1
正反対の男子高校生が、恋に落ちる方向と速度を求めよ。建前の抵抗はないものとする。
「宮本大晴くん。うちの高校はな、定期考査で赤点取ると部活停止だ。来月のインターハイ予選にも出られないぞぉ」
バスケ部の練習に打ち込んだり、新しいクラスメイトと遊んだりして過ごした、ゴールデンウィーク明け。
担任の高畠に職員室に呼び出され、衝撃の事実を言い渡された。
呑気な口調だけど、だいぶやばい。
先月の小テスト、でっかい丸がいっぱいあった。
(「0」点とも言う)
特に理系科目が壊滅的で、「高校の授業って難しんだな」って思ってたところに、部活停止?
「おれの『部活で大活躍してかわいい美人と付き合うサイコー高校生活』がいきなりピンチ〜!?」
自分で言っちゃうけど、おれは中学のとき全国大会にも出場したバスケ部期待の新入部員だ。
一年生にして身長は百八十二センチあって、ほどよい筋肉つき。その上、これも自分で言っちゃうけど犬顔のイケメン。茶髪はセンター分けにして、顔がみんなによく見えるようにしてる。
この人好きのする顔と運動神経と明るさで、ずっとイージーモードできた。
それが一転、人生初の崖っぷちに直面するなんて。
「中間テストって、六月一週目だっけ。一か月でどうしろっての〜?」
高畠の、体育担当と思えないくたびれジャージを握り締めて泣きつく。
バスケ部顧問でしょ。技術指導は外部コーチに任せてるんだから、部員の成績のほうは何とかしてよ。
「敬語使えな? 一石二鳥で解決できる案を考えてやったから、放課後物理室に来ること」
「まじ? ばたけっちありがと」
「敬語ぉ」
そう言いつつ、高畠は怒ってない。
やっぱり今回も何とかなりそうだ。
一石二鳥って、いいことがふたつあるんだよな? たとえば、物理室にかわいい美人がいたりして。
(楽しみかも)
ピンチはチャンスに早変わり。
放課後、部活前にうきうきと物理室を訪ねた。
「失礼しま〜す。——!!!」
え。うそ。やば。
(ほんとにめっちゃ美人がいる!)
いろんな機器が並ぶ部屋の奥。黒板の前に佇む一人に、目が吸い寄せられる。
足なっが。首もすっと長い、しなやかなモデル体型だ。身長はおれとほぼ変わらない。
(ん? 男か。いや男でも美人〜)
さらさらの前髪が、書かれた数字を見つめる切れ長の瞳にかかっている。睫毛の下に泣きぼくろがあった。チョークを持つ指まできれい。
「ぬぅ、宮本、出入り口に突っ立ってんな」
見惚れていたら、引き戸をガラッと開けた高畠に追突された。情緒台無し。
「ええと、久我くん。ちょっとこっちおいで」
「はい」
でも、あの美人を呼び寄せたから許した。
(久我っていうんだ)
声も涼やかだ。近づくと、ほのかに石鹸の匂いがする。じっと見つめても目は合わない。
「彼はな、二十歳未満対象の物理オリンピックの日本代表に高一にしてなった、理系の天才だ」
わけもわからず紹介された。
「物理オリンピック?」
「去年一年かけて国内予選やって、今年の六月にアジア大会、七月に世界大会がある。他の代表は超進学校の三年生ばっかり」
「へ〜」
勉強にもスポーツみたいな大会があるのも、同じ学年にそんな天才がいるのも知らなかった。
うちの高校は学生数多めで、スポーツクラスと特別進学クラスもある。
久我は特進に違いない。おれは廊下の真反対に位置するスポクラ。そりゃ知らないか。
「つぅわけで、宮本。中間までの間、久我にマンツーマンで理系科目教えてもらえ」
「えっ。ばたけっちが赤点回避させてくれんじゃないの」
「俺は体育専任だ、どうにもできん」
解決案を考えたとか言って、まさかの生徒に丸投げ。
まあでも、美人とマンツーマンも悪くないかな。男だけど。
と、せっかくやる気になったってのに。
「俺にメリットがありません。他の部員に依頼してください」
静かに立っていた久我が、やっと口を開いたと思ったら、超冷たく断られた。
かたく腕を組み、おれのほうを見向きもしない。
どうすんの、と高畠を見る。高畠はしたり顔で、久我に何やら耳打ちする。
「……で、……から」
久我の賢げな眉が片方、ぴくりと持ち上がった。
かと思うとこっちに向き直り、パソコンに占拠されていないテーブルを指差す。
「そこに座って、教科書を開け」
華麗なる掌返し。
でも、こういう展開とは思わなかったから、勉強道具を何も持ってきてない。
「ばたけっち〜、あれ?」
せめてルーズリーフ代わりの紙を恵んでもらおうにも、高畠はさっさと踵を返していた。少しは仕事しろ?
仕方なく、部活用のヘッドバンドで前髪だけ留めて、ちっちゃい角椅子に座る。
「よろしく〜。なあ、ばたけっちに何言われたの?」
「君に話す義理はない。それより早く教科書を」
めっちゃ事務対応。はじめましてなんだから、ちょっとくらい雑談したっていいじゃんか。
「持ってない」
「何をしにきたんだ、君は。非効率的だな」
答えるや、久我があからさまに顔を顰めた。
(なんか——)
上から目線で感じ悪!
おれは友だちが多いほうだけど、こういうタイプはいない。おれがミスっちゃってもだいたい「いいよいいよ」って笑って何とかしてくれるのに。
不機嫌でも美人なのがまた小憎らしい。
「……いいの顔だけじゃん」
つい小声でつぶやく。
「君みたいなあほは嫌いだ」
すかさず切り返された。
あほって。いちばん言われたくない、おれの地雷ワードだってわかってんの!?
(おれはほんとはなあ、真剣に、……)
がたんと立ち上がり、うーっと威嚇する。
久我もさっきに増して冷たい眼差しを投げてくる。
きわめつけに最悪のタイミングで、
「怜也くんいるかな? あっ、いた! 物理オリンピックの準備頑張ってー!」
女子グループが物理室の出入口から顔を覗かせ、はしゃぎながら久我に手を振った。
入学一か月にしてファンがついているらしい。
(待って。あの子、かわいいなって思ってた隣のクラスの子じゃん! ゴールデンウィーク一緒に遊びたかったけど予定合わなかったんだよな)
それを、久我はわざわざ会いに来てもらっている。
「手、振り返してあげなよ」
「上っ面しか見ない者とは馴れ合わない」
なのに超絶塩対応。
ぎりぎりと犬歯を噛み締めた。
この男は、おれのサイコー高校生活を妨害する天敵である。そう解答を導き出した。
いくら美人でもかわいげのないやつは、おれだって好きじゃない!
うちの高校の男子バスケ部は、インターハイに出たり出なかったりってレベルだ。
実は他県の全国大会常連校にも誘われたんだけど……楽しくプレーしたくてうちを選んだ。
思ったとおり、部内の上下関係もガチガチじゃなくてほっとした。
久我なんかに頼りたくないけど、部活を続けるために、背に腹は代えられない。
マンツーマン補習は水曜の放課後ってことになった。
「ばたけっち。今日、久我の日だから練習休むね」
「ん、了解。コーチとキャプテンには話してあるから、せいぜい頑張れな」
「せいぜいって」
勉強教えてもらえば赤点回避できるって、ちゃんと信じてくれてる? まあおれ自身未知数だけどさ。
(は〜、気が重い)
放課後、物理とか数学の教科書をぽいぽい詰め込んだエナメルバッグを引き摺り、物理室へ向かう。
「大晴どしたの、犬の散歩みたい」
「違うし。ワンちゃんはおれだし」
「あははっ、また遊ぼうね」
下がりきったしっぽの幻が見えたのか、すれ違う女子が励ましてくれた。
水曜の部活は体育館が使えなくて地味な筋トレだし、補習でもそんなに変わらない。
そう気持ちを奮い立たせ、引き戸を開ける。
「失礼しま〜す」
「遅い」
0.2秒で久我に怒られた。まだ何もしてないのに!
「スポクラからだと物理室遠いの!」
「時速三十キロ出せば余裕だろう」
「そ……れだと何分で着く?」
「計算してみれば」
「求め方わかんない」
久我は呆れたような笑みを浮かべ、黒板の端に「時間=距離÷速さ」と書く。
感じ悪、感じ悪! その公式くらい知ってるし。
「てかそれテスト範囲じゃないじゃん」
角椅子にどかりと腰を下ろし、シュシュで前髪をりんご結びした。
気合は充分。どっからでもかかってこい。
久我が指を伸ばしてくる。無駄に石鹸のいい匂い。
「手始めに、教科書のここからここまで読め」
数学の教科書のページをとん、と示すと、くるりと黒板のほうを向いた。
たぶん何かの数式を書いている。おれには外国語とか魔法の呪文にしか見えないけどね。
従順に教科書を読む。
「読んだ」
「次は、例題と答えをそのままノートに書き写せ」
そのままでいいの? とりあえず写す。
パソコンのキーボード音とかモーター音とかに囲まれてると、意外とはかどる。
「書いた」
「その横に練習問題を写して、例題の答えの計算式と、数字だけ入れ替えてみろ」
久我は事務的に指示を出したら、すぐ背を向ける。
(……あのさあ)
物理室まで出向いてきたのに、片手間過ぎない? たとえおれがあほでもよ。
「れ〜ちん、ここ何入れるかわかんない」
「——!」
下の名前の「怜也」から適当に考えたあだ名で呼んだら、久我は電波が悪いときの動画のごとく硬直した。
もしも〜し?
「……レンチンみたいな訳のわからない呼び方するな」
ぎしぎし振り返るも、泣きぼくろの周りが薄っすら赤い。
なんだ? レンチンのが訳わかんないけど。——あ、わかった。
「んじゃチン○んにしよっか?」
下ネタ連想したでしょ、とからかってやる。
「何回呼ぼうが何デシベルで呼ぼうが反応しない」
「こっち見てくれてたら呼ぶ必要ないけど?」
久我はむ、と口を噤んだ。
胸がすく。理系の天才様相手でも、コミュ力っていうか会話のドッジボール力なら負けないもんね。
「あの二人、言い合いの息は結構合ってるんじゃない」
「仲良くなりそう、フフ」
そこに、隣のテーブルでミニロボット(だと思う)を弄ってる物理部員たちの会話が聞こえてくる。
「「はい!?」」
不本意にもハモってしまった。
「どこをどう聞いたら『仲良し』が出てくんの?」
「彼の話は低俗でそもそも言い合いにもなっていない」
お互い否定しながら相手に突きつけた指先が触れ合いそうになって、慌ててふんっとそっぽを向く。
……ていうかさ?
他の物理部員の活動ほうが、だんぜん気になる。
「ね〜、何つくってんの」
せっかく横を向いたので、角椅子をすすっと寄せて訊いてみた。
「これかい? イカをイカ干し機に運ぶロボットだよ」
「イカをイカほしきにはこぶろぼっと」
って何ぞ。
「今年の高校ロボコンの課題なんだ、フフ」
「そっちのパソコンの人は?」
「ゲームアプリです」
「ゲーム? どんな?」
「試遊します?」
「する!」
勉強そっちのけで遊ばせてもらいにいく。
聞けば、物理部はロボット班とプログラミング班に分かれてて、それぞれ「ロボコン」「プロコン」っていう全国大会を目指してるんだって。
「すご〜っ! 未知の世界だ」
みんな、おれがリアクションする度に饒舌になって、嬉々として解説してくれた。
誰かさんと違って、感じもいい。「あほに話してもわかんないでしょ」って態度の人はいない。
「……」
その誰かさんが、さっきからちら見してくる。
放っとかれる気持ち、少しはわかった?
おれは寛大だから、角椅子を戻して話し掛けてあげる。
「あんたはどっち班なの」
「今、はオリンピック班だ。大会の過去問を解いてる」
久我はばつが悪そうにしつつ、チョークを置いて答えた。ずっと書いてたの、計算式だったんだ。
「班って言っても、一人じゃん」
「……」
「このレベルの問題解ける人、久我くんしかいないからね」
図星かと思いきや、三年生部員がフォローを入れた。
「そうなんですか?」
「うん。実は情報オリンピックもあるんだけど、物理部メンバーは二次予選止まりだった」
「へ〜、ふ〜ん」
久我がすごくすごいのは、納得せざるを得ない。
バスケで言ったら一年生でU19日本代表ってことだもんな。
ただ、バスケってチームでプレーするから楽しいわけで。
「そんなに勉強おもしろい?」
根本的な問いが口をつく。冷笑とかじゃなく、未知への興味。
すると久我は、自分が書いた計算式を愛おしそうに見上げた。
「物理を理解すると、世界が美しく見える」
「……、そか」
短くも力強く答える久我の横顔が一瞬美しく感じちゃったんだけど、これはどういう物理法則だろう。
「実用性もある。バスケットボールのシュートだって、物理法則に則ってるんだ。まず射出角度を——」
その間にも、黒板の空きスペースに図まで書いて、うんたらかんたら説明してくれる。
でもごめん。ちょっと何言ってるのかわからない。
こないだ来てたファンの女の子たちなら、うっとり聴き入るんだろうけど。
「さすが〜、すご〜い」
ひとまず相槌打ってたら、久我はぷつりと話を中断した。
「本当に理解してるか?」
「し、てるしてる」
やばい。見抜かれてる。
違うの。おれがあほなんじゃないの。久我は易しくしたつもりでも、おれにはまだ難しいだけなの!
「基礎だが。どうやって高校に入ったんだ」
「スポーツ推薦だけど?」
訊かれたから答えたのに、どでか溜め息を吐かれた。
やっぱり感じが悪い。
「君、中間テストで赤点を免れたいんだったな」
「う、うん」
「だったら、週一の放課後の補習だけじゃ足りない。朝補習もすべきだ」
「えっ?」
大声が出た。今、突拍子もない提案をされたような。
「毎朝顔合わせるってこと?」
「オンライン希望か。環境はあるのか」
「じゃなくて、『あほは嫌い』って言ってたのに、どういう心境の変化よ」
「……」
久我が、それぞれの作業に戻っている物理部員のみなさんをちらりと見遣る。
もしかして。みんなの目のないところでいじめられちゃう? あだ名でちょっと遊んだだけじゃんか。
天才って小さいことを根に持つし、嫌いなやつをいじめるためなら早起きもするらしい。
「必要ないならいい」
久我はさっと指先のチョークの粉を払った。
それを見て、おれも気が変わる。
白い粉を見る度に、パブロフの犬みたいに怯えないといけない高校生活なんて勘弁だ。
「いや! やる。こんな日々早く終わらせたいし」
「それは俺の台詞だが」
成績がよくなれば、補習はおしまい。びくびくせずバスケできる毎日に戻れる。
そのために、天才様の頭脳を利用させてもらおう。
2
翌朝。登校に使ってるバスの関係で、久我に指定された時間より早めに校門をくぐる。
「眠〜。補習、頭に入んないかも……ん?」
半目で物理室に向かおうとしたら、ひっそり建つ第三体育館から物音がした。
ダム……ダムム。
ボールの弾む音。ただ妙に不規則だ。
第三体育館は古くて狭くて暑いから、どの部も朝練には使ってないはず。
(朝から怪奇現象っ? 早起きの幽霊っていんのかな)
好奇心が怖さを上回って、直角に方向転換した。
体育館出入り口の引き戸は、なぜか鍵が開いている。そーっとずらしてみる。
(——って、久我じゃん)
薄明るいフロアでバスケットボールを手にした体操着の男には、見覚えがあり過ぎた。
でも、なんで久我がバスケを?
(あ。そう言えば、中間テスト翌日の球技大会の種目、男子はバスケとサッカーだったっけ)
先生たちが答案を採点する間に、おれたち生徒は身体を動かすってシステムらしい。
なるほど、閃いた。
久我はバスケに割り振られた。それでコソ練してる。
(問題解いて終わりじゃなく物理オリンピックに挑戦するくらいだから、負けず嫌いだろうし)
なんて考察するおれの前を横切った久我が、レイアップシュートを放つ。
ぼがっ! とバックボードの下部に当たって跳ね返ったボールが、久我の下腹部に直撃。
久我が声もなくうずくまる。
その間、0.2秒。
「だっはははは!」
おれはこらえきれず爆笑した。
ちょ、こんな完璧な自爆ある? 逆に難しいって。
「み、宮本? なぜここに……っ」
「音聞こえたから。ていうか下手っぴ過ぎ〜、蛙化するわ。あっはは、げほっ、ふわはははっ」
久我がうずくまったまま、手首のスマートウォッチとおれの顔を交互に睨む。気づいてなかったんだ。
おれは酸欠で咳き込むも、まだ笑いが止まんない。
「やば〜、今年のおもしろいことランキング一位、五月にして決定したかもしんない」
「人に話したら殺す」
平静を装って立ち上がった久我が、魔王オーラたっぷりの声で言い放つ。
これは「感じ悪」っていうより、単純に。
「口悪過ぎ」
笑いまくったせいで目じりに滲んだ涙を拭う。
決してばかにしてるわけじゃない。
(久我も、おれと同じ人間なんだな〜)
しみじみと親しみを感じた。
校内の誰にも解けない問題が解けちゃう天才様も、球技は苦手らしい。
それも「殺す」とか言うんだ。男子高校生って感じ。
「てか、球技大会本番来たら、どうせみんなにう○ちなのばれるじゃん」
おれが言いふらすまでもないと指摘すると、久我の端正な顔がみるみる絶望に染まった。
まるで世界の終わりかのごとく。
「理論は完璧なのになぜだ……!」
「本気で言ってる? それ」
だめだ、まじでおもしろい。
理論どおりに動けたら苦労しない。スポーツはスポーツで、コツってもんがあるんだよ。
久我がわからないことをおれは知ってると思ったら、気分がいい。
いい気分のまま、引き戸の隙間に身体をすべり込ませ、後ろ手に閉める。
「ね。おれがシュートのコツ教えたげよっか」
「え?」
弱点克服の手助けを持ちかければ、久我は警戒たっぷりに一歩引いた。
天才って悪い想像もはかどるらしい。
バスケも高校生活も、楽しいに越したことはないってだけなのに。
「いいのか?」
「いいよ〜。おれのポジション、シューターだし」
足下に転がっているボールを拾い上げ、ジャンプシュートを放つ。
ばしゅっ、とネットをくぐる気持ちのいい音がした。靴下履きでも寝起きでも余裕。
久我が、おれを見直したような眼差しを向けてくる。ふふん。
「でも、君にメリットがない。俺は高畠先生に第三体育館の鍵を融通してもらったが」
あ、そういう取り引きだったんだ?
体育館の鍵、体育専任の先生が管理してるもんな。
じゃなくて、メリットか。手間と得るものの大きさを、等号で結びたい感じ?
けど、人間関係って持ちつ持たれつっていうか。
「う〜ん、別に損得で考えてないし。気にしないよ」
強いて言うなら、「宮本大晴はあほじゃない」って思い知るがいい。
久我は視線を彷徨わせたのち、
「じゃあ……頼む」
重々しく頷いた。
「誰にも言うなよ」
「わかった」
「約束しろ」
「わ〜かったって」
「っ!」
小指に小指を絡めてぶんぶん振ってやれば、久我はやっと大人しくなった。
——こうして、天才男子に勉強を教えてもらうだけじゃなく、ひそかにバスケを教えてあげることになった。
「……また来た」
かすかに石鹸の匂いがして、振り返れば。
教室の出入り口に、久我がすんと立っている。
始業前に秘密特訓をするようになってから、休み時間ごとにこうだ。
それでいて話し掛けてくるわけじゃない。
(でも、目的はわかってるからね〜?)
おれはしびれを切らして立ち上がった。
「大晴どした? ジャーキー食わねえの」
「それは食うから取っといて」
おやつをお預けにして男バス仲間の輪から抜け、机の間を縫い、久我に歩み寄る。
「あのさ。いい加減にしてくんない?」
びしりと言ってやった。
「いや、その」
久我は対照的に歯切れ悪い。
「君に犬轡をはめるわけにもいかないし」
「は〜? 怖いこと言うなよ」
久我の目的。それは——見張りだ。
理系の天才様は球技がめちゃくちゃ苦手だってことをしゃべってしまわないか、目を光らせている。
(この石鹸の匂いも、コソ練の痕跡消すための汗拭きシートの匂いだったんだよな。ほんと、てってー的)
第三体育館の隅っこで着替える久我の、割としっかりした背筋を思い出す……のはやめといて。
約束したのにぜんぜん信用されてない感じで、居心地がよくない。
「特進の教室とこっちの教室の往復、非効率的でしょ」
「頭の中で物理の過去問解いてるから問題ない」
「暗算?」
「産まない」
「安産じゃないわっ」
正当化してるふうで、おれとの話が上の空になってますけどね。
「どうせなら毎秒おれのこと考えてよ〜」
「っ、君自分が何言ってるかわかってるか?」
廊下でやいやい言い合ってたら、
「大晴、特進クラスの王子様とどういうつながりー?」
隣のクラスの女子に訊かれた。
横目に久我を見る。
「王子様なんだ?」
「……知らない」
小声でつつけば、困惑を浮かべた。贅沢な。
(にしても、どういうつながり、かあ)
特進とスポクラ、物理部とバスケ部で、授業も部活も別。中学も違うし共通の友だちもいない。
確かに接点はない。
(赤点のピンチって説明したら、おれがあほだと思われちゃう。それはやだ)
かといって。
久我の切れ長の瞳が、「言うなよ」って圧をかけてくる。はいはい、約束だから言わないよ。
それに何だろう、はからずもおれの掌の上な状況、みすみす手放すのはもったいない気がする。
(天敵が、思いもよらないきっかけで共犯だわ)
ってわけで、結論。
「かれぴだよ〜」
「何それずるーい!」
「どっちの意味で?」
女の子たちが華やかに笑う。おれも笑う。
久我だけ笑ってない。泣きぼくろの周りがほんのり赤い。冗談の通じないやつめ。
予鈴が鳴って、それぞれ教室に戻る。
別れ際にひと声かけた。
「ちゃんと黙ってたでしょ。女の子たち、ぴとか信じてないからね?」
「……わかってる」
久我は右手と右足を同時に出して歩いていく。
あれじゃバスケなかなか上達しないかもなあ。
昼休みももちろん、久我の見張りがある。
はじめは後半だけで、おれが廊下で雑巾サッカーとかして遊ぶのを、問題集片手に遠巻きにしてたんだけど。
(ん?)
今日は昼休みになってすぐ、ミニナイロンバッグを手に提げてきた。
(中身、お弁当だったりする? ——はは〜ん)
補習の成果じゃないけど、だんだん久我の頭の中を解読できるようになってきた。
たとえば今は、飯誘われ待ち。一緒に食べてやってもいい、みたいな。
誘い方は知らないっぽい。まったくもう。
「一緒に食う?」
突っ立たせとくのもあれだから、誘ってあげた。
「……一緒に食べてやってもいい」
ほ〜らね。
外面を取り繕わなくていいよう二人きりで、せっかくだからと第三体育館へ向かう。食べ終わったら特訓ね。
使い古されたフロアに、並んで胡坐を掻いた。
「久我のサンドイッチ、手づくり? 美味そ〜」
「……、……食べるか?」
「へ? いやおれは母さんの特大弁当あるから」
「……」
久我はなぜか難問にぶち当たったような顔で、持参した鯖サンドに齧りつく。
なおも物言いたげにこっちをちらちら見てきた。
「なに」
「……あんな冗談言ったりして、いいのか?」
あんな冗談。ってどんな冗談? 母さん特製拳サイズの唐揚げをもぐもぐ咀嚼しながら、思い返す。
(あ、「かれぴ」の話?)
そこを掘り返すとは意外だ。
少し考えてから、答える。
「うん、今はフリーだし。ガールフレンドはいっぱいいるけどね〜」
久我は、心配して損したってばかりに溜め息を吐いた。
(これでいい)
——実はいつも、振られる。
自慢じゃないけど、運動神経抜群のおれはモテる。
でも必ず、「わたしのことそんなに好きじゃないでしょ」って言われちゃって、長続きしない。
(好きだけど、真剣になればなるほど、喧嘩したときとか別れたとき傷つくじゃん……?)
だったら楽しく、広く浅くでいいかなって思う。おれのキャラにも合ってるし。
なあんて、らしくもなく考え込んでたら。
「……」
(うわ)
久我に凝視されていた。
おれの頭ん中、解読しようとしてる?
慌てて白米を頬張り、話題を変える。
「久我は、カノジョ……の前に、友だちいなそう」
「うるさい」
「あっはは、否定しないんだ」
女の子ファンはいるけど、塩対応だし。
物理部員は班で固まってるし、頻繁に見張りにくるくらいだからクラスにも仲良いやつはいないとみた。
(おもしろいとこもあるけど、かわいげがないもんな)
と思いきや。
「周りの人間が適当に見えて、関係が深まらないだけだ。どうにかしたいとは思うが」
久我がぽつりとこぼす。
——え、何それ。
そんな本音めいたこと打ち明けてくれちゃって、そっちこそいいの?
理系の天才の目には世界が美しく見える一方、弊害もあるらしい。
しかも、どうにかしたいって。
「おれが、なったげよっか」
思わずそう言っていた。
どんな理論かわかんないけど、フィーリングで、おれでよければ友だちになってあげたいって感じた。
(ん〜とほら、一人だと楽しくないし?)
弁当箱を片づけていた久我は、また電池切れみたいに動きを止めた。
それでいて、泣きぼくろの周りがじわじわ上気する。
何だその反応。たかが友だちだけど。
変な空気になったじゃんか。責任取ってよ。
「あほは嫌いだったのに……」
久我が再起動したかと思うと、独り言のようにつぶやいた。
いや、悩むとこそこ?
「おれってそんなあほそう?」
「あほそうと言うか、あほだ」
断言された。うーっ。
さっきのフィーリング、なし。友だちになってやらない。
「まあおれは適当キャラだよね。自分でわかってるし〜」
おれもどうにかしたいけど、真剣キャラになったらなったで、さっき考えたみたいな怖さもある。
「……」
ままならない。
さすがに特訓の気分じゃない。突き刺さってくる久我の視線から逃れるように立ち上がった。
「もう教室に戻るのか」
ばっさり斬っておいて、久我が引き留めてくる。
そゆとこだよ? 友だちいないの。
「……まだ何かあるの」
「その。君が、俺の無様な姿を本当に黙っていてくれるとは思えなかった」
久我も立ち上がり、何かを探すように指先を彷徨わせた。やっぱり信用されてなかったんだ。
ていうか、友情自体を信じてなかった?
「だが、君は口が堅かった」
——え。
「だから、物理の成績がきちんと上がれば信じよう。キャラの下の素の君は、適当じゃないと」
唐突に告げられる。
すごく真摯な眼差しとともに。
そのせいで、おれはいつもみたいに笑って受け流すことができなかった。
「おはよ〜。宿題やってきた。ん」
我ながら単純だけど、久我にだけでも「君は適当じゃない」って思ってもらいたくて、がっつり勉強に取り組んだ。
朝、第三体育館で落ち合うなり、ノートを開く。
「よし」
「何その飼い主みたいなムーブ」
「君が犬みたいなんだが」
う。ワンちゃんキャラが染みついちゃってる。
でも、賢いワンちゃんもいるよな? 最近の久我がまさに犬っぽいし。サモエドって言われるおれとは犬種が違うけど。
「ここがわかんなかった」
「この公式を使う」
「あ〜ね、こっちの公式かあ」
つまずきは、ドーベルマン久我の一言ですんなり解決した。忘れないようにメモっとこ。
「……宮本の、字」
反対側からノートを見下ろす久我が、何か言い掛ける。
字があほっぽいって言われたら泣くからね?
「明るいな」
予想の斜め上の評が来た。
字が明るい、とは。光るインクのペンでもない。
まあ久我の表情が、黒板に書き連ねた数式を見上げるときと同じだから、誉め言葉として受け取ろう。
「でしょ〜、へへ」
「っ」
笑い返すと、久我はばっと立ち上がって準備運動し始めた。おれも軽く身体をほぐす。
「そっちは明日、物理の小テストか」
「うん」
スポクラと特進、授業の進度がぜんぜん違う。
うちのクラスでは、中間テストの予行演習的な小テストをやるよって予告されていた。
「そ〜だ、おまじないしてい?」
「?」
久我の右手を握り込ませて、グータッチする。
開いて、手の甲を軽く打ち合わせる。
最後に、掌同士を握り合わせる。
「何の意味があるんだ」
「おまじないだってば」
チームメイト同士のフィーリングでやる、ハンドシェイクってやつだ。
こっそり久我の賢い右手にあやかったってわけ。
その久我は、しげしげと自身の掌を見つめていた。
次の日、物理の授業。
「では、始め」
おれは前髪をきゅっとりんご結びして、問題用紙と睨めっこした。
(う)
数字とか図とか、アレルギー反応が出そうになる。
(あっでも、この問題は、教科書に載ってた例題とおんなじ形式だから——)
理系科目は、解き方のパターンがある。
求めるものは何か。そのために必要な数字はどれか。どの式に当てはめればいいか。
久我に教わったとおりに組み立てていけば、大丈夫。
一問ずつ倒していった。
「ぴ、いる〜?」
さらに次の日の放課後。水曜じゃないけど、物理室に駆け込んだ。
手には、返却ほやほやの小テスト。
「ついに『ぴ』になったんだ、フフ」
「そ〜なの」
「違うだろう」
すっかり意気投合した物理部員と笑い合う。
久我は「何を言ってるんだ」って顔したけど、おれの答案に気づいてチョークを置いた。
「どうだった」
「おれもまだ見てない。せーの、で見よ」
答案の端と端を持つ。
神妙な顔で、裏返す。
「1」って赤文字が見えた。それも、ふたつ。
「お〜!」
「二十点満点中、十一点か」
0点から、一気に二桁に上がってる——!
途中までしか計算式を書けなかった問題もあるけど、部分点をもらえてた。粘った甲斐があった。
「これ、百点満点だったら五十点越えてるよね?」
「そうなるな」
「ってことは、得点力五十倍だ!」
「そうはならないが」
喜び勇むおれと裏腹に、久我は冷静だ。
短期間でこんなに成績がよくなったの、すごいじゃんか。三桁常連の久我にとっては誤差なのかな。
と、思ったら。
「君にしては上出来だ」
しなやかな手で、頭を撫で撫でされた。
「……、何してんの?」
なんて言うか、むず痒い。
久我も久我で、はっとしたように手を引っ込める。
(あっ、まだ撫でて——いやいやいや!)
背が伸びて以来されてない褒められ方だったから、つい幻のしっぽをぶるんぶるん振っちゃった。
久我には解読されてませんように。
「世界の理がわかるようになると、楽しいだろう?」
その久我が、目を細める。
もう。美人がその笑い方は反則だよ。
でもまあ確かに、久我に見えてる世界がどんなふうなのか、ちょっとでもわかるのは楽しい。
「ね〜。信じた?」
「少しな」
「数字で言うとどんくらい?」
「……十一パーセントくらい」
「低っく!」
ただ、期待にはまだ届かない。
こうなったら中間テストで百点取ってやるからな。
(って、中間まであと一週間ちょっとかあ……)
なぜだか幻のしっぽが下がった。
朝は立場逆転して、おれがバスケを教えてあげる。
「まだ手だけで投げてる。脚の力が伝わるように」
「こうか?」
「うん。で……ぐぐっ、しゅ〜ん☆って感じで」
「急にあほになるな」
「うーっ、口で説明するの難しんだもん」
自分ではわかってても、人に教えるのって思ったより大変だ。
久我はそれを勉強でやってくれたから、投げ出さないけどね。
「こんな感じ」
貸し切りの第三体育館で、手本のシュートを打つ。
みんなが登校してくる前の秘密特訓だ。説明に手こずってられない。
革のボールはぱしゅっ、とネットをくぐって弾む。
「わかる?」
「宮本のシュートは、美しいな」
——えっ。どストレートな褒め言葉にびっくりして、あやうく壁に突っ込みかけた。
まあ、ね。おれは期待の一年生シューターだもん。
ていうか、美しさじゃなく、シュートのコツが伝わったかって話なんだけど。
「俺は、シューターにシュートの理論を滔々と説いていたのか」
久我を振り返ると、何やら反省するそぶりをしてる。
物理室でのうんたらかんたらのこと?
考えてみれば、久我は「完璧」って言えるくらい理論を理解してる。
「その理論と感覚を結びつければ、決まるよ」
ボールを拾って、久我にパスした。
久我が小さく頷く。緊張気味にジャンプして、シュートを放つ。
うん。フォームはだいぶ様になってきてる。身長があるから無駄に力まなくていいんだ。
でも、ボールは惜しくもリングに弾かれた。
「だめか〜」
「いつも偉そうなこと言ってるくせにって思うだろう」
久我が溜め息を吐く。
なに、自虐の気分?
「うん思う」
おれは容赦なく頷いた。だって事実だし。
「けど、それがれ〜ちんだし、天才ならできるようになるでしょ」
「!」
だから、不可能とは思わない。
「とことん付き合ったげるよ」
足もとに転がってきたボールを拾い上げる。
それにしても、天敵の弱点を解決してあげようとするなんて、おれって性格良過ぎるな。
などと思いながら、再度久我にパス。
「……」
気を取り直した様子の久我が、ぐぐっと跳び上がる。リリースの瞬間、ぴっと手首を返すのも忘れない。
ぱしゅっ。
ボールはクリアにゴールに吸い込まれた。
「ナイッシュー!」
自分が得点した並みの達成感が湧き上がる。
めいっぱい飛び跳ね、ぽかんとしてる久我の手を捉えてハイタッチした。
「……」
久我は喜びを表す代わりに、自分の掌をじっと見る。
「どしたの?」
「いや、その。どうにも解けない問題があるんだ」
見つめていた手を、今度は胸に当てた。
バスケの話——じゃなさそう。
中間テストのすぐ後に予定されてる、アジア物理オリンピックの過去問とか?
それで最近、黙って考え込むふうなときが度々あるのかも。自虐も弱気のせいに違いない。
「れ〜ちんに解けなかったら誰にも解けないよ」
大会ではきっといい成績を残せる、って励ます。
他の過去問はすらすら解いてたし。
「宮本なら解けるかもな」
「おれ???」
薄く微笑んだ久我は、とんでもないことを言い出した。そのくせそれ以上説明してくれない。
ぼちぼち生徒が登校してくる時間帯だ。音で秘密特訓がばれないように切り上げ、おれの補習に移る。
(え〜? ぜんぜん頭に入んないんだけど)
やっぱり、久我の話は難しい。
月が替わり、六月を迎えた。
「ばたけっち、先に御礼言っとくね。ありがと」
おれはおまじないを兼ねて、担任の高畠に拳を突き出してみせた。
「ワン?」
「いや、お手じゃないし」
本日から三日間、中間テストが行われる。
(久我に「小テスト満点取れるようにしておけ」って言われて、何回も解き直した。あれより難しくありませんようにっ)
できることはやった。
前髪をきゅっと結んで、挑む。
「始め」
なんと、しょっぱなから物理だ。
(ええと……。あっこれ、小テストの問題に似てる!)
問いを読んで気づく。ラッキー。
小テストはヒントの宝庫だって、久我が教えてくれたおかげだ。
解き方がわかる。計算ミスしないよう気をつけ、シャーペンを走らせた。
「大晴解けたか? オレ次の科目ノー勉だわ」
「ごめん今ちょっと話し掛けないで。頭に詰め込んだのこぼれちゃう」
文系科目は、授業で「これだけは憶えて」って言われた単語を憶えて乗り切る。選択問題もあるし余裕。
最終日ラストの科目は、数学。
頑張って数字を書きつける。
(久我はとっくに解き終わって、頭の中で物理の過去問解いてたりして)
一瞬違うことを考えたけど、集中し直す。最後まで気を抜かない。
「そこまで」
「は〜〜〜、解放された」
答案用紙を回収されるや、教室内が活気に満ちた。
テスト一週間前は部活禁止だったから、みんな身体を動かしたくてうずうずしてる。
明日の球技大会は白熱しそうだ。
(明日、かあ。当日も朝の秘密特訓、するのかな)
テスト期間中は、さすがに控えていた。
明日はどうするんだろう。
「大晴、何か食い行く?」
「ん〜、いいや。ばいばい」
久我とはなんだかんだ毎日会ってたから、逆に連絡先を交換してない。予定を確かめるべく、教室で待つことにする。
特進クラスは、テストの科目も多いんだ。
何となくチョークを手に取って、黒板に落書きしたりしてたら、廊下からかすかな物音が聞こえてきた。
(特進もテスト終わったっぽい!)
きゅっと体育館シューズを踏み締め、駆けていく。
ちょうど久我が教室から出てきたから、「ぴ!」って呼び止めた。
「宮本」
久我は驚いたように目を見開く。そして、ほんのり微笑んだ。
(あれ。会ったときってそういう感じだったっけ?)
たった数日ぶりにして、どう接してたか思い出せない。ぎくしゃくしてたら、
「手応えはどうだった」
久我のほうから訊いてきてくれた。
テストの手応え。正直、あった。
「ん〜……」
でも、赤点回避できたら、補習の日々は終わり。
それを望んでたはずが、ちょっと名残惜しい。
「どっちなんだ」
「んと、たぶんもう補習してもらわなくてだいじょぶ。で、朝の特訓のほうも明日で終わりかって思うと、なんかさびしいな〜って」
さびしいんだ、おれ。
口にしたことで、自分の感情を理解する。
(いや何言ってんの?)
最初から期間限定ってわかってたじゃんか。
他にも友だちはいるし、部活だって無事にできる。
女の子に振られたときも割とすぐ復活したのに。
なんでさびしいんだろ……? 何なら最初に出した「こいつは天敵」って解答も、合ってたのか自信がなくなってくる。
久我はというと、目を逸らさず、こっちを見据えてきた。
「宮本とじゃないと、解けない問題がある。解けるまで付き合ってほしい」
真面目な声色に、どきりとする。
おれとじゃないと、解けない? 天才の久我でも?
いったいどんな問題なんだ。
「あ、わかった〜。恋の練習問題でしょ。れ〜ちんてば狙ってる人いるんだ」
おれのばか。
思いっきり茶化しちゃった。だってだって、いざ真剣に向き合われると慣れないんだよ。
「……」
冗談の通じない久我は、顔に出るくらい逡巡してる。
早いとこ取り消してあげよ——。
「ああ」
え。肯定した?
久我、好きな人、いるの?
「恋愛は非理論的で理解できないと思っていた。だが、その人に会って変わった気がする」
方向の修正をしそびれたまま話が進む。
それも廊下にはまだ特進クラスの生徒が残ってるのに、堂々としてる。
「へ、へ〜」
この距離にいるおれだけ、久我の泣きぼくろの周りが淡く色づいているのがわかった。
(そんなに好きなんだ)
自分で恋愛の話を出しておいて、ふらふらと足もとが覚束なくなる。
久我の好きな人、誰なんだろう。
すごく気になるけど、見当がつかない。
それこそ理論と計算で導き出せたらいいのに。
「今日は頭いっぱい使ってもう回んないから、じゃ〜ね……」
自分がどんな声でそう言ったか、久我がどんな表情で聞いていたか、そこからどうやって帰ったのか、ぜんぜん憶えていない。
3
結局確認し損ねたので、朝の秘密特訓はなし。
静かな第三体育館を横目に、のそのそ教室へ向かう。
スポクラの出入り口で、ふわりと石鹸のにおいがした。
(れ〜ちん?)
途端覚醒して、大股で飛び込む。
「んお、大晴なんだよ」
体操着に着替えたクラスメイトが、制汗スプレーを仕込んでるだけだった。思わず肩パンする。
「べっつに〜」
おれもエナメルバッグを机に置き、制服のシャツを脱いだ。下にTシャツを着てきてある。
もう見張りは要らない。用もないのに久我がおれに会いに来るわけない。
久我の好きな人も、おれなわけない。だって。
(あほは嫌いって言ってたし)
「宮本大晴はあほじゃない」って、十一パーセントぽっちしか認められてない。スリーポイントシュートの成功率でさえもっと高いよ。
(いっそテストぜんぜんできなければ、補習は続けられたかも。いや、そしたら余計あほって失望されちゃうか)
かと言って、キャラ変の仕方もわからない。
(こうやって落ち込まないように、適当キャラやってるんじゃなかったっけ……?)
高校生活が何を以ってサイコーなのかもわからなくなってくる。
久我が関わるとわかんないことだらけ。やっぱり天敵だ。
(ていうか! おれ以外の誰かにも、「美しい」って言ったりとか「殺すぞ」って言ったりとか、おもしろいとこ見せちゃうの〜?)
なんかやだ。何とかして。
などと机の下で足をばたばたさせてたら、高畠がやってきた。
「全員出席してるな? 女子はここ、男は隣の教室で着替え。対戦表とタイムスケジュールはこのプリントどおり。質問なければ、チームごとに体育館かグラウンドに移動ぉ」
省エネな号令のもと、クラスメイトが動き出す。
当初のピンチは脱したはずなのにサイコーとは言えない状態で、球技大会がスタートした。
ぴかぴかの第一体育館。
三面取れるバスケットコートのうちのひとつの、センターサークルに立つ。
「はい、始めま〜す。あんまりあれなファウルしないでね」
「適当だな、大晴」
「ね〜そのワード今地雷……」
「?」
三学年合同の球技大会は、クラス対抗で行われる。
ただ、スポクラのバスケ部員はバスケにはエントリーできないルールで、審判をやらないといけない。
サッカーも、女子のバレーもソフトボールも同じ。
それはいい。ふつうに対戦したらスポクラが有利過ぎる。でもね。
「久我くん、背高いしジャンパーやってくれない?」
なんで、一年特進クラスの試合の審判担当になっちゃうの!?
「……」
久我、めちゃくちゃ見てくるし。なんか拳握ってるし、圧がすごい。「恋のキューピッドしろ」って?
(相手教えてもらわないと、やりようがないよ)
予選リーグは、応援に来てくれる女子もまだ少ない。
とりあえずホイッスルを咥えて、動揺をごまかす。
試合は、一年B組ボールで始まった。特進チームはディフェンスに回る。
(おっ、ゾーンディフェンス?)
ゴールに近い、台形部分の守りを固めてる。頭いい。
難しいロングシュートを外させ、マイボールにした。
今度は特進チームのオフェンス。
ローポストに陣取る久我に、早くもボールが渡る。
「打へ」
ホイッスル咥えてるのに、つい声出しちゃった。
審判は公平じゃないと、と自分に言い聞かせる。
そんなおれの目の前で、久我はゴールに向き直り。片膝を持ち上げて跳び、ボールを持った腕を伸ばす。
バックボードを利用して、見事にネットを揺らした。
(ナイッシュ! 自爆してたときと別人みたい)
二点追加、ってジェスチャーを得点係に送る。
続いてB組チームのオフェンス中に反則がないか見るためにコートの反対側へ移動する、んだけど。
「……」
久我がこっちをガン見してくる。
その後も、シュートを打ったらすかさず見てきた。「見たか」「どうだ」ってばかりに。
(見てるって。てか何〜? 突然かわいげ出さないでよね)
普段は高みの見物してる落ち着いた天才にも、弱点がある——あったし、親しみがある。
共犯が、お互い特訓するうちに懐かれた。
(でもおれじゃない誰かのことが好きなんでしょ……)
おれにだけお腹見せてくれると思ってたワンちゃんに、別の飼い主がいたような感じ。
思考が堂々巡りする。
(物理部のプログラミング班の人が、そういうループエラーがあるって言ってたな)
気になってエラーモードになるくらいなら、恋も叶えてあげちゃおっか?
そうすれば、もやもやを断ち切れるはず。
ブーッ、とタイマーが試合終了を知らせる。
同時に、一か月一緒にいてもぜんぜん気づかなかった、久我の好きな人探しを開始する。
(好きな人のことは、自然に見ちゃうよね)
特進チームは、背の高い久我の得点のおかげもあって、B組チームに勝利した。
誰と喜び合ってるか、観察する。
「?」
久我は、未だにドヤ顔でこっちを見てきた。
わかったわかった。それよりさあ……。
「大晴、そろそろサッカー始まんよ」
「あ、うん」
うまく視線の向きを辿れないうちに、おれが出場する試合の時間になっちゃった。
仕方なく調査を中断して、グラウンドに出る。
(相手は二年C組か。さくっと勝ちますか〜)
ヘッドバンドで前髪を留めて、いつもの部活と違う白黒のボールを追う。短い十五分ハーフだから、体力は気にせず走る。
「大晴ー、頑張れ!」
「大晴、ドッグランみたーい」
自分の試合が終わったらしい女の子たちが駆けつけ、声援を飛ばしてくれた。
「ドッグランは余計〜、……!」
ひらひら手を振り返していて、気づく。
(れ〜ちんもいる)
次の試合まで間が空いて、暇だったのかな。
いや、好きな人、応援してる子の中にいるとか!? ボールそっちのけでアンテナを張り巡らせる。
——でも、おれと目が合ってばっかり。
(なんでよ)
くるりと振り返ってみる。誰もいない。
謎が深まる。
その日はずっとそんな感じだった。
昼休みも、男バス仲間と体育館でお弁当食べてたら、久我はナイロンバッグ片手に構内をうろうろした末に、第三体育館の庇の下で一人飯してたし。
(あ〜、物理のテストより難し)
ちなみに、球技大会の結果はというと。
特進クラスのバスケチームは、予選リーグ一勝二敗に留まった。三年生チームとの試合は、大差をつけられちゃってた。
でも、久我が球技が苦手だったのは誰にもばれずに済んだ。むしろ「文武両道」って賞賛を浴びるくらい。
めでたしめでたし。
……なのに、ちっとも達成感がない。
表彰式の後は、部活再開だ。
来週末にはインターハイ予選が始まるから、三年の先輩たちはウォーミングアップから気迫がこもってる。
おれも、改めて前髪をきゅっと留めた。
(せめて部活はサイコーにしよ……、えっ!?)
二階のギャラリーに、人影がある。
球技大会でファンになってくれた(一年スポクラのサッカーチームは準優勝した)女の子かな、と思いきや、久我だ。
物理室の黒板の前を離れて、何してるんだろう。
(もしかして。好きな人、男バスの誰かなの?)
話すきっかけとして、こっそりバスケの練習をしてたんだとしたら。おれがいないと恋が進展しないっていうのも、説明がつく。
(おれ、いい人ポジ過ぎるじゃん〜。ううん、「ぴ」呼びしたりして空気読めてなかった)
また、「なんかやだ」って気持ちが渦巻く。
「集合!」
キャプテンが声を上げた。身体が反応する。
(集中しなきゃ)
フットワーク、2メン、3メン、3対2……とメニューが進んでも、久我は動かない。
ついちらちら確かめちゃう。
今月、アジア物理オリンピックに出場するって聞いた。対策の仕上げとか荷造りとかもしないとなのに、下校しないでいるのって——。
今日告白するつもりだったりして。
(……見たくない)
久我が部員の誰かに声を掛けるの、見たくない。
自分以外の誰を見つめてるかも、知りたくない。
練習の最後に5対5をやったけど、顔を上げられなかった。
得意なシュートもリングに嫌われ、さんざんだ。
「大晴、補習で鈍ったか?」
「あは、そうかもです。残って練習しま〜す……」
キャプテンの言葉に、苦笑いする。
ひとり居残り練に勤しむことにした。告白に居合わせずに済むのもあるけど、シューターは地道なシューティングが大事なんだ。
ダムダム、シュッ。
漫然とじゃなく、自分をマークする相手選手をイメージして、一本一本打っていく。
「九十九——、百。あ〜」
百本目のシュートは短く、リングの手前に当たって落ちた。気持ちの焦りがプレーに出ちゃってる。
(もっと膝で溜めつくらなきゃ)
いったんエアでフォームを再確認する。
その間にボールを拾ってくれた人がいて、すっと歩み寄ってきた。
「!」
ボールを持つ、しなやかな手は——。
おそるおそる顔を上げる。久我だ。
「……なんでいんの?」
素で訊く。他のバスケ部員はみんな着替えて帰った頃だ。
窓の外の空は紺色がかっている。
久我の体育館シューズが方向転換した音が、きゅ、と響く。
「このシュートが入ったら、言いたいことがあるから」
久我は、答えになってるようなってないような答えを返してきた。
言いたいこと?
もしも告白の仲介のお願いだったりしたら——。
「やだ!」
久我がシュートモーションに入る前に、おれは背を向けて走り出した。考えるより先に身体が動いていた。
「待て。なぜ避ける……っ」
久我がボールを小脇に抱えて追い掛けてくる。
(そんなに、仲介してもらってまで告白したいの?)
広い体育館で追いかけっこになる。それこそドッグランじゃないんだから、ひとりでどうにかしてよ。
「わわっ」
足はおれのほうが速い。だけど、コース取りは久我のほうが賢い。まんまと進路を塞がれちゃった。
ちょうどゴールの近く。
久我はここぞと、球技大会中みたいな「見てろ」って顔で、おれの上からシュートを放った。
ボールは恋の矢のように飛んでいき、最高到達点に達し、ゴールに向けて落下していく。
(やだやだやだ——)
ガタタッ。リングの縁でボールが暴れる。
弾き出されるかと思いきや、強引にネットを通った。久我の執念で押し込んだって感じ。
しかも、床にワンバウンドしてこっちに向かって弾んで、おしりに当たる。
……あ〜あ。期待の新入部員のおれとしたことが、阻止できなかった。
「はい、言いな」
半ば自棄で促す。
誰につなげばいい? キャプテンとか?
「み……た、大晴」
久我は結構いっぱいいっぱいだったのか、息を切らしながら、はじめて下の名前で呼んできた。
どきりとする。
今や、単なる同級生なのに。
「君に理論と感覚のつなぎ方を教わったことで、理論で解けないこの問題は、恋だと証明された」
「う、ん……?」
「恋愛的に君が好きだ。それですべて説明がつく。矛盾も破綻もない」
呆れたように、ちょっと悔しげでもありつつ、泣きぼくろの周りを赤く上気させて、久我が言う。
(好きって、言った?)
難しい言葉じゃないのに、理解が追いつかない。
久我がおれを?
久我の好きな人って——おれなの?
「大晴は?」
再び名を呼ばれて、幻のしっぽが反応しそうになる。
そんなの、そんなの……。
「おれ、は、みんなのワンちゃんだからさ〜」
「首輪をつけてやる」
この期に及んで保身に走り掛けたものの、すぐ捕まった。本気の目だ。
じゃあ、今日やたら目が合ったり、久我がたまに赤くなってたのも、おれを好きだから?
「でも、恋の練習問題、おれとなら解けるって」
「そう言ってる」
……あれ。久我が正解で、おれが不正解?
「でも、ただの共犯だったじゃん」
「ああ。大晴は秘密を守り抜いてくれたし、俺にできないことがあっても引かないでくれた」
「そんなの誰にだってあるよ」
久我が嬉しそうに目を細める。
天才様の喜ぶポイント、難易度が高い。勘で当てちゃったみたいな気分だ。
「それに以前俺に、恋人になってあげようかと言っただろう」
「? ……違う、あれは『友だちに』って話!」
昼休みにはじめて一緒に弁当を食べたときの会話を持ち出され、慌てて訂正した。
そのときはまだ友だちって思ってたんだもん。
……いや「まだ」って何よ。
「それに俺を持て囃す異性と違って、俺の顔以外も見てくれる」
……ふつうに何回か顔に見惚れたのは黙っとこう。
ていうか。
問題を解くのに必要な要素を、次々教えられてる。
だけどおれはなお、幻のしっぽを大旋回はできない。公式に当てはまらない要素もある。
「でも、あほは嫌いって言った」
「大晴はあほ過ぎてかわいい」
「は、はあ〜?」
口では勝てたはずが、ぜんぶ覆されてしまう。
「それはおれの台詞だけど」
「俺をかわいいと思ってるってことか」
「違……、くはないけど……」
久我が思わせぶりに片眉を上げた。押し負けそう。
(あ〜、好きな人がいるって聞いてからのもやもや、何だったんだよ〜)
ふるふる首を振っていたら、久我に右手を取られた。
拳を握り込ませて、グータッチ。
開いて、手の甲を軽く打ち合わせる。
最後に、掌同士を握り合わせる。
おれが教えた、おまじない? 込めた想いは——。
「君自身にも真剣に向き合って、答えてほしい」
一周回って、問一に当たる「大晴は?」に戻る。
おれ自身にも真剣に、か。
ガールフレンドはいっぱいいたけど、真剣な恋愛はしたことがない。
高校生になったらしたかった、けどできないでいたキャラ変。そのチャンスは今だと、久我が教えてくれている気がした。
「……おれ、厳しい強豪校でバスケやる自信なくて、うちの高校に来たんだけど」
「おかげで俺と出会えた」
久我は自信に満ちている。さすがの学習速度。
せめて久我の前では、適当をやめよう。
なんかやだ、を理論的に解読したら、どうなるか。
久我の導きでほぼ解けた。解けてみたら簡単だ。
「そだね。れ〜ちんのさっきのシュート、物理法則に則ったキューピッドの矢みたいに、おれに刺さったよ。時速三十キロで!」
踵のそばに転がっていたボールを拾い上げ、にかりと笑う。
そしたらがばりと抱き竦められた。なになになに。
「バスケのシュートの速度としては奇跡的に合ってるが、弓矢の速度としては遅過ぎるだろう……まあそこがかわいいんだが」
久我が小声でぶつぶつ言う。
久我にも何かしら刺さったみたいだけど、ちょっとよくわかんない。
それでも、「わかんない」で済ますんじゃなく。
「おれも、そゆとこが好きだよ」
おれの、おれたちだけの秘密を打ち明けてみた。
たちまち久我の腕の力が強まる。
「そうだ。君は俺が大好きだ」
何それ。今までおれを振った元カノたちと正反対なことを言う。言ってくれる。
久我もおれと同じくらい、何ならおれ以上に真剣なら。久我となら——怖くない。
「うん。大好き」
「じゃあこれからは俺以外を褒めるな」
「へ、いきなり束縛する感じ〜?」
気持ちを通じ合わせるなり、早速ねだられる。
物理部員と話したときちらちらしてたの、褒められ待ちだった? 球技大会でこっち見てきたのもそう?
天才様も褒められたいらしい。ひとつ学んだ。
久我の専属褒め係、満更でもないけど……。
「けどさ、朝の補習はもう続けらんないよね? 物理オリンピック本番に向けてれ〜ちんも勉強しないとだし、期末テストもあるでしょ」
想いが等号で結ばれたら結ばれたで、ふたりきりで過ごせた時間が惜しくなる。
延長したいけど、できない。
「大晴に勉強を教えるのは、俺にメリットしかない。というかメリットがなくても教える」
と思いきや、久我は0.2秒で断言した。
いちばんはじめと言ってることが百八十度違って、おもしろい。
「それ解いたら、いっぱいおれと過ごしたいって答えになる?」
「……俺なら丸をつける」
「あっはは。補習の成果だ」
「大晴」
大きな声で笑ったら、再び名前を呼ばれた。
切れ長の瞳が近づいてくる。え、これって——。
「そろそろ鍵閉めるぞぉ」
そこに高畠がやってきて、光の速さで身体を離す。
いい雰囲気だったのに……!
「ばたけっち、似非キューピッド〜?」
恨めしくボールを片づけてたら、久我が独り言のようにつぶやいた。
「次の補習では、唇のやわらかさを理論と実践で求めよう」
「〜!!!」
天才理系男子との恋は、けっこう進度が速いみたいだ。
正反対の男子高校生が、恋に落ちる方向と速度を求めよ。建前の抵抗はないものとする。
「宮本大晴くん。うちの高校はな、定期考査で赤点取ると部活停止だ。来月のインターハイ予選にも出られないぞぉ」
バスケ部の練習に打ち込んだり、新しいクラスメイトと遊んだりして過ごした、ゴールデンウィーク明け。
担任の高畠に職員室に呼び出され、衝撃の事実を言い渡された。
呑気な口調だけど、だいぶやばい。
先月の小テスト、でっかい丸がいっぱいあった。
(「0」点とも言う)
特に理系科目が壊滅的で、「高校の授業って難しんだな」って思ってたところに、部活停止?
「おれの『部活で大活躍してかわいい美人と付き合うサイコー高校生活』がいきなりピンチ〜!?」
自分で言っちゃうけど、おれは中学のとき全国大会にも出場したバスケ部期待の新入部員だ。
一年生にして身長は百八十二センチあって、ほどよい筋肉つき。その上、これも自分で言っちゃうけど犬顔のイケメン。茶髪はセンター分けにして、顔がみんなによく見えるようにしてる。
この人好きのする顔と運動神経と明るさで、ずっとイージーモードできた。
それが一転、人生初の崖っぷちに直面するなんて。
「中間テストって、六月一週目だっけ。一か月でどうしろっての〜?」
高畠の、体育担当と思えないくたびれジャージを握り締めて泣きつく。
バスケ部顧問でしょ。技術指導は外部コーチに任せてるんだから、部員の成績のほうは何とかしてよ。
「敬語使えな? 一石二鳥で解決できる案を考えてやったから、放課後物理室に来ること」
「まじ? ばたけっちありがと」
「敬語ぉ」
そう言いつつ、高畠は怒ってない。
やっぱり今回も何とかなりそうだ。
一石二鳥って、いいことがふたつあるんだよな? たとえば、物理室にかわいい美人がいたりして。
(楽しみかも)
ピンチはチャンスに早変わり。
放課後、部活前にうきうきと物理室を訪ねた。
「失礼しま〜す。——!!!」
え。うそ。やば。
(ほんとにめっちゃ美人がいる!)
いろんな機器が並ぶ部屋の奥。黒板の前に佇む一人に、目が吸い寄せられる。
足なっが。首もすっと長い、しなやかなモデル体型だ。身長はおれとほぼ変わらない。
(ん? 男か。いや男でも美人〜)
さらさらの前髪が、書かれた数字を見つめる切れ長の瞳にかかっている。睫毛の下に泣きぼくろがあった。チョークを持つ指まできれい。
「ぬぅ、宮本、出入り口に突っ立ってんな」
見惚れていたら、引き戸をガラッと開けた高畠に追突された。情緒台無し。
「ええと、久我くん。ちょっとこっちおいで」
「はい」
でも、あの美人を呼び寄せたから許した。
(久我っていうんだ)
声も涼やかだ。近づくと、ほのかに石鹸の匂いがする。じっと見つめても目は合わない。
「彼はな、二十歳未満対象の物理オリンピックの日本代表に高一にしてなった、理系の天才だ」
わけもわからず紹介された。
「物理オリンピック?」
「去年一年かけて国内予選やって、今年の六月にアジア大会、七月に世界大会がある。他の代表は超進学校の三年生ばっかり」
「へ〜」
勉強にもスポーツみたいな大会があるのも、同じ学年にそんな天才がいるのも知らなかった。
うちの高校は学生数多めで、スポーツクラスと特別進学クラスもある。
久我は特進に違いない。おれは廊下の真反対に位置するスポクラ。そりゃ知らないか。
「つぅわけで、宮本。中間までの間、久我にマンツーマンで理系科目教えてもらえ」
「えっ。ばたけっちが赤点回避させてくれんじゃないの」
「俺は体育専任だ、どうにもできん」
解決案を考えたとか言って、まさかの生徒に丸投げ。
まあでも、美人とマンツーマンも悪くないかな。男だけど。
と、せっかくやる気になったってのに。
「俺にメリットがありません。他の部員に依頼してください」
静かに立っていた久我が、やっと口を開いたと思ったら、超冷たく断られた。
かたく腕を組み、おれのほうを見向きもしない。
どうすんの、と高畠を見る。高畠はしたり顔で、久我に何やら耳打ちする。
「……で、……から」
久我の賢げな眉が片方、ぴくりと持ち上がった。
かと思うとこっちに向き直り、パソコンに占拠されていないテーブルを指差す。
「そこに座って、教科書を開け」
華麗なる掌返し。
でも、こういう展開とは思わなかったから、勉強道具を何も持ってきてない。
「ばたけっち〜、あれ?」
せめてルーズリーフ代わりの紙を恵んでもらおうにも、高畠はさっさと踵を返していた。少しは仕事しろ?
仕方なく、部活用のヘッドバンドで前髪だけ留めて、ちっちゃい角椅子に座る。
「よろしく〜。なあ、ばたけっちに何言われたの?」
「君に話す義理はない。それより早く教科書を」
めっちゃ事務対応。はじめましてなんだから、ちょっとくらい雑談したっていいじゃんか。
「持ってない」
「何をしにきたんだ、君は。非効率的だな」
答えるや、久我があからさまに顔を顰めた。
(なんか——)
上から目線で感じ悪!
おれは友だちが多いほうだけど、こういうタイプはいない。おれがミスっちゃってもだいたい「いいよいいよ」って笑って何とかしてくれるのに。
不機嫌でも美人なのがまた小憎らしい。
「……いいの顔だけじゃん」
つい小声でつぶやく。
「君みたいなあほは嫌いだ」
すかさず切り返された。
あほって。いちばん言われたくない、おれの地雷ワードだってわかってんの!?
(おれはほんとはなあ、真剣に、……)
がたんと立ち上がり、うーっと威嚇する。
久我もさっきに増して冷たい眼差しを投げてくる。
きわめつけに最悪のタイミングで、
「怜也くんいるかな? あっ、いた! 物理オリンピックの準備頑張ってー!」
女子グループが物理室の出入口から顔を覗かせ、はしゃぎながら久我に手を振った。
入学一か月にしてファンがついているらしい。
(待って。あの子、かわいいなって思ってた隣のクラスの子じゃん! ゴールデンウィーク一緒に遊びたかったけど予定合わなかったんだよな)
それを、久我はわざわざ会いに来てもらっている。
「手、振り返してあげなよ」
「上っ面しか見ない者とは馴れ合わない」
なのに超絶塩対応。
ぎりぎりと犬歯を噛み締めた。
この男は、おれのサイコー高校生活を妨害する天敵である。そう解答を導き出した。
いくら美人でもかわいげのないやつは、おれだって好きじゃない!
うちの高校の男子バスケ部は、インターハイに出たり出なかったりってレベルだ。
実は他県の全国大会常連校にも誘われたんだけど……楽しくプレーしたくてうちを選んだ。
思ったとおり、部内の上下関係もガチガチじゃなくてほっとした。
久我なんかに頼りたくないけど、部活を続けるために、背に腹は代えられない。
マンツーマン補習は水曜の放課後ってことになった。
「ばたけっち。今日、久我の日だから練習休むね」
「ん、了解。コーチとキャプテンには話してあるから、せいぜい頑張れな」
「せいぜいって」
勉強教えてもらえば赤点回避できるって、ちゃんと信じてくれてる? まあおれ自身未知数だけどさ。
(は〜、気が重い)
放課後、物理とか数学の教科書をぽいぽい詰め込んだエナメルバッグを引き摺り、物理室へ向かう。
「大晴どしたの、犬の散歩みたい」
「違うし。ワンちゃんはおれだし」
「あははっ、また遊ぼうね」
下がりきったしっぽの幻が見えたのか、すれ違う女子が励ましてくれた。
水曜の部活は体育館が使えなくて地味な筋トレだし、補習でもそんなに変わらない。
そう気持ちを奮い立たせ、引き戸を開ける。
「失礼しま〜す」
「遅い」
0.2秒で久我に怒られた。まだ何もしてないのに!
「スポクラからだと物理室遠いの!」
「時速三十キロ出せば余裕だろう」
「そ……れだと何分で着く?」
「計算してみれば」
「求め方わかんない」
久我は呆れたような笑みを浮かべ、黒板の端に「時間=距離÷速さ」と書く。
感じ悪、感じ悪! その公式くらい知ってるし。
「てかそれテスト範囲じゃないじゃん」
角椅子にどかりと腰を下ろし、シュシュで前髪をりんご結びした。
気合は充分。どっからでもかかってこい。
久我が指を伸ばしてくる。無駄に石鹸のいい匂い。
「手始めに、教科書のここからここまで読め」
数学の教科書のページをとん、と示すと、くるりと黒板のほうを向いた。
たぶん何かの数式を書いている。おれには外国語とか魔法の呪文にしか見えないけどね。
従順に教科書を読む。
「読んだ」
「次は、例題と答えをそのままノートに書き写せ」
そのままでいいの? とりあえず写す。
パソコンのキーボード音とかモーター音とかに囲まれてると、意外とはかどる。
「書いた」
「その横に練習問題を写して、例題の答えの計算式と、数字だけ入れ替えてみろ」
久我は事務的に指示を出したら、すぐ背を向ける。
(……あのさあ)
物理室まで出向いてきたのに、片手間過ぎない? たとえおれがあほでもよ。
「れ〜ちん、ここ何入れるかわかんない」
「——!」
下の名前の「怜也」から適当に考えたあだ名で呼んだら、久我は電波が悪いときの動画のごとく硬直した。
もしも〜し?
「……レンチンみたいな訳のわからない呼び方するな」
ぎしぎし振り返るも、泣きぼくろの周りが薄っすら赤い。
なんだ? レンチンのが訳わかんないけど。——あ、わかった。
「んじゃチン○んにしよっか?」
下ネタ連想したでしょ、とからかってやる。
「何回呼ぼうが何デシベルで呼ぼうが反応しない」
「こっち見てくれてたら呼ぶ必要ないけど?」
久我はむ、と口を噤んだ。
胸がすく。理系の天才様相手でも、コミュ力っていうか会話のドッジボール力なら負けないもんね。
「あの二人、言い合いの息は結構合ってるんじゃない」
「仲良くなりそう、フフ」
そこに、隣のテーブルでミニロボット(だと思う)を弄ってる物理部員たちの会話が聞こえてくる。
「「はい!?」」
不本意にもハモってしまった。
「どこをどう聞いたら『仲良し』が出てくんの?」
「彼の話は低俗でそもそも言い合いにもなっていない」
お互い否定しながら相手に突きつけた指先が触れ合いそうになって、慌ててふんっとそっぽを向く。
……ていうかさ?
他の物理部員の活動ほうが、だんぜん気になる。
「ね〜、何つくってんの」
せっかく横を向いたので、角椅子をすすっと寄せて訊いてみた。
「これかい? イカをイカ干し機に運ぶロボットだよ」
「イカをイカほしきにはこぶろぼっと」
って何ぞ。
「今年の高校ロボコンの課題なんだ、フフ」
「そっちのパソコンの人は?」
「ゲームアプリです」
「ゲーム? どんな?」
「試遊します?」
「する!」
勉強そっちのけで遊ばせてもらいにいく。
聞けば、物理部はロボット班とプログラミング班に分かれてて、それぞれ「ロボコン」「プロコン」っていう全国大会を目指してるんだって。
「すご〜っ! 未知の世界だ」
みんな、おれがリアクションする度に饒舌になって、嬉々として解説してくれた。
誰かさんと違って、感じもいい。「あほに話してもわかんないでしょ」って態度の人はいない。
「……」
その誰かさんが、さっきからちら見してくる。
放っとかれる気持ち、少しはわかった?
おれは寛大だから、角椅子を戻して話し掛けてあげる。
「あんたはどっち班なの」
「今、はオリンピック班だ。大会の過去問を解いてる」
久我はばつが悪そうにしつつ、チョークを置いて答えた。ずっと書いてたの、計算式だったんだ。
「班って言っても、一人じゃん」
「……」
「このレベルの問題解ける人、久我くんしかいないからね」
図星かと思いきや、三年生部員がフォローを入れた。
「そうなんですか?」
「うん。実は情報オリンピックもあるんだけど、物理部メンバーは二次予選止まりだった」
「へ〜、ふ〜ん」
久我がすごくすごいのは、納得せざるを得ない。
バスケで言ったら一年生でU19日本代表ってことだもんな。
ただ、バスケってチームでプレーするから楽しいわけで。
「そんなに勉強おもしろい?」
根本的な問いが口をつく。冷笑とかじゃなく、未知への興味。
すると久我は、自分が書いた計算式を愛おしそうに見上げた。
「物理を理解すると、世界が美しく見える」
「……、そか」
短くも力強く答える久我の横顔が一瞬美しく感じちゃったんだけど、これはどういう物理法則だろう。
「実用性もある。バスケットボールのシュートだって、物理法則に則ってるんだ。まず射出角度を——」
その間にも、黒板の空きスペースに図まで書いて、うんたらかんたら説明してくれる。
でもごめん。ちょっと何言ってるのかわからない。
こないだ来てたファンの女の子たちなら、うっとり聴き入るんだろうけど。
「さすが〜、すご〜い」
ひとまず相槌打ってたら、久我はぷつりと話を中断した。
「本当に理解してるか?」
「し、てるしてる」
やばい。見抜かれてる。
違うの。おれがあほなんじゃないの。久我は易しくしたつもりでも、おれにはまだ難しいだけなの!
「基礎だが。どうやって高校に入ったんだ」
「スポーツ推薦だけど?」
訊かれたから答えたのに、どでか溜め息を吐かれた。
やっぱり感じが悪い。
「君、中間テストで赤点を免れたいんだったな」
「う、うん」
「だったら、週一の放課後の補習だけじゃ足りない。朝補習もすべきだ」
「えっ?」
大声が出た。今、突拍子もない提案をされたような。
「毎朝顔合わせるってこと?」
「オンライン希望か。環境はあるのか」
「じゃなくて、『あほは嫌い』って言ってたのに、どういう心境の変化よ」
「……」
久我が、それぞれの作業に戻っている物理部員のみなさんをちらりと見遣る。
もしかして。みんなの目のないところでいじめられちゃう? あだ名でちょっと遊んだだけじゃんか。
天才って小さいことを根に持つし、嫌いなやつをいじめるためなら早起きもするらしい。
「必要ないならいい」
久我はさっと指先のチョークの粉を払った。
それを見て、おれも気が変わる。
白い粉を見る度に、パブロフの犬みたいに怯えないといけない高校生活なんて勘弁だ。
「いや! やる。こんな日々早く終わらせたいし」
「それは俺の台詞だが」
成績がよくなれば、補習はおしまい。びくびくせずバスケできる毎日に戻れる。
そのために、天才様の頭脳を利用させてもらおう。
2
翌朝。登校に使ってるバスの関係で、久我に指定された時間より早めに校門をくぐる。
「眠〜。補習、頭に入んないかも……ん?」
半目で物理室に向かおうとしたら、ひっそり建つ第三体育館から物音がした。
ダム……ダムム。
ボールの弾む音。ただ妙に不規則だ。
第三体育館は古くて狭くて暑いから、どの部も朝練には使ってないはず。
(朝から怪奇現象っ? 早起きの幽霊っていんのかな)
好奇心が怖さを上回って、直角に方向転換した。
体育館出入り口の引き戸は、なぜか鍵が開いている。そーっとずらしてみる。
(——って、久我じゃん)
薄明るいフロアでバスケットボールを手にした体操着の男には、見覚えがあり過ぎた。
でも、なんで久我がバスケを?
(あ。そう言えば、中間テスト翌日の球技大会の種目、男子はバスケとサッカーだったっけ)
先生たちが答案を採点する間に、おれたち生徒は身体を動かすってシステムらしい。
なるほど、閃いた。
久我はバスケに割り振られた。それでコソ練してる。
(問題解いて終わりじゃなく物理オリンピックに挑戦するくらいだから、負けず嫌いだろうし)
なんて考察するおれの前を横切った久我が、レイアップシュートを放つ。
ぼがっ! とバックボードの下部に当たって跳ね返ったボールが、久我の下腹部に直撃。
久我が声もなくうずくまる。
その間、0.2秒。
「だっはははは!」
おれはこらえきれず爆笑した。
ちょ、こんな完璧な自爆ある? 逆に難しいって。
「み、宮本? なぜここに……っ」
「音聞こえたから。ていうか下手っぴ過ぎ〜、蛙化するわ。あっはは、げほっ、ふわはははっ」
久我がうずくまったまま、手首のスマートウォッチとおれの顔を交互に睨む。気づいてなかったんだ。
おれは酸欠で咳き込むも、まだ笑いが止まんない。
「やば〜、今年のおもしろいことランキング一位、五月にして決定したかもしんない」
「人に話したら殺す」
平静を装って立ち上がった久我が、魔王オーラたっぷりの声で言い放つ。
これは「感じ悪」っていうより、単純に。
「口悪過ぎ」
笑いまくったせいで目じりに滲んだ涙を拭う。
決してばかにしてるわけじゃない。
(久我も、おれと同じ人間なんだな〜)
しみじみと親しみを感じた。
校内の誰にも解けない問題が解けちゃう天才様も、球技は苦手らしい。
それも「殺す」とか言うんだ。男子高校生って感じ。
「てか、球技大会本番来たら、どうせみんなにう○ちなのばれるじゃん」
おれが言いふらすまでもないと指摘すると、久我の端正な顔がみるみる絶望に染まった。
まるで世界の終わりかのごとく。
「理論は完璧なのになぜだ……!」
「本気で言ってる? それ」
だめだ、まじでおもしろい。
理論どおりに動けたら苦労しない。スポーツはスポーツで、コツってもんがあるんだよ。
久我がわからないことをおれは知ってると思ったら、気分がいい。
いい気分のまま、引き戸の隙間に身体をすべり込ませ、後ろ手に閉める。
「ね。おれがシュートのコツ教えたげよっか」
「え?」
弱点克服の手助けを持ちかければ、久我は警戒たっぷりに一歩引いた。
天才って悪い想像もはかどるらしい。
バスケも高校生活も、楽しいに越したことはないってだけなのに。
「いいのか?」
「いいよ〜。おれのポジション、シューターだし」
足下に転がっているボールを拾い上げ、ジャンプシュートを放つ。
ばしゅっ、とネットをくぐる気持ちのいい音がした。靴下履きでも寝起きでも余裕。
久我が、おれを見直したような眼差しを向けてくる。ふふん。
「でも、君にメリットがない。俺は高畠先生に第三体育館の鍵を融通してもらったが」
あ、そういう取り引きだったんだ?
体育館の鍵、体育専任の先生が管理してるもんな。
じゃなくて、メリットか。手間と得るものの大きさを、等号で結びたい感じ?
けど、人間関係って持ちつ持たれつっていうか。
「う〜ん、別に損得で考えてないし。気にしないよ」
強いて言うなら、「宮本大晴はあほじゃない」って思い知るがいい。
久我は視線を彷徨わせたのち、
「じゃあ……頼む」
重々しく頷いた。
「誰にも言うなよ」
「わかった」
「約束しろ」
「わ〜かったって」
「っ!」
小指に小指を絡めてぶんぶん振ってやれば、久我はやっと大人しくなった。
——こうして、天才男子に勉強を教えてもらうだけじゃなく、ひそかにバスケを教えてあげることになった。
「……また来た」
かすかに石鹸の匂いがして、振り返れば。
教室の出入り口に、久我がすんと立っている。
始業前に秘密特訓をするようになってから、休み時間ごとにこうだ。
それでいて話し掛けてくるわけじゃない。
(でも、目的はわかってるからね〜?)
おれはしびれを切らして立ち上がった。
「大晴どした? ジャーキー食わねえの」
「それは食うから取っといて」
おやつをお預けにして男バス仲間の輪から抜け、机の間を縫い、久我に歩み寄る。
「あのさ。いい加減にしてくんない?」
びしりと言ってやった。
「いや、その」
久我は対照的に歯切れ悪い。
「君に犬轡をはめるわけにもいかないし」
「は〜? 怖いこと言うなよ」
久我の目的。それは——見張りだ。
理系の天才様は球技がめちゃくちゃ苦手だってことをしゃべってしまわないか、目を光らせている。
(この石鹸の匂いも、コソ練の痕跡消すための汗拭きシートの匂いだったんだよな。ほんと、てってー的)
第三体育館の隅っこで着替える久我の、割としっかりした背筋を思い出す……のはやめといて。
約束したのにぜんぜん信用されてない感じで、居心地がよくない。
「特進の教室とこっちの教室の往復、非効率的でしょ」
「頭の中で物理の過去問解いてるから問題ない」
「暗算?」
「産まない」
「安産じゃないわっ」
正当化してるふうで、おれとの話が上の空になってますけどね。
「どうせなら毎秒おれのこと考えてよ〜」
「っ、君自分が何言ってるかわかってるか?」
廊下でやいやい言い合ってたら、
「大晴、特進クラスの王子様とどういうつながりー?」
隣のクラスの女子に訊かれた。
横目に久我を見る。
「王子様なんだ?」
「……知らない」
小声でつつけば、困惑を浮かべた。贅沢な。
(にしても、どういうつながり、かあ)
特進とスポクラ、物理部とバスケ部で、授業も部活も別。中学も違うし共通の友だちもいない。
確かに接点はない。
(赤点のピンチって説明したら、おれがあほだと思われちゃう。それはやだ)
かといって。
久我の切れ長の瞳が、「言うなよ」って圧をかけてくる。はいはい、約束だから言わないよ。
それに何だろう、はからずもおれの掌の上な状況、みすみす手放すのはもったいない気がする。
(天敵が、思いもよらないきっかけで共犯だわ)
ってわけで、結論。
「かれぴだよ〜」
「何それずるーい!」
「どっちの意味で?」
女の子たちが華やかに笑う。おれも笑う。
久我だけ笑ってない。泣きぼくろの周りがほんのり赤い。冗談の通じないやつめ。
予鈴が鳴って、それぞれ教室に戻る。
別れ際にひと声かけた。
「ちゃんと黙ってたでしょ。女の子たち、ぴとか信じてないからね?」
「……わかってる」
久我は右手と右足を同時に出して歩いていく。
あれじゃバスケなかなか上達しないかもなあ。
昼休みももちろん、久我の見張りがある。
はじめは後半だけで、おれが廊下で雑巾サッカーとかして遊ぶのを、問題集片手に遠巻きにしてたんだけど。
(ん?)
今日は昼休みになってすぐ、ミニナイロンバッグを手に提げてきた。
(中身、お弁当だったりする? ——はは〜ん)
補習の成果じゃないけど、だんだん久我の頭の中を解読できるようになってきた。
たとえば今は、飯誘われ待ち。一緒に食べてやってもいい、みたいな。
誘い方は知らないっぽい。まったくもう。
「一緒に食う?」
突っ立たせとくのもあれだから、誘ってあげた。
「……一緒に食べてやってもいい」
ほ〜らね。
外面を取り繕わなくていいよう二人きりで、せっかくだからと第三体育館へ向かう。食べ終わったら特訓ね。
使い古されたフロアに、並んで胡坐を掻いた。
「久我のサンドイッチ、手づくり? 美味そ〜」
「……、……食べるか?」
「へ? いやおれは母さんの特大弁当あるから」
「……」
久我はなぜか難問にぶち当たったような顔で、持参した鯖サンドに齧りつく。
なおも物言いたげにこっちをちらちら見てきた。
「なに」
「……あんな冗談言ったりして、いいのか?」
あんな冗談。ってどんな冗談? 母さん特製拳サイズの唐揚げをもぐもぐ咀嚼しながら、思い返す。
(あ、「かれぴ」の話?)
そこを掘り返すとは意外だ。
少し考えてから、答える。
「うん、今はフリーだし。ガールフレンドはいっぱいいるけどね〜」
久我は、心配して損したってばかりに溜め息を吐いた。
(これでいい)
——実はいつも、振られる。
自慢じゃないけど、運動神経抜群のおれはモテる。
でも必ず、「わたしのことそんなに好きじゃないでしょ」って言われちゃって、長続きしない。
(好きだけど、真剣になればなるほど、喧嘩したときとか別れたとき傷つくじゃん……?)
だったら楽しく、広く浅くでいいかなって思う。おれのキャラにも合ってるし。
なあんて、らしくもなく考え込んでたら。
「……」
(うわ)
久我に凝視されていた。
おれの頭ん中、解読しようとしてる?
慌てて白米を頬張り、話題を変える。
「久我は、カノジョ……の前に、友だちいなそう」
「うるさい」
「あっはは、否定しないんだ」
女の子ファンはいるけど、塩対応だし。
物理部員は班で固まってるし、頻繁に見張りにくるくらいだからクラスにも仲良いやつはいないとみた。
(おもしろいとこもあるけど、かわいげがないもんな)
と思いきや。
「周りの人間が適当に見えて、関係が深まらないだけだ。どうにかしたいとは思うが」
久我がぽつりとこぼす。
——え、何それ。
そんな本音めいたこと打ち明けてくれちゃって、そっちこそいいの?
理系の天才の目には世界が美しく見える一方、弊害もあるらしい。
しかも、どうにかしたいって。
「おれが、なったげよっか」
思わずそう言っていた。
どんな理論かわかんないけど、フィーリングで、おれでよければ友だちになってあげたいって感じた。
(ん〜とほら、一人だと楽しくないし?)
弁当箱を片づけていた久我は、また電池切れみたいに動きを止めた。
それでいて、泣きぼくろの周りがじわじわ上気する。
何だその反応。たかが友だちだけど。
変な空気になったじゃんか。責任取ってよ。
「あほは嫌いだったのに……」
久我が再起動したかと思うと、独り言のようにつぶやいた。
いや、悩むとこそこ?
「おれってそんなあほそう?」
「あほそうと言うか、あほだ」
断言された。うーっ。
さっきのフィーリング、なし。友だちになってやらない。
「まあおれは適当キャラだよね。自分でわかってるし〜」
おれもどうにかしたいけど、真剣キャラになったらなったで、さっき考えたみたいな怖さもある。
「……」
ままならない。
さすがに特訓の気分じゃない。突き刺さってくる久我の視線から逃れるように立ち上がった。
「もう教室に戻るのか」
ばっさり斬っておいて、久我が引き留めてくる。
そゆとこだよ? 友だちいないの。
「……まだ何かあるの」
「その。君が、俺の無様な姿を本当に黙っていてくれるとは思えなかった」
久我も立ち上がり、何かを探すように指先を彷徨わせた。やっぱり信用されてなかったんだ。
ていうか、友情自体を信じてなかった?
「だが、君は口が堅かった」
——え。
「だから、物理の成績がきちんと上がれば信じよう。キャラの下の素の君は、適当じゃないと」
唐突に告げられる。
すごく真摯な眼差しとともに。
そのせいで、おれはいつもみたいに笑って受け流すことができなかった。
「おはよ〜。宿題やってきた。ん」
我ながら単純だけど、久我にだけでも「君は適当じゃない」って思ってもらいたくて、がっつり勉強に取り組んだ。
朝、第三体育館で落ち合うなり、ノートを開く。
「よし」
「何その飼い主みたいなムーブ」
「君が犬みたいなんだが」
う。ワンちゃんキャラが染みついちゃってる。
でも、賢いワンちゃんもいるよな? 最近の久我がまさに犬っぽいし。サモエドって言われるおれとは犬種が違うけど。
「ここがわかんなかった」
「この公式を使う」
「あ〜ね、こっちの公式かあ」
つまずきは、ドーベルマン久我の一言ですんなり解決した。忘れないようにメモっとこ。
「……宮本の、字」
反対側からノートを見下ろす久我が、何か言い掛ける。
字があほっぽいって言われたら泣くからね?
「明るいな」
予想の斜め上の評が来た。
字が明るい、とは。光るインクのペンでもない。
まあ久我の表情が、黒板に書き連ねた数式を見上げるときと同じだから、誉め言葉として受け取ろう。
「でしょ〜、へへ」
「っ」
笑い返すと、久我はばっと立ち上がって準備運動し始めた。おれも軽く身体をほぐす。
「そっちは明日、物理の小テストか」
「うん」
スポクラと特進、授業の進度がぜんぜん違う。
うちのクラスでは、中間テストの予行演習的な小テストをやるよって予告されていた。
「そ〜だ、おまじないしてい?」
「?」
久我の右手を握り込ませて、グータッチする。
開いて、手の甲を軽く打ち合わせる。
最後に、掌同士を握り合わせる。
「何の意味があるんだ」
「おまじないだってば」
チームメイト同士のフィーリングでやる、ハンドシェイクってやつだ。
こっそり久我の賢い右手にあやかったってわけ。
その久我は、しげしげと自身の掌を見つめていた。
次の日、物理の授業。
「では、始め」
おれは前髪をきゅっとりんご結びして、問題用紙と睨めっこした。
(う)
数字とか図とか、アレルギー反応が出そうになる。
(あっでも、この問題は、教科書に載ってた例題とおんなじ形式だから——)
理系科目は、解き方のパターンがある。
求めるものは何か。そのために必要な数字はどれか。どの式に当てはめればいいか。
久我に教わったとおりに組み立てていけば、大丈夫。
一問ずつ倒していった。
「ぴ、いる〜?」
さらに次の日の放課後。水曜じゃないけど、物理室に駆け込んだ。
手には、返却ほやほやの小テスト。
「ついに『ぴ』になったんだ、フフ」
「そ〜なの」
「違うだろう」
すっかり意気投合した物理部員と笑い合う。
久我は「何を言ってるんだ」って顔したけど、おれの答案に気づいてチョークを置いた。
「どうだった」
「おれもまだ見てない。せーの、で見よ」
答案の端と端を持つ。
神妙な顔で、裏返す。
「1」って赤文字が見えた。それも、ふたつ。
「お〜!」
「二十点満点中、十一点か」
0点から、一気に二桁に上がってる——!
途中までしか計算式を書けなかった問題もあるけど、部分点をもらえてた。粘った甲斐があった。
「これ、百点満点だったら五十点越えてるよね?」
「そうなるな」
「ってことは、得点力五十倍だ!」
「そうはならないが」
喜び勇むおれと裏腹に、久我は冷静だ。
短期間でこんなに成績がよくなったの、すごいじゃんか。三桁常連の久我にとっては誤差なのかな。
と、思ったら。
「君にしては上出来だ」
しなやかな手で、頭を撫で撫でされた。
「……、何してんの?」
なんて言うか、むず痒い。
久我も久我で、はっとしたように手を引っ込める。
(あっ、まだ撫でて——いやいやいや!)
背が伸びて以来されてない褒められ方だったから、つい幻のしっぽをぶるんぶるん振っちゃった。
久我には解読されてませんように。
「世界の理がわかるようになると、楽しいだろう?」
その久我が、目を細める。
もう。美人がその笑い方は反則だよ。
でもまあ確かに、久我に見えてる世界がどんなふうなのか、ちょっとでもわかるのは楽しい。
「ね〜。信じた?」
「少しな」
「数字で言うとどんくらい?」
「……十一パーセントくらい」
「低っく!」
ただ、期待にはまだ届かない。
こうなったら中間テストで百点取ってやるからな。
(って、中間まであと一週間ちょっとかあ……)
なぜだか幻のしっぽが下がった。
朝は立場逆転して、おれがバスケを教えてあげる。
「まだ手だけで投げてる。脚の力が伝わるように」
「こうか?」
「うん。で……ぐぐっ、しゅ〜ん☆って感じで」
「急にあほになるな」
「うーっ、口で説明するの難しんだもん」
自分ではわかってても、人に教えるのって思ったより大変だ。
久我はそれを勉強でやってくれたから、投げ出さないけどね。
「こんな感じ」
貸し切りの第三体育館で、手本のシュートを打つ。
みんなが登校してくる前の秘密特訓だ。説明に手こずってられない。
革のボールはぱしゅっ、とネットをくぐって弾む。
「わかる?」
「宮本のシュートは、美しいな」
——えっ。どストレートな褒め言葉にびっくりして、あやうく壁に突っ込みかけた。
まあ、ね。おれは期待の一年生シューターだもん。
ていうか、美しさじゃなく、シュートのコツが伝わったかって話なんだけど。
「俺は、シューターにシュートの理論を滔々と説いていたのか」
久我を振り返ると、何やら反省するそぶりをしてる。
物理室でのうんたらかんたらのこと?
考えてみれば、久我は「完璧」って言えるくらい理論を理解してる。
「その理論と感覚を結びつければ、決まるよ」
ボールを拾って、久我にパスした。
久我が小さく頷く。緊張気味にジャンプして、シュートを放つ。
うん。フォームはだいぶ様になってきてる。身長があるから無駄に力まなくていいんだ。
でも、ボールは惜しくもリングに弾かれた。
「だめか〜」
「いつも偉そうなこと言ってるくせにって思うだろう」
久我が溜め息を吐く。
なに、自虐の気分?
「うん思う」
おれは容赦なく頷いた。だって事実だし。
「けど、それがれ〜ちんだし、天才ならできるようになるでしょ」
「!」
だから、不可能とは思わない。
「とことん付き合ったげるよ」
足もとに転がってきたボールを拾い上げる。
それにしても、天敵の弱点を解決してあげようとするなんて、おれって性格良過ぎるな。
などと思いながら、再度久我にパス。
「……」
気を取り直した様子の久我が、ぐぐっと跳び上がる。リリースの瞬間、ぴっと手首を返すのも忘れない。
ぱしゅっ。
ボールはクリアにゴールに吸い込まれた。
「ナイッシュー!」
自分が得点した並みの達成感が湧き上がる。
めいっぱい飛び跳ね、ぽかんとしてる久我の手を捉えてハイタッチした。
「……」
久我は喜びを表す代わりに、自分の掌をじっと見る。
「どしたの?」
「いや、その。どうにも解けない問題があるんだ」
見つめていた手を、今度は胸に当てた。
バスケの話——じゃなさそう。
中間テストのすぐ後に予定されてる、アジア物理オリンピックの過去問とか?
それで最近、黙って考え込むふうなときが度々あるのかも。自虐も弱気のせいに違いない。
「れ〜ちんに解けなかったら誰にも解けないよ」
大会ではきっといい成績を残せる、って励ます。
他の過去問はすらすら解いてたし。
「宮本なら解けるかもな」
「おれ???」
薄く微笑んだ久我は、とんでもないことを言い出した。そのくせそれ以上説明してくれない。
ぼちぼち生徒が登校してくる時間帯だ。音で秘密特訓がばれないように切り上げ、おれの補習に移る。
(え〜? ぜんぜん頭に入んないんだけど)
やっぱり、久我の話は難しい。
月が替わり、六月を迎えた。
「ばたけっち、先に御礼言っとくね。ありがと」
おれはおまじないを兼ねて、担任の高畠に拳を突き出してみせた。
「ワン?」
「いや、お手じゃないし」
本日から三日間、中間テストが行われる。
(久我に「小テスト満点取れるようにしておけ」って言われて、何回も解き直した。あれより難しくありませんようにっ)
できることはやった。
前髪をきゅっと結んで、挑む。
「始め」
なんと、しょっぱなから物理だ。
(ええと……。あっこれ、小テストの問題に似てる!)
問いを読んで気づく。ラッキー。
小テストはヒントの宝庫だって、久我が教えてくれたおかげだ。
解き方がわかる。計算ミスしないよう気をつけ、シャーペンを走らせた。
「大晴解けたか? オレ次の科目ノー勉だわ」
「ごめん今ちょっと話し掛けないで。頭に詰め込んだのこぼれちゃう」
文系科目は、授業で「これだけは憶えて」って言われた単語を憶えて乗り切る。選択問題もあるし余裕。
最終日ラストの科目は、数学。
頑張って数字を書きつける。
(久我はとっくに解き終わって、頭の中で物理の過去問解いてたりして)
一瞬違うことを考えたけど、集中し直す。最後まで気を抜かない。
「そこまで」
「は〜〜〜、解放された」
答案用紙を回収されるや、教室内が活気に満ちた。
テスト一週間前は部活禁止だったから、みんな身体を動かしたくてうずうずしてる。
明日の球技大会は白熱しそうだ。
(明日、かあ。当日も朝の秘密特訓、するのかな)
テスト期間中は、さすがに控えていた。
明日はどうするんだろう。
「大晴、何か食い行く?」
「ん〜、いいや。ばいばい」
久我とはなんだかんだ毎日会ってたから、逆に連絡先を交換してない。予定を確かめるべく、教室で待つことにする。
特進クラスは、テストの科目も多いんだ。
何となくチョークを手に取って、黒板に落書きしたりしてたら、廊下からかすかな物音が聞こえてきた。
(特進もテスト終わったっぽい!)
きゅっと体育館シューズを踏み締め、駆けていく。
ちょうど久我が教室から出てきたから、「ぴ!」って呼び止めた。
「宮本」
久我は驚いたように目を見開く。そして、ほんのり微笑んだ。
(あれ。会ったときってそういう感じだったっけ?)
たった数日ぶりにして、どう接してたか思い出せない。ぎくしゃくしてたら、
「手応えはどうだった」
久我のほうから訊いてきてくれた。
テストの手応え。正直、あった。
「ん〜……」
でも、赤点回避できたら、補習の日々は終わり。
それを望んでたはずが、ちょっと名残惜しい。
「どっちなんだ」
「んと、たぶんもう補習してもらわなくてだいじょぶ。で、朝の特訓のほうも明日で終わりかって思うと、なんかさびしいな〜って」
さびしいんだ、おれ。
口にしたことで、自分の感情を理解する。
(いや何言ってんの?)
最初から期間限定ってわかってたじゃんか。
他にも友だちはいるし、部活だって無事にできる。
女の子に振られたときも割とすぐ復活したのに。
なんでさびしいんだろ……? 何なら最初に出した「こいつは天敵」って解答も、合ってたのか自信がなくなってくる。
久我はというと、目を逸らさず、こっちを見据えてきた。
「宮本とじゃないと、解けない問題がある。解けるまで付き合ってほしい」
真面目な声色に、どきりとする。
おれとじゃないと、解けない? 天才の久我でも?
いったいどんな問題なんだ。
「あ、わかった〜。恋の練習問題でしょ。れ〜ちんてば狙ってる人いるんだ」
おれのばか。
思いっきり茶化しちゃった。だってだって、いざ真剣に向き合われると慣れないんだよ。
「……」
冗談の通じない久我は、顔に出るくらい逡巡してる。
早いとこ取り消してあげよ——。
「ああ」
え。肯定した?
久我、好きな人、いるの?
「恋愛は非理論的で理解できないと思っていた。だが、その人に会って変わった気がする」
方向の修正をしそびれたまま話が進む。
それも廊下にはまだ特進クラスの生徒が残ってるのに、堂々としてる。
「へ、へ〜」
この距離にいるおれだけ、久我の泣きぼくろの周りが淡く色づいているのがわかった。
(そんなに好きなんだ)
自分で恋愛の話を出しておいて、ふらふらと足もとが覚束なくなる。
久我の好きな人、誰なんだろう。
すごく気になるけど、見当がつかない。
それこそ理論と計算で導き出せたらいいのに。
「今日は頭いっぱい使ってもう回んないから、じゃ〜ね……」
自分がどんな声でそう言ったか、久我がどんな表情で聞いていたか、そこからどうやって帰ったのか、ぜんぜん憶えていない。
3
結局確認し損ねたので、朝の秘密特訓はなし。
静かな第三体育館を横目に、のそのそ教室へ向かう。
スポクラの出入り口で、ふわりと石鹸のにおいがした。
(れ〜ちん?)
途端覚醒して、大股で飛び込む。
「んお、大晴なんだよ」
体操着に着替えたクラスメイトが、制汗スプレーを仕込んでるだけだった。思わず肩パンする。
「べっつに〜」
おれもエナメルバッグを机に置き、制服のシャツを脱いだ。下にTシャツを着てきてある。
もう見張りは要らない。用もないのに久我がおれに会いに来るわけない。
久我の好きな人も、おれなわけない。だって。
(あほは嫌いって言ってたし)
「宮本大晴はあほじゃない」って、十一パーセントぽっちしか認められてない。スリーポイントシュートの成功率でさえもっと高いよ。
(いっそテストぜんぜんできなければ、補習は続けられたかも。いや、そしたら余計あほって失望されちゃうか)
かと言って、キャラ変の仕方もわからない。
(こうやって落ち込まないように、適当キャラやってるんじゃなかったっけ……?)
高校生活が何を以ってサイコーなのかもわからなくなってくる。
久我が関わるとわかんないことだらけ。やっぱり天敵だ。
(ていうか! おれ以外の誰かにも、「美しい」って言ったりとか「殺すぞ」って言ったりとか、おもしろいとこ見せちゃうの〜?)
なんかやだ。何とかして。
などと机の下で足をばたばたさせてたら、高畠がやってきた。
「全員出席してるな? 女子はここ、男は隣の教室で着替え。対戦表とタイムスケジュールはこのプリントどおり。質問なければ、チームごとに体育館かグラウンドに移動ぉ」
省エネな号令のもと、クラスメイトが動き出す。
当初のピンチは脱したはずなのにサイコーとは言えない状態で、球技大会がスタートした。
ぴかぴかの第一体育館。
三面取れるバスケットコートのうちのひとつの、センターサークルに立つ。
「はい、始めま〜す。あんまりあれなファウルしないでね」
「適当だな、大晴」
「ね〜そのワード今地雷……」
「?」
三学年合同の球技大会は、クラス対抗で行われる。
ただ、スポクラのバスケ部員はバスケにはエントリーできないルールで、審判をやらないといけない。
サッカーも、女子のバレーもソフトボールも同じ。
それはいい。ふつうに対戦したらスポクラが有利過ぎる。でもね。
「久我くん、背高いしジャンパーやってくれない?」
なんで、一年特進クラスの試合の審判担当になっちゃうの!?
「……」
久我、めちゃくちゃ見てくるし。なんか拳握ってるし、圧がすごい。「恋のキューピッドしろ」って?
(相手教えてもらわないと、やりようがないよ)
予選リーグは、応援に来てくれる女子もまだ少ない。
とりあえずホイッスルを咥えて、動揺をごまかす。
試合は、一年B組ボールで始まった。特進チームはディフェンスに回る。
(おっ、ゾーンディフェンス?)
ゴールに近い、台形部分の守りを固めてる。頭いい。
難しいロングシュートを外させ、マイボールにした。
今度は特進チームのオフェンス。
ローポストに陣取る久我に、早くもボールが渡る。
「打へ」
ホイッスル咥えてるのに、つい声出しちゃった。
審判は公平じゃないと、と自分に言い聞かせる。
そんなおれの目の前で、久我はゴールに向き直り。片膝を持ち上げて跳び、ボールを持った腕を伸ばす。
バックボードを利用して、見事にネットを揺らした。
(ナイッシュ! 自爆してたときと別人みたい)
二点追加、ってジェスチャーを得点係に送る。
続いてB組チームのオフェンス中に反則がないか見るためにコートの反対側へ移動する、んだけど。
「……」
久我がこっちをガン見してくる。
その後も、シュートを打ったらすかさず見てきた。「見たか」「どうだ」ってばかりに。
(見てるって。てか何〜? 突然かわいげ出さないでよね)
普段は高みの見物してる落ち着いた天才にも、弱点がある——あったし、親しみがある。
共犯が、お互い特訓するうちに懐かれた。
(でもおれじゃない誰かのことが好きなんでしょ……)
おれにだけお腹見せてくれると思ってたワンちゃんに、別の飼い主がいたような感じ。
思考が堂々巡りする。
(物理部のプログラミング班の人が、そういうループエラーがあるって言ってたな)
気になってエラーモードになるくらいなら、恋も叶えてあげちゃおっか?
そうすれば、もやもやを断ち切れるはず。
ブーッ、とタイマーが試合終了を知らせる。
同時に、一か月一緒にいてもぜんぜん気づかなかった、久我の好きな人探しを開始する。
(好きな人のことは、自然に見ちゃうよね)
特進チームは、背の高い久我の得点のおかげもあって、B組チームに勝利した。
誰と喜び合ってるか、観察する。
「?」
久我は、未だにドヤ顔でこっちを見てきた。
わかったわかった。それよりさあ……。
「大晴、そろそろサッカー始まんよ」
「あ、うん」
うまく視線の向きを辿れないうちに、おれが出場する試合の時間になっちゃった。
仕方なく調査を中断して、グラウンドに出る。
(相手は二年C組か。さくっと勝ちますか〜)
ヘッドバンドで前髪を留めて、いつもの部活と違う白黒のボールを追う。短い十五分ハーフだから、体力は気にせず走る。
「大晴ー、頑張れ!」
「大晴、ドッグランみたーい」
自分の試合が終わったらしい女の子たちが駆けつけ、声援を飛ばしてくれた。
「ドッグランは余計〜、……!」
ひらひら手を振り返していて、気づく。
(れ〜ちんもいる)
次の試合まで間が空いて、暇だったのかな。
いや、好きな人、応援してる子の中にいるとか!? ボールそっちのけでアンテナを張り巡らせる。
——でも、おれと目が合ってばっかり。
(なんでよ)
くるりと振り返ってみる。誰もいない。
謎が深まる。
その日はずっとそんな感じだった。
昼休みも、男バス仲間と体育館でお弁当食べてたら、久我はナイロンバッグ片手に構内をうろうろした末に、第三体育館の庇の下で一人飯してたし。
(あ〜、物理のテストより難し)
ちなみに、球技大会の結果はというと。
特進クラスのバスケチームは、予選リーグ一勝二敗に留まった。三年生チームとの試合は、大差をつけられちゃってた。
でも、久我が球技が苦手だったのは誰にもばれずに済んだ。むしろ「文武両道」って賞賛を浴びるくらい。
めでたしめでたし。
……なのに、ちっとも達成感がない。
表彰式の後は、部活再開だ。
来週末にはインターハイ予選が始まるから、三年の先輩たちはウォーミングアップから気迫がこもってる。
おれも、改めて前髪をきゅっと留めた。
(せめて部活はサイコーにしよ……、えっ!?)
二階のギャラリーに、人影がある。
球技大会でファンになってくれた(一年スポクラのサッカーチームは準優勝した)女の子かな、と思いきや、久我だ。
物理室の黒板の前を離れて、何してるんだろう。
(もしかして。好きな人、男バスの誰かなの?)
話すきっかけとして、こっそりバスケの練習をしてたんだとしたら。おれがいないと恋が進展しないっていうのも、説明がつく。
(おれ、いい人ポジ過ぎるじゃん〜。ううん、「ぴ」呼びしたりして空気読めてなかった)
また、「なんかやだ」って気持ちが渦巻く。
「集合!」
キャプテンが声を上げた。身体が反応する。
(集中しなきゃ)
フットワーク、2メン、3メン、3対2……とメニューが進んでも、久我は動かない。
ついちらちら確かめちゃう。
今月、アジア物理オリンピックに出場するって聞いた。対策の仕上げとか荷造りとかもしないとなのに、下校しないでいるのって——。
今日告白するつもりだったりして。
(……見たくない)
久我が部員の誰かに声を掛けるの、見たくない。
自分以外の誰を見つめてるかも、知りたくない。
練習の最後に5対5をやったけど、顔を上げられなかった。
得意なシュートもリングに嫌われ、さんざんだ。
「大晴、補習で鈍ったか?」
「あは、そうかもです。残って練習しま〜す……」
キャプテンの言葉に、苦笑いする。
ひとり居残り練に勤しむことにした。告白に居合わせずに済むのもあるけど、シューターは地道なシューティングが大事なんだ。
ダムダム、シュッ。
漫然とじゃなく、自分をマークする相手選手をイメージして、一本一本打っていく。
「九十九——、百。あ〜」
百本目のシュートは短く、リングの手前に当たって落ちた。気持ちの焦りがプレーに出ちゃってる。
(もっと膝で溜めつくらなきゃ)
いったんエアでフォームを再確認する。
その間にボールを拾ってくれた人がいて、すっと歩み寄ってきた。
「!」
ボールを持つ、しなやかな手は——。
おそるおそる顔を上げる。久我だ。
「……なんでいんの?」
素で訊く。他のバスケ部員はみんな着替えて帰った頃だ。
窓の外の空は紺色がかっている。
久我の体育館シューズが方向転換した音が、きゅ、と響く。
「このシュートが入ったら、言いたいことがあるから」
久我は、答えになってるようなってないような答えを返してきた。
言いたいこと?
もしも告白の仲介のお願いだったりしたら——。
「やだ!」
久我がシュートモーションに入る前に、おれは背を向けて走り出した。考えるより先に身体が動いていた。
「待て。なぜ避ける……っ」
久我がボールを小脇に抱えて追い掛けてくる。
(そんなに、仲介してもらってまで告白したいの?)
広い体育館で追いかけっこになる。それこそドッグランじゃないんだから、ひとりでどうにかしてよ。
「わわっ」
足はおれのほうが速い。だけど、コース取りは久我のほうが賢い。まんまと進路を塞がれちゃった。
ちょうどゴールの近く。
久我はここぞと、球技大会中みたいな「見てろ」って顔で、おれの上からシュートを放った。
ボールは恋の矢のように飛んでいき、最高到達点に達し、ゴールに向けて落下していく。
(やだやだやだ——)
ガタタッ。リングの縁でボールが暴れる。
弾き出されるかと思いきや、強引にネットを通った。久我の執念で押し込んだって感じ。
しかも、床にワンバウンドしてこっちに向かって弾んで、おしりに当たる。
……あ〜あ。期待の新入部員のおれとしたことが、阻止できなかった。
「はい、言いな」
半ば自棄で促す。
誰につなげばいい? キャプテンとか?
「み……た、大晴」
久我は結構いっぱいいっぱいだったのか、息を切らしながら、はじめて下の名前で呼んできた。
どきりとする。
今や、単なる同級生なのに。
「君に理論と感覚のつなぎ方を教わったことで、理論で解けないこの問題は、恋だと証明された」
「う、ん……?」
「恋愛的に君が好きだ。それですべて説明がつく。矛盾も破綻もない」
呆れたように、ちょっと悔しげでもありつつ、泣きぼくろの周りを赤く上気させて、久我が言う。
(好きって、言った?)
難しい言葉じゃないのに、理解が追いつかない。
久我がおれを?
久我の好きな人って——おれなの?
「大晴は?」
再び名を呼ばれて、幻のしっぽが反応しそうになる。
そんなの、そんなの……。
「おれ、は、みんなのワンちゃんだからさ〜」
「首輪をつけてやる」
この期に及んで保身に走り掛けたものの、すぐ捕まった。本気の目だ。
じゃあ、今日やたら目が合ったり、久我がたまに赤くなってたのも、おれを好きだから?
「でも、恋の練習問題、おれとなら解けるって」
「そう言ってる」
……あれ。久我が正解で、おれが不正解?
「でも、ただの共犯だったじゃん」
「ああ。大晴は秘密を守り抜いてくれたし、俺にできないことがあっても引かないでくれた」
「そんなの誰にだってあるよ」
久我が嬉しそうに目を細める。
天才様の喜ぶポイント、難易度が高い。勘で当てちゃったみたいな気分だ。
「それに以前俺に、恋人になってあげようかと言っただろう」
「? ……違う、あれは『友だちに』って話!」
昼休みにはじめて一緒に弁当を食べたときの会話を持ち出され、慌てて訂正した。
そのときはまだ友だちって思ってたんだもん。
……いや「まだ」って何よ。
「それに俺を持て囃す異性と違って、俺の顔以外も見てくれる」
……ふつうに何回か顔に見惚れたのは黙っとこう。
ていうか。
問題を解くのに必要な要素を、次々教えられてる。
だけどおれはなお、幻のしっぽを大旋回はできない。公式に当てはまらない要素もある。
「でも、あほは嫌いって言った」
「大晴はあほ過ぎてかわいい」
「は、はあ〜?」
口では勝てたはずが、ぜんぶ覆されてしまう。
「それはおれの台詞だけど」
「俺をかわいいと思ってるってことか」
「違……、くはないけど……」
久我が思わせぶりに片眉を上げた。押し負けそう。
(あ〜、好きな人がいるって聞いてからのもやもや、何だったんだよ〜)
ふるふる首を振っていたら、久我に右手を取られた。
拳を握り込ませて、グータッチ。
開いて、手の甲を軽く打ち合わせる。
最後に、掌同士を握り合わせる。
おれが教えた、おまじない? 込めた想いは——。
「君自身にも真剣に向き合って、答えてほしい」
一周回って、問一に当たる「大晴は?」に戻る。
おれ自身にも真剣に、か。
ガールフレンドはいっぱいいたけど、真剣な恋愛はしたことがない。
高校生になったらしたかった、けどできないでいたキャラ変。そのチャンスは今だと、久我が教えてくれている気がした。
「……おれ、厳しい強豪校でバスケやる自信なくて、うちの高校に来たんだけど」
「おかげで俺と出会えた」
久我は自信に満ちている。さすがの学習速度。
せめて久我の前では、適当をやめよう。
なんかやだ、を理論的に解読したら、どうなるか。
久我の導きでほぼ解けた。解けてみたら簡単だ。
「そだね。れ〜ちんのさっきのシュート、物理法則に則ったキューピッドの矢みたいに、おれに刺さったよ。時速三十キロで!」
踵のそばに転がっていたボールを拾い上げ、にかりと笑う。
そしたらがばりと抱き竦められた。なになになに。
「バスケのシュートの速度としては奇跡的に合ってるが、弓矢の速度としては遅過ぎるだろう……まあそこがかわいいんだが」
久我が小声でぶつぶつ言う。
久我にも何かしら刺さったみたいだけど、ちょっとよくわかんない。
それでも、「わかんない」で済ますんじゃなく。
「おれも、そゆとこが好きだよ」
おれの、おれたちだけの秘密を打ち明けてみた。
たちまち久我の腕の力が強まる。
「そうだ。君は俺が大好きだ」
何それ。今までおれを振った元カノたちと正反対なことを言う。言ってくれる。
久我もおれと同じくらい、何ならおれ以上に真剣なら。久我となら——怖くない。
「うん。大好き」
「じゃあこれからは俺以外を褒めるな」
「へ、いきなり束縛する感じ〜?」
気持ちを通じ合わせるなり、早速ねだられる。
物理部員と話したときちらちらしてたの、褒められ待ちだった? 球技大会でこっち見てきたのもそう?
天才様も褒められたいらしい。ひとつ学んだ。
久我の専属褒め係、満更でもないけど……。
「けどさ、朝の補習はもう続けらんないよね? 物理オリンピック本番に向けてれ〜ちんも勉強しないとだし、期末テストもあるでしょ」
想いが等号で結ばれたら結ばれたで、ふたりきりで過ごせた時間が惜しくなる。
延長したいけど、できない。
「大晴に勉強を教えるのは、俺にメリットしかない。というかメリットがなくても教える」
と思いきや、久我は0.2秒で断言した。
いちばんはじめと言ってることが百八十度違って、おもしろい。
「それ解いたら、いっぱいおれと過ごしたいって答えになる?」
「……俺なら丸をつける」
「あっはは。補習の成果だ」
「大晴」
大きな声で笑ったら、再び名前を呼ばれた。
切れ長の瞳が近づいてくる。え、これって——。
「そろそろ鍵閉めるぞぉ」
そこに高畠がやってきて、光の速さで身体を離す。
いい雰囲気だったのに……!
「ばたけっち、似非キューピッド〜?」
恨めしくボールを片づけてたら、久我が独り言のようにつぶやいた。
「次の補習では、唇のやわらかさを理論と実践で求めよう」
「〜!!!」
天才理系男子との恋は、けっこう進度が速いみたいだ。


