さよならまたね、またいつか。 ~あの世とこの世のあいだご飯~

「いや、そんなの……ぜんぜん自殺なんかじゃないでしょう!」

 思わずテーブルに手をつき、宗介は身を乗り出す。
 だが誠二は、その反応すら予想済みだというように、静かに首を横に振った。

「いいえ。私はこうなることを、心のどこかで予感していたんです。それでも私は、母に刑務所へ入ると告げました……だから、やっぱり自殺したようなものなんですよ。あなた方への贖罪(しょくざい)から逃げて、勝手に自分ひとり救われたんです」
「救われた、って、そんなのどこがっ……!」

 言葉が喉の奥に引っかかり、声が上ずる。
 そんな宗介とは対照的に、誠二はまるで憑き物が落ちたような、穏やかな顔をしていた。

「最期の瞬間、母は私をきちんと認識していました。認識した上で、手に掛けてくれた。兄ではなく、私だと」
 誠二は言葉を切り、ゆっくりと目を伏せる。
「幼い頃から、兄になりたいと切望して、兄として愛されて、最期には自分として死ねた。もう、それで十分なんです。それだけで、十分なんですよ」

 その口元には、微かな笑みさえ浮かんでいて。
 だから本当に、未練なんて何もないんですよ、と。
 そう告げる声は、どこまでも凪いだ海のように穏やかだった。
 けれど宗介は、その言葉を素直に受け止めることができない。それで満足だなんて、自分自身にそう言い聞かせているようにしか聞こえないからだ。
 そんなものはただの諦めであって、「本当に望んでいたこと」では決してないだろう。
 兄になりきることでしか、母からの愛を得られなかった誠二は、最期の瞬間には自分自身に戻ることができた。そのことに、満足を得られたのは確かかもしれない。
 だがそれは、たった数瞬だけの話だ。得られた愛だって、まがいものでしかない。
 そもそも〝兄に成り代わってでも愛されたい〟だなんて、前提の願望からして歪みきっている。宗介はぐっと、拳を握りしめた。

 強すぎる羨望(せんぼう)は眩しい光となって、濃い影を生んでしまう。
 (まぶ)しさに目が(くら)めば、他のものが見えなくなる。
 彼は兄の形をした羨望に、きっと目が眩んでしまったのだ。
 あるいは強い影に飲まれて、自分が見えなくなったのだろうか。
 本当は、兄とは異なる自分自身のことを、愛して欲しかったのだろうに。
 赤の他人である宗介にだって、それくらいは分かるのに。誠二はもう十分だなんて、そんな悲しい言葉で自分を納得させようとしている。それがただ、無性に(むな)しかった。

「……これは、余計なお世話を承知で聞きますけど」

 気がつけば、そんな言葉が口からこぼれていた。
 宗介は誠二の目をまっすぐ見据えて、静かに問いかける。

「あなたは自分の人生に、本当に満足しているんですか? 未練、本当に何もないっていうんですか?」

 その瞬間、誠二の顔がくしゃりと歪む。
 それは、見ているこちらの胸が締め付けられるような、痛々しい表情だった。
 だがそれも一瞬のことで、誠二はすぐに表情を取り(つくろ)って、困ったように眉を下げる。

「……本当は、自分のために作られた料理を、食べてみたかったのかもしれません」
 誠二はそう言って、少しだけ遠い目をする。
「兄が生きているうちは、母の手料理は兄のためのものでした。兄のふりをするようになっても、やっぱりあの料理は兄のためのものでしたから……」
 誠二はそこで言葉を切り、宗介に視線を移す。
「でも、だからこそ……その未練さえも、もうきみのおかげで満たされてしまいました。だからもう、充分なんです」

 そう言って、誠二は再び箸を取ろうとする。
 その箸の向かう先は、食べかけの肉うどんだ。すっかり冷めて伸び切ったそれを、彼は口に運ぼうとする。宗介は、慌ててその手をつかんで引き留めた。

「待って、待ってください!」
 誠二は突然止められたことに驚いたようで、目をぱちぱちと瞬かせる。
 その隙をついて、宗介は肉うどんの器を彼の手元から遠ざけた。
「……俺、作り直します」
 宗介がそう言うと、誠二は慌てた様子で首を振る。
 けれど宗介はそれに構うことなく、キッチンへと足を向けた。
 だってそうだ。この肉うどんは、宗介にとっては自分の昼食のついでに作ったものでしかない。決して、誠二のためだけに作った料理ではないからだ。

 誠二の望みは、ささやかで、本来なら願うまでもなく得られるべきもの。
 けれど、それすらも望めずに生きてきた人が、今、目の前にいる。
 その願いを叶えてやれるのは、もう自分しかいないのだ。
 そうするだけの理由が、宗介にはあった。

「こんなの完全に俺のエゴでしかないけど……そんな歪んだ満足で川を渡っていかれると、怒りの向けどころが分からなくなる」

 宗介はカウンター越しに、誠二の顔をまっすぐに見つめる。

「あなたには、俺のエゴに付き合ってもらいます。その権利は、被害者であり遺族である、俺にあると思うから」