さよならまたね、またいつか。 ~あの世とこの世のあいだご飯~

『どうして六月の雨は〝つゆ〟なの?』

 そんなことを妹に尋ねられたのは、いつのことだっただろう。
 保育園の帰り道だったか、それともごっこ遊びの合間だっただろうか。
 咄嗟(とっさ)に答えることができなくて、あとで調べたことには。
 梅の実が(じゅく)す頃に降る雨だから「梅雨」と呼ぶのだとか、はたまた、梅の実が()れて(つぶ)れる時期だから「()ゆ」と結びつけたのだとか、諸説あるらしい。
 ぼんやりとそんなことを思い出しながら、宗介は竹串の先を、青梅のなり口にそっと差し込んでいた。ぷつ、と小さな抵抗があって、へたがぽろりと取れて落ちる。
 なり口を綺麗にしたら、今度は実の表面をまんべんなくつついて、穴を開けていく作業だ。一粒につき、穴の目安は二十箇所ほど。この作業を、ただ黙々と繰り返す。

 この青梅は、庭に生えている古木から()れたものだった。
 ここに来たばかりの頃は、葉が青々と茂っていて何の木か分からなかった。
 それがどうやら梅の木だったらしいと気づいたのは、花が咲いた、つい数ヶ月前のこと。
 きっと去年の今頃も、古木は同じように実をつけていたのだろう。
 けれど、あの頃の宗介には庭木を気にかける余裕などなかったから、去年はすっかり見過ごしていた。

 野生の梅だからか、スーパーに売ってあるものよりも実は小ぶりだし、大きさも不揃(ふぞろ)い。
 栽培用の梅と同じようにできるかは分からないけれど、物は試しと、梅の甘露煮でも作ってみることにしたのだ。そうでもしないと、ちょっと時間を持て余してしまうのだから、仕方がない。

 事故に遭ってから、もうすぐ一年。
 臨死体験が終わる気配は、今のところないままだ。

 梅雨どきのせいかぐずついた天気が続いていて、窓の外もどんよりと暗い。
 ぷつ、ぷつ、と針を刺す単調な作業が、じわりと眠気を誘ってくる。
 二十分も経つころには(あらが)いきれなくなって、宗介は机に突っ伏した。
 ほんの少しだけ。ちょっと休憩してから、また再開すればいい。
 そう言い訳をしながら目を閉じれば、あっという間に眠りの(ふち)に引きずり込まれてしまう。

 (まぶた)の裏に広がったのは、ひどく懐かしい光景だった。
 運転席には母が、助手席には弟が。運転席の真後ろには妹が座っていて、その隣に宗介。いつもの定位置だ。
 来週の給食がどうだと話す弟に、保育園で覚えたての歌をうたう妹。
 なんの変哲もない、いつも通りの日常であるはずだった。なのに、次の瞬間──。
 対向車線を走っていたはずのトラックが、瞬きのうちにフロントガラスの前に現れたような感覚だった。
 ガラスの砕け散る音、金属がひしゃげる轟音と衝撃。耳障(みみざわ)りな不協和音の洪水が一挙に押し寄せて、そして──、

「……ぃじょうぶ?  ねぇ宗介、だいじょうぶ?」

 肩を揺さぶられて、はっと我に返る。そこはもう、車の中ではなかった。
 朔が心配そうな面持ちで、こちらを覗き込んでいる。
 気づけば背中がじっとりと汗で湿っていた。
 あぁ、うん……と曖昧に返事をしながら、前髪をくしゃりと掴む。
 脳裏には事故の瞬間が鮮明に焼き付いていて、心臓がまだばくばくと早鐘(はやがね)を打っていた。

「うなされてた、ね」
「ん……ここに来ることになった日の夢を、見てたからかな」

 それは随分と久しぶりに見た、家族の夢だった。
 どうせ見るならもっと幸せな夢がよかったのにと、宗介はため息をつく。
 嫌な記憶は、忘れたくても忘れられないから始末が悪い。
 少しの沈黙のあと、宗介はぽつり、ぽつりと言葉をこぼした。

「……あの日はさ、母方のおじいちゃん家に行こうとしてたんだ」

 母は、自分の実家と折り合いが悪かった。
 だから、宗介たちが母方の祖父母に会うのは、あの日が初めてのことだったのだ。
 なんでも、代々続く酒造を(いとな)んでいた祖父は、母に家業を継がせるつもりだったらしい。
 おまけに、結婚相手も杜氏(とうじ)蔵人(くらびと)のなかから選ぶように迫ったのだとか。
 母はそれに反発して、大学卒業と同時に家を飛び出したのだと聞いていた。

「今にして思えば、うちの蔵の人たち、皆いい人ではあったのよねぇ。少なくとも、浮気をするような性格の人はいなかったし、円満な家庭を築けたとは思うのよ」

 結婚に失敗した今だから分かる、結果論なんだけどね。何にせよ、言葉が足りないわ。
 母はそんな調子で、ぶつくさとぼやいていたものだ。

 けれど月日が経ち、また祖母の仲介もあって、ようやく和解の時は訪れるはずだった。
 だからこそ、あの日は家族で祖父母に会いに行く予定だったのだ。
 それがまさか、あんな事故に遭うなんて、と。宗介は静かに目を伏せる。

 前触れなど何もなく、その瞬間は、ただ無造作に訪れた。
 高速道路上、中央分離帯の縁石を踏み越え突っ込んできた大型のトラックは、軽自動車などいとも簡単に押し潰してしまった。
 機械油の匂いに、誰のものかも分からない、むせかえるような血の匂い。
 割れた窓から流れ込む生ぬるい空気に、しとしとと聞こえる雨の音。夏の雨の匂い。

「いたい、いたいよって芽依(めい)が泣いてるのに、母さんも洸太(こうた)も知らんぷりでさ……なんで無視してるの、可哀想じゃん、なんか言ってやってよって思うのに、二人とも、なんにも返してくれなくて……だけど俺も挟まれてて、声も出せなくてさ……」
 宗介はわななく唇を、強く噛む。
「芽依の声も、どんどん小さくなってくし、すぐに聞こえなくなっちゃうし……おれ、それをただ聞いてるだけしかできなかった……」

 だんだんと、か細くなっていく妹の泣き声。それが完全に聞こえなくなってしまうまでの、あの永遠にも似た時間。あのときの絶望的な感覚は、今でもまざまざと思い出せる。

「どうして、って今でも思う。どうして俺たちだったんだろう、って」
「うん……やるせないんだね」

 朔が宗介の手に触れて、そっと握ったこぶしを解いていく。
 どうやら気づかないうちに、てのひらに爪を立てていたらしい。爪痕のついたてのひらには、わずかに血が滲んでいる。
 朔は痛ましげに宗介の手を見つめると、それを自分の胸元に押し当てた。
 そしてそのまま、まるで祈るようにそっと目を閉じる。
 その手にじんわりと伝わる温もりに、ようやく夢と現実の境目から戻ってこられたような気がして、宗介は詰めていた息をゆっくりと吐きだした。

「……ごめん、この雨に引きずられた。でも、もう平気だから」

 (つと)めて明るくそう言って、宗介は朔の手をそっと押し返す。
 いつものように頭を撫でようとして、血が滲んだてのひらに思い留まった。
 代わりに、その白い頬をそっと指の背で撫でると、朔がくすぐったそうに目を細める。

「ほら、渡し守のお仕事、行っておいで」
「……うん」

 朔はまだ何か言いたげな様子だったけれど、やがては後ろ髪を引かれるように「……行ってくるね」と言い残して、ぱたぱたと駆けていく。
 その後ろ姿を見送ってから、宗介は再び竹串を手に取った。
 窓の外では、相変わらず雨が降り続いている。
 考えないようにしていても、梅雨どきは否応なくあの日を思い起こさせるから嫌だった。
 ぽつり、ぽつりと窓を打つ雨音だけが、ただ静かな部屋に響いている。


      ◇◆◇

 ようやく作業を終える頃には、穴の空いた青梅が山のように積み上がっていた。
 改めて見ると、結構な量だ。野生の青梅は栽培用のものより小粒だから、そのぶん多めに収穫したせいだろう。
 甘露煮でも作ろうと思い立ったのがそもそもの始まりだったけれど、下処理を終えた青梅を眺めていると、少しだけ迷いが顔を出す。
 へたを取って穴を開けるところまでは、甘露煮を作るにしても、シロップにするにしても、あるいはジャムを作るにしても共通の工程だからだ。けれど、ここから先は作り方が分かれていく。
「どうしようかな……」
 まあ、後で朔や八尋に希望を聞けばいいか。
 そう結論づけて、宗介は青梅をいったん冷蔵庫に仕舞うことにした。

 ざるを抱えて立ち上がると、身体のあちこちがポキポキと小気味良い音を立てる。
 ずっと同じ姿勢でいたせいか、肩も腰もすっかり()り固まってしまっていた。
 大きく伸びをしながら外を見れば、いつのまにか雨は止んでいたらしい。
 相変わらずの曇天(どんてん)ではあるけれど、気晴らしと運動も兼ねて、久しぶりに河原へ降りてみようか。
 そう思い立った宗介は、縁側に置いてあったスニーカーに足を突っ込んだ。
 朔には大丈夫だと言ったけれど、実際のところ、一人でいるとどうしても事故のことを思い出してしまって、なかなか落ち着かないのだ。

 すっかり水気を含んでしまった庭を横切れば、たちまちぐちゃりと泥が跳ねる。
 できるだけ靴を汚さないように、ぬかるむ土に気をつけながら、宗介は慎重に山道を降りていった。
 時おり足を滑らせそうになりながら、何とか灰色の河原に足を踏み入れたなら、ようやく一息つける心地がする。雨の山道に比べれば、玉砂利に埋め尽くされた河原は歩きやすいし、靴も汚れない。

 水嵩(みずかさ)が増して、流れの速くなった川面を横目に見ながら、宗介は桟橋(さんばし)の方へと足をむけた。桟橋のたもとには白装束の亡者たちが列を作っていて、それを手際よく舟に乗せていく八尋の姿も見える。
 桟橋から少し離れたところでは、ちょうど朔が一人の亡者を順番待ちの列へと(いざな)おうとしているところだった。亡者は従順なようで、特に手を焼いている様子もない。
 そんな時、朔が宗介に気づいて、こちらを振り向いた。
 それにつられるように、亡者の男も宗介の方へと視線を向ける。
 その瞬間、なぜか男の目が、ハッと大きく見開かれた。
 かと思うと、次の瞬間には宗介や朔に背を向け、一目散に走り出していた。

「……えっ?」

 訳が分からず、間の抜けた声がこぼれ落ちる。
 亡者はわたわたと足元もおぼつかない様子でありながら、それでも確かに、宗介たちから遠ざかろうとするのだ。
 そのただならぬ様子に、宗介も朔も思わず顔を見合わせる。

「なんで逃げるんだ……?」
 困惑する宗介に、朔もまた小首をかしげる。
「わかんない……だけど、なにか事情があるのかな?」
「そうとくれば──」
「ん。お腹いっぱいになってもらわなきゃ、だよね」
 朔と宗介は頷き合うと、亡者を追いかけるために駆け出した。

 きっと宗介は、思い上がっていたのだ。
 どんな人物が相手でも、必ず寄り添うことができるのだと──。