男は川下に向かって逃げていく。
けれど、その足はお世辞にも速いとは言えなかった。
よほど慌てているのか、何度も転びそうになりながら、それでも足を止める気配はない。
その上、男が履いているのは草履に足袋。死装束における標準装備だ。
一方こちらは、スニーカーを履く宗介と、日常的にこの河原を歩き回っている朔。
追いつくのに、そう時間はかからなかった。
宗介は息を整えながら、なるべく穏やかな声を意識して問いかけた。
「あの、どうして逃げるんですか?」
だが、亡者は肩で息をしながら、震える声で「……すみません」と呟くばかりだ。
「えっと……どうして謝るんですか?」
「すみません、すみません……っ!」
誰に対して、何に対して謝っているのだろう。
宗介は朔と、再び顔を見合わせる。けれど、男はそれ以外に言葉を知らないかのように、ひたすらに謝罪を繰り返すばかりだ。
朔に目配せをすれば、心得ているというように小さく頷かれる。
宗介は改めて、亡者に向き直った。
「まずは、落ち着きませんか」
「……あったかいもの食べたら、ほっとするよ?」
朔もすかさず、男を見上げて言葉を重ねる。
男はしばらく顔を伏せたままだったが、やがては観念したように、力なく頷いた。
そしてまた「……すみません」と、か細い声で繰り返す。宗介たちについてくる足取りは、疲れ切った老人のように重かった。
鍋に水、砂糖、酒、みりん、醤油、刻んだしょうがを入れて中火で煮立たせている間に、ねぎは斜めの薄切りに。
食べやすい大きさに切った牛肉も、頃合いを見て鍋に投入。ほぐしながら色が変わるのを待って、ふたをして煮詰めていく。その間につゆを作り、うどんも茹でる。
その日の昼食は、肉うどんだった。
牛肉のアクを取り除きながら、宗介はカウンター越しに亡者の様子をうかがう。
見た目は、四十歳より手前くらいだろうか。痩せ型で、頬骨がくっきりと浮かび上がっているせいか、表情に暗い陰影を落としていた。なんだか少し、神経質そうな印象だ。
宗介と目が合いそうになると、男は慌てたように視線を逸らす。
そんな反応をされるような心当たりがない宗介としては、首を傾げるばかりで。
完成した昼食を前にしても、男はなかなか箸を取ろうとしなかった。
「……本当に、食べてもいいんでしょうか」
「え?」
「いえ、その……」
何かを言いかけては、口を噤む。
それを何度か繰り返してから、男はようやくか細い声で言葉を紡いだ。
「私なんかが、こんな……烏滸がましいというか……」
その意図が掴めず、宗介と朔は顔を見合わせる。
「食べていいもなにも、本当に大したものじゃないですし」
「おうどん、のびちゃうよ。お肉もあまからくてて、おいしいよ?」
「それに、未練があるなら、話していきませんか。俺たちには聞くことだけしかできないけど、話すことで整理できる感情も、あると思うんです」
二人で代わる代わる言葉をかけると、男はおずおずと箸を手に取った。
うどんをすくい、ぎこちない動きで口元へと運んでいく。
「……おいしい、です」
男はぽつりとそう呟いてから、ひどく申し訳なさそうにしながらも、一口ずつゆっくりと食べ始めた。その様子を眺めながら、宗介と朔はほっと息をつく。
「お口に合ったなら、よかったです」
「……はい」
「あ、そういえば。まだお名前も聞いてませんでしたね」
「私は……中村 誠二といいます」
記憶をさらってみるけれど、やはりその名前には心当たりがない。
けれど先ほどの誠二は、確かに宗介の顔を見てから逃げ出したように見えた。
「あの……もしかして俺、あなたと会ったことありますか?」
そう問いかければ、誠二は箸を持つ手を止めて小さく首を振った。
「いえ、あなたは私のことなど知らないでしょう……。私が一方的に、あなたのことを見知っているだけですから」
「それは、どういう……?」
宗介はますます訳が分からず、首を傾げる。
誠二はその視線から逃げるように俯いて、絞り出すような声で呟いた。
「……未練なんて、本当は何もないんです。私の死因は……自殺したようなものですから」
自殺──その言葉に、宗介はほんの少しだけ眉根を寄せる。
ここでは陽葵や朔をはじめ、生きたくても生きられなかった人の話を聞くことも多かったからだ。
けれど一方で、どんな人にも事情があるのだとも、宗介は思う。
自死を選んでしまうほどに辛く苦しいことがあったのなら、その選択の是非を第三者がとやかく言うべきじゃない。言う権利もない。
そう思っていたのだ、続く言葉を聞くまでは──。
「あなたや、あなたの家族の未来を奪っておきながら……」
「え……今、なんて?」
宗介は思わず、自分の耳を疑った。
今、この男は何と言った? 誰の、何の、未来を──。
考えるよりも先に、身体が動いていた。ガタンと大きな音を立てて、椅子が床に倒れる。
気づけば宗介は、テーブル越しに誠二の衿元を掴んでいた。
「あんた、まさか……っ!」
あぁ、否が応にも合点がいく。
河原で、宗介の顔を見た瞬間に逃げ出したことも。
宗介のことを一方的に知っているような、あの意味深な物言いも。
終始腰が低く、ひどく申し訳なさそうな目でこちらを見てくることにも。
その全部に、説明がついてしまう。
誠二は抵抗せず、されるがままだった。ただ宗介から視線を逸らし、顔を歪めている。
「あんたのせいで、母さんも、洸太も芽依もッ……!」
声を荒げながら、震える手に力を込める。
頭が沸騰するというのは、こういうことを言うのだろう。一度堰を切って溢れ出した激情は、もう止められそうになかった。
頭の中では、あの日の光景がぐるぐると渦巻く。砕けたガラス、ひしゃげた車。妹の泣き声。何もできなかった、無力な自分。
それら全ての元凶が、今、目の前にいる。
「……宗介、だいじょうぶ?」
袖をそっと引かれて、はっとする。
見下ろせば、朔が心配そうな顔でこちらを見上げていた。
その声で、ようやく自分が肩で激しく息をしていることに気づく。
心臓が痛いくらいに脈打ち、誠二の死装束を握りしめた拳は白く強張っていた。
「すみません……ごめんなさい、すみません」
誠二の消え入りそうな謝罪にも、宗介の中で荒れ狂う感情は少しも収まらなかった。
むしろ、その弱々しい謝罪こそが、余計に神経を逆撫でする。
「どうして、人の命を奪っておきながら、あんたはなんでッ……!」
震える手で相手の衿元を握りしめたまま、宗介は誠二を睨みつける。
「自殺なんて……勝手に自分の命を終わらせるなんて、そんなこと……!」
言葉にすればするほど、腹の底から何かが込み上げてくる。
悲しみなのか、怒りなのか、それとも別の何かなのか、自分でもよく分からない。
ただ、行き場のない感情が、出口を求めて暴れていた。
誠二はただ唇を噛みしめ、何も言わない。
その沈黙すらも、腹立たしくて仕方なかった。
「なぁ、なんとか言えよッ……!」
宗介が言葉を重ねるほどに、誠二はますます深く俯いていく。
そんな時、腰のあたりにぎゅっと抱きつかれる感覚があった。朔だ。
視線を落とせば、眉を八の字にした朔と目が合う。
「……宗介が苦しいなら、この人はもう舟にのせよう?」
その一言に、冷や水を浴びせられたような思いになる。
不器用ながらにも、いつだって亡者に心を砕こうとしている朔。そんな朔に、本意ではない言葉を言わせてしまったと気づいたからだ。途端に頭が冷えていく。
荒い息を繰り返しながら、宗介はゆっくりと、誠二の衿から手を離した。
努めて冷静さを取り戻そうと、深く息を吸って吐く。
それを二度、三度と繰り返してから、宗介はようやく男の顔を正面から見据えた。
「……説明してください。他ならぬあなたが相手なら、俺には問いただす権利があるはずです」
声はまだ掠れていたけれど、先ほどまでの激情はいくらか落ち着いていた。
「なぜ、そうなった?」
「どうしてあなたは……自殺なんて選んだんだ」
けれど、その足はお世辞にも速いとは言えなかった。
よほど慌てているのか、何度も転びそうになりながら、それでも足を止める気配はない。
その上、男が履いているのは草履に足袋。死装束における標準装備だ。
一方こちらは、スニーカーを履く宗介と、日常的にこの河原を歩き回っている朔。
追いつくのに、そう時間はかからなかった。
宗介は息を整えながら、なるべく穏やかな声を意識して問いかけた。
「あの、どうして逃げるんですか?」
だが、亡者は肩で息をしながら、震える声で「……すみません」と呟くばかりだ。
「えっと……どうして謝るんですか?」
「すみません、すみません……っ!」
誰に対して、何に対して謝っているのだろう。
宗介は朔と、再び顔を見合わせる。けれど、男はそれ以外に言葉を知らないかのように、ひたすらに謝罪を繰り返すばかりだ。
朔に目配せをすれば、心得ているというように小さく頷かれる。
宗介は改めて、亡者に向き直った。
「まずは、落ち着きませんか」
「……あったかいもの食べたら、ほっとするよ?」
朔もすかさず、男を見上げて言葉を重ねる。
男はしばらく顔を伏せたままだったが、やがては観念したように、力なく頷いた。
そしてまた「……すみません」と、か細い声で繰り返す。宗介たちについてくる足取りは、疲れ切った老人のように重かった。
鍋に水、砂糖、酒、みりん、醤油、刻んだしょうがを入れて中火で煮立たせている間に、ねぎは斜めの薄切りに。
食べやすい大きさに切った牛肉も、頃合いを見て鍋に投入。ほぐしながら色が変わるのを待って、ふたをして煮詰めていく。その間につゆを作り、うどんも茹でる。
その日の昼食は、肉うどんだった。
牛肉のアクを取り除きながら、宗介はカウンター越しに亡者の様子をうかがう。
見た目は、四十歳より手前くらいだろうか。痩せ型で、頬骨がくっきりと浮かび上がっているせいか、表情に暗い陰影を落としていた。なんだか少し、神経質そうな印象だ。
宗介と目が合いそうになると、男は慌てたように視線を逸らす。
そんな反応をされるような心当たりがない宗介としては、首を傾げるばかりで。
完成した昼食を前にしても、男はなかなか箸を取ろうとしなかった。
「……本当に、食べてもいいんでしょうか」
「え?」
「いえ、その……」
何かを言いかけては、口を噤む。
それを何度か繰り返してから、男はようやくか細い声で言葉を紡いだ。
「私なんかが、こんな……烏滸がましいというか……」
その意図が掴めず、宗介と朔は顔を見合わせる。
「食べていいもなにも、本当に大したものじゃないですし」
「おうどん、のびちゃうよ。お肉もあまからくてて、おいしいよ?」
「それに、未練があるなら、話していきませんか。俺たちには聞くことだけしかできないけど、話すことで整理できる感情も、あると思うんです」
二人で代わる代わる言葉をかけると、男はおずおずと箸を手に取った。
うどんをすくい、ぎこちない動きで口元へと運んでいく。
「……おいしい、です」
男はぽつりとそう呟いてから、ひどく申し訳なさそうにしながらも、一口ずつゆっくりと食べ始めた。その様子を眺めながら、宗介と朔はほっと息をつく。
「お口に合ったなら、よかったです」
「……はい」
「あ、そういえば。まだお名前も聞いてませんでしたね」
「私は……中村 誠二といいます」
記憶をさらってみるけれど、やはりその名前には心当たりがない。
けれど先ほどの誠二は、確かに宗介の顔を見てから逃げ出したように見えた。
「あの……もしかして俺、あなたと会ったことありますか?」
そう問いかければ、誠二は箸を持つ手を止めて小さく首を振った。
「いえ、あなたは私のことなど知らないでしょう……。私が一方的に、あなたのことを見知っているだけですから」
「それは、どういう……?」
宗介はますます訳が分からず、首を傾げる。
誠二はその視線から逃げるように俯いて、絞り出すような声で呟いた。
「……未練なんて、本当は何もないんです。私の死因は……自殺したようなものですから」
自殺──その言葉に、宗介はほんの少しだけ眉根を寄せる。
ここでは陽葵や朔をはじめ、生きたくても生きられなかった人の話を聞くことも多かったからだ。
けれど一方で、どんな人にも事情があるのだとも、宗介は思う。
自死を選んでしまうほどに辛く苦しいことがあったのなら、その選択の是非を第三者がとやかく言うべきじゃない。言う権利もない。
そう思っていたのだ、続く言葉を聞くまでは──。
「あなたや、あなたの家族の未来を奪っておきながら……」
「え……今、なんて?」
宗介は思わず、自分の耳を疑った。
今、この男は何と言った? 誰の、何の、未来を──。
考えるよりも先に、身体が動いていた。ガタンと大きな音を立てて、椅子が床に倒れる。
気づけば宗介は、テーブル越しに誠二の衿元を掴んでいた。
「あんた、まさか……っ!」
あぁ、否が応にも合点がいく。
河原で、宗介の顔を見た瞬間に逃げ出したことも。
宗介のことを一方的に知っているような、あの意味深な物言いも。
終始腰が低く、ひどく申し訳なさそうな目でこちらを見てくることにも。
その全部に、説明がついてしまう。
誠二は抵抗せず、されるがままだった。ただ宗介から視線を逸らし、顔を歪めている。
「あんたのせいで、母さんも、洸太も芽依もッ……!」
声を荒げながら、震える手に力を込める。
頭が沸騰するというのは、こういうことを言うのだろう。一度堰を切って溢れ出した激情は、もう止められそうになかった。
頭の中では、あの日の光景がぐるぐると渦巻く。砕けたガラス、ひしゃげた車。妹の泣き声。何もできなかった、無力な自分。
それら全ての元凶が、今、目の前にいる。
「……宗介、だいじょうぶ?」
袖をそっと引かれて、はっとする。
見下ろせば、朔が心配そうな顔でこちらを見上げていた。
その声で、ようやく自分が肩で激しく息をしていることに気づく。
心臓が痛いくらいに脈打ち、誠二の死装束を握りしめた拳は白く強張っていた。
「すみません……ごめんなさい、すみません」
誠二の消え入りそうな謝罪にも、宗介の中で荒れ狂う感情は少しも収まらなかった。
むしろ、その弱々しい謝罪こそが、余計に神経を逆撫でする。
「どうして、人の命を奪っておきながら、あんたはなんでッ……!」
震える手で相手の衿元を握りしめたまま、宗介は誠二を睨みつける。
「自殺なんて……勝手に自分の命を終わらせるなんて、そんなこと……!」
言葉にすればするほど、腹の底から何かが込み上げてくる。
悲しみなのか、怒りなのか、それとも別の何かなのか、自分でもよく分からない。
ただ、行き場のない感情が、出口を求めて暴れていた。
誠二はただ唇を噛みしめ、何も言わない。
その沈黙すらも、腹立たしくて仕方なかった。
「なぁ、なんとか言えよッ……!」
宗介が言葉を重ねるほどに、誠二はますます深く俯いていく。
そんな時、腰のあたりにぎゅっと抱きつかれる感覚があった。朔だ。
視線を落とせば、眉を八の字にした朔と目が合う。
「……宗介が苦しいなら、この人はもう舟にのせよう?」
その一言に、冷や水を浴びせられたような思いになる。
不器用ながらにも、いつだって亡者に心を砕こうとしている朔。そんな朔に、本意ではない言葉を言わせてしまったと気づいたからだ。途端に頭が冷えていく。
荒い息を繰り返しながら、宗介はゆっくりと、誠二の衿から手を離した。
努めて冷静さを取り戻そうと、深く息を吸って吐く。
それを二度、三度と繰り返してから、宗介はようやく男の顔を正面から見据えた。
「……説明してください。他ならぬあなたが相手なら、俺には問いただす権利があるはずです」
声はまだ掠れていたけれど、先ほどまでの激情はいくらか落ち着いていた。
「なぜ、そうなった?」
「どうしてあなたは……自殺なんて選んだんだ」
