さよならまたね、またいつか。 ~あの世とこの世のあいだご飯~

 河原へ降りれば、空はすでに赤く染まり始めていた。
 茜色の光が川面に溶けて眩しい。灰色だったはずの河原も、ほんのりと温かみを帯びている。日没までならという約束の時間が、今まさに満ちようとしていた。

「オムライスもゼリーも、おいしかったわ」
 小舟の上で陽葵(ひまり)が振り返り、ひらりと手を振る。
「じゃあね、おせっかいなお兄さん」

 小舟はゆらりと水面を滑り出し、ゆっくりと遠ざかり始めた。
 舟に漕ぎ手はいない。オールも(さお)もない。だというのに、此岸(しがん)を離れた途端に、不思議と吸い寄せられるように、舟はひとりでに彼岸を目指していく。
 きっともう、こちら側に戻ることは出来ないのだろう。超常的な光景だからこそ、そう漠然と悟ってしまう。

「……だって、川を横切るのってむずかしいでしょ」
 隣に立つ朔が、独り言のように呟く。
「ぼくらの役目はね、亡くなったひとを一人のもれなく、舟にのせて送りだすことなんだ」
 無理やりのせなくちゃいけないときには、ぼくたちもいっしょに渡るんだけどね。
 そう言って、朔は陽葵の背中を静かに見送る。

「なぁ、俺がいま舟に乗ったら、どうなるの」
「……沈んじゃうよ。あなたの魂には、まだ体が紐づいてるから。むこうには、辿りつけない」
「そっか……」

 小舟は灰色の岸辺を離れ、どんどん遠ざかっていく。
 夕陽を受けながら、その影は次第に小さくなっていった。やがて豆粒ほどになって、とうとう見えなくなってしまう。
 航跡はあっという間に波間に飲まれて、あとには何も残らない。
 茜色の水面だけが、ただ静かに揺れ続けていた。
 日が沈んでいく。宗介はしばらく、小舟が消えた先を見つめていた。
 ふいに、視界がぐにゃりと歪む。宗介は思わず目元を擦った。

「あ、れ……なんで俺…………」

 (ぬぐ)うけれど、それは次から次へとあふれてくる。
 ぽたぽたと水滴が滑り落ちて頬を伝う。止めようとしても、止まらなかった。
 どうしようもなく、漫画みたいな量の涙が溢れた。
 家族が川を渡ってしまったときには、実感がなくて泣けなかった。
 それなのに今は、見ず知らずの女の子を見送っただけで、こんなにも泣いている。
 それは多分、家族が川を渡ってしまったことの意味を、本当の意味でようやく理解したからだ。

「俺、本当に置いてかれちゃったんだな……みんな、芽依(めい)洸太(こうた)も、母さんも、先に逝ったんだなっ……!」

 そう口にした瞬間、思い出せなかった記憶の輪郭が、ぐっと鮮明になる。
 本当は忘れてなんかいなかった。忘れられるはずがなかった。
 ただ認めたくなくて、受け入れたくなくて、耳を塞いでいたいだけだった。

『 宗介だけでも、自分の人生を(まっと)うしておいで 』

 いやだ、嫌だよ。
 俺だって、一緒にいきたかったんだ。
 宗介はしゃがみ込み、嗚咽(おえつ)を噛み殺すように唇を噛む。

「俺だけ残ったって、なんの意味もないのに、どうしろっていうんだよ……」

 たとえば、宗介の料理を食べて、美味しいと笑う母がいないと気づく時。
 たとえば、目が覚めて、布団にくるまる弟を起こす必要がないと気づく時。
 たとえば、眠る前に、妹の歯磨きの仕上げをしてやる必要がないと気づく時。
 ふとした瞬間に、宗介は自分の隣を見て、その度に何度でも家族を失ってしまう。
 どんなに時間が経ったとしても癒えることのない、癒したいとも思わない喪失感。心にぽっかりとあいた空洞を埋めるものは、きっとこの先も見つからない。

「……ずっと、呆然としてたんだ」
「うん」

 ぽすりと背中に、温かいものが触れる。
 その温度に背中を預けるように、宗介はぽつりぽつりと言葉を(つむ)いでいく。

「何も思えなかったんだ。家族がいなくなったからじゃなくて……家族がいなくても、案外生活していけるもんなんだって気付いて。自分の薄情さが嫌になった」

 家族が死んでも、宗介の腹は減るし、太陽は昇る。時計の針が逆に進むことだってない。
 側にいないと生きていけない気がしていたのに、そんなことはなかった。
 ()いて言うのであれば、一人で生きていけてしまうことに絶望した。

「えっとね、うまく言えないけどね……」
 背中合わせの温もりが、たどたどしく言葉を探す。
「あなたはきっと、なにも思わなかったんじゃなくて、なにかを思うことができなくなるくらい、かなしくて、さみしかったんだと思うよ」

 その柔らかな声が、宗介の心に染み込んでいく。背中に添う温度に、また涙が溢れた。
 洗濯ものを畳む背中に、よじ登ってくる体温も。
 あっちにこっちにと忙しなく引っぱっていく、小さな手の温もりも。
 迷っている時には、目ざとく気付いて背中を押してくれる、柔らかい声も。
 全部全部、もう手の届かない場所へいってしまったのだと、今ならわかる。

 別れはいつだって、思いよりも先にやってくる。
 心がようやく追いついて、そして追い越していった瞬間だった。

「俺、これからどうしたらいいんだろう……」

 膝を抱えて(うずくま)る宗介に、朔は何も言わずに寄りそう。
 その温もりに甘えながら、宗介はしばらく泣き続けた。
 やがて、嗚咽がようやく落ち着いてきた頃合いのこと。じゃり、と河原の小石を踏む音が耳に届く。 
 ふっと影が差して「余計なお世話だったら悪いんだが──」という声が降ってきた。
 顔を上げれば、数歩先に舟を担いだ着流しの男が立っている。確か、八尋(やひろ)といっただろうか。
 沈んだ夕陽の名残(なごり)を背に受けて、その輪郭が金色に縁取られていた。
 そんな淡い逆光のなか、彼は言った。

 別れってのは必然だから、仕方のないことなんだぜ、と。
 だから大切なのは〝それまで〟なんだよな、と。

「まっ、年長者からのお節介というやつさ。聞き流してくれたっていいんだが」
 八尋はそれだけ言うと、肩をすくめてどこかへ去っていってしまう。

「それ、まで……」

 宗介は、その言葉を口の中で繰り返した。
〝その先〟がこれから紡がれることは、きっともうない。
 では〝それまで〟は──?

 ゆっくりと顔を上げれば、空にはそっと夜の気配が忍び寄り始めていた。
 金色から群青へと染まる空が、川面へ映り込んで揺れている。日は沈んだけれど、まだ完全には暮れ切ってはいない。そのどちらでもない時間が、河原を静かに包んでいた。

 家族が隣にいた世界の優しさも、楽しさも、温かさも。
 誰もいない世界の悲しみも、痛みも、苦しみも。
 ぜんぶ家族が宗介にくれた、宗介だけのものだ。

 もう〝その先〟を愛せないことは哀しい。
 それでも宗介は、家族をちゃんと愛していたと胸を張れる。
 家族に愛されていたと、胸を張れる。
 今はどこへも行けないというのなら〝それまで〟の想い出を拾い集めながら、前を向いていくしかない。
 でなければきっと、記憶はぽろぽろとこぼれ落ちて、いつかは風化していってしまうだろう。

 ──ちゃんと、人と関わろう。
 朔のように、陽葵のように。同じところも、違うところも、ひとつひとつ拾い上げながら。そうやって、ここでの時間を積み重ねていくしかない。

 涙を乱暴に拭って、宗介は立ち上がった。
 ズボンの尻を払う。河原の石がじゃりと鳴った。

「……なあ、朔」
 背後に向かって声をかけると、背中から温もりが離れた。
 とてとてと、朔が宗介の前に回り込んできて「なに?」と見上げてくる。
 その顔は相変わらず表情に乏しかったが、その目の奥には宗介を気遣うような色があった。

「俺の食事のついでで悪いんだけどさ」
 宗介は少し迷ってから、言葉を続けた。
「嫌じゃなかったら、朔たちもご飯を一緒に食べてくれないかな。誰かのために作ると、ちゃんと味がするんだ」
 朔はしばらく宗介を見上げていた。それからこくりと、小さく頷く。
 宗介は「ありがとう」と呟いた。

「手始めに……あのにんじん、何に使おうかな」

 自分がここにいる意味は、正直まだわからない。
 今だって、本当は川を渡ってしまいたいと思っている。
 けれど、今はどこへも行けないというのなら。
 まずはひとつずつ、ここで出来ることを探していくしかないのだろう。

 足元で小石が鳴る。背後では川が渾々(こんこん)と流れている。
 空の藍が少しずつ深くなっていくなか、宗介は来た道を戻り始めた。