高校生活。世間一般的に青春と呼ばれるこの年齢は、どうにも多感な時期らしい。
かくいう俺も何らかのSNSかニュース記事で目についた程度の知識でこんなことを考えているのだから、世間一般と言うのは中々に正しいものであるように思える。
だが、青春と言うのはなかなかどうしてつかみどころがない物だと思う。
恋愛をしていたら青春? 部活に励んでいたら青春? どれもこれも要領を得ない気がしてならない。
ならば、どちらもしていない俺は青春を送れていないのか?
帰りのホームルームをぼうっと聞き流しながら、取り留めもない思考の海を漂っていると、日直が帰りの挨拶を終えた。
沈みかけの太陽と春の爽やかさを微かに残した緩い風が俺の頬を撫で、髪を揺らす。
「龍樹~帰ろ」
高校二年生へ進級してからもうすぐ二か月になろうかと言うこの日。
いつも通りの軽い雰囲気で俺に声をかけてきたのは、同じクラスの女子生徒、風見夏葉だ。
「はいよ」
俺も慣れたように軽く返事をすると、手早く教科書等を鞄にしまい込んで立ち上がる。
「うし、帰るか」
「うん」
俺たちはそれから特に会話をするでもなく、二人並んで歩き、昇降口を出る。
高校二年、世間的に青春真っ只中と言われるこの時期を同級生女子と二人で帰り道を歩く。
これは青春ではないのだろうか?
「ねぇ、なに難しい顔してるの?」
「ん? いや、なに、ちょっと青春について考え事をな」
「青春? 青春って考える様なこと?」
変なの~とでも言いたげな感情が伝わって来る表情をして、夏葉は続けた。
「まあでも、私たちはそれなりに送れてるんじゃない? 青春」
スタスタと何歩か進み出てこちらを振り返りながらそう言う夏葉。
夕日を背に受けながら、にこりと笑いかける彼女の姿を見ながら、やはり青春は難しいと、そう思う。
だが、夏葉の言う通りこの日常が青春だというのなら、俺たちの妙な関係が始まったあの日から俺は青春を謳歌しているということになる。
時は遡り、昨年の夏休み直前。
高校生になると同時に始めた一人暮らしにもようやく慣れて、学校帰りに買い物をして帰れるくらいの余裕が出来始めた頃。
始めたては疲れすぎて、買い物に休日を消費せざるを得ない状況だったのだから、これは大きな進歩だった。
あの日は、夏休みに部屋ごもりを極めるために、スーパーで大量の買い込みをして帰って来たところだったと覚えている。
いくら家から出たくないからとはいえ、スポーツドリンクの二リットルペットボトル三本をビニール袋で持ち帰るのはかなりの重労働で、俺の手とビニール袋の底のどちらが先に力尽きるかの戦いをしていたところだった。
マンションのエントランスでエレベーターを待っていたその時、ついに決着は訪れた。
ペットボトルと一緒に包装がしっかりとして四隅の尖ったパスタソースを詰めていたのが勝負の分かれ目だったのだろうか。
エントランスにゴンっという鈍い音が響き、同時に俺の手は継続的な痛みから解放された。
だが、それは解決ではなく、更なる戦いの始まりでもあった。
俺の右手に残ったのは穴が開いてしまったビニール袋、ただそれのみ。
おそらく割と鋭利なパスタソースの包装がペットボトルの重さによって凶器と化し、ごく薄く、かつ重さによって張り詰められたビニール袋を突き破ってしまったのだろう。
背負うスクールバッグには学期末と言うことで持ち帰らされたプリントやら教科書やらがパンパンに詰まっている。
抱えようにも、三本と言うあまりに微妙なペットボトルの数。
最悪、その他の物についてはスクールバッグにねじ込めば……何とかなりそうだが、二リットルペットボトルは流石に無理だ。
とりあえず、散らばってしまったペットボトル以外の商品たちをスクールバッグに詰め込み、ペットボトルは一度諦めて、荷物を部屋に置いてから戻ってこようと思ったその時、彼女に話しかけられた。
「あの~八峰くん、だよね? 大丈夫?」
その彼女こそ、今、俺の隣を歩いている風見夏葉だ。
「あ、ああ、風見さん。……見ての通り、腕が二本しかないという人間の限界に直面してるところ」
情けない姿を晒してしまった……。
彼女とはあまり関わりはないが、この状況は同じクラスの女子に進んで見られたい状況ではない。
そんな感情が訳の分からない状況説明につながってしまい、二重に恥をかく。
だが――
「……だよね。私で良ければ一本運ぼうか?」
「……お願いしても、よろしいでしょうか?」
「いいよ、どうせ私も上いくし」
どうやら風見さんは百パーセントの善意で声をかけてくれたらしい。
この世の中も捨てたもんじゃないな。
俺が一度呼んだエレベーターは既に行ってしまったようで、次のエレベーターを待ちながら優しい世界に感謝した。
「八峰くんって運動部だったっけ?」
すると、聖人風見さんが両脇に二リットルペットボトルを抱える間抜けな男に話を振って来た。
「いや、全然帰宅部だよ」
「だよね、……じゃあ、なんでこんなに?」
風見さんは俺の両脇と自らの両手を交互に見ながら怪訝そうな顔をする。
「……最近は室内でも熱中症のリスクがあるから」
「…………もしかしてだけど、夏休み、部屋から出ずに過ごそうとか考えてない?」
苦し紛れの言い訳に冷めた顔をする風見さん。
……もしかしてエスパーなのだろうか?
「そうとも言う」
そこまで言い当てられてしまえば、もはや隠す方が情けなく、開き直って認めた。
「あんまり言いたくないけど、ちゃんと日光浴びて適度な運動とバランスの取れた食事が健康のためだよ?」
「おっしゃる通りです……」
入れ違いにエレベーターを降りてきた人からも、おかしな奴を見る目で見られながら、俺たちはエレベーターに乗り込んだ。
「友達とは遊んだりしないの? ほら、よく話してるよね。バスケ部の……軽沢くん? とかと」
「あいつは部活が忙しいんだと」
友達と言うか俺が一方的に絡まれているだけのような暑苦しい男を思い出しながらそう答える。
「あぁー確かに運動部は忙しそうだもんねぇ」
そんな世間話をしていれば四階の表示が点滅し、エレベーターが停止した。
「あ、俺ここだから。ありがとう風見さん、助かったよ」
開き始める扉を横目に確認しながら、風見さんにお礼を伝えて、ペットボトルを受け取ろうとするが、風見さんは何言ってるの? という顔をしてこう言った。
「いや、どうやって部屋に入るの? 別にすぐそこなんだし、部屋まで持つよ?」
「いや、そこまでしてもらうのは流石に……」
「いいからいいから! ほら、エレベーター閉まっちゃうよ」
うーん、もしかしたら風見さんは聖人を超えて天使か何かなのかもしれない。
お言葉に甘えて部屋の前まで運んでもらうと、今度は俺がお礼を言う前に風見さんが切り出した。
「鍵どこ? 開けてあげる」
……女神だ。どうやら同じクラスに女神が居たらしい。
「スクバの外ポケットに入ってるんだけど……取りづらいと思うからいいよ」
「もう! ここまで来て遠慮しないでよ。外ポケットね? んしょ」
風見さんは両手で持っていた二リットルペットボトルを片手に持ち替えて、俺が背負ったままのスクールバッグから器用に鍵を取り出した。
「あった! 私が開けちゃっていい?」
ここまでしてもらって今更遠慮することもないか。
「うん。何から何まで悪いね」
ガチャリと小気味いい音が響き、俺の部屋の扉が開く。
「お邪魔しまーす、うーんやっぱりあっついねぇ……」
もはや普通に上がって来た風見さんには何も思わない。
ここまでしてもらってお茶の一杯も出さない方が失礼だ。
……残念ながら我が家にあるのは、買いたてほやほやのスポーツドリンクだけだが。
「部屋の中までほんと助かったよ。気の利いたものはないけどスポーツドリンクくらい飲んでいってよ」
「いいの? 部屋ごもり用なんでしょ?」
「いいさ。この歳で不健康は勘弁だからね」
「ふふっ、じゃあ、お言葉に甘えて」
俺は手早く買ってきたものを冷蔵庫や棚にしまい込むと、洗い物から逃れるために買っておいたプラスチックのコップにスポーツドリンクを注ぎ、風見さんへ手渡した。
「お、ありがと! じゃあ、そっちのコップ貸して」
「? はい」
俺の注いだコップを受け取ると何故かこちらのコップを要求する風見さん。
言われるがままにコップを渡すと、そのコップにスポーツドリンクを注ぎ、俺へと手渡して来た。
「はい、じゃあ乾杯!」
「なるほど。乾杯」
どうやら俺の分も注いで乾杯がしたかったらしい。
これを素でやっているとしたら、風見さんは気遣いの鬼、いや、気遣いの女神だな。
「うーん、一仕事終えたあとの一杯は格別だね」
「若干ぬるいな……ごめん」
「気にしないで。それにスポーツドリンクは常温の方が体にいいって聞くよ」
少しの自虐も許さない本当にとんでもないフォロー力。風見さんと一緒に居ると勝手に脱力していい気がしてくる。
さすがはクラスカーストで上位に君臨しているだけのことはある。
「ねえ、八峰くん」
俺が感心していると改まった様子で風見さんが俺の名前を呼んだ。
「ん?」
「もしかしなくてもだけど……一人暮らし、だよね?」
「ああ、そうだよ。見ての通り。おかげで部屋が広いったらない」
「確かに、この部屋全然物ないよね。食器もプラコップだし」
ふふっと何故か無性に嬉しそうに笑う風見さん。
何か面白いことがあっただろうか? まあ、笑っているなら何でもいいか。
一瞬疑問がよぎったが、彼女のさわやかな笑顔の前では、その程度の疑問は即座に流れ去った。
「正直、キッチンとか風呂、トイレみたいな場所を除けば、自分の部屋で完結するからね」
「でも、寂しくならない?」
「まあ、ならないってことはないけど……別にいつも通りだしなぁ」
「ふーん、そっか」
何かを考える様な顔をした風見さんが突然、残っていたスポーツドリンクを一気に飲み干した。
「じゃあ、私帰るね!」
「ん、そっか。悪いね、大したもてなしも出来ず」
「いやいや、十分だよ! 私、ペットボトルを持ってエレベーターに乗っただけだし」
「風見さんがそう言うなら、まあいいか。じゃあ、ほんと助かったよ」
「うん! また、学校でね!」
そう言うと元気な足音を響かせて風見さんはエレベーターの方へ走って行った。
この時はこれっきりになると思っていたのだが、これを機に度々、風見さんこと夏葉が俺の部屋を訪ねてくるようになり、現在の付かず離れずな妙な関係になっている。
ううむ、思い出してみてもやはり青春の実態を掴みかねる。
確かに、あの日だけを切り取れば青春と言えなくもなさそうだが、それからの日々はもう日常だ。
こんな日常を青春と言っていいならば、青春時代を高校生活と重ねる意味はあまりないような気がする。
「……つき~、龍樹ってば」
「ん? どうした夏葉?」
再び思考の海へ潜っていた俺をジト目の夏葉が見つめている。
「いや、どうした? じゃなくて、もう部屋の前なんですケド……」
言われて気が付いた。
そこは、もう実家よりも慣れてしまったと感じられる我が家。
いや、我が部屋の目の前だった。
……エレベーターに乗っているのにも気が付かないって、どれだけ集中して考え事をしていたんだろうか俺は。
「悪い……今開ける」
「暑いんだから早くしてよね~」
おもむろにスクールバッグの側面に手を突っ込むと慣れ親しんだ金属の感触を確かめて引き抜く。
それから手元を確かめる間もなく、俺は部屋の鍵を開けた。
「鍵の場所、変わらないね」
「まあ、こういうのは慣れもあるからな。突然変えたら、無くしたと思って焦るかもだし」
「それもそっか」
勝手知ったる様子で俺が開けた扉に家主より先に入っていく夏葉。
「うわ~蒸してるね~エアコンエアコン!」
「エアコン付けたら手洗いとうがいはちゃんとしろよ」
「もうっ! 分かってるよ!」
靴を脱ぎ、きれいに踵を揃えてからリビングの方へ駆け足で向かう夏葉。
言動は先走っていても、こういう律儀なところは一年前から変わらない。
エアコンは夏葉に任せて俺は先に洗面所で手洗いとうがいを済ませる。
コップには当然のように青とピンク、二本の歯ブラシが立てられていて、こういう細かい部分からも俺の日常が感じられる。
……やはり、青春とは違うような。
「ちょっと、いつまで鏡の前で立ち尽くしてるの? 今日ちょっとおかしくない? ほんとに大丈夫?」
短い間に三度目となるこのやり取り。
先ほどまでは怪訝そうにしていた夏葉の顔も、三度目となっては少し心配そうな表情になっている。
その表情を見ていたら、なんだか無性に――
「ちょ、ちょっと待った! ストップストップ! なになに、ほんとに今日大丈夫?」
彼女の長い髪をさらりと流して、その頬に触れようとしたところで、夏葉からストップが入った。
………………いや、突然何をしているんだ俺は……。
「わ、悪い」
「べ、別に嫌ってわけじゃないけど……。でも、ちょっと、急すぎ」
悪びれる俺を見て、微かに頬を上気させながら、その頬に触れかけていた俺の手を身体の横に戻す。
「はい、行った行った! そろそろエアコンも効いてきたんじゃない?」
「……ああ」
今日の俺はどうしてしまったというのか。
そもそもなぜ青春という言葉をこれほど引き摺っているのか?
リビングに向かう途中、冷蔵庫からスポーツドリンクを取り出し、二人分を注ぐ。
一つはテーブルの向こう側に置いて、俺はグイっとコップを傾けた。
汗ばんだ身体に冷たいスポーツドリンクの程よい甘みが染み渡る。
そのままの勢いで一杯を飲み干すと、取り留めのなかった思考からは解き放たれたような感覚があった。
「ふいー、龍樹~私にもスポドリ頂戴~」
「はいよ、もう入れてあるぞ」
洗面所から歩いてきた夏葉に入れておいたスポーツドリンクを手渡し、俺はテーブルについた。
その場でひと口コップを呷った夏葉も俺の正面に移動し、椅子に腰かける。
「やっぱりこれだよねぇ」
「まあ、飲みすぎると糖分過多だけどな」
「汗かいた後は大丈夫ですー」
そう言って、再びコップを傾ける夏葉を、特に何の気もなくただ見つめる。
これはもう当たり前になってしまった日常で、俺には見慣れた光景だ。
コップを持つときに立つ小指も、最後のひと口は口に含んでからゆっくりと飲み込む飲み方も全て知っている。
おそらく彼女のこんな細かいところを知っているのは世界でも俺だけだ。
そう考えると途端にこの日常が特別なものに感じられる……ような気がする。
「ちょっと龍樹サン? そんなに熱い視線を向けられると飲みにくいんですけど」
「悪い悪い」
……どうやら今日の俺は少し、いやかなり考え込みすぎているようだ。
夏葉から無理やり視線を逸らすようにポケットからスマホを取り出してSNSアプリを眺める。
せいぜい十二、三センチの板の中に三センチから七センチ程度の情報の粒が数え切れんばかりに流れていく。
普段ならこのくらいてきとうに生きているのだが、いったい今日はどうしたというのか。
「そういえば今日さ、私告白されちゃった」
SNSを流し見していた俺に夏葉が突然切り出した。
そして、ようやく合点がいった。
「……そうか。さすがによくモテるな」
俺はこれを聞く前から知っていた。
知っていたというか、たまたま見てしまったというのが正確か。
「えーそれだけ? 反応薄ーい」
「そうか? こんなものだろ?」
表面上ではそう取り繕うが、俺の内心では点と点とが線となって繋がっていく。
それは今日の昼休みのこと。
購買から教室に戻るまでの道でなんとなく遠回りがしたくなった俺は、普段はあまり通らない技術系科目教室が並ぶ実習棟を歩いていた。
そして一年時に何度か使用しただけの被服室の横を通ろうとした時、微妙にズレた扉が気になってそこに近づき、それを聞いてしまった。
「夏葉さん、好きです!」
悪いとは思ったが、なぜか足が動かず、聞き耳を立ててしまった。
「えーっと、ありがとう?」
夏葉は曖昧な様子で反応としては微妙そうだったが、告白をしている方の男子生徒は止まらず言葉を続ける。
「俺はあなたと高校生活を、青春を送りたいんです!」
なんとも青臭く、まっすぐな告白だと思った。
そして俺はこの言葉を聞いて、何故かものすごい違和感を覚えたのだ。
だが同時に現状のマズさも理解し、そこから先は聞かず、足早に教室へ戻ったのだった。
「結果とか気にならないの?」
淡白な俺の反応に不満そうな表情の夏葉。
「まあ、気にならないこともないけど、これまでの統計的に断っているだろうことは分かるからな」
だが実際、夏葉が告白されることはよくあり、俺は彼女がそれを一度も了承していないことを知っているので、この反応になるのも仕方がないだろう。
「今回は……違うかもよ?」
「じゃあ、違うのか?」
尚も引き下がってくる夏葉に逆に質問をしてみれば――
「……違わないけど」
挑戦的だった視線を下げて、小さくそう呟く。
「ほらな?」
この通りだ。
だが、今日はいつもよりも安心感を覚えた。
「ちぇーつまんない。龍樹は恋バナとかないの?」
「ないな、残念ながら……」
「ですよね~まあ、知ってたけど……」
「じゃあ、聞くなよ……」
何だか安心したかのような表情の夏葉を見てぼそっと恨み節を吐いた。
それからはいつも通りの俺に戻った、と思う。
少なくとも自分ではそう思った。
「さて、さっさと今日の課題を片付けよう」
「そうだねー、そう言えば今日の夜はあの映画やるらしいよ!」
「じゃあ、夕食遅めにして食べながら見るか?」
「いいね。じゃあ、なんかお菓子開けよっか。さすがにお腹空いちゃって集中できないかもだし」
「おう、夏葉の好きなのでいいぞ」
「やったー! 何がいいかな~」
こうして今日もいつも通りの日常が過ぎて行った。
かくいう俺も何らかのSNSかニュース記事で目についた程度の知識でこんなことを考えているのだから、世間一般と言うのは中々に正しいものであるように思える。
だが、青春と言うのはなかなかどうしてつかみどころがない物だと思う。
恋愛をしていたら青春? 部活に励んでいたら青春? どれもこれも要領を得ない気がしてならない。
ならば、どちらもしていない俺は青春を送れていないのか?
帰りのホームルームをぼうっと聞き流しながら、取り留めもない思考の海を漂っていると、日直が帰りの挨拶を終えた。
沈みかけの太陽と春の爽やかさを微かに残した緩い風が俺の頬を撫で、髪を揺らす。
「龍樹~帰ろ」
高校二年生へ進級してからもうすぐ二か月になろうかと言うこの日。
いつも通りの軽い雰囲気で俺に声をかけてきたのは、同じクラスの女子生徒、風見夏葉だ。
「はいよ」
俺も慣れたように軽く返事をすると、手早く教科書等を鞄にしまい込んで立ち上がる。
「うし、帰るか」
「うん」
俺たちはそれから特に会話をするでもなく、二人並んで歩き、昇降口を出る。
高校二年、世間的に青春真っ只中と言われるこの時期を同級生女子と二人で帰り道を歩く。
これは青春ではないのだろうか?
「ねぇ、なに難しい顔してるの?」
「ん? いや、なに、ちょっと青春について考え事をな」
「青春? 青春って考える様なこと?」
変なの~とでも言いたげな感情が伝わって来る表情をして、夏葉は続けた。
「まあでも、私たちはそれなりに送れてるんじゃない? 青春」
スタスタと何歩か進み出てこちらを振り返りながらそう言う夏葉。
夕日を背に受けながら、にこりと笑いかける彼女の姿を見ながら、やはり青春は難しいと、そう思う。
だが、夏葉の言う通りこの日常が青春だというのなら、俺たちの妙な関係が始まったあの日から俺は青春を謳歌しているということになる。
時は遡り、昨年の夏休み直前。
高校生になると同時に始めた一人暮らしにもようやく慣れて、学校帰りに買い物をして帰れるくらいの余裕が出来始めた頃。
始めたては疲れすぎて、買い物に休日を消費せざるを得ない状況だったのだから、これは大きな進歩だった。
あの日は、夏休みに部屋ごもりを極めるために、スーパーで大量の買い込みをして帰って来たところだったと覚えている。
いくら家から出たくないからとはいえ、スポーツドリンクの二リットルペットボトル三本をビニール袋で持ち帰るのはかなりの重労働で、俺の手とビニール袋の底のどちらが先に力尽きるかの戦いをしていたところだった。
マンションのエントランスでエレベーターを待っていたその時、ついに決着は訪れた。
ペットボトルと一緒に包装がしっかりとして四隅の尖ったパスタソースを詰めていたのが勝負の分かれ目だったのだろうか。
エントランスにゴンっという鈍い音が響き、同時に俺の手は継続的な痛みから解放された。
だが、それは解決ではなく、更なる戦いの始まりでもあった。
俺の右手に残ったのは穴が開いてしまったビニール袋、ただそれのみ。
おそらく割と鋭利なパスタソースの包装がペットボトルの重さによって凶器と化し、ごく薄く、かつ重さによって張り詰められたビニール袋を突き破ってしまったのだろう。
背負うスクールバッグには学期末と言うことで持ち帰らされたプリントやら教科書やらがパンパンに詰まっている。
抱えようにも、三本と言うあまりに微妙なペットボトルの数。
最悪、その他の物についてはスクールバッグにねじ込めば……何とかなりそうだが、二リットルペットボトルは流石に無理だ。
とりあえず、散らばってしまったペットボトル以外の商品たちをスクールバッグに詰め込み、ペットボトルは一度諦めて、荷物を部屋に置いてから戻ってこようと思ったその時、彼女に話しかけられた。
「あの~八峰くん、だよね? 大丈夫?」
その彼女こそ、今、俺の隣を歩いている風見夏葉だ。
「あ、ああ、風見さん。……見ての通り、腕が二本しかないという人間の限界に直面してるところ」
情けない姿を晒してしまった……。
彼女とはあまり関わりはないが、この状況は同じクラスの女子に進んで見られたい状況ではない。
そんな感情が訳の分からない状況説明につながってしまい、二重に恥をかく。
だが――
「……だよね。私で良ければ一本運ぼうか?」
「……お願いしても、よろしいでしょうか?」
「いいよ、どうせ私も上いくし」
どうやら風見さんは百パーセントの善意で声をかけてくれたらしい。
この世の中も捨てたもんじゃないな。
俺が一度呼んだエレベーターは既に行ってしまったようで、次のエレベーターを待ちながら優しい世界に感謝した。
「八峰くんって運動部だったっけ?」
すると、聖人風見さんが両脇に二リットルペットボトルを抱える間抜けな男に話を振って来た。
「いや、全然帰宅部だよ」
「だよね、……じゃあ、なんでこんなに?」
風見さんは俺の両脇と自らの両手を交互に見ながら怪訝そうな顔をする。
「……最近は室内でも熱中症のリスクがあるから」
「…………もしかしてだけど、夏休み、部屋から出ずに過ごそうとか考えてない?」
苦し紛れの言い訳に冷めた顔をする風見さん。
……もしかしてエスパーなのだろうか?
「そうとも言う」
そこまで言い当てられてしまえば、もはや隠す方が情けなく、開き直って認めた。
「あんまり言いたくないけど、ちゃんと日光浴びて適度な運動とバランスの取れた食事が健康のためだよ?」
「おっしゃる通りです……」
入れ違いにエレベーターを降りてきた人からも、おかしな奴を見る目で見られながら、俺たちはエレベーターに乗り込んだ。
「友達とは遊んだりしないの? ほら、よく話してるよね。バスケ部の……軽沢くん? とかと」
「あいつは部活が忙しいんだと」
友達と言うか俺が一方的に絡まれているだけのような暑苦しい男を思い出しながらそう答える。
「あぁー確かに運動部は忙しそうだもんねぇ」
そんな世間話をしていれば四階の表示が点滅し、エレベーターが停止した。
「あ、俺ここだから。ありがとう風見さん、助かったよ」
開き始める扉を横目に確認しながら、風見さんにお礼を伝えて、ペットボトルを受け取ろうとするが、風見さんは何言ってるの? という顔をしてこう言った。
「いや、どうやって部屋に入るの? 別にすぐそこなんだし、部屋まで持つよ?」
「いや、そこまでしてもらうのは流石に……」
「いいからいいから! ほら、エレベーター閉まっちゃうよ」
うーん、もしかしたら風見さんは聖人を超えて天使か何かなのかもしれない。
お言葉に甘えて部屋の前まで運んでもらうと、今度は俺がお礼を言う前に風見さんが切り出した。
「鍵どこ? 開けてあげる」
……女神だ。どうやら同じクラスに女神が居たらしい。
「スクバの外ポケットに入ってるんだけど……取りづらいと思うからいいよ」
「もう! ここまで来て遠慮しないでよ。外ポケットね? んしょ」
風見さんは両手で持っていた二リットルペットボトルを片手に持ち替えて、俺が背負ったままのスクールバッグから器用に鍵を取り出した。
「あった! 私が開けちゃっていい?」
ここまでしてもらって今更遠慮することもないか。
「うん。何から何まで悪いね」
ガチャリと小気味いい音が響き、俺の部屋の扉が開く。
「お邪魔しまーす、うーんやっぱりあっついねぇ……」
もはや普通に上がって来た風見さんには何も思わない。
ここまでしてもらってお茶の一杯も出さない方が失礼だ。
……残念ながら我が家にあるのは、買いたてほやほやのスポーツドリンクだけだが。
「部屋の中までほんと助かったよ。気の利いたものはないけどスポーツドリンクくらい飲んでいってよ」
「いいの? 部屋ごもり用なんでしょ?」
「いいさ。この歳で不健康は勘弁だからね」
「ふふっ、じゃあ、お言葉に甘えて」
俺は手早く買ってきたものを冷蔵庫や棚にしまい込むと、洗い物から逃れるために買っておいたプラスチックのコップにスポーツドリンクを注ぎ、風見さんへ手渡した。
「お、ありがと! じゃあ、そっちのコップ貸して」
「? はい」
俺の注いだコップを受け取ると何故かこちらのコップを要求する風見さん。
言われるがままにコップを渡すと、そのコップにスポーツドリンクを注ぎ、俺へと手渡して来た。
「はい、じゃあ乾杯!」
「なるほど。乾杯」
どうやら俺の分も注いで乾杯がしたかったらしい。
これを素でやっているとしたら、風見さんは気遣いの鬼、いや、気遣いの女神だな。
「うーん、一仕事終えたあとの一杯は格別だね」
「若干ぬるいな……ごめん」
「気にしないで。それにスポーツドリンクは常温の方が体にいいって聞くよ」
少しの自虐も許さない本当にとんでもないフォロー力。風見さんと一緒に居ると勝手に脱力していい気がしてくる。
さすがはクラスカーストで上位に君臨しているだけのことはある。
「ねえ、八峰くん」
俺が感心していると改まった様子で風見さんが俺の名前を呼んだ。
「ん?」
「もしかしなくてもだけど……一人暮らし、だよね?」
「ああ、そうだよ。見ての通り。おかげで部屋が広いったらない」
「確かに、この部屋全然物ないよね。食器もプラコップだし」
ふふっと何故か無性に嬉しそうに笑う風見さん。
何か面白いことがあっただろうか? まあ、笑っているなら何でもいいか。
一瞬疑問がよぎったが、彼女のさわやかな笑顔の前では、その程度の疑問は即座に流れ去った。
「正直、キッチンとか風呂、トイレみたいな場所を除けば、自分の部屋で完結するからね」
「でも、寂しくならない?」
「まあ、ならないってことはないけど……別にいつも通りだしなぁ」
「ふーん、そっか」
何かを考える様な顔をした風見さんが突然、残っていたスポーツドリンクを一気に飲み干した。
「じゃあ、私帰るね!」
「ん、そっか。悪いね、大したもてなしも出来ず」
「いやいや、十分だよ! 私、ペットボトルを持ってエレベーターに乗っただけだし」
「風見さんがそう言うなら、まあいいか。じゃあ、ほんと助かったよ」
「うん! また、学校でね!」
そう言うと元気な足音を響かせて風見さんはエレベーターの方へ走って行った。
この時はこれっきりになると思っていたのだが、これを機に度々、風見さんこと夏葉が俺の部屋を訪ねてくるようになり、現在の付かず離れずな妙な関係になっている。
ううむ、思い出してみてもやはり青春の実態を掴みかねる。
確かに、あの日だけを切り取れば青春と言えなくもなさそうだが、それからの日々はもう日常だ。
こんな日常を青春と言っていいならば、青春時代を高校生活と重ねる意味はあまりないような気がする。
「……つき~、龍樹ってば」
「ん? どうした夏葉?」
再び思考の海へ潜っていた俺をジト目の夏葉が見つめている。
「いや、どうした? じゃなくて、もう部屋の前なんですケド……」
言われて気が付いた。
そこは、もう実家よりも慣れてしまったと感じられる我が家。
いや、我が部屋の目の前だった。
……エレベーターに乗っているのにも気が付かないって、どれだけ集中して考え事をしていたんだろうか俺は。
「悪い……今開ける」
「暑いんだから早くしてよね~」
おもむろにスクールバッグの側面に手を突っ込むと慣れ親しんだ金属の感触を確かめて引き抜く。
それから手元を確かめる間もなく、俺は部屋の鍵を開けた。
「鍵の場所、変わらないね」
「まあ、こういうのは慣れもあるからな。突然変えたら、無くしたと思って焦るかもだし」
「それもそっか」
勝手知ったる様子で俺が開けた扉に家主より先に入っていく夏葉。
「うわ~蒸してるね~エアコンエアコン!」
「エアコン付けたら手洗いとうがいはちゃんとしろよ」
「もうっ! 分かってるよ!」
靴を脱ぎ、きれいに踵を揃えてからリビングの方へ駆け足で向かう夏葉。
言動は先走っていても、こういう律儀なところは一年前から変わらない。
エアコンは夏葉に任せて俺は先に洗面所で手洗いとうがいを済ませる。
コップには当然のように青とピンク、二本の歯ブラシが立てられていて、こういう細かい部分からも俺の日常が感じられる。
……やはり、青春とは違うような。
「ちょっと、いつまで鏡の前で立ち尽くしてるの? 今日ちょっとおかしくない? ほんとに大丈夫?」
短い間に三度目となるこのやり取り。
先ほどまでは怪訝そうにしていた夏葉の顔も、三度目となっては少し心配そうな表情になっている。
その表情を見ていたら、なんだか無性に――
「ちょ、ちょっと待った! ストップストップ! なになに、ほんとに今日大丈夫?」
彼女の長い髪をさらりと流して、その頬に触れようとしたところで、夏葉からストップが入った。
………………いや、突然何をしているんだ俺は……。
「わ、悪い」
「べ、別に嫌ってわけじゃないけど……。でも、ちょっと、急すぎ」
悪びれる俺を見て、微かに頬を上気させながら、その頬に触れかけていた俺の手を身体の横に戻す。
「はい、行った行った! そろそろエアコンも効いてきたんじゃない?」
「……ああ」
今日の俺はどうしてしまったというのか。
そもそもなぜ青春という言葉をこれほど引き摺っているのか?
リビングに向かう途中、冷蔵庫からスポーツドリンクを取り出し、二人分を注ぐ。
一つはテーブルの向こう側に置いて、俺はグイっとコップを傾けた。
汗ばんだ身体に冷たいスポーツドリンクの程よい甘みが染み渡る。
そのままの勢いで一杯を飲み干すと、取り留めのなかった思考からは解き放たれたような感覚があった。
「ふいー、龍樹~私にもスポドリ頂戴~」
「はいよ、もう入れてあるぞ」
洗面所から歩いてきた夏葉に入れておいたスポーツドリンクを手渡し、俺はテーブルについた。
その場でひと口コップを呷った夏葉も俺の正面に移動し、椅子に腰かける。
「やっぱりこれだよねぇ」
「まあ、飲みすぎると糖分過多だけどな」
「汗かいた後は大丈夫ですー」
そう言って、再びコップを傾ける夏葉を、特に何の気もなくただ見つめる。
これはもう当たり前になってしまった日常で、俺には見慣れた光景だ。
コップを持つときに立つ小指も、最後のひと口は口に含んでからゆっくりと飲み込む飲み方も全て知っている。
おそらく彼女のこんな細かいところを知っているのは世界でも俺だけだ。
そう考えると途端にこの日常が特別なものに感じられる……ような気がする。
「ちょっと龍樹サン? そんなに熱い視線を向けられると飲みにくいんですけど」
「悪い悪い」
……どうやら今日の俺は少し、いやかなり考え込みすぎているようだ。
夏葉から無理やり視線を逸らすようにポケットからスマホを取り出してSNSアプリを眺める。
せいぜい十二、三センチの板の中に三センチから七センチ程度の情報の粒が数え切れんばかりに流れていく。
普段ならこのくらいてきとうに生きているのだが、いったい今日はどうしたというのか。
「そういえば今日さ、私告白されちゃった」
SNSを流し見していた俺に夏葉が突然切り出した。
そして、ようやく合点がいった。
「……そうか。さすがによくモテるな」
俺はこれを聞く前から知っていた。
知っていたというか、たまたま見てしまったというのが正確か。
「えーそれだけ? 反応薄ーい」
「そうか? こんなものだろ?」
表面上ではそう取り繕うが、俺の内心では点と点とが線となって繋がっていく。
それは今日の昼休みのこと。
購買から教室に戻るまでの道でなんとなく遠回りがしたくなった俺は、普段はあまり通らない技術系科目教室が並ぶ実習棟を歩いていた。
そして一年時に何度か使用しただけの被服室の横を通ろうとした時、微妙にズレた扉が気になってそこに近づき、それを聞いてしまった。
「夏葉さん、好きです!」
悪いとは思ったが、なぜか足が動かず、聞き耳を立ててしまった。
「えーっと、ありがとう?」
夏葉は曖昧な様子で反応としては微妙そうだったが、告白をしている方の男子生徒は止まらず言葉を続ける。
「俺はあなたと高校生活を、青春を送りたいんです!」
なんとも青臭く、まっすぐな告白だと思った。
そして俺はこの言葉を聞いて、何故かものすごい違和感を覚えたのだ。
だが同時に現状のマズさも理解し、そこから先は聞かず、足早に教室へ戻ったのだった。
「結果とか気にならないの?」
淡白な俺の反応に不満そうな表情の夏葉。
「まあ、気にならないこともないけど、これまでの統計的に断っているだろうことは分かるからな」
だが実際、夏葉が告白されることはよくあり、俺は彼女がそれを一度も了承していないことを知っているので、この反応になるのも仕方がないだろう。
「今回は……違うかもよ?」
「じゃあ、違うのか?」
尚も引き下がってくる夏葉に逆に質問をしてみれば――
「……違わないけど」
挑戦的だった視線を下げて、小さくそう呟く。
「ほらな?」
この通りだ。
だが、今日はいつもよりも安心感を覚えた。
「ちぇーつまんない。龍樹は恋バナとかないの?」
「ないな、残念ながら……」
「ですよね~まあ、知ってたけど……」
「じゃあ、聞くなよ……」
何だか安心したかのような表情の夏葉を見てぼそっと恨み節を吐いた。
それからはいつも通りの俺に戻った、と思う。
少なくとも自分ではそう思った。
「さて、さっさと今日の課題を片付けよう」
「そうだねー、そう言えば今日の夜はあの映画やるらしいよ!」
「じゃあ、夕食遅めにして食べながら見るか?」
「いいね。じゃあ、なんかお菓子開けよっか。さすがにお腹空いちゃって集中できないかもだし」
「おう、夏葉の好きなのでいいぞ」
「やったー! 何がいいかな~」
こうして今日もいつも通りの日常が過ぎて行った。



