オレと隠れヒーローくんの恋の音


 高二の四月、なんでもない金曜の放課後。
 オレ、堀田陽翔(ほったはると)は、ヒーローに出会った。

(今日は誰と遊ぶかな)
 踵を踏んだ体育館シューズでぺたぺた階段を下りながら、スマホのメッセージアプリを起動する。
(……それよかプリン直すか。金ねえけど)
 強ブリーチした髪は、やっと頬あたりまで伸びた。片耳にはピアス。気を抜くと「ち○かわみたい」とかほざかれがちなので、眉間と口角に力を入れる。
「おい堀田ァ! 帰りに職員室寄れって言ったろう!」
「うっせ」
 生徒指導の樺山(かばやま)が、廊下の向こうで吠えている。声でか過ぎ。
 萎えて歩を早める。
 ちなみにブリーチもピアスも踵踏むのも校内スマホも校則違反だが、知ったこっちゃない。細か過ぎ。
「うお?」
 踊り場で素早く方向転換しようとしたら、目の前がでかい黒い塊で埋まった。
 何だよこれ。この物体、オレのこと見えてないだろ。小せえからって……。
「~っ」
 反射的に避けた。が、体育館シューズがすっぽ抜け、階段を踏み外してしまう。
(くそ、あれからむかつくことばっか)
 とか悪態吐く間にも、落ちる――。
「……、……?」
 予想した痛みはない。むしろソフトランディング。
 習慣で受け身を取っちまったわけでもない。
 何が起こったのかと、おそるおそる目を開ければ。
「大丈夫ですか?」
 めちゃくちゃ爽やかなイケメンと目が合った。
 オレの危機を察知して駆けつけ、受け止めてくれたらしい。
 それも、お姫様抱っこで。
 一六七センチ五十三キロのオレを軽々と持ち上げ、跪いた脚も安定感がある。身長はオレと十センチくらいしか違わないように見えるのに。
 まさに、小さい頃憧れたヒーローそのものだ。
(え、かっこよ)
 どくどくを通り越してドコドコカッ! ドコドコドコと、某和太鼓リズムゲーム並みに心臓が高鳴る。
「……、吹奏楽部の搬出作業中でして。明日、市のマーチングフェスに出演するんです。ご迷惑おかけしてすみません」
 しばし見つめ合ったのち、恩人が口を開く。声までヒーロー属性のイケボときた。
 改めて階段を見遣ると、楽器ケースを運ぶ列ができている。木琴(たぶん)とかの大物は数人がかりだ。
 校舎二階の端って、音楽室だっけ。
緑川(みどりかわ)くん、コントラバス運ぶの手伝って!」
「はぁい」
 緑川と呼ばれたヒーローは、オレをうやうやしく下ろし、すっぽ抜けた靴まで履かせてくれた。
「眼鏡、眼鏡……」
 ただ屈んだまま、手を彷徨わせている。オレを助けたとき代わりに落っことしたらしい。
「黒縁のやつなら、おまえの足もと。踏むなよ」
 今にも踏みそうで、口早に教えてやる。
 体育館シューズが赤ってことは、入学したばっかの一年生か。どうりで見掛けたことがないわけだ。
「ああ、ありがとうございます」
 緑川は眼鏡を拾うと、恩着せがましさも怠さも一ミリも滲ませず、搬出作業へ戻っていった。
 礼を言うべきはこっちのほうなのに、言いそびれた。
 まだ胸がドコドコしている。
「!」
 それを、踊り場の窓から聞こえてきたドタン! という音に掻き消され、我に返る。
(いや、歳下の知らねえ男にときめいてどうする。オレがヒーローになりたかったんだよ。……なれなかったけどさ)
 一転、複雑な気分になった。


 先週のときめきは気の迷いだった。
 そうきっちり否定したくて、月曜の放課後、音楽室に乗り込んだ。
 引き戸の窓から中を覗けば、吹奏楽部が練習している。楽器と部員でぎちぎちだ。
(部員、二クラス分くらいいんのか。ぜんぜん興味なかったわ。つか、その割に男少ねえ)
 肝心の緑川が見当たらない。
 楽器によっては顔の一部が隠れるせいかと、目を凝らす。
 しばらくして、巨大な金管楽器(たぶん)を吹いていた男子生徒が、おもむろに立ち上がった。
 こっちに近づいてくる。制服のスラックスのウエストを一ミリも下げない着方、癖毛に眼鏡――それもかなり度が強い。
 こんな陰キャ、知り合いじゃない。
 怪訝に思っていると、
「すみません。女子部員が怖がっているので、あまり睨まないでもらえますか」
 細く開けた戸の隙間から、小声で苦情を申し立てられた。冤罪過ぎ。
「は? 睨んでないし、」
 待て。この声、まさか――。
 逸る手で戸をガラリとスライドさせ、ぶ厚い眼鏡を奪い取る。
「わぁ」
 たちまち、爽やかイケメンに変身した。
 前髪をぐいっと掻き上げれば間違いない。緑川だ。
(んなことある?)
 カッ! とまた某和太鼓リズムゲームめいた心音を錯覚しつつ、まじまじ見る。
 厳密に言うと、目鼻立ちのイケメンが華と力を隠して、陰キャに擬態してるのか。眼鏡ひとつでこうも変わるもんか?
「アニメかよ、おまえ」
「え、僕アニメっぽいですか?」
 ついこぼせば、緑川は無邪気に目を輝かせた。
「アニメやラノベみたいな高校生活に憧れてるんですぅ」
 褒めてないし。
 こいつ、オタクな上に天然だ。華とかない。
(こんなだせえやつにときめいたりしてないし。オレを抱えられたのも、てこの原理? とかだろたぶん)
 先週のは思い込みだって、完全に証明できた。
 せいせいする。
 ヒーローなんて、そうそういないわけで……。
 さんざん踏んで潰している体育館シューズの踵を、なおも小刻みに踏む。
「僕、一年の緑川(いつき)といいます」
 緑川は、こっちのどこかすっきりしない気持ちも読まず、自己紹介してきた。
「別に訊いてねえけど」
 図々しいやつだ。眼鏡を癖毛にずぼっと挿し込む形で返却し、そっぽを向く。
「あれ。耳、怪我してますよ! もしかして先週ぶつけました?」
 途端、緑川がわたわたと手を伸ばしてきた。
 反射的に振り払う。
「っこれは、その。もともとだ」
 オレのピアスをしてないほうの耳は、知らない人が見たらぎょっとする形をしている。
 縁が腫れてもこもこふくらんでる、みたいな?
 髪で隠してたけど、まだ長さが足りなかったか。
「そうですか。痛くないならいいんですが……」
 痛い?
 余計な心配を、ふんと鼻で笑う。
「柔道家は大体こうなってるよ」
 餃子耳、というやつだ。強い衝撃で内出血したのを放っておくと、そのまま組織化してしまう。
 両耳こうなってるやつもいる。ラグビーとかレスリングとか、耳が圧迫されやすいスポーツではめずらしくない。
「ジュウドウ」
 緑川は、言葉を覚えたてのオウムじみた声色で繰り返した。眼鏡で相当ちっちゃくなった目も瞬かせる。
「んだよ。らしくないって?」
 居たたまれず、噛みついた。
 金髪ピアスの不良と、柔道。
 天然オタクとヒーローくらい、結びつかない。
 そんなのはオレがいちばんわかってる。
「いえ。――いいえ。じゃあそれ、頑張った証ってことですねぇ」
 なのに緑川は呑気に、感心さえ滲ませて微笑んだ。
 頑張った、証だとか……。
 つくづくずれている。
「は? おまえに何がわかんだよ」
 オタクとしゃべってると、調子が狂う。
 ここでの目的は果たした。さっと踵を返す。
「待ってください、ええと……シンデレラ先輩」
「誰がシンデレラだ」
「ご、ごめんなさい」
 威嚇して、渡り廊下の先の武道場――ではなく、駅前のゲーセンへ向かう。
 どすどすと、いら立ちまぎれに足を踏み鳴らす。
 小さい頃。
 テレビで観た、日本人の柔道世界チャンピオンに憧れた。
 小柄でも相手選手をばんばん投げる。強くてかっこよくて、ヒーローに見えた。
『オレも道場に通いたい!』
 週末も市民会館に足を運び、熱心に練習した。黒帯だって取った。
 ――ただ。成長期になってもぜんぜん背が伸びない上、筋肉もつかない。
 柔道は体重別の階級制だが、男子で一番軽い六十キロまですら増やせなかった。そういう体質らしい。
 軽いのは不利だ。簡単に投げられちまうし、寝技も引っくり返せない。
 高一の夏休み、頑張るのがばからしくなる出来事があって、柔道部を辞めた。
(まあもう終わった話だし?)
 今は新しい友達がいる。
 ゲーセンに入り、電子音の洪水に流されるように奥へ進むと、他高の女子が「晴翔~」と手招きしてきた。
「クレーンゲームやってくんない? このぬい欲しいんだけどぜんぜんだめ」
「しょうがねえな」
 財布を取り出し、ちゃりんちゃりんと百円玉を筐体に投入する。ブリーチのリタッチはまた今度。
 汗臭い道場なんかに未練はない。
(女の子と遊ぶほうが楽しいし。うん。楽しい)
 アームを左右にゆらゆら揺らしながら、心の中で二回唱えた。


 うちの高校は部活が盛んだ。
 放課後、教室から校門まで歩くだけで、いろんな音や声が聞こえてくる。
「急に手持ち必要になったんだよなあ、paypay送ってくんない? 明日現金で返すからさあ」
 ……ん?
 サッカー部の掛け声に紛れて、よからぬ一言が耳を掠めた。歩く速度を落とし、校舎裏に意識を向ける。
「本当に返してくれるんですか?」
 この声。緑川だ。
 ゴールデンウィークを挟み、一週間ぶりに居合わせたと思ったら、どういう状況だ?
 足音を忍ばせて近づく。
「だから返すつってんだろうが、ああ!?」
 はい、かつあげです。わかりやす過ぎ。
 ちらりと窺う。三人の男子が緑川を取り囲んでいる。
 つるんだことはないが同じ二年の、結構ガラの悪いやつらだ。
「困っているのはわかりましたが……」
 楽譜らしきファイルを両手でぎゅっと抱える緑川が、なおもごねた。
 あいつはああ見えて腕力があるし、面倒ごとに首を突っ込む義理もない。
 回れ右する。一歩、二歩――。
 溜め息を挟んで、三、四、五歩。
「おい」
 スルーしようとしたができず、引き返して、三人組の背中に低い声をぶつけた。
「一年にたかんのやめろや」
「あ? ……堀田か。お前には関係ねえだろ」
 親玉の佐藤(さとう)が振り返り、顎を上げて見下ろしてくる。わざと身長差を強調され、むかついた。
「オレに勝ったら一万やるよ」
 誘うように一歩引く。ほいほい踏み出してきた佐藤の足が着地する前に、足裏で払う。
「ぐお、」
 同時に腕を引っ張れば、佐藤はあえなく転んだ。
 足払い、っていう柔道技だ。
 強制的に視線の高さを下げさせ、「あきらめな」と言い放つ。
 三人組はすごすご退散した。
 今になって鼓動が早まる。深呼吸で鎮めようとする。
「ありがとうございます、怖かったですぅ」
 だが、緑川が高速拍手しながら抱き着いてきたので叶わない。
 黒縁眼鏡で表情がわかりにくいが、怯えてたのか。
「吹奏楽部だとお金持ちだと思われるんですかね? よくお金貸してって頼まれるんですが、返してもらえたことがなくて……」
 よくかつあげされんのかい。しかも払ってんのかい。
 深々と息を吐く。無防備過ぎ。
 それでいて、引き剥がそうとしてもびくともしない。
「断るとかやり返すとかしろよな、腕力あんだし」
「え?」
 緑川がきょとんとする。その腕を指差せば、「ああ」と大事そうに自ら包み込んだ。
「これは、楽器を演奏するための筋肉なので」
「ふーん……」
 その一言はなぜか、銅鑼の余韻のごとく響いた。
 緑川なりの信念があるらしい。眩しくも感じる。
「つか、オレのことは怖くねえのかよ?」
 眩しさを遠ざけるように言う。
 佐藤たちと同じ不良の先輩だ、と含ませて。
「今は、シンデレラ先輩は怖くなくなりました。だって、」
「がーーーっ、シンデレラって呼ぶな。堀田晴翔だ!」
 だが緑川は怯むどころか、距離バグで微笑んだ。
 シンデレラって。確かに階段踏み外したとき靴が片っぽ脱げはしたけど。
 不本意過ぎて名乗れば、緑川はますます嬉しそうに笑う。
「晴翔先輩――晴翔先輩は、あの人たちと違います。ほら、楽器搬送のときも道を譲ってくれたでしょ?」
「は? ……」
 半ば無意識の行動を感謝され、言葉に詰まった。
 少しだけ、ヒーローとして認められたみたいな――。
「それに」
「その眼鏡、度数合ってねえだろ」
「え? いえ、入学式前に合わせたばっかりです」
 憎まれ口を叩いても、面映ゆさは消えない。
 ああもう。
「おまえ、そんなんじゃまたかつあげされんぞ」
「うぅ、困りました……」
 緑川が、オレより身長十センチぶん大きな身体を縮こまらせた。ヒーローのくせに守りが弱過ぎ。
 そっぽを向いて続ける。
「しょうがねえから、オレがボディガードしてやろっか」
「……付き合ってくれるんですか?」
 途端、緑川の声が一段低くなった。
「は?」
 付き合……なに?
 眉間と口角に力を入れるのも忘れて、ぽかんとする。
 あくまで柔道経験を活かした、階段で怪我せず済んだ借りを返すくらいの提案なんですけど?
「アニメみたいな恋愛にももちろん憧れてるんですが、自分からは遠いものって認識でした。でも、晴翔先輩が叶えてくれるんですねぇ」
 緑川はオレを置いてけぼりにしてはしゃいでいる。
 待て。恋愛って。
 そんなのオレだって無縁だ。そもそもなんでオレなんだ。
「嬉しいです」
 いったん待て! 指導出すぞ!
「いや言ってねえ、そうは言ってねえだろ、天然か! ボディガードだっつの」
「そうでしたか? じゃあ、ボディガードからよろしくお願いします」
「お……おう」
 ボディガードから、ってなんなんだと思うが、もはや引っ込みがつかない。
 まんまと隠れヒーローを守る破目になった。
「では、部活があるので」
 機嫌よさげにスキップで校舎に戻る緑川を見送る。
(まあ、よくかつあげされるっつっても月一とかだろ)
 ……と、思ってたんだけど。




「朝のラッシュ、だっる」
 翌日、満員の電車を一本見送って、八時二十分過ぎに最寄り駅に降り立った。
 高校まで徒歩十分。始業は八時半。当然遅刻だが、知ったこっちゃない。
 生徒の姿のない構内を、ゆうゆうと歩く。
「おはようございます、晴翔先輩」
「うお!?」
 改札横の柱影からぬっと緑川が現れ、声が裏返った。
 真新しいリュックの肩紐を握り締めている彼に、いぶかしげに訊く。
「なに、してんの」
「ボディガードしてもらうために一緒に登校したくて、先輩を待ってました」
 はにかむように微笑まれた。
 ボディガードってそういう感じだっけ?
(連絡先も知らねえのに、ずっとオレを待ってたんだ)
 ドコドコドコ……と心臓の音が大きくなる。
 つか何の音だこれ? 緑川といるとよくこうなる。
 こほん、と咳払いしてやり過ごす。
「誰から守んだよ、もう誰もいねえじゃん」
「あ」
「遅刻だし」
「え?」
 ゆるんでいた緑川の顔がこわばる。
 律儀に登校前にスマホの電源を切って、時間を確認していなかったらしい。
 遅刻など今まで一回もしたことがないに違いない。
 まったく、しょうがねえな。
「ほら、走んぞ」
「わ、待ってください」
 スクバを背負い直し、たっとアスファルトを蹴った。
 出遅れた緑川が、どさくさで手をつないでくる。
(! まあ、いいとすっか)
 握力も強いから、どうせ振り払えない。
 そのまま通学路を駆け抜ける。
「ちょっとアニメっぽいですね♪」
「だーからアニメじゃねえし、付き合ってもねえ」
 歩幅の差ぶん前に出た緑川が、くすぐったげに言う。
 今日は最高気温三十度超え予報のせいか、つないだ手がやたらと熱かった。

 八時三十五分、職員室。
 すすけた天井の隅を睨んでいたら、汗ばんだ手の甲が触れ合った。気まず過ぎ。
 なぜ教室じゃなく、隣に緑川がまだいるのかというと。
『正門じゃなくて、こっちの塀上れ』
『え、どうしてですか?』
『生徒指導に捕まるからに決まってんだろ、もたもたすんな』
『堀田ァ!』
『げ』
 というわけで、遅刻者取り締まり中の樺山にあっけなく捕まった。
「おまえが一年いじめてて遅刻したんだろ、堀田」
 横柄に決めつけられ、眉間にますます力がこもる。
「……だったら何だよ」
 めんどうだから訂正はしない。
 早く説教から解放されるならそれで構わない。
「退部するなりだらしねえかっこしやがって。だからおまえはだめなんだ」
「……っ」
 樺山は、柔道部の顧問だ。
 早々に脱落したやつのことなんか放っといてくれりゃいいのに、未だにねちねち厭味を言ってくる。
(あーそうだよ)
 オレはだめだし、坊主で畳に這いつくばるより、自由な髪型でどこにでも行ける今のほうが楽しいですけど?
(はやく気が済めよ)
 体育館シューズの踵を小刻みに踏む。
「樺山先生。人を見た目で判断しないでください」
 そこに、緑川が割って入ってきた。
 びっくりして、ぎこちなく見上げる。
 凛とした横顔。眼鏡をかけていてもヒーローっぽさを隠しきれていない。
「僕の遅刻は晴翔先輩のせいじゃありません。放課後までに反省文を提出すればいいですか?」
「あ、ああ」
 同じく面食らう樺山を、きっぱりやり込めてのける。
 いかつい樺山相手に意見できる生徒は、三年生でもなかなかいない。
 それを、見過ごさずに庇ってくれた。
(学年も部活も違う、何回か話したっきりの関係なのに……)
 ドコドコうるさい心臓と裏腹に、ふわふわした足取りで職員室を出る。
(なんか。どっちがボディガードかわかんねえ)
 また助けられた。今回はちゃんと言おう。
 廊下の途中で、相変わらずウエストインされた緑川のシャツをきゅっと摘まむ。
「ありがと、な」
 あれ。思ったよりしおらしい響きになっちまった。
「何がですか?」
「だから、さっきの」
「事実を言っただけですよ」
 足を止めた緑川は、やわらかい表情で顔を覗き込んでくる。見過ぎ。
 しかも事実ときたか。ふ、と吐息めいた笑みを漏らす。
「おまえはその弱そうな見た目のせいでかつあげされやすいんだと思うけどな?」
 照れ隠しも兼ねて指摘してやった。
 オレが金髪にしてる理由もそれなのは、黙っておく。
 緑川は、「がーん」と効果音が聞こえそうな顔でよろめいた。
「弱そう……好みじゃないですよね……?」
「んー、つか眼鏡やめたら」
「僕、コンタクトだとすごく目が乾くんですよぉ」
 弱音を吐きつつ、眼鏡を外してみせる。
 ――途端。廊下側の窓越しにこっちを窺っていた女子が、授業中にもかかわらずざわめいた。
 この階は二年の教室だから、みんな緑川のことは知らない。「誰?」「かっこよ」と囁き合っている。
「緑川みどりかわ緑川」
 オレは咄嗟に緑川の眼鏡を掛け直させた。
 なんていうか、ほら。誰彼構わずドコドコカッ! しちまうのは、よくないし。
 実は力も芯も強いことは、オレだけが知ってればいいし?
「はよ一年の教室行け」
「? はい。ではまたあとで」
 幸いにも鈍感な緑川が階段を上っていっても、しばらく胸のドコドコは収まらなかった。

「晴翔先輩」
 放課後、反省文提出をぶっちぎっての下校をもくろんだものの、それより早く緑川が訪ねてきた。
 教室の出入り口でにこにこと微笑んでいる。
 何の用だ? もしや……。
「一緒に帰れってか?」
 若干頬を引き攣らせて訊く。アニメとかラノベっぽい恋愛なんて、オレにはわかんねえよ。
「いえ。ですが、はい」
「どっちだよ」
「今日の部活は、外で練習なんです。一緒にいてくれませんか? 怖いので」
「……吹奏楽部のやつに頼めば」
「音が混ざっちゃうので、個々での練習が必要です」
「はあ……」
 この隠れヒーロー、厚かまし過ぎ。
 でも自分からボディガードを言い出した手前、仕方ない。予定があるわけでもなし、ついていってやる。
 緑川はどでかい楽器ケースを背負い、片手にパイプ椅子二脚、片手にトートバッグを持っている。
「どれか持ってやろうか」
「恋人には持たせませんよ」
「だーからボディガードだっつの」
「ふふ」
 慣れているのか、結局オレの手は借りず校舎裏まで歩いた。
 雑草が風でさわさわと揺れている。
 ……ってここ、かつあげされてた場所なんですが。
 また因縁をつけられるかもしれない。途中で適当に帰ることもできなそうだ。
「どうぞ」
「はあ…………」
 観念して、並べて置かれたパイプ椅子の片方に座った。背もたれを前にして肘を載せる。
 緑川はてきぱきセッティングしていく。
 日陰でも金色に艶めく楽器が眩しい。
「つか、なんで外なん」
「音が天上や壁に反響しないので、ごまかせないんですよ」
「ふーん……」
 楽器を膝に抱えると、ラッパのような部分が頭より上にくる。管が迷路みたいにぐるぐるしてる。
 トランペットじゃない。サックスでもない。
「それ、何つう楽器?」
 どうせ聴かされるなら知りたい、くらいの気持ちだった。
 でも緑川はマウスピースから口を離し、満面の笑みを浮かべる。
「チューバといいます」
「ふーん」
「金管の中でいちばん大きく、いちばん音が低いです」
「へえ」
 言われてみると、同じ形でもバイオリンよりコントラバスのほうが音が低いっけ。
「なので主旋律、メロディを担当することはほぼないんですが、あるとないとでは全体の安定感とハーモニーの厚みが違います。縁の下の力持ちって言えます。僕は誇りを感じてます」
 なおもチューバ愛を語り続ける。息継ぎなさ過ぎ。
 ある意味、数ある音のいちばん下に隠れたヒーローのようなもんか。
「市の吹奏楽クラブに入った小学生のときから、チューバひと筋です」
 よっぽど好きらしい。それも一途に。
(意外な共通点があった、のかもな)
 ふと、素朴な疑問が浮かぶ。オレの場合はテレビで観た世界王者に憧れたけど……。
「メロディ担当しないんなら、音聴き取んのむずくね? なんでチューバ選んだの」
「それは……」
 一転、てれてれと言い淀む。なんだよ。
「アニメで知りました」
「出た、アニメ」
「おもしろいですよ?」
「はいはい」
 もうわかった。手をひらりと振り、そろそろ練習に戻れと示す。これだとオレが邪魔してるみたいだ。
 緑川は素直に練習を再開した。
(様になってんじゃん)
 しばらく黙って耳を傾ける。
 確かに、単調と言わざるを得ない。
 メトロノームを使って、一音ずつ同じ長さで、繰り返し吹く。次に音階セットで、繰り返し吹く。
 なのに不思議と退屈じゃない。
 技をひたすら反復する、柔道の基礎練と通ずるものがある。意外な共通点ふたつめ。
「先輩は、どうして柔道お休み中なんですか?」
 柔道のことを考えた瞬間、緑川が切り込んできた。
 チューバを逆さにしてミニレジャーシートに下ろす。休憩か。今度はおまえが話せって?
「……樺山も言ってただろ。休んでんじゃなくてやめたんだよ」
 おもしろくもない話なので、さらっと短く答える。
「見てのとおり筋肉がつきにくいから」
「そうなんですか。じゃあ、僕と一緒にトレーニングしてみます?」
「は?」
 思いもよらない方向に話が展開した。
「チューバって、十五キロくらいあるんですよ」
 緑川は楽器を持ち上げ、オレの膝にひょいっと載せてくる。その気軽さと裏腹に、
()っも」
 素で呻いた。
「これをしっかり支える体幹と肩と腕と、骨盤回りと太腿の筋肉が必要なんです」
「ほぼ全部じゃん……。つか落としそうで怖えわ、はよ引き取れ」
 なんで緑川がトレーニングするかの説明をされる。
 じゃなくて、なんでオレがトレーニングすんだよっていう「は?」だったんですけど。
「年齢が上がれば、筋肉のつきやすさも変わりますよ」
 抱え直したチューバの管越しに、緑川がわかったふうな口をきく。
 まるで、「筋肉つけられたら柔道再開しますよね」と言わんばかり。
(あんなことあったのに、またやるわけねえだろ)
 柔道部仲間の連絡先は全部消した。今さらだ。
 小さい頃なりたかった自分にはなれない。もう未練はない。
「大きなお世話だっつの」
 吐き捨てる声が歪む。
 そのせいか、緑川はめずらしく引き下がった。


「――セブン、エイト。十六拍休んだら、もう一セットです」
「……うぐぐ」
 オレはなぜか、校舎裏でプランク(体幹トレーニング)をしている。
 向かいには、メトロノームと緑川。
 余裕そうな声色が憎たらしい。こっちは制服の下の腹筋と背筋がぷるぷる震えてるってのに。
「座って見てますか?」
「うっせ、十六拍経ったぞ」
 腕立て伏せみたいな体勢を取って、キープする。
 両手は汚れないようミニレジャーシートに突くので、必然的に至近距離で顔を突き合わせる形だ。
「晴翔先輩が一緒にやってくれると、地味な筋トレも楽しいですぅ」
「……別に、暇なだけだし」
 なんやかんや、放課後のボディガードがルーティンになりつつある。
 緑川が二年の教室まで迎えに来て、校舎裏へ。
 筋トレして、基礎練習。
 それが終わったら、空き教室でパート練習(低音チームだそうだ)か、音楽室で全体練習って流れだ。
 さすがに個人練以外は帰ってるけど。
「はい、お疲れ様でした」
「まあこの辺にしといてやっか」
 なんてうそぶき、パイプ椅子にへろへろと座った。
 対照的に緑川はいそいそマウスピースを口に当てる。
「――♪」
 緑川のチューバの音は、深みがあって、優しい。
 ふかふかの羽毛布団に包み込まれるような感じ? 半年以上ぶりに酷使した筋肉に染み渡る。
(なんか懐かしい気もする……)
 パイプ椅子の背に顎を乗せ、心地よくまどろむ。
「っ」
 どのくらい経ったのか、ドタン! と鈍い音がして、びくりと瞼を持ち上げた。
 渡り廊下の先の武道場から聞こえてくる、柔道部の稽古の音だ。
(来月にはインターハイ予選だから、励んでんな)
 ドタン。ドタドタン。バタン。
 他にもバスケ部のドリブル音とか、帰宅部が教室で駄弁る声とかが飛び交うのに、畳を打つ音が聞こえる度に、無性にいらいらした。
 ローファーの踵を小刻みに踏み鳴らして、耐える。
 耐えようとすればするほど、増幅する。
 これ、オレの頭の中、記憶の中から響いてるんじゃないか……?
 まるで、辞めたことを責めるみたいに。
「!」
 それまでより大きめに、チューバの音が鳴った。
 まっすぐ、長く、揺るぎない音。
 畳の音もオレのいらいらも劣等感めいたものも、まとめて掻き消してくれる。
 楽器の管と眼鏡で、表情はよく見えない。
(気遣ってんの? 天然オタクの、後輩のくせに)
 それでも正直、ありがたい。
 突っ込みも強がりもせず、緑川の音に身を委ねた。
(おまえってさ――)
 ずっとこうしてたい、なんて願望がよぎる。
 でも、そろそろパート練習に移動しないといけない。
 緑川が名残惜しげにメトロノームを止めた。
「大丈夫ですか?」
「何がだよ」
「ふふ」
 やっぱむかつくな、この後輩。
 借りをとっとと返すべくパイプ椅子を持ってやり、低音パートに割り当てられた二年の教室へ向かう。
「そういや吹奏楽部って、全国大会みたいのあんの」
 肩を並べて廊下を歩きながら、思いつきで訊く。
 校舎裏では平気だったのに、沈黙が落ち着かないのだ。自分の心臓の音がやけに大きく聞こえる。
「十一月に全国コンクールがありますよ」
 一方の緑川は、いつもと変わらない調子で答えた。
「夏休みに県予選、九月の連休に支部予選と続きます。まず来月に部内でパートオーディションがあって、今はそれに向けて練」
 と思いきや、不自然に言葉を切る。
「……」
 薄暗い昇降口のほうをじっと見ている。眼鏡でわかりにくいけど、たぶん。
「どした?」
「いえ。それより、今日はパート練習で終わりなので、帰りにアニメショップデートしませんか?」
「は??」
 普段の三割増しの声が出た。
 デート、って言ったか。それもアニメショップ。
(なんでオレがおまえの趣味に付き合わなきゃいけねえんだよ)
 悪態と裏腹に、胸のドコドコ音が一音ごとに大きくなっていく。何だこれ。
「調子乗んな!」
 戸惑うあまり、語調が強くなる。
 だって。だって、付き合ってねえし。
「先輩、」
 パイプ椅子を緑川に押しつけ、ぱたぱたと駆け出した。

 駅前のゲーセンに顔を出す。上がった息を整えていたら、顔見知りの女の子たちに二度見された。
「晴翔久しぶりだね~?」
 言われてみれば、そうかも。
 最近、緑川のボディガードばっかりしてた。
 せっかく放課後まるまる自由になったのに、もったいない。
「プリ撮ろうよ」
「しょうがねえな」
 誘われるまま遊ぶ。
 汗まみれの男より、女の子と過ごすほうが楽しい。
「見て、フィルターで晴翔もうちらとおんなじ顔になってる」
 お、と落書き画面に目を留めた。楽器のスタンプがある。
 でもチューバは……ないか。別にいいけど。
「晴翔?」
 長い爪で腕をつつかれ、はっと顔を上げた。
 かしましいはずのおしゃべり、ぜんぜん聞いてなかった。おまけに心臓までさぼってる。某和太鼓リズムゲームの気配もない。
「悪い。何?」
「や、たいした話じゃないよ」
 そう言いつつ、しらけたのがわかる。
 慌ててコンビニのスムージーを奢ろうしたけど、金欠だ。
(バイトしねえと。……はあ)
 勝手に溜め息がこぼれた。
 市民会館の和室でお菓子を食べるという女の子たちと分かれ、とぼとぼ帰路に就く。
(道場の練習場所だった市民会館には近づきたくねえ)
 まだ明るい空を見上げた。
 ――なんか。女の子より、緑川といるほうが楽しくないか?
 田舎で遊ぶところが少ない、のは言い訳だ。
(アニメショップでも、行ってやりゃよかった)
 あんなふうに突き放した後悔に、じわじわ苛まれる。
 好きなやつの好きなものの話なら、オレも聞いてて楽しいし……。
(好きなやつ?)
 愕然として、足を止めた。
 いや。好きっていうのは、一般的な話で。
(オレ、緑川のこと、人として好きになってたのか?)
 自分で墓穴を掘る。
 ついさっきまでスリープ状態だった胸の某和太鼓ゲームが、ドンカッ! ドドンカカッ! と暴走し始める。
 いやいやいや。
 オレは、オレの好きなものに相応しくない男だ。
 離れないといけなくなる――柔道みたいに。
「緑川なんか好きじゃない。うん。好きじゃない」
 だから、半ば無理やりそう結論づけた。




 吹奏楽部の部内オーディションとやらが近づき、緑川の練習も緊張感を帯びてきた。
 チューバ担当は二・三年生にも一人ずついて、三人編成になるか二人編成になるかはオーディション次第だという。
「……」
 頑張れ、とは言えない。もう充分頑張っている。
 黙って音に耳を傾けるのみだ。
(つかデート撥ねつけられても、けろっとしてんな)
 こっちはあれこれ悩まされたのに、次の日の放課後、ふつうに迎えに来た。
 彼にとっては取るに足らないことなのかもしれない。
 それはそれで、いらいら、というかちくちくする。
「では、パート練習行ってきます」
「あ、おお」
 あっと言う間にボディガード終了。最初の頃より時間が過ぎるのが早い。
 緑川とは昇降口で分かれた。
「さーて、……」
 ゲーセンに行く気は起こらない。
 バイトでも探すかとスマホを取り出したら、肩にぐっと重みがかかった。
「堀田」
 前に足払いで倒した佐藤が、背後から腕を回してきたのだ。待ち構えていたかのように、子分も二人いる。
 いやな予感し過ぎ。
「……なんか用」
「おまえ、最近あのオタクくんと仲良しだな」
 口角を思いきり下げて問えば、にやにやと返された。
 廊下の先の緑川の背中を、顎で示される。
「オタクって言うな」
 じろりと睨み上げた。
 オタクなのは確かだが。オレ以外の、緑川のことをよく知らないやつに揶揄されたくない。
「ムキになんなよ。今度オタクくんも一緒に遊ぼう(・・・)ぜ」
「は?」
「よろしく言っといて~」
 佐藤たちはげらげら笑いながら校門へと歩いていく。
 遊ぶって。絶対ろくな誘いじゃない。
 ただでさえ部内オーディションを控えた大事な時期なのに、オレのせいでまた絡まれたりしたら……。
(迷惑かけたくねえ。がっかりされたくもねえ)
 そこまでいい先輩だと思われているかはさておき。
 この関係も、潮時だろう。
 中途半端な不良と部活に打ち込む天然オタク。本来交わるはずがなかったのだ。
 ざっ、と地面を蹴った。

 翌日。
「晴翔先輩」
 放課後、緑川がいつものごとく教室までやってきたが、オレは窓のほうをむいて聞こえないふりをした。
「先輩、日直ですか?」
 だが緑川はめげず、窓際まで突入してくる。
 一年生の割に大胆だ。
(簡単に自然消滅、とはいかねえか)
 小さく息を吐き、でっかい楽器ケースを背負った緑川を見上げる。
「ボディガード、もう終わり」
「えっ、どうしてですか」
「だっておまえ、オレが守ってやらなくても強えだろ」
 そう。よくよく考えたら、最初から必要なかった。
 筋肉は演奏以外には使わないとしても、だ。
「生徒指導の樺山に言い返せるし。オレがはじめて音楽室行ったときも、一年なのに代表してオレに苦情言いにきたし」
「でも、」
「おまえはオレと違って真面目に生きてる。オレなんかとつるまねえほうがいい」
 なんだろう。自分で言ってて苦しくなってきた。
 だが事実だ。
 オレは緑川には、釣り合わない。
「僕は、先輩と一緒にいたいです」
 緑川は、口を尖らせていたのが、だんだん真一文字になり、ついにへの字になった。
 絶対譲らない、という意思を全身から発している。
 そのまっすぐささえ、今のオレには――眩し過ぎる。
「まだデートも実現できてないじゃないですか。それに、」
「だーからうざいんだよ、そういうオタクっぽいの」
 手を取られたが、柔道の組み手争い並みの荒さで振り払う。ずっと我慢してた、と思ってもない思いを込めて、言い渡した。
「……ごめんなさい」
 人を疑うことを知らない緑川は、消え入りそうな声でそう言うと、静かに教室から出ていく。
 心なしか後ろ姿が切ない。
 胸が軋むのも、聞こえないふりをした。


「はあ……」
 今日何度目ともつかない溜め息を漏らす。
 放課後の教室はがやついていて、誰も気に留めない。
 無意識に出入り口のほうを見てしまい、ばっと机に突っ伏した。
(オレ、かっこ悪過ぎ)
 数日前の失敗をまだ引き摺っている。
 失敗、だよな。
 緑川と距離を置いたのは正解として。もうちょっと違う言い方があっただろう。
 何も悪くないやつを傷つけるなんて、ヒーローとは程遠い。
(オレがヒーローになれねえのって、軽くて力が弱えからじゃなくて……心が弱えからじゃん)
 知りたくなかった現実を突きつけられる。
 樺山が「だからおまえはだめなんだ」って言ってたの、こういう意味か。
 あのとき肩を並べていた緑川は、オレとは違う。
 好きなものにまっすぐで。コンクールメンバーになれるかわからなくても、努力してる。
 オレにはできなかったことをやってのけている。
(だから眩しくて、)
 歳下だけど憧れの存在で、一緒にいると楽しかった。……もうしゃべったり一緒に何かすることもないけど。
(離れなくて済むような先輩だったらよかったのに)
 自己嫌悪に押し潰されそうで、帰宅する気力すら湧かない。
「晴翔先輩と縁を切ってください」
 ――は?
 開いている窓から、ヒーロー然とした声が飛び込んできた。
 緑川のことを考えていたせいで、幻聴が聞こえたか?
 起き上がって、窓の下を見てみる。
(緑川! と佐藤?)
 昇降口を出たところに、本物の緑川がいた。
 佐藤たちに取り囲まれている。昇降口にたむろって、かつあげの獲物を物色しているらしい。草むら通るたびにバトルが発生するモンスターキャラかよ。
「オレを通せよ、……」
 立ち上がって、また座る。
 オレにはもう関係なかった。
 でも……。
「もう一度言います。僕は縁を切る気はないので、そちらが晴翔先輩と縁を切ってください」
 ああもう! 結局オレのせいでめんどうなことになってんじゃねえか!
 体育館シューズを鳴らして、廊下にまろび出た。
 目ざとい樺山に「堀田ァ、廊下走るな!」って怒鳴られたけど、知ったこっちゃない。
 それより大事なことがある。
(なんでそこまでオレと一緒にいたがんのか、わかんないけどさ……)
 根がヒーローだから、オレが自己嫌悪してるのに気づいて、手を差し伸べてくれてるとか?
 階段を一段飛ばしで下りる。
 靴を履き替える間も惜しい。そのまま昇降口を出る。
「柔道部のやつに聞いたけど、あいつ女子部員に負けてやめたんだってよ? 弱えのにいきってるチビだわ」
 ちょうど佐藤がオレの秘密を暴露していた。
(なんで知ってんだよ、べらべらしゃべんなよ!)
 恥ずかしさと情けなさと悔しさが一気に湧き上がり、胸がぐちゃぐちゃになる。
 高一の夏休み。オレより十キロほど上の階級の女子部員の練習相手を頼まれ、あえなく負けたのだ。
 見事に押さえ込まれた。ドタバタもがいても、びくともしなかった。
 それで心が折れて、柔道部を辞めた。
 佐藤の言うとおり、弱い。
 緑川が怖い思いをして、身を危険に晒す価値なんかない男だ。
 ――なのに。
「撤回してください」
 なのに、緑川は揺らがない。
「晴翔先輩は優しいし、頑張り屋さんです。中学のときから、週末もずっと頑張ってたんです」
 駆け寄る足が鈍る。
(オレは優しくねえだろ。頑張れもしなかった。頑張っても意味なかった)
 そんな買い被るなよ。
 つか、中学のとき……? 中学は別々のはずだけど。
「さっきからうぜえなあ」
「っ!」
 ただ、くよくよしている暇もない。
 子分1に肩をどつかれた緑川が、尻もちをついた。
 佐藤が片脚を上げる。
 舗装路についた緑川の手を、踏もうとしてる――!
(っざけんな!)
 吹奏楽部員の手を狙うなんて、卑怯過ぎる。
 数メートルの距離を、最速で詰めた。
 佐藤が「なんでいんの!?」って顔になる。小さくて見えなかったか。
(一応こいつのボディガードだったからだよ、っ)
 佐藤の右腕を両手で掴み、身体を反転させて懐にもぐり込む。背中と腰で押し上げるようにして、自分よりでかい身体を宙に浮かせた。
「うりゃあああ!」
 もし柔道部の一員だったら、不祥事とみなされて部活動停止……とかが頭をよぎるけど。
 とっくに辞めてるから躊躇いはない。
 佐藤の身体を一回転させる。
「ぐえ」
 中学の授業で受け身を習ったろうにちゃんと聞いていなかったのか、佐藤はどたーんと倒れた。
 一本背負いってやつだ。
「確かにオレはだせえけど、こいつはかっけえだろうが!」
 ヒーローの決め台詞ばりに叫ぶ。
 時間差で手が震え出した。なんせ佐藤とは体重差が十キロ以上ある。
 それでも投げられたの、緑川と一緒にやったトレーニングの成果か?
「晴翔先輩ぃ……!」
 その緑川は、両手を口もとに当てて感激しきっている。「アニメみたい」って思ってるだろ。
 オレもちょっと思う。
 どさくさで本心も言えたし、結構すがすがしい。一年前の自分が浄化されたような気さえする。
「て、てめえ何しやがんだ!」
 呆気に取られていた子分たちが、反撃体勢を取った。手の内はばれたし、またきれいに投げられるとは限らない。
「逃げんぞ。……っとと」
 ずらかろうとしたものの、佐藤の懐に入ったとき靴が片方すっぽ抜けてしまっていて、もたついた。
 こうなったら緑川だけでも無事に――。
「任せてください」
 は? と思ったときには、お姫様抱っこされていた。
(その筋肉、演奏以外に使わねえんじゃなかったっけ?)
 突っ込む間もなく、構内を駆け抜ける。
 走っても安定感があって、頼もしい。
 子分たちは、目の前に星が飛んでる佐藤を置いていくか迷ったのか、容易く撒けた。
「っはは!」
 緑川に触れているところが熱い。
 でも、いい加減離れないと。
「……この辺でいいよ。練習行きな」
 歯切れ悪くも告げた。
 すべては緑川が部活に集中できるようにしたことだ。
 そう言えば、いつもみたいに楽器を背負っていない。
 緑川が立ち止まる。至近距離でこっちを見る。
「今日は、練習じゃなく部内オーディションなんです」
「は???」
 普段の五割増しの声が出た。
 今日、部内オーディションだって?
 こんなことしてる場合じゃなさ過ぎ。
「なんで大事な日に喧嘩売ってんだよ」
「だって、晴翔先輩を悪く言われて聞き流せなかったんですもん」
 そんなの理由にならないだろう。
 前に昇降口のほう見てたの、まさか佐藤たちに一言言ってやろうとか思ってたのか?
 とにかく。
「オーディション会場どこだ、そこまでダッシュ!」
「はぁい」
「いやオレは下ろせよ……、ったく」
 緑川は焦りも迷惑そうにもせず、むしろ頬をほころばせて、再び走り出した。




 高校の敷地の隅に、第三体育館がある。
 第一・第二体育館より狭くて、空調もきかない。それでもっぱら文化部が使っているとか。
 吹奏楽部の部内オーディションも、ここで行われるという。
「行ってきます」
「……はよ行け」
 やっとオレを下ろした緑川が、緊張ぎみに踏み出す。
 気の利いた言葉は思い浮かばない。
「待っててくださいね」
「はいはい」
 話したいことがたくさんある、って声色の緑川に、「集中しろ」って手を振るくらいだ。
 オレとしては話したいような、話したくないような。人生でいちばんかっこ悪い秘密を知られてしまったし。
(つか靴置いてきちまった)
 片っぽ靴下、片っぽ体育館シューズという、なんとも無様な状態だ。
 退散はあきらめ、体育館の外壁に寄り掛かる。
 ……暑い。今日は曇りなのに。
(あ。緑川のチューバの音)
 少しして、低く優しい音が聴こえてきた。
 まじで時間ぎりぎりだったっぽい。
 前半は基礎力のチェックなのか、個人練のときみたいに、ひとつひとつの音を長くまっすぐ出していく。
(いい感じじゃね? あとやっぱどっかで聴いたような……気のせいだよな)
 後半は、曲の一部を低音パートチームで演奏する。
 音楽はさっぱりだから、曲名は知らない。
 でも、ハーモニーの奥に緑川の音を聴き取ることはできた。
 実はさっきから自分の心臓の音が騒音並みにうるさいのだが、それと不思議と調和する。
 某和太鼓リズムゲーム、吹奏楽バージョン。
(――いや)
 これは、恋の音だ。
 聴いているうちに、そう気づかされる。
 この数日、ドコドコのドの字もなかった。
 それが緑川の声を聞いた瞬間鳴り出して、お姫様抱っこされてる間じゅう響き続けて、今も止まらない。
(もう聞こえないふりは、できねえな)
 観念して認める。
 テレビの中にヒーローを見つけたときとか、柔道で技が決まったときの昂揚に似ていて、もっと甘い。
「……はは」
 乾いた笑みがこぼれた。
 傷んだ前髪を引っ張って堪えようとする。
「~っ」
 緑川が好きだって認めなくなかった理由が、もうひとつある。
 認めた瞬間、失恋確定だから。
(中途半端なオレなんか、好きになってくれるわけねえ。オレが弱いせいでいやなことも言っちまったし)
 ゲーセンで女の子にそっけなくされるのの比じゃなく、打ちのめされる。
 好きじゃないなら、好かれなくても平気だ。
 好きだからこそ、好かれたい。
 下半身から力が抜け、ずるずるとしゃがみ込んだ。
 包み込むような音が止む。
 さっさと立ち去らなきゃ――。
「シンデレラ先輩?」
 ああ。緑川が戻ってくるほうが早かった。ていうか。
「誰がシンデレラだ」
「ふふ」
 緑川は悪びれず、傍らに膝を突く。
 普段メトロノームとかを入れているトートバッグから、さっき脱げた体育館シューズを取り出した。
(いつの間に?)
 うやうやしく履かせてくれた上で、微笑む。
「ぴったりじゃないですか」
 そりゃ、オレの靴だからな。
 拍子抜けして、ふ、と小さく吹き出した。
 緑川はさっぱりした雰囲気で、にこにこしている。もしかして。
「結果は?」
「明日出ます」
 ……なんだよ。オーディションに合格したのかと思ったじゃないか。まぎらわし過ぎ。
「晴翔先輩。僕の音、聴こえました?」
 今度は緑川が尋ねてきた。
 オレは片膝を立てて座ったまま、自分の耳を指差す。
「この耳でもちゃんと聴こえるっつの」
 つか、餃子耳のシンデレラなんて、アニメでもいないだろ。
「ならよかったです。コンクールメンバーに選ばれるかはわかりませんが、先輩への想いを込めて吹いたので」
 緑川は、満足げに言った。
 勝ち負け以外の物差しを持っているらしい。そこもオレと違ってさすがだ。
「ふーん……、ん?」
 聞き間違いでなければ。
 先輩への想い、って言ったか?
「は?」
 いつもよりだいぶ掠れた「は?」だ。
 緑川は急に静かになる。
 何でもいいから答えろ。答えてくれ。答えてください。
「……」
 こちらの気も知らず、おもむろに眼鏡を外した。
 夕陽に映えるイケメンに変身され、ドコドコカッ! する。
 その顔にものを言わせるかのごとく、ゆっくり近づいてきた。
 ――まじで近くない?
「……っ」
 混乱している隙に、唇と唇が重なり合った。
 優しく、やわい感触。
 キス、された。
「――……~!?」
 しかも、長え!
 セブン、エイト。八拍経っても吹奏楽部の肺活量は尽きない。
 もう付き合いきれない、とすざざと後しざる。
(は、はじめてなんだよオレは!)
 顔が熱い。耳も熱い。鼓動は、和太鼓の皮が破れるんじゃないかってくらい、強く激しい。
 さっきの緑川みたいに、両手を口もとに当てた。
「な、なん、なに……っ」
 ただし感激や嬉しさじゃなく、「何がどうしてそうなった」って疑問が渦巻く。
「アニメだと、こういうときキスするんで」
 口がうまく回らないオレと対照的に、緑川は落ち着き払っている。
 こういうって、どういうときだよ。そもそも。
「現実だし! 好きでもないのにすんなし!」
「好きです」
「う」
 そんな、きっぱりあっさり言うなよ。
 うだうだしてるオレが余計ださくなるだろ。
「オレなんかの、どこが……」
「聴こえたんでしょう? 僕の音」
 緑川の音――緑川の、恋の音?
 包み込まれるようで心地よかったのは、そのせいなのか。アニメも恋愛も詳しくなくて、確証が持てない。
「晴翔先輩は、僕のヒーローなんです」
「っ!」
 緑川の口からくしくも「ヒーロー」という言葉が出てきて、喉が引き攣った。
「かつあげされかけたとき、颯爽と助けてくれて。樺山先生からも庇ってくれました」
「いやそれはどっちかというとおまえが……」
「ボディガード中もつまらなそうにしないで心地よさそうに僕の音を聴いてくれましたし、さっきなんて怖い先輩を豪快に投げ飛ばしてくれました!」
 緑川はオレの指摘を遮り、夢見口調で言い募る。
 おまえも大概言い返してたけどな。
「あと、一緒に登校したり、僕の前でだけ素を見せてくれたりして、アニメの登場人物気分を味わわせてくれてます」
「べ、別に素とかじゃ」
 緑川はこの二か月のことを思い出して浸っているようだ。
 てか、素を見破ったんなら幻滅したんじゃないか?
「ヒーローになりたかったけど、なれなかったんだよ。オレをヒーローって思えるの、おまえだけだろ」
「……市の吹奏楽クラブ、市民会館で練習してたんですけど」
「は?」
 緑川はなおも語り続ける。いきなり何の話だ。
「小学生でチューバって、体格的に大変です。でも、同じ市民会館の道場で小柄な中学生が稽古を頑張っている姿を見て、僕も頑張れました」
「え……」
 まさか。懐かしい、と感じたのは、かつて同じ場所に居合わせたからなのか。
 自分でも知らないうちに、誰かを励まし勇気づけていた?
「金髪になっていたので気づくのが遅れましたが、あれは絶対に晴翔先輩でした。誰にも教えませんけどね」
 緑川がふんっ、と鼻息を吐く。
 誰と張り合っているんだ。
 でも――そっか。柔道を頑張ってきたのが、ぜんぶ無意味ってわけでもないのかもしれない。
 さっきだって、緑川のことを助けられたし。
 何だか緑川といると、ヒーローに近づけるような気がする。
 力が弱くても、一度挫折しても。憧れを捨てずに行動できる、心の強いヒーローに。
「ところで晴翔先輩は、僕のことどう思ってますか?」
 あきらめで凝り固まっていた気持ちがほぐれたところで、ストレートに訊かれた。強心臓過ぎ。
「どう、って」
 答えはわかりきっている。
 楽しいって自分に言い聞かせなくても、一緒にいて楽しい。それってつまりだ。
 緑川も期待に満ちた表情でオレの返答を待っている。
 こいつの作戦勝ちみたいなのは癪だけど。
 シャツの襟をくいっと引っ張って、耳打ちする。
「オレも好き、だ。ボディガードじゃなくて、彼氏になってやる」
「やったー、人生初彼氏ですぅ!」
「ちょ、声でか過ぎ」
 緑川は大喜びだ。おまえも初なのかよ。
(まあオタクだしな、……)
 そのワードで、この前の失敗が思い起こされた。
 これはちゃんと伝えないと、緑川に好かれる自分でいられない。
「あと、この前いやなこと言って悪い、ほんとはうざいとか思ってないから」
 ひと息に言う。
 謝って済むことじゃないけど、それでも。
「わかってますよ」
 一方の緑川は、やわらかく微笑んだ。
 待て。緑川が眼鏡を外したままのせいで、こっちの心臓がもたない。
 オレがこいつの顔に弱いのまで見抜かれてたりする?
 俯いて胸を押さえる。深呼吸。
「つか、おまえは男のオレでいいのか……?」
 オレはいいけどさ。
 この期に及んで懐疑を口にすると、緑川は指先でオレの眉間をちょんと撫でてきた。
「晴翔先輩は、眉間に力入れてない素の表情のとき、かわいいですよ」
「は?」
「最初に階段で受け止めたときなんて、アニメのヒロインみたいって思いました」
 まじかよ。初耳だ。
 それも、ヒロインって。
 じゃあずっと「かわいい」って思われてたわけか?
「か、かわいーって言うんじゃねえ!」
 さすがに照れくさい。自分で訊いておいてなんだが、禁止令を出す。
 眉間と口角をしっかり力ませて。
 緑川は「ごめんなさい」って言うかと思いきや。
「ふふ、わかりました」
 含みたっぷりに頷く。
「結局かわいーって思ってるだろ。かわいーって思うな」
「ええ、それは無理ですぅ」
 畳み掛ければ案の定、しょげ返った。
 ちょっとかわいそうだが、慣れるまで待ってほしい。いつ慣れるのか、そもそも慣れるのかわからないけど。
 ちらりと緑川を見遣る。眼鏡を掛け直していて、ほっとする。
「あともう一個、オレ以外の前で眼鏡外すな」
「? どうしてですか?」
 無自覚かよ。ああもう。
「おまえはオレだけのヒーローでいればいーの!」
 なんでもない日に出会った、一見オタクな後輩。
 好みなのは眼鏡に隠された顔に限らない。
 思い返せば、まっすぐ好意を示し続けてくれた。
 どれだけ救われたか知れない。独り占めさせてほしい。
「――はい。では、一緒に帰りましょう」
 緑川は、オレの不器用な「好き」を噛み締めるように了承する。
 そして、当たり前のようにお姫様抱っこしてきた。
「待て待て。え、緑川の好きなアニメではこーなの?」
「はい♪」
「絶対ウソだ……!」
 心臓が相変わらずドコドコカッカッ! と賑やかだ。
 でも、触れている緑川の心音と合わさると絶妙なハーモニーになるものだから、もう少し聴いていることにした。