冬の日の入りは早い。
気づけば空の色が変わり始める頃合いになっていた。
どこまでも鉛色だった雲の端や隙間が、わずかに橙を滲ませている。
太陽がどこにあるのかもとんと分からないが、どうやら日が暮れかけているらしい。
日がな一日、冷たい岩に腰掛けていたというのに、身体はまるで痛くない。
こんな身体なら、無限に徹夜できてしまいそうだ──そんなことを考えてしまうあたり、つくづく社畜に染まりきっている。理央はぼんやりと、河原の石を無意味に蹴っては転がし続けていた。
角の削れた丸い石は、同じような丸い石たちの上を無理やり歪に転がっては、すぐに動きを止める。まるで、会社にいいように転がされて使い潰された、今の自分みたいだ。
理央は自虐めいた思考に、口元を歪ませる。
舟に乗るのは、きっと大したことではないのだろう。
遠くの白い亡者たちを眺めるに、誰もが当たり前にやっていることだ。
それが分かっていても、やはり立ち上がることさえ億劫だった。
「ねぇ……日が暮れると、舟を出せなくなるんだけど」
背後から、抑揚の少ない声が耳に届く。
振り向くと、昼間と同じように、渡し守だという子どもが立っていた。
「……へぇ、そうなんだ」
理央は、どこか他人事のようにそう答える。
少年はじっと理央を見上げたまま、黙り込んだ。
それでも理央が立ち上がる素振りを見せないと、やがて微かに小首を傾げ口を開く。
「じゃあ……おいしいごはんを食べたら、あしたは川を渡ってくれる?」
いったい何を言い出すのかと、理央は少年を無感動に見つめ返した。
「……随分と変なこと言うのね、皮肉?」
死んでいるのであれば、もはや栄養の摂取だって必要ないだろうに。
実際、理央はここに来てから、一度も空腹を感じた記憶がない。喉の渇きも同様だった。
日がな一日河原にいたのにもかかわらず、だ。
「別にわたし、お腹も空いてないんだけど」
「そりゃあ、亡者だからね。もう飢えることもないし、凍えることだってないよ」
少年は、さして意外そうでもなく、ただ理央を見上げる。
「ただ、おいしいごはんを食べて、それであしたは川を渡ろうって思ってくれたら、それでいいんだけど……」
「なんで?」
「ん……あったかいごはんを食べると、すこしだけ気がまぎれるから」
小さな子どもはそう言って、無表情のままふわりと瞬きをした。
その声音は相変わらず淡々としていて、平坦で。
けれど、ほんのわずかに口端が上がったようにも見えて、理央は小さく目を瞬く。
笑った、のだろうか──?
本当に微かな変化だ。目元や口元の動きはほとんどないのに、確かに今、一瞬だけ雰囲気が和らいだように見えた。
「……ついてきて」
少年は理央の反応を待たず、くるりと背を向けた。
高下駄の音が、からころと鳴る。彼は何とも軽い足取りで河原を進んでいく。
理央は立ち上がるべきかどうか、ほんの数秒だけ迷った。
空腹を感じないのに、何かを食べる必要があるとは思えないし、食べたいという欲求もまるで湧いてこない。
けれど、このひどく無愛想な子どもが表情を動かすほどの「おいしいごはん」とやらが、一体どんなものなのかは少しだけ気になった。
それに、どうせここに座っていたところで、何かが変わるわけでもない。
そう考えて、理央はため息混じりに腰を上げる。
少年はちらりと振り返り、理央が立ち上がったのを確認すると、ふたたび桟橋の方へと向かい始めた。
ちょこんと括られた襟足の黒髪が、理央の数歩先で子烏の尻尾のようにぴこぴこと揺れる。理央は、何となくその後ろ姿を目で追いながら、足を進めた。
少年は器用にも、河原の石の上を平地と変わらないように進んでいく。
一方で理央は、慣れない草履や足裏の凹凸のせいもあって、時おり転びそうになりながらも、なんとか遅れないようについていった。
少年はまっすぐに桟橋へ足を踏み入れると、その端で舟に乗り込む亡者に手を貸していた青年の方へと歩み寄る。
「……ねぇ八尋」
子どもは墨染色の袖をちょんと引っ張ってから、青年を見上げる。
声をかけられた青年は、川面を静かに滑り出した小舟から視線を外すと、ゆるりとこちらを振り返った。
癖っ毛なのか、奔放にうねる明るい栗毛に、やや垂れた瞳。
少年と同じ色の着流しを緩く着崩した青年は、どこか飄々とした雰囲気を纏っていた。
見た目は三十代前後といったところだろうか。こちらは随分と背が高い。
「っと、朔坊か。どうかしたか?」
朔と呼ばれた少年は、ちらりと理央の方を一瞥してから、口を開いた。
「このひと、あした渡してもいい?」
青年──八尋は、視線を理央へ向けると、ふむ、と軽く唸った。
特に厳しい目つきというわけでもなく、ただ興味深げに観察するような眼差しだ。
理央は何を言われるのかと身構えたが、やがて青年は「まっ、いいんじゃないか?」と肩を竦めた。なんともあっさりとした返事に、理央は少し拍子抜けする。
「……いいんだ?」
「うちは、受け持ちの亡者もそう多くない、小さな管轄区だからなあ。多少の融通くらいは利かせられるのさ。朔坊がそう判断したなら、それでいいぜ」
さらりとした答えに、理央は思わず口をつぐむ。
ありがたいことに、問答無用で舟に押し込められるようなことはなさそうだが。
そんなことを考えていれば、背後からざくざくと石を踏み締めるような足音が近づいてくる。
「おーい、朔、八尋さん。おつかれさまー」
どこかのんびりした声が響き、理央はそちらを振り仰いだ。
山の方から降りてきたらしいその人物は、渡し守たちとはまるで違った身なりの青年だった。
だが、かといってその服装は、理央の着ているような白装束でもない。
彼が身にまとっているのは、なんとキャメル色のダッフルコートなのだ。
おまけにその足元には、黒いスキニーパンツにスニーカー。首元には、白いマフラーだって巻いている。
やけに現代的な装いだし、この寒々しい河原の風景の中で、ただひとり季節感のある格好でもある。
「おっ、宗介か。なんだなんだ?」
「うん、今日の夕飯、何人になりそうかなって」
宗介と呼ばれた青年は、八尋と朔の側まで歩み寄ると、ごくごく自然にそんな会話を始める。どうやらこの二人の知り合いらしいが──理央は彼をぼんやりと眺める。
人工的に着色したような不自然さはない、癖のない暗めの茶髪。
まだ高校生くらいだろうか、あるいは大学生だろうか。少しだけ幼さの抜けきらない面立ちは柔らかく、どこか中性的な透明感がある。
「……いつもより、一人多いよ」
朔がダッフルコートの裾を引き、ちらりと理央を見上げながらそう答えた。「だそうだぜ」と肩を竦めるのは八尋である。
理央はただ、その会話の応酬を黙って聞いているしかない。
「ん、了解。じゃあ歓迎がてら、腕によりをかけないとな──といっても今日の夕飯、鍋なんだけどさ」
宗介は苦笑しながら「手抜き料理みたいで、ちょっと申し訳ないんですけど」と理央に向かって小さく会釈をする。
朔がそんな宗介の方を見上げ、こてんと首を傾げた。
「きょうは、雪が降ったから?」
「そ。安直だろ」
宗介は肩を竦め、軽く笑ってみせた。
「でも寒い日は、あったかいものが食べたくなるもんだしさ」
そう言って、彼は寒々しい河原の空を振り仰いだ。
鉛色の雲の切れ間からは、わずかに暮れなずむ光がこぼれている。
今は雪こそ止んでいるけれど、それでも空気はきんと冷え切っているのだろう。ほう、と吐いた吐息が人数分、白く空へ昇っていく。
「……ぼくたちや亡者は、あんまり寒くないけどね」
「うん、それはそうなんだろうけどさ。なんていうか、気分の問題?」
宗介はそう言って、朔の頭をくしゃりと撫でた。
朔は片目を瞑って、それをされるがままに受け入れている。
八尋はといえば、何やら期待に満ちた流し目を宗介に向けた。
「なあなあ、きみ。鍋ということは、もちろん例のアレもあるのかい?」
「うん。ばっちり仕込んでるよ」
「そいつはいい、そうこなくっちゃなあ! がぜん残りの仕事が捗るってもんだ!」
八尋は満面の笑みを浮かべて、ばしんばしんと陽気に宗介の背中を叩く。
それから彼は、ちらりと朔を見下ろして肩を竦めた。
「それじゃ、朔坊はもう上がっていいぜ、宗介の方の支度を手伝ってやるといい」
「うん、わかった」
「さて、と。俺は舟を片付けてくるとするか!」
八尋は桟橋に着けていた小舟を軽々と引き上げ、担いでどこかへと運んでいくらしい。
理央は彼らのやり取りを、何とも不思議な気持ちで眺めていた。
もう死んでいるからこそ、亡者に空腹感や喉の渇きはなく、寒さだってろくに感じることがない。それを身をもって体感してしまった以上は、もう自分が死者であることは否定のしようがないのだろう。
死んでしまった人間は、三途の川を渡るということ──伝承としてはポピュラーなものだし、理央だって漠然とは知っている。
ここが三途の川の畔であるというのなら、亡者が川を渡らなければならないというのは、まあ分からなくもない。
渡し守を名乗る彼らの役割というものも、なんとなくは理解できる。
だが、この宗介という青年だけは、渡し守とも亡者とも完全に異質だった。
死後の世界でしっかりと防寒具を着込み、料理まで作るという彼は、いったい何者なのだろう。
そんな訝しげな様子が顔に出ていたのか、彼は少しだけ苦笑して、再び会釈をしながら口を開いた。
「えっと、初めまして。俺、桜庭 宗介っていいます。高校三年でした」
「はぁ……才原 理央です、会社員でした。それで、その……君、何者なの?」
思い切ってそう切り込むと、宗介は少し困ったような笑みを浮かべる。
「それ、やっぱり気になりますよね」
「うん。そりゃあ気になる」
理央は正直に頷いた。
何しろ宗介の鼻先は、いかにも寒そうに赤く色づいている。
髪の隙間から僅かに覗いている耳もまた、同様だった。
長いこと河原に居座っても凍えなかった理央とは、まさに雲泥の違いである。
そして、着流し一枚でも寒そうな素振りを見せない渡し守たちとも、やはり違う。
宗介は少しだけ言葉を選ぶように、「えっと……」とマフラーを少しだけ引き直した。
代わりに足元から、訥々とした言葉が聞こえてくる。朔だ。
「……宗介はね、まだ完全には死んでないんだよ」
「まだ?」
「うん。俗にいう、臨死体験の真っ最中、だね」
朔の言葉に、宗介もまた苦笑して「みたいです」と肩を竦めた。
「俺の身体は今、現世じゃ植物状態になってるらしくって……だから俺はまだ、川を渡ることもできないし、自分の意思じゃ現世に戻ることもできません」
宗介はダッフルコートのポケットに両手を突っ込みながら、肩を竦める。
「だけど、かといって完全な亡者でもないから、寒ければ凍えるし、食べ物を食べなければ空腹にだって襲われるみたいで……ね、ちょっと厄介な身の上でしょ?」
少しおどけた口ぶりなのは、理央に気を遣わせないためか、はたまた楽天的なのか。
だが、植物状態ということは、重度の昏睡状態であるということで。
回復の見込みが皆無ではないとはいえ、その可能性が決して高くないことは、理央でも知るところだ。
なんと答えたらよいものかと思案していると、彼は眉を下げて笑ってみせる。
「まあ、そういうわけで。自分の食事は自分で賄う必要があるんですけど……でも、自分一人のためだけに料理するのって、あんまりやる気が出なくって。だから朔や八尋さんたちにも、一緒に食べてもらってるんです。理央さんも、もし良かったら」
俺の事情に付き合わせる形で、ちょっと申し訳ないんですけど。どうですか?
そう付け足して、宗介は理央の反応を窺うように小首を傾げる。
あくまでも『ご飯を一緒に食べてほしいのは自分側の都合である』と示すことで、一切押しつけがましさを感じさせない、何だかものすごくスマートな誘い方だった。
理央は思わず感心して、目を瞬く。
「そんな風に言われちゃったら、断る謂れもないんだけど……でも、そもそもご飯なんて、一体どこで……?」
理央は改めて、周囲を見回してみる。
辺りはかなり暗くなってきているが、相変わらずの殺風景な河原だった。
もちろん火を起こすような道具も設備も見当たらないし、鍋や食器だってない。
宗介はその困惑を察したのか、小さく笑ってから、川とは反対の山を指差していう。
「すみません、ちょっとだけ山を登ってもらうことにはなるんですけど……でも、もうだいぶ暗くなっちゃったな。朔、ちょっと灯りを頼めるか?」
「ん、わかった」
朔はといえば、二つ返事で引き受けてから、小さな手のひらをくるりと翻して上に向けた。すると、その手の上に、ぼぅ、と青白い炎の玉が浮かび上がる。
理央はその不思議な光景を目にして、思わずあんぐりと口を開けてしまった。
「えっ何それ、すっごい……手品?」
「鬼火だよ……ぼくたち渡し守は、鬼人だからね」
くりんとこちらを振り仰いだ朔は、片手で前髪をあげると「ん」とおでこを突き出してくる。
その額には、確かに肌色の小さな突起物が二つ、ちょこんと生えているのが見て取れた。
大きさは、理央の爪の先くらいだろうか。随分と控えめなサイズだ。
宗介が「これ、角なんですって。ちょっと可愛いですよね」と楽しそうに笑う。
「うーん、何だかいよいよファンタジーって感じだ……」
理央はじみじみと呟いて、朔の手のひらの上で揺れる炎をじっと見つめる。
そもそも死後の世界に、ファンタジーも何も、あったものではないけれど。どうせ死んでしまったというのなら、摩訶不思議も受け入れて楽しんだ方がいいのかもしれない。
「……こっちだよ」
朔は鬼火で足元を照らしながら、宗介と理央を先導するように山へ向かって歩き始める。
宗介がそれに続くので、理央も慌ててその後を追いかけた。
気づけば空の色が変わり始める頃合いになっていた。
どこまでも鉛色だった雲の端や隙間が、わずかに橙を滲ませている。
太陽がどこにあるのかもとんと分からないが、どうやら日が暮れかけているらしい。
日がな一日、冷たい岩に腰掛けていたというのに、身体はまるで痛くない。
こんな身体なら、無限に徹夜できてしまいそうだ──そんなことを考えてしまうあたり、つくづく社畜に染まりきっている。理央はぼんやりと、河原の石を無意味に蹴っては転がし続けていた。
角の削れた丸い石は、同じような丸い石たちの上を無理やり歪に転がっては、すぐに動きを止める。まるで、会社にいいように転がされて使い潰された、今の自分みたいだ。
理央は自虐めいた思考に、口元を歪ませる。
舟に乗るのは、きっと大したことではないのだろう。
遠くの白い亡者たちを眺めるに、誰もが当たり前にやっていることだ。
それが分かっていても、やはり立ち上がることさえ億劫だった。
「ねぇ……日が暮れると、舟を出せなくなるんだけど」
背後から、抑揚の少ない声が耳に届く。
振り向くと、昼間と同じように、渡し守だという子どもが立っていた。
「……へぇ、そうなんだ」
理央は、どこか他人事のようにそう答える。
少年はじっと理央を見上げたまま、黙り込んだ。
それでも理央が立ち上がる素振りを見せないと、やがて微かに小首を傾げ口を開く。
「じゃあ……おいしいごはんを食べたら、あしたは川を渡ってくれる?」
いったい何を言い出すのかと、理央は少年を無感動に見つめ返した。
「……随分と変なこと言うのね、皮肉?」
死んでいるのであれば、もはや栄養の摂取だって必要ないだろうに。
実際、理央はここに来てから、一度も空腹を感じた記憶がない。喉の渇きも同様だった。
日がな一日河原にいたのにもかかわらず、だ。
「別にわたし、お腹も空いてないんだけど」
「そりゃあ、亡者だからね。もう飢えることもないし、凍えることだってないよ」
少年は、さして意外そうでもなく、ただ理央を見上げる。
「ただ、おいしいごはんを食べて、それであしたは川を渡ろうって思ってくれたら、それでいいんだけど……」
「なんで?」
「ん……あったかいごはんを食べると、すこしだけ気がまぎれるから」
小さな子どもはそう言って、無表情のままふわりと瞬きをした。
その声音は相変わらず淡々としていて、平坦で。
けれど、ほんのわずかに口端が上がったようにも見えて、理央は小さく目を瞬く。
笑った、のだろうか──?
本当に微かな変化だ。目元や口元の動きはほとんどないのに、確かに今、一瞬だけ雰囲気が和らいだように見えた。
「……ついてきて」
少年は理央の反応を待たず、くるりと背を向けた。
高下駄の音が、からころと鳴る。彼は何とも軽い足取りで河原を進んでいく。
理央は立ち上がるべきかどうか、ほんの数秒だけ迷った。
空腹を感じないのに、何かを食べる必要があるとは思えないし、食べたいという欲求もまるで湧いてこない。
けれど、このひどく無愛想な子どもが表情を動かすほどの「おいしいごはん」とやらが、一体どんなものなのかは少しだけ気になった。
それに、どうせここに座っていたところで、何かが変わるわけでもない。
そう考えて、理央はため息混じりに腰を上げる。
少年はちらりと振り返り、理央が立ち上がったのを確認すると、ふたたび桟橋の方へと向かい始めた。
ちょこんと括られた襟足の黒髪が、理央の数歩先で子烏の尻尾のようにぴこぴこと揺れる。理央は、何となくその後ろ姿を目で追いながら、足を進めた。
少年は器用にも、河原の石の上を平地と変わらないように進んでいく。
一方で理央は、慣れない草履や足裏の凹凸のせいもあって、時おり転びそうになりながらも、なんとか遅れないようについていった。
少年はまっすぐに桟橋へ足を踏み入れると、その端で舟に乗り込む亡者に手を貸していた青年の方へと歩み寄る。
「……ねぇ八尋」
子どもは墨染色の袖をちょんと引っ張ってから、青年を見上げる。
声をかけられた青年は、川面を静かに滑り出した小舟から視線を外すと、ゆるりとこちらを振り返った。
癖っ毛なのか、奔放にうねる明るい栗毛に、やや垂れた瞳。
少年と同じ色の着流しを緩く着崩した青年は、どこか飄々とした雰囲気を纏っていた。
見た目は三十代前後といったところだろうか。こちらは随分と背が高い。
「っと、朔坊か。どうかしたか?」
朔と呼ばれた少年は、ちらりと理央の方を一瞥してから、口を開いた。
「このひと、あした渡してもいい?」
青年──八尋は、視線を理央へ向けると、ふむ、と軽く唸った。
特に厳しい目つきというわけでもなく、ただ興味深げに観察するような眼差しだ。
理央は何を言われるのかと身構えたが、やがて青年は「まっ、いいんじゃないか?」と肩を竦めた。なんともあっさりとした返事に、理央は少し拍子抜けする。
「……いいんだ?」
「うちは、受け持ちの亡者もそう多くない、小さな管轄区だからなあ。多少の融通くらいは利かせられるのさ。朔坊がそう判断したなら、それでいいぜ」
さらりとした答えに、理央は思わず口をつぐむ。
ありがたいことに、問答無用で舟に押し込められるようなことはなさそうだが。
そんなことを考えていれば、背後からざくざくと石を踏み締めるような足音が近づいてくる。
「おーい、朔、八尋さん。おつかれさまー」
どこかのんびりした声が響き、理央はそちらを振り仰いだ。
山の方から降りてきたらしいその人物は、渡し守たちとはまるで違った身なりの青年だった。
だが、かといってその服装は、理央の着ているような白装束でもない。
彼が身にまとっているのは、なんとキャメル色のダッフルコートなのだ。
おまけにその足元には、黒いスキニーパンツにスニーカー。首元には、白いマフラーだって巻いている。
やけに現代的な装いだし、この寒々しい河原の風景の中で、ただひとり季節感のある格好でもある。
「おっ、宗介か。なんだなんだ?」
「うん、今日の夕飯、何人になりそうかなって」
宗介と呼ばれた青年は、八尋と朔の側まで歩み寄ると、ごくごく自然にそんな会話を始める。どうやらこの二人の知り合いらしいが──理央は彼をぼんやりと眺める。
人工的に着色したような不自然さはない、癖のない暗めの茶髪。
まだ高校生くらいだろうか、あるいは大学生だろうか。少しだけ幼さの抜けきらない面立ちは柔らかく、どこか中性的な透明感がある。
「……いつもより、一人多いよ」
朔がダッフルコートの裾を引き、ちらりと理央を見上げながらそう答えた。「だそうだぜ」と肩を竦めるのは八尋である。
理央はただ、その会話の応酬を黙って聞いているしかない。
「ん、了解。じゃあ歓迎がてら、腕によりをかけないとな──といっても今日の夕飯、鍋なんだけどさ」
宗介は苦笑しながら「手抜き料理みたいで、ちょっと申し訳ないんですけど」と理央に向かって小さく会釈をする。
朔がそんな宗介の方を見上げ、こてんと首を傾げた。
「きょうは、雪が降ったから?」
「そ。安直だろ」
宗介は肩を竦め、軽く笑ってみせた。
「でも寒い日は、あったかいものが食べたくなるもんだしさ」
そう言って、彼は寒々しい河原の空を振り仰いだ。
鉛色の雲の切れ間からは、わずかに暮れなずむ光がこぼれている。
今は雪こそ止んでいるけれど、それでも空気はきんと冷え切っているのだろう。ほう、と吐いた吐息が人数分、白く空へ昇っていく。
「……ぼくたちや亡者は、あんまり寒くないけどね」
「うん、それはそうなんだろうけどさ。なんていうか、気分の問題?」
宗介はそう言って、朔の頭をくしゃりと撫でた。
朔は片目を瞑って、それをされるがままに受け入れている。
八尋はといえば、何やら期待に満ちた流し目を宗介に向けた。
「なあなあ、きみ。鍋ということは、もちろん例のアレもあるのかい?」
「うん。ばっちり仕込んでるよ」
「そいつはいい、そうこなくっちゃなあ! がぜん残りの仕事が捗るってもんだ!」
八尋は満面の笑みを浮かべて、ばしんばしんと陽気に宗介の背中を叩く。
それから彼は、ちらりと朔を見下ろして肩を竦めた。
「それじゃ、朔坊はもう上がっていいぜ、宗介の方の支度を手伝ってやるといい」
「うん、わかった」
「さて、と。俺は舟を片付けてくるとするか!」
八尋は桟橋に着けていた小舟を軽々と引き上げ、担いでどこかへと運んでいくらしい。
理央は彼らのやり取りを、何とも不思議な気持ちで眺めていた。
もう死んでいるからこそ、亡者に空腹感や喉の渇きはなく、寒さだってろくに感じることがない。それを身をもって体感してしまった以上は、もう自分が死者であることは否定のしようがないのだろう。
死んでしまった人間は、三途の川を渡るということ──伝承としてはポピュラーなものだし、理央だって漠然とは知っている。
ここが三途の川の畔であるというのなら、亡者が川を渡らなければならないというのは、まあ分からなくもない。
渡し守を名乗る彼らの役割というものも、なんとなくは理解できる。
だが、この宗介という青年だけは、渡し守とも亡者とも完全に異質だった。
死後の世界でしっかりと防寒具を着込み、料理まで作るという彼は、いったい何者なのだろう。
そんな訝しげな様子が顔に出ていたのか、彼は少しだけ苦笑して、再び会釈をしながら口を開いた。
「えっと、初めまして。俺、桜庭 宗介っていいます。高校三年でした」
「はぁ……才原 理央です、会社員でした。それで、その……君、何者なの?」
思い切ってそう切り込むと、宗介は少し困ったような笑みを浮かべる。
「それ、やっぱり気になりますよね」
「うん。そりゃあ気になる」
理央は正直に頷いた。
何しろ宗介の鼻先は、いかにも寒そうに赤く色づいている。
髪の隙間から僅かに覗いている耳もまた、同様だった。
長いこと河原に居座っても凍えなかった理央とは、まさに雲泥の違いである。
そして、着流し一枚でも寒そうな素振りを見せない渡し守たちとも、やはり違う。
宗介は少しだけ言葉を選ぶように、「えっと……」とマフラーを少しだけ引き直した。
代わりに足元から、訥々とした言葉が聞こえてくる。朔だ。
「……宗介はね、まだ完全には死んでないんだよ」
「まだ?」
「うん。俗にいう、臨死体験の真っ最中、だね」
朔の言葉に、宗介もまた苦笑して「みたいです」と肩を竦めた。
「俺の身体は今、現世じゃ植物状態になってるらしくって……だから俺はまだ、川を渡ることもできないし、自分の意思じゃ現世に戻ることもできません」
宗介はダッフルコートのポケットに両手を突っ込みながら、肩を竦める。
「だけど、かといって完全な亡者でもないから、寒ければ凍えるし、食べ物を食べなければ空腹にだって襲われるみたいで……ね、ちょっと厄介な身の上でしょ?」
少しおどけた口ぶりなのは、理央に気を遣わせないためか、はたまた楽天的なのか。
だが、植物状態ということは、重度の昏睡状態であるということで。
回復の見込みが皆無ではないとはいえ、その可能性が決して高くないことは、理央でも知るところだ。
なんと答えたらよいものかと思案していると、彼は眉を下げて笑ってみせる。
「まあ、そういうわけで。自分の食事は自分で賄う必要があるんですけど……でも、自分一人のためだけに料理するのって、あんまりやる気が出なくって。だから朔や八尋さんたちにも、一緒に食べてもらってるんです。理央さんも、もし良かったら」
俺の事情に付き合わせる形で、ちょっと申し訳ないんですけど。どうですか?
そう付け足して、宗介は理央の反応を窺うように小首を傾げる。
あくまでも『ご飯を一緒に食べてほしいのは自分側の都合である』と示すことで、一切押しつけがましさを感じさせない、何だかものすごくスマートな誘い方だった。
理央は思わず感心して、目を瞬く。
「そんな風に言われちゃったら、断る謂れもないんだけど……でも、そもそもご飯なんて、一体どこで……?」
理央は改めて、周囲を見回してみる。
辺りはかなり暗くなってきているが、相変わらずの殺風景な河原だった。
もちろん火を起こすような道具も設備も見当たらないし、鍋や食器だってない。
宗介はその困惑を察したのか、小さく笑ってから、川とは反対の山を指差していう。
「すみません、ちょっとだけ山を登ってもらうことにはなるんですけど……でも、もうだいぶ暗くなっちゃったな。朔、ちょっと灯りを頼めるか?」
「ん、わかった」
朔はといえば、二つ返事で引き受けてから、小さな手のひらをくるりと翻して上に向けた。すると、その手の上に、ぼぅ、と青白い炎の玉が浮かび上がる。
理央はその不思議な光景を目にして、思わずあんぐりと口を開けてしまった。
「えっ何それ、すっごい……手品?」
「鬼火だよ……ぼくたち渡し守は、鬼人だからね」
くりんとこちらを振り仰いだ朔は、片手で前髪をあげると「ん」とおでこを突き出してくる。
その額には、確かに肌色の小さな突起物が二つ、ちょこんと生えているのが見て取れた。
大きさは、理央の爪の先くらいだろうか。随分と控えめなサイズだ。
宗介が「これ、角なんですって。ちょっと可愛いですよね」と楽しそうに笑う。
「うーん、何だかいよいよファンタジーって感じだ……」
理央はじみじみと呟いて、朔の手のひらの上で揺れる炎をじっと見つめる。
そもそも死後の世界に、ファンタジーも何も、あったものではないけれど。どうせ死んでしまったというのなら、摩訶不思議も受け入れて楽しんだ方がいいのかもしれない。
「……こっちだよ」
朔は鬼火で足元を照らしながら、宗介と理央を先導するように山へ向かって歩き始める。
宗介がそれに続くので、理央も慌ててその後を追いかけた。
