八尋がからりと笑って、宗介の背中をバシバシと叩く。
 その気安い態度が、今の宗介には思いのほか有り難かった。
 朔が心配してくれるのは嬉しい。けれど、こうして放任の構えで接してくれる方が、ちょっとだけ楽だったりもする。少なくとも、最近のところは。

「んで? 俺はこいつを(やっこ)さんに届けてくればいいのかい」

 八尋がそう言って拾い上げたのは、傍に置いていた瓶包みだ。
 中にはうぐいす色の青梅が詰まっている。梅の甘露煮だった。

「あ、うん、そう。また余計な手間をかけさせちゃうんだけど……」

 宗介は岩の上で姿勢を正し、八尋の手元を見上げる。
 遺族による、故人に宛てたお供え物。誠二の減刑を嘆願するための供物だった。
 念じれば相手の元に届くというのは、あくまでも現世からあの世への話らしい。
 すでにあの世の入り口であるこの場所から、誠二のもとへ届けるには、直接持っていく必要があるのだという。
 そして、まだ完全には死んでいない宗介は、川を渡ることができない。だから、朔や八尋にお使いを頼む以外に方法はなかった。

「俺なんかのお供え物で、裁判の結果が変わるかは分かんないけど……」
「変わるさ、こんなに手の込んだ供物ならなぁ」

 まだ明るい夕空に瓶をかざして、八尋はそれを眩しそうに見つめる。

「供物の数が多い、あるいは手間のかかったものを供えてもらえるというのは、人との関わりを(おろそ)かにしなかったということの証なのさ」
「人との関わり、かぁ……」
「奴さんの場合もそうだぜ。逃げずにきみと向き合った。だからこそ結ばれた縁があって、きみが心を込めた供養をする。それを無碍(むげ)にする十王ではないさ」
「だったらいいんだけど……」

 それでも、八尋たちに余計な手間を増やしてしまったことには変わりない。
 少し心苦しくて肩を落とせば、八尋はそんな宗介の心情を見透かしたのだろう。
 にっと歯を見せて笑ったかと思うと、宗介の頭をわしゃわしゃと乱暴に撫でた。

「ま、そう気にしなさんな。ついでに川向こうの連中と、酒でも飲んでくるさ」
 亡者の呵責(かしゃく)生業(なりわい)の連中の話は、これまた刺激的で酒が進むのだと、八尋は愉快そうに笑っていう。
「きみの飯が旨いせいで、近頃はとんとご無沙汰だったからなぁ。渡りに舟だぜ」
「ならいいんだけど」
「あぁ。だからきみは、朔坊とのんびりしてな」
「ん、わかった。それじゃあ、よろしくお願いします」
「おう、任された。さて、俺はひと足先にあちらへ渡るとするかね。じきに日も暮れるし、もう亡者も来んだろうが……もし滑り込みでやって来たら、朔坊を手伝ってやってくれ」

 八尋はそう言って、ひらひらと手を振り歩き出す。
 鼻歌まじりの背中を見送ってから、宗介はぼんやりと空を見上げた。
 薄藍色に移り変わりゆく中空には、淡く白い月が浮かんでいる。少しずつひぐらしの声も遠くなって、吹く風には涼しさが混じり始めていた。


      ◇◆◇

 そろそろ舟を片付けるという朔を手伝って「せーの」と小舟を持ち上げる。
 朔は鬼人というだけあって、力は強いけれど、一人で運ぶにはいささか背丈が足りない。
 二人がかりで舟を持ち上げ、ひっくり返して河原に並べる作業を繰り返していると、朔が「あっ」と短く声を上げ、足を止める。
 宗介もつられて振り返ると、ちょうど河原に人影が滲むところだった。
 どこからか地続きで歩いて来たわけではなく、ふわりと空間から湧き出るように姿が現れるさまは、何度見ても慣れることはない。
 肉体との繋がりが途切れてしまった魂は、いつもこんな風に河原へと出現するのだ。
 その不可思議な光景を目にするたび、やっぱり現世への戻り方は分からないなと苦笑するしかない。

「亡者、きちゃったね」
「だな」

 顔を見合わせて、舟をその場にそっと置く。
 朔が亡者の方へ駆けて行くので、宗介はゆっくりとそれを追いかけた。
 亡者のもとへ辿りついた朔は、言葉を選びながら、いつもの口上を述べようとする。

「あのね、とても残念なことだけど、あなたは──」
「アー、もしかしなくても、俺、死んじゃった感じ……?」
 けれど、朔の言葉を遮るように、亡者はそんなことを口走る。
「え、あ……うん、そうだよ。あなたはもう亡くなちゃんたんだ」

 朔は目をぱちくりと瞬かせ、戸惑いがちにそう答える。
 すると亡者は「だよなぁ」と肩を落としてしゃがみ込んだ。
 ガシガシと頭を掻き回して、深いため息をつく。

「あー……やっぱそうかぁ。俺、死んじゃったのか……いやいや嘘だろマジか、信じらんねぇ、そんなことってある……?」

 そのまま頭を抱えて項垂(うなだ)れてしまった亡者は、すっかり茫然自失といった様子だった。
 宗介と朔はそろって星の瞬き始めた空を見上げ、それから顔を見合わせ頷きあう。

「えっとね、ここは三途の川なんだ。亡くなってしまったひとはね、あの川を渡らなくちゃいけないんだけど……日が暮れるとね、舟をだせなくなっちゃうんだ」
「だから、もし良かったらなんですけど。川を渡るのは明日にして、今晩は一緒にご飯でも食べませんか?」
 そう声を掛けると、亡者はのろのろと顔を上げ「めし……?」と呟く。
「……いいの? 俺、かなりの大食らいなんだけど、大丈夫……?」

 亡者は遠慮がちに、朔と宗介の顔を交互に見上げる。
 だが、その表情は現金なもので、すでに期待が見え隠れしていた。

「マジでいいの? 俺ホントに大食らいよ?」
「あはは、むしろ、食べっぷりがいい人は大歓迎です」
「宗介のごはん、なんでもおいしいんだよ」
 すると亡者は「へぇ、そいつは楽しみ」と膝を叩いて立ち上がる。

「どんな娯楽より、食うことが好きなのよ。死んでからも飯にありつけるなんて、ありがたいなぁ。俺は遼一っていうんだけど、あんたらは?」
「ぼくは朔だよ。よろしくね」
「俺は宗介です。よろしく、遼一さん」

 互いに名乗り合うと、遼一は人懐っこい笑みを浮かべて「じゃあ遠慮なく。今夜一晩、ごちになりまーす」と頭を下げる。
 その屈託のない笑顔につられて、宗介たちの口元も自然と綻んだ。