まっすぐにこちらを見据える青年の目に、誠二は怯む。
当然だ。恨まれて当然のことをしたのだから。
けれどこの青年は、誠二を詰るよりも事情を問いただすことを選んだ。責められることよりも、こうして真摯に問いを投げかけられる方が、よほど心に重くのしかかる。
だからこそ、その問いに答える義務からは逃げられない。
彼が知りたいと言うのなら、自分の口から説明しなければならないと思ったからだ。
誠二はできる限り言葉を選びながら、ぽつりぽつりと話し始めた。
「……『愛玩子』や『搾取子』といった言葉を、聞いたことがありますか」
青年──宗介と、渡し守であるという子どもが、顔を見合わせるのが見えた。
初めて聞く単語なのだろう。それも無理はないと、誠二は思う。
それは『機能不全家族』の中で育った人間、いわゆる『毒親育ち』たちの間で語られるようになった、比較的新しい概念らしいからだ。
愛玩子や搾取子という言葉を誠二が知ったのも、ここ数年のことだった。
「何から話したものでしょうか……決して、同情してほしいわけではないのですが……」
そう前置きをして、誠二は膝の上の拳に視線を落とす。
愛玩子、搾取子。
それは端的に言えば、愛玩の対象として寵愛を受ける子どもと、その対比として犠牲になる子どもを指す言葉だという。
愛玩子とは文字通り、愛玩動物のように可愛がられ、自慢したり見せびらかしたりするための子どもを指すらしい。
一方で搾取子は、その逆を指す言葉だ。親のストレスのはけ口にされる役割を持ち、愛玩子と相対して下げられ、差別を受ける存在であるのだという。
そんな説明をすれば、二人は困惑したような表情を浮かべる。
けれど誠二は、そんな二人の様子には構わずに言葉を続けた。
「……四つ年の離れた兄は、この愛玩子でした。私は搾取子の側だったのでしょう……言い訳にはなりますが、全ての発端は、私の家庭にあったのだと思います」
自分語りに付き合わせる形で、恐縮ですが。
そう断りを入れながら、誠二は記憶を辿るように目を伏せた。
「私の母は、愛に偏りのある人でした」
母親は、日常的に誠二の容姿や不出来な点をあげつらい、転じて兄には「それに比べてお兄ちゃんはこんなにも優秀で」と兄を持ち上げるのが口癖だった。
「兄は塾に通わされていましたが、私はどこにも通わせてもらえませんでした。当然、学力の差は開いていく一方ですが……『やっぱりお前は愚図でノロマなみそっかすだよ』と。テストの点に、暴力を奮われることもありました」
膝の上の手に、自然と力がこもる。
授業参観にだって、来てくれた覚えは一度もない。兄の参観には皆勤賞であったにもかかわらずだ。
家に帰れば、食卓には母と兄の夕食しかなかったことだってザラだった。
服だっていつも、兄のお下がりで。発育の良かった兄の服は、小柄だった誠二にはダブついて、いっそ見窄らしく見えてしまう。
それが原因で虐められることもあったけれど、服自体はブランドものだ。
明らかに体格に見合わないものを着せられていても、虐待とは言いがたい。教師は何も口を出せないようだった。
「母は、異常なまでに徹底して、兄と私の間に兄弟格差をつくり続けました」
自嘲しようとして、誠二は失敗する。唇はぎこちなく歪むばかりで、うまく笑えない。
宗介はそんな様子に何か言いたげだったけれど、結局は何も言わないまま、ただ静かに続きを促した。
だから誠二は、それに甘えるように言葉を続ける。
「……何が理由だったのかは、今でも分かりません」
「大人になってから、戸籍を確認したこともありますが……実は血が繋がっていなかった、などということもないんです。それでも、物心ついた頃にはもう、扱いに歴然の差があったことだけは確かでした」
本当に、どうしてなんでしょうね。
そんな独り言に、当然ながら返ってくる言葉はない。
愛玩子や搾取子という概念を知った時は「あぁ、自分だけではないのか」と。同じような経験を持つ人間が一定数いることに、ひどく安心したことを覚えている。
兄だって、決して幸福ではなかっただろう。
けれど、それでも羨ましいと思ってしまうのは、もうどうしようもなかった。
「……転機があったのは、私が社会人二年目になる頃でした」
誠二は言葉を止め、浅く息を吸う。
「兄が、自殺をしたんです」
◇◆◇
兄とは違い、誠二は大学に行かせてもらえなかった。
誠二はアルバイトで稼いだお金で車の免許を取り、高卒で運送会社に就職。
一方、兄は有名私立大学の四年生で、卒業後には大手企業への就職が決まっている、と。
母はそう、方々に自慢して回っていた──はずだった。
けれど、全てを持ち得ていたはずの兄は、自死を選んだ。
「自室で首を吊っている兄を見つけたのは、私でした」
机の上の遺書には、本当は就職活動に失敗していたことが綴られていた。
また〝母に見放されるのがこわい〟〝誠二のように扱われたくない〟とも。
死を選びたくなるほどに、自分の立場は惨めなものなのかと、乾いた笑いが込み上げたくらいだった。
「あさましいことに、私は兄の死に、泣くことができませんでした。それどころか、仄暗い喜びだって覚えたほどです」
ゆるりと視線をもたげれば、険しい表情をした青年が目に入る。
それが、病室で眠ったきりの姿や、枕元に添えられた家族写真の中で、屈託なく笑う姿と重なって見える。
きっと、眼前の青年には理解してはもらえまい。
誠二が植物状態にしてしまった青年は、近所にも噂がとどろくほどの〝いいお兄ちゃん〟であったそうだから。
兄弟の死に泣けない人間の心境など、さっぱり理解できないに違いない。
「……けれど私は確かに、兄の死を喜んだのです。これでようやく、母は私を見てくれるだろう、と」
我ながら、本当に愚かだと思う。
けれど、その歪んだ期待は、あっけなく打ち砕かれることになる。
通夜も葬儀も終わった、その晩のことだった。
母は誠二の顔を見て、こう言ったのだ。
『自殺するなんて、本当に傍迷惑な役立たずだったねぇ、誠二は。そうは思わないかい、ねぇ孝一』と──。
それは、鈍器で頭を殴られたような衝撃だった。
無様にも、ひくりと喉の奥が引き攣る。紡ぐ言葉はみっともなく震えた。
「母は私のことを、兄の名で呼びました。母の中で死んだのは……私の方だったんです」
言葉にすると、あの瞬間の混乱と絶望が、まざまざと蘇ってくるようだった。
「以来、母は私のことを、兄として扱うようになりました。母の妄想の中で、私は兄になったのです」
妄想の綻びになりうる現実を認識してしまうと、母は半狂乱になって、家中のものを手当たり次第に投げつけるようになった。それこそ、食器類からハサミ、包丁に至るまで。
誠二はそのたびに、息を殺して嵐が過ぎるのを待つしかなかった。
そうして一通り暴れ尽くすと、母はフッと意識を失ってしまう。やがて目を覚ました頃には何もかも忘れて、また誠二のことを兄の名で呼ぶ。その繰り返しだった。
「母を、精神科に通わせようとしたこともあります。ですが、それも無駄なことでした」
病院や行政は『患者本人に受診する意思がなければ、動くことができない』の一点張りだ。母にとっては『何らおかしなことはない』のだから、受診させるなど土台無理な話だった。
「それに……そう悪いことでもないと、思ってしまったんです」
誠二は目を伏せて、そう呟く。
実際、誠二は兄のふりをしてさえいれば、いまだかつて得たことのない『母の愛』を得られたからだ。
仕事終わり、家に帰れば夕飯が用意してある。
業務内容をぼかして同僚の愚痴を言えば「お前は悪くないよ」と肯定してもらえる。
風邪で寝込めば、手厚い看病を受けられる。自慢の息子だと、褒めそやしてもらえる。
それらは全て、誠二自身には一度たりとも与えられなかったもので。
小さい頃からずっと、喉から手が出るほどに欲していたものだった。
「……いえ、本当は、目を逸らしたかったのかも知れません」
誠二はゆるく頭を振り、膝の上で拳を握り締める。
毒親の中でもとりわけタチの悪い親には、愛玩子と搾取子をころころと入れ替える者がいるのだという。
愛玩子だった方の子が親の思い通りにならなくなれば、愛玩子を搾取子に、搾取子を愛玩子に切り替える──そういった例も珍しくないと、以前読んだウェブニュースには書いてあった。
結局、誠二は目を逸らしたかっただけなのだ。
兄が死んでさえも、自分は愛玩の対象にはなれなかったという現実から。
「……そうして目を逸らし続けた末路が、あの事故でした」
誠二はゆっくりと顔をあげる。
目の前の青年に対して、誠二は誠意を見せなければならない。
それが、あの日全てを奪ってしまった相手に対する、せめてもの責任の取り方だと思ったから。
誠二は初めて、真っ向から宗介と目を合わせた。
◇◆◇
「母の妄想のなかで、兄は実家に高額な生活費を入れる、孝行息子ということになっていました」
母は近所の誰彼構わず、そう吹聴して回っていた。
一流有名企業に勤める長男が、毎月実家に○万円も入れてくれる。
老後の心配だって何もないのだ、と。
兄の死を知る近所の人は、ものすごい目で母や誠二を見ていたものだ。
「ですが、私の実態は……高卒のしがないトラック運転手です。母の妄想を維持できるだけの給料には、到底及びません」
〝年齢が上がるにつれ、昇給していくはずの兄〟に対し、母の要求する金額は年々膨れ上がっていく。母の妄想を維持するために、誠二は運送業の合間を縫って、バイトを掛け持ちするようになっていった。
運送会社でトラックを走らせる傍ら、仕事終わりや休日にはコンビニや警備にと、詰め込めるだけのバイトを詰め込んだ。
それもこれも、母が愛する兄を演じるため。母の妄想を成立させるだけのお金を、どうにか捻出するためだ。
ほかに選択肢はなかった。兄の振りをすることをやめてしまえば、偽りの『母の愛』ですらも、手放さなければならなくなる。それだけは、どうしても耐えられなかった。
「……そうして起こったのが、あの事故でした」
疲労と睡眠不足による、居眠り運転。
気がついた時にはもう、トラックは中央分離帯を乗り上げ、対向車線に突っ込んでいた。
「それが、あなたのご家族三人の命を奪い……あなたを、植物状態にしてしまった事故です」
どんな事情や言葉を並べたところで、許されることではない。
それは誠二自身が、誰よりもよく分かっていた。
「極度の疲労状態で運転し、意識が飛びそうだったことを自覚しながら、それでも運転を続けた……私には〝過失運転致死傷罪〟が適用されることになりました」
誠二は事故を起こす以前から、何度もセンターラインをはみ出しかけ、クラクションを鳴らされていた。
それでもなお運転を続けた点が、悪質だと見なされたようだった。
「事故から約一年が経った頃、私には拘禁刑七年の判決が言い渡されました」
逃亡の恐れはないとされ、それまでは在宅捜査や在宅起訴で進められていた。
けれど、実刑判決を受けたとなっては、そうもいかない。
「判決が出た日、私は初めて母に打ち明けました。交通事故で人を死なせたから、刑務所に入るのだと……。すると母は、錯乱して、恐慌状態に陥りました」
それは、現実と妄想の間のギャップを自覚してしまった時の、いつもの反応だった。
けれど、いつもと違うのは──。
『孝一がそんな間抜けな真似をするはずがない! お前は出来損ないの誠二だろう! 言え! 孝一をどこにやった、言えッ!』
『どうして……! 愚図のお前が、生きているッ!』
『お前の方が生きてていいはずがない! &※%#▲&@※%ッ!』
「母は絶叫して、私に飛びかかりました。そうして馬乗りになって……私の首を絞めました」
誠二はそっと、自分の首をなぞる。
「老いた母と、男である私です。きっと、死に物狂いで跳ね除ければ、抵抗はできたでしょう」
誠二は、そこで一度、静かに目を閉じた。
「けれど、私はそれをしませんでした」
だから、あれは。
「……確かに、自殺だったのだと。私はそう思っています」
当然だ。恨まれて当然のことをしたのだから。
けれどこの青年は、誠二を詰るよりも事情を問いただすことを選んだ。責められることよりも、こうして真摯に問いを投げかけられる方が、よほど心に重くのしかかる。
だからこそ、その問いに答える義務からは逃げられない。
彼が知りたいと言うのなら、自分の口から説明しなければならないと思ったからだ。
誠二はできる限り言葉を選びながら、ぽつりぽつりと話し始めた。
「……『愛玩子』や『搾取子』といった言葉を、聞いたことがありますか」
青年──宗介と、渡し守であるという子どもが、顔を見合わせるのが見えた。
初めて聞く単語なのだろう。それも無理はないと、誠二は思う。
それは『機能不全家族』の中で育った人間、いわゆる『毒親育ち』たちの間で語られるようになった、比較的新しい概念らしいからだ。
愛玩子や搾取子という言葉を誠二が知ったのも、ここ数年のことだった。
「何から話したものでしょうか……決して、同情してほしいわけではないのですが……」
そう前置きをして、誠二は膝の上の拳に視線を落とす。
愛玩子、搾取子。
それは端的に言えば、愛玩の対象として寵愛を受ける子どもと、その対比として犠牲になる子どもを指す言葉だという。
愛玩子とは文字通り、愛玩動物のように可愛がられ、自慢したり見せびらかしたりするための子どもを指すらしい。
一方で搾取子は、その逆を指す言葉だ。親のストレスのはけ口にされる役割を持ち、愛玩子と相対して下げられ、差別を受ける存在であるのだという。
そんな説明をすれば、二人は困惑したような表情を浮かべる。
けれど誠二は、そんな二人の様子には構わずに言葉を続けた。
「……四つ年の離れた兄は、この愛玩子でした。私は搾取子の側だったのでしょう……言い訳にはなりますが、全ての発端は、私の家庭にあったのだと思います」
自分語りに付き合わせる形で、恐縮ですが。
そう断りを入れながら、誠二は記憶を辿るように目を伏せた。
「私の母は、愛に偏りのある人でした」
母親は、日常的に誠二の容姿や不出来な点をあげつらい、転じて兄には「それに比べてお兄ちゃんはこんなにも優秀で」と兄を持ち上げるのが口癖だった。
「兄は塾に通わされていましたが、私はどこにも通わせてもらえませんでした。当然、学力の差は開いていく一方ですが……『やっぱりお前は愚図でノロマなみそっかすだよ』と。テストの点に、暴力を奮われることもありました」
膝の上の手に、自然と力がこもる。
授業参観にだって、来てくれた覚えは一度もない。兄の参観には皆勤賞であったにもかかわらずだ。
家に帰れば、食卓には母と兄の夕食しかなかったことだってザラだった。
服だっていつも、兄のお下がりで。発育の良かった兄の服は、小柄だった誠二にはダブついて、いっそ見窄らしく見えてしまう。
それが原因で虐められることもあったけれど、服自体はブランドものだ。
明らかに体格に見合わないものを着せられていても、虐待とは言いがたい。教師は何も口を出せないようだった。
「母は、異常なまでに徹底して、兄と私の間に兄弟格差をつくり続けました」
自嘲しようとして、誠二は失敗する。唇はぎこちなく歪むばかりで、うまく笑えない。
宗介はそんな様子に何か言いたげだったけれど、結局は何も言わないまま、ただ静かに続きを促した。
だから誠二は、それに甘えるように言葉を続ける。
「……何が理由だったのかは、今でも分かりません」
「大人になってから、戸籍を確認したこともありますが……実は血が繋がっていなかった、などということもないんです。それでも、物心ついた頃にはもう、扱いに歴然の差があったことだけは確かでした」
本当に、どうしてなんでしょうね。
そんな独り言に、当然ながら返ってくる言葉はない。
愛玩子や搾取子という概念を知った時は「あぁ、自分だけではないのか」と。同じような経験を持つ人間が一定数いることに、ひどく安心したことを覚えている。
兄だって、決して幸福ではなかっただろう。
けれど、それでも羨ましいと思ってしまうのは、もうどうしようもなかった。
「……転機があったのは、私が社会人二年目になる頃でした」
誠二は言葉を止め、浅く息を吸う。
「兄が、自殺をしたんです」
◇◆◇
兄とは違い、誠二は大学に行かせてもらえなかった。
誠二はアルバイトで稼いだお金で車の免許を取り、高卒で運送会社に就職。
一方、兄は有名私立大学の四年生で、卒業後には大手企業への就職が決まっている、と。
母はそう、方々に自慢して回っていた──はずだった。
けれど、全てを持ち得ていたはずの兄は、自死を選んだ。
「自室で首を吊っている兄を見つけたのは、私でした」
机の上の遺書には、本当は就職活動に失敗していたことが綴られていた。
また〝母に見放されるのがこわい〟〝誠二のように扱われたくない〟とも。
死を選びたくなるほどに、自分の立場は惨めなものなのかと、乾いた笑いが込み上げたくらいだった。
「あさましいことに、私は兄の死に、泣くことができませんでした。それどころか、仄暗い喜びだって覚えたほどです」
ゆるりと視線をもたげれば、険しい表情をした青年が目に入る。
それが、病室で眠ったきりの姿や、枕元に添えられた家族写真の中で、屈託なく笑う姿と重なって見える。
きっと、眼前の青年には理解してはもらえまい。
誠二が植物状態にしてしまった青年は、近所にも噂がとどろくほどの〝いいお兄ちゃん〟であったそうだから。
兄弟の死に泣けない人間の心境など、さっぱり理解できないに違いない。
「……けれど私は確かに、兄の死を喜んだのです。これでようやく、母は私を見てくれるだろう、と」
我ながら、本当に愚かだと思う。
けれど、その歪んだ期待は、あっけなく打ち砕かれることになる。
通夜も葬儀も終わった、その晩のことだった。
母は誠二の顔を見て、こう言ったのだ。
『自殺するなんて、本当に傍迷惑な役立たずだったねぇ、誠二は。そうは思わないかい、ねぇ孝一』と──。
それは、鈍器で頭を殴られたような衝撃だった。
無様にも、ひくりと喉の奥が引き攣る。紡ぐ言葉はみっともなく震えた。
「母は私のことを、兄の名で呼びました。母の中で死んだのは……私の方だったんです」
言葉にすると、あの瞬間の混乱と絶望が、まざまざと蘇ってくるようだった。
「以来、母は私のことを、兄として扱うようになりました。母の妄想の中で、私は兄になったのです」
妄想の綻びになりうる現実を認識してしまうと、母は半狂乱になって、家中のものを手当たり次第に投げつけるようになった。それこそ、食器類からハサミ、包丁に至るまで。
誠二はそのたびに、息を殺して嵐が過ぎるのを待つしかなかった。
そうして一通り暴れ尽くすと、母はフッと意識を失ってしまう。やがて目を覚ました頃には何もかも忘れて、また誠二のことを兄の名で呼ぶ。その繰り返しだった。
「母を、精神科に通わせようとしたこともあります。ですが、それも無駄なことでした」
病院や行政は『患者本人に受診する意思がなければ、動くことができない』の一点張りだ。母にとっては『何らおかしなことはない』のだから、受診させるなど土台無理な話だった。
「それに……そう悪いことでもないと、思ってしまったんです」
誠二は目を伏せて、そう呟く。
実際、誠二は兄のふりをしてさえいれば、いまだかつて得たことのない『母の愛』を得られたからだ。
仕事終わり、家に帰れば夕飯が用意してある。
業務内容をぼかして同僚の愚痴を言えば「お前は悪くないよ」と肯定してもらえる。
風邪で寝込めば、手厚い看病を受けられる。自慢の息子だと、褒めそやしてもらえる。
それらは全て、誠二自身には一度たりとも与えられなかったもので。
小さい頃からずっと、喉から手が出るほどに欲していたものだった。
「……いえ、本当は、目を逸らしたかったのかも知れません」
誠二はゆるく頭を振り、膝の上で拳を握り締める。
毒親の中でもとりわけタチの悪い親には、愛玩子と搾取子をころころと入れ替える者がいるのだという。
愛玩子だった方の子が親の思い通りにならなくなれば、愛玩子を搾取子に、搾取子を愛玩子に切り替える──そういった例も珍しくないと、以前読んだウェブニュースには書いてあった。
結局、誠二は目を逸らしたかっただけなのだ。
兄が死んでさえも、自分は愛玩の対象にはなれなかったという現実から。
「……そうして目を逸らし続けた末路が、あの事故でした」
誠二はゆっくりと顔をあげる。
目の前の青年に対して、誠二は誠意を見せなければならない。
それが、あの日全てを奪ってしまった相手に対する、せめてもの責任の取り方だと思ったから。
誠二は初めて、真っ向から宗介と目を合わせた。
◇◆◇
「母の妄想のなかで、兄は実家に高額な生活費を入れる、孝行息子ということになっていました」
母は近所の誰彼構わず、そう吹聴して回っていた。
一流有名企業に勤める長男が、毎月実家に○万円も入れてくれる。
老後の心配だって何もないのだ、と。
兄の死を知る近所の人は、ものすごい目で母や誠二を見ていたものだ。
「ですが、私の実態は……高卒のしがないトラック運転手です。母の妄想を維持できるだけの給料には、到底及びません」
〝年齢が上がるにつれ、昇給していくはずの兄〟に対し、母の要求する金額は年々膨れ上がっていく。母の妄想を維持するために、誠二は運送業の合間を縫って、バイトを掛け持ちするようになっていった。
運送会社でトラックを走らせる傍ら、仕事終わりや休日にはコンビニや警備にと、詰め込めるだけのバイトを詰め込んだ。
それもこれも、母が愛する兄を演じるため。母の妄想を成立させるだけのお金を、どうにか捻出するためだ。
ほかに選択肢はなかった。兄の振りをすることをやめてしまえば、偽りの『母の愛』ですらも、手放さなければならなくなる。それだけは、どうしても耐えられなかった。
「……そうして起こったのが、あの事故でした」
疲労と睡眠不足による、居眠り運転。
気がついた時にはもう、トラックは中央分離帯を乗り上げ、対向車線に突っ込んでいた。
「それが、あなたのご家族三人の命を奪い……あなたを、植物状態にしてしまった事故です」
どんな事情や言葉を並べたところで、許されることではない。
それは誠二自身が、誰よりもよく分かっていた。
「極度の疲労状態で運転し、意識が飛びそうだったことを自覚しながら、それでも運転を続けた……私には〝過失運転致死傷罪〟が適用されることになりました」
誠二は事故を起こす以前から、何度もセンターラインをはみ出しかけ、クラクションを鳴らされていた。
それでもなお運転を続けた点が、悪質だと見なされたようだった。
「事故から約一年が経った頃、私には拘禁刑七年の判決が言い渡されました」
逃亡の恐れはないとされ、それまでは在宅捜査や在宅起訴で進められていた。
けれど、実刑判決を受けたとなっては、そうもいかない。
「判決が出た日、私は初めて母に打ち明けました。交通事故で人を死なせたから、刑務所に入るのだと……。すると母は、錯乱して、恐慌状態に陥りました」
それは、現実と妄想の間のギャップを自覚してしまった時の、いつもの反応だった。
けれど、いつもと違うのは──。
『孝一がそんな間抜けな真似をするはずがない! お前は出来損ないの誠二だろう! 言え! 孝一をどこにやった、言えッ!』
『どうして……! 愚図のお前が、生きているッ!』
『お前の方が生きてていいはずがない! &※%#▲&@※%ッ!』
「母は絶叫して、私に飛びかかりました。そうして馬乗りになって……私の首を絞めました」
誠二はそっと、自分の首をなぞる。
「老いた母と、男である私です。きっと、死に物狂いで跳ね除ければ、抵抗はできたでしょう」
誠二は、そこで一度、静かに目を閉じた。
「けれど、私はそれをしませんでした」
だから、あれは。
「……確かに、自殺だったのだと。私はそう思っています」
