ゴゥンと暖房を働かせる空調の音と、キーボードを叩く音だけが響く、殺風景な一室。
眼前の画面モニターを走るのは、大量の記号や英数字の羅列、ソースコードだ。腕時計の時刻はすでに、午前四時を指していた。
関節はどこもかしこも軋むように痛いし、化粧は皮脂と混ざりあって、泥のように張り付いている。それでも理央は、指を止めるわけにはいかなかった。
デバッグ作業が終わらない。
けれど、終わらないでは済まされない。
医療機関向けの電子カルテシステム、その構築作業が今夜のうちに完了できなければ、明朝の稼働に間に合わないからだ。
「……次は、データベースの統合作業か」
苦々しく呟き、ケミカルな蛍光色のエナジードリンクを口に運ぶ。
常温になって久しい液体が喉を通っていくけれど、胃に落ちる感覚はほとんどない。
思えば、昼過ぎに食べたコンビニのおにぎりが最後の食事だった。悲しいかな、空腹は限界を超えると、何も感じなくなってしまう。
隣のデスクでは、同僚でもある後輩が『落ち』ていた。
つい今しがた、まるで生命力を感じさせない動きで、糸の切れたマリオネットのように寝落ちたのだ。
デスクに打ち付けられた頭からは、かなり痛そうな音が鳴ったけれど。
呻き声のひとつも上げないあたり、いよいよ生気を感じられなかった。まるで屍そのものだ。
その向かいでは、先輩が腐りきった魚のような目をして「明日は我が身だなぁ」などと呟いている。だが、理央としては堪ったものではなかった。
「いやいや、洒落にならないこと言わないでくれません? 日付なんてもう、とっくに超えて今日になってるんですよ。さらに明日の日付を超えるまで意識を飛ばせない、なんて縁起でもない。ていうか、そもそも明日の定義って何ですか。今日って何……哲学ですか」
「知らねぇよ……あれだ、現刻は昨日の二十八時なんだろ。こいつのシステム構築が終わらねぇ限り、俺たちに〝今日〟は来ねぇんだわ」
「うわぁ、ほんっとに嫌な時間カウントの仕方……」
「……屍のように寝たけりゃ、手を動かすしかねぇんだわクソッたれ」
医療システムの開発導入、それが理央たちSEの仕事だった。
責任は重大。どこかでミスがあれば、病院のシステムが一時的に停止してしまうのだ。
電子カルテが使えなくなれば、医師や看護師の業務は滞り、最悪の場合、患者の命にだって関わってくる。
病院は悪くない。もちろん患者だって悪くない。
悪いのは全て、エンジニアのキャパシティを超えた受注をしてくる、弊社の無茶な経営方針の方だった。
ゼロからのシステム構築、既存のシステムに生じた不具合への対応。
はたまた病院スタッフへの平謝りに、法改正に伴う仕様変更・調整のエトセトラ。
それらの指示が、ひっきりなしに現場へ降りてくるのだ。
そのせいで、現場ではすっかり徹夜作業が常態化。
二徹や三徹だって、珍しくはないくらいだった。
「なぁおい、俗にいうブラック企業の定義って何だろうな、やっぱウチってブラックか。どこまでなら『業界柄』で済ませられる?」
そんな不毛なことを言い出した先輩に向かって、理央は「何を今さら」と睨みつける。
だが、そのせいで目の奥に居座る疼痛が増してしまって、ついつい舌打ちをした。
睡眠不足の何が良くないかって、理性や情緒に影響が出てくる。
怒りっぽくなるし、余裕がなくなる。
全方位に刺々しくなって、殺伐としてしまうのだ。
昔はこんな性格ではなかったのに、と理央はため息をつく。
「……うちの会社なんて、ファミレスのドリンクバーを全種類混ぜて出来あがったような、ドブとおんなじ色ですよ。真っ黒黒の黒でしょう」
ちなみにドリンクバー全種類というのは、もちろんコーヒー込みである。本当にやっていられない。
けれど、理央たち現場のSEが、自社の上層部にどれだけ不満を抱えていようとも。
納期に間に合わなければ、困るのは無関係のエンドユーザーだ。
つまりは医療従事者で、患者である。
やるしかない。
やらねばならない。
現場はそういう責任感だけで回っている。
理央はエナジードリンクの缶を乱暴にデスクへ置き、もう一度モニターに向き直った。
あとはもう、脳や視神経が焼き切れそうな感覚と戦いながら、無言でキーボードを叩くばかりである。
時間の感覚が崩壊していく。どれくらい作業を続けたのかも分からない。
気づけば朝になっていて、窓から見える山の端がうっすらと白んでいた。
どうやら雪もちらついているようだが、暖房の効き過ぎた部屋からは、遠い別世界のことのようだ。
エラーはようやく収束し、動作確認の最終テストを回している。
成功すれば、一旦は眠れる。どうやら〝今日〟は来たらしい。
そうして、トイレに行こうと立ち上がった時のことだった。
ふいに足元がぐらついた。
まるで、ピンヒールでクッションの上を歩いているみたいな感覚である。
まっすぐに立てている気がしない。
心臓が不規則に脈を打つ。ぐっと呼吸が詰まる。
胸の奥が、錐でも刺し込まれたように痛い。息が吸えない。
パソコンやデスク、風景がぐにゃりと歪んで、ドッと冷や汗が噴き出る。
いつもと違う。何かがおかしい。
「……やば」
かろうじて呟こうとした言葉は、音になっていたのかも分からない。
強制終了──。
電源ボタンを長押しされたみたいに、理央の意識はブツンと暗転した。
◇◆◇
「はっ……?」
目を開けると、どうしたことか、そこは見知らぬ場所だった。
泊まり込んでいた病院ではないし、デスクもPCモニターも、冷たい蛍光灯の光もない。それどころか、屋内でさえもない。
重たく垂れ込める凍雲のもと、目の前にはひたすらに灰色の景色が広がっていた。
足元には、角の取れた丸い石が無数に転がっていて、それがどこまでも果てしなく続いている。ところどころには、身を隠せそうなほどの大岩だってある。そこは随分と、色彩の寒々しい場所だった。
視線を左右に巡らせれば、灰色の途切れた一方には、暗く鬱蒼とした山が。
他方には、対岸をほとんど見通せないほどに雄大な川が、青黒く渾々と横たわっている。
どうやらこの場所は、荒涼とした河原の畔であるらしい。
理央の記憶が正しければ、このような場所を訪れたことは一度もなかったはずだ。
「いや……ここ、どこ?」
理央は凹凸の多い河原に手をつき、ふらりと立ち上がる。
不思議と痛みはない。体のどこかが苦しいわけでもない。
むしろ、凝り固まった筋肉が訴えていた慢性的な痺れも、重たい泥がまとわりつくような疲労感もなく。慣れっこになってしまった胃痛さえ、今やすっかりとなくなっている。
まるで何日も深い眠りについた後のように、嘘のように体が軽かった。
けれど一方で、そのことが余計に不安を掻き立てる。
これは夢だろうか、それとも現実?
理央は思いっきり自分の頬をつねってみる。
感覚は、一応ある。けれど、不思議とそれほど痛くはない。
凍てついた雲からは、雪がはらはらと舞い落ちているけれど、なぜだか寒いとは思えなかった。肌に触れる雪の感触は妙に鈍く、温度の感覚すらどこか遠い。
「これは、ゆめ……?」
「ううん、ちがうよ」
背後から聞こえたのは、とても平坦で、抑揚の少ない声だった。
「……とても残念なことだけど、あなたはもう、死んでしまったんだ」
振り向いてみても、誰もいない──と思いきや。
目線をぐっと下げると、理央の腰にも届かないような小さな男の子が、三白眼ぎみの双眸でじっとこちらを見上げている。
歳の頃は、六歳かそこらだろうか。通勤時に見かけるような、黄色い帽子の小学生くらいに見えるけれど、その体躯はかなり細身で華奢だった。
子どもは癖のない黒髪に、少し長い襟足をちょこんと括っている。
冬だというのに、身にまとっているのは墨染めの着流し一枚きりだ。
薄布一枚では見るからに寒そうだが、少年もまた、まるで気にした様子がない──と、そこまで考えてから、理央は何気なく自分の服装に目を落とす。
そうだ、自分だって少年と大差のない薄着をしている。ただし、その色は白い。
「……何、これ」
思わず自分の胸元を握り込む。
触り慣れない生地の質感。薄く、さらりとした白い着物。
それは、まるで浴衣のような形状をしているけれど、その衿元の合わせ目には、強烈な違和感を覚えてしまう。
普通、浴衣や着物を着る時には、右側の衿を内側にして、左側を上に重ねるものだ。
けれど、理央が今着ているその衣は、左右がまるで逆だった。その合わせ目は、自分から見て右側が前になっているのだ。
このように着付けられるのは、一般に死者だけであるはずだった。冗談にしては、あまりにもタチが悪い。
「いやいやいや、そんなまさか……」
そもそも、さっきまで自分は普通に仕事をしていたはずで──そう考えを必死に巡らせようとするけれど、直前の記憶はブツリと断ち切られたように途切れている。
確かにあの時、胸に不穏な痛みは感じたけれど、たったそれくらいで?
そりゃあ確かに、過労死のリスクが高まるとされる残業時間は、優に超える日々だったけれど。それでも何とか今まで、倒れることもなく働けていたというのに。
「まさか、本当に死んだっていうの……?」
思わず呟くと、少年は淡々とした表情のまま「そうだよ」と頷いた。
「だからあなたは、ここにいるんだ。だって、ここは賽の河原。三途の川の此岸だから」
少年はそう言って、ちらりと川の方を見やる。
「ぼくたち渡し守は、あなたを舟に乗せなくちゃいけないんだ」
理央は、少年の視線を追うようにして大河へと目を向けた。
とっぷりと揺れる、黒い黒い水面。水量は見るからに豊富で、きっと溺れたらひとたまりもないのだろう。対岸はやはり見通せないほどに遠く、朧にかかった川霧の奥に、微かに陸地の影が見えるだけだ。
現代にしては珍しく、これほど大きな河川であるにもかかわらず、見渡せる範囲に橋はひとつもない。
代わりにあるのは、川へ数メートルほど突き出した、今どき珍しい木製の桟橋で。川に迫り出して半端に途切れた桟橋の先端では、少年と同じ墨染め色の着流しをまとった青年が、白装束の人間を小舟に乗せているところだった。
白装束は、数人の列をなしている。
「……あれは?」
思わず問いかけると、少年は表情ひとつ変えずに淡々と答えた。
「みんな亡者だよ。渡るのを待っている人たち」
感情の起伏をほとんど感じさせない、呟くような響きだ。
少年の『亡者』という表現を、理央は小さく口の中で転がしてみる。
確かに理央の日常は、規則正しさとは無縁の生活だっただろう。
健康診断の結果だって、まだ二十代の身空で『生活改善』『要経過観察』だらけだった。冷静に考えれば、いつ身体を壊したっておかしくはなかったに違いない。
死んだと言われてしまえば、なんだか妙に腑に落ちるようなところもあって、理央はくしゃりと前髪を掻きあげる。
「はは……わたし、本当に死んだのか」
自分で言ったその言葉に、案外何も感じていない自分に気づいてしまって、理央は自嘲するばかりだった。
心を亡くすと書いて、忙しい。理央の心は、いつのまにか擦り切れて擦り切れて、すっかり摩耗しきっていたらしい。
雪が音もなく、しんしんと額に落ちてくる。
それでも不思議と、ほとんど冷たさや寒さを感じることは出来なかった。
それが「もう死んでいるのだから、凍死することもない」ということの暗示なのであれば、随分と皮肉がきいている。理央はそう独りごちた。
悲しいかと聞かれれば、きっと違うだろう。
驚いたかと聞かれても、それもまた違う気がする。
死んでしまったのなら、まあ、仕方がないか。
そんな風に、あまりにも淡々とした諦観が胸に広がっていくだけだった。
結局のところ、もう拒絶する気力も、理不尽に憤る元気もないのだ。
全てのことに疲れてしまった。きっと、それが正しい。
「……わたしも、あの小舟に乗らなきゃいけないの」
小さく呟くと、少年は「うん」とこくりと頷く。
「……そっか」
理央は川の向こうをじっと見つめた。
向こう岸はよく見えない。どこまでも続くように見える川の彼岸に、何があるのかもわからない。けれど、それを怖いとも思わなかった。
乗れと言われるのなら、乗ればいいのだろう。
死んでしまった以上は、行くべき場所があるのなら、そこへ行くしかないに違いない。
頭では分かっている。けれど、もう足が一歩も前に進まなかった。
死んだことを、受け入れられないわけじゃない。
川を渡ることが、嫌なわけでもない。
ただ、燃え尽きた。もう何をする気力も湧いてこないのだ。
「……少し、ここにいてもいい?」
気づけば、そんな言葉が口をついて出ていた。
少年は理央を見上げ、短く「……いいよ」と答えて言う。
「しばらくのあいだなら、ね。無理に乗せることは、好きじゃないから。……だけど、ごめんなさい。長居はさせてあげられないんだ」
「……そう」
少年はしばらく理央の反応を待っていたが、理央がそれ以上何も言わないと察すると、小さく肩をすくめる。
「……川を渡る心づもりができたら、呼んでね」
それだけ言って、子どもは桟橋の方へと駆けていってしまう。
理央は手頃な岩に腰を下ろし、ただ漫然と色褪せた景色を見渡した。
あんなに毎日、死に物狂いで働いていたというのに、終わってしまえばあっけない。
あの仕事は、何のためにやっていたんだろう。誰のためだったんだろう。
頑張った分だけ、どこかで誰かの命が救われたんだろうか。
考えても仕方のないことを考えながら、理央は足元の小石をつま先で小さく転がしてみる。
ころん、と軽い音を立てて、石は少しだけ転がって、すぐに動きを止めてしまった。
