「やっと終わった……」
悪戦苦闘の末、最後のベッドメイクを済ませたところで、ティハナは大きく息を吐いた。
疲労に続いてやってくる開放感から、眼前のベッドに思いきり身体を沈めたい気持ちに駆られたが、ぐっとこらえる。やっとの思いで終わらせたのに、また埃が立ってしまったら台無しだ。
と同時。小さく腹の虫が鳴る音が聞こえる。ほかでもなくティハナのものだった。
「って、もう昼をまわってるじゃないか」
壁の時計を見れば、針は予想以上に進んでいた。道理で腹が減るわけだ。
ティハナは掃除道具を脇に抱えて部屋を出て、廊下を歩く。目指すは本来の仕事の準備――ではない。
「厨房に行けば昼メシの残りが何かあるだろ」
腹ごしらえをしないことには、いい仕事は始まらない。それはメイドであろうが『人絶ち』であろうが同じことだ。
階段で一階へと下りる。迷いなく足を進めてはいるものの、勘だった。なにせまだティハナは屋敷を案内されていない。朝に屋敷に着くなりメイド服に着替えさせられたからだ。
アリアナを探した方が手っ取り早いのかもしれないが、その選択肢はなかった。もし別の仕事をするよう言われたらたまったものじゃない。
「しっかし、メイド服ってのは歩きづらいな」
歩くたびに長いスカートがひらひらと揺れる。普段の調子で歩くと足にからまって転んでしまいそうだ。とはいえ、そうも言っていられない。おそらく自分は明日もこの服を着て過ごすことになる
……三日後までには慣れないといけないな。
なんてことを考えていた時だった。
「ん……?」
不意にティハナの足が止まる。いや止めさせられた。
それは単純な話だった。彼女の鼻腔を、豊かなバターの香りがくすぐったからだった。
ボクの勘も冴えてるってことだな。
心の中で自画自賛しながら、匂いをたどる。やがて廊下の一番奥までたどり着くと、特に遠慮することもなく扉を開く。
思った通り、そこは厨房だった。だが予想外のこともあった。
そこには、自分と同じメイド服に身を包んだ少女の姿があった。
「ティハナ、さま?」
「あんた、たしかステラ……だったか」
アリアナが依頼に訪れた際に侍らせていたメイドだ。自分とさほど変わらない身長に、自分とは違ってきちんと着こなしている。亜麻色の髪はきちんと後頭部のキャップに収められていて、これぞ屋敷のメイド、というかんじだ。
ステラはまさかティハナがここにいるとは思いもしなかったのか、目を瞬かせている。だがティハナにとっては好都合だった。ティハナの素性を知っているのだから、話が早い。
「どうしてこちらに?」
「アリアナ嬢に言いつけられた部屋の掃除がようやく終わってね」
厨房の外に置いた掃除道具を一瞥する。
「申し訳ございません。お任せしてしまって」
「本当だよ。まさかご令嬢の部屋を掃除する方にまわるなんて思いもしなかったよ」
勝手がわからず苦労した。おかげでこんな時間までかかってしまったわけだが。
「あのお嬢さま、本当にボクのことを新しい使用人か何かだと勘違いしてるんじゃ――って、それは?」
ティハナは愚痴をこぼすのを止める。ステラの手もとにある皿が目に入ったからだ。正確には、その上にある焼き菓子を。
スコーンか。いい匂いはこれだったってことか。
「お嬢さまからティータイムに召し上がりたいとおっしゃいましたのでお作りしていたのです」
「ふうん」
聞けば、アリアナは現在昼食を済ませて今度は礼儀作法を学ぶ時間らしい。まあティハナにとってはどうでもいいことだが。
「といっても、これは失敗してしまったものですが」
「失敗?」
「はい。お嬢さまは見た目の悪いものは口にしたがりませんので」
たしかにステラの言う通り、そこにあるのはいささか焦げていたり焼き目がきちんとついていなかったりと、不ぞろいなものばかりだ。よく見れば少し離れたところにはきれいに焼き上がったスコーンが数個、これまたきれいな模さまの入った皿にのっていた。
「ふうん……じゃあこれは余りものってことだよね?」
「はい、そうなりますが……」
「ならいただくよ」
あ、というステラの声よりも早く、ティハナは残り物のスコーンをつまんで口に運ぶ。瞬間、より一層香りが強く届く。サクサクとした食感に続いて、ちょうどよい甘さが広がった。
「うん、うまい」
気づけばスコーンはすっかり消えてなくなっていた。朝から何も食べていないこともあって、まさに一瞬の出来事だった。
「自由、ですね。ティハナさまは」
「そんなことはないだろ。自由なやつは少なくとも朝から他人の部屋を掃除するなんてしないだろ」
まったく、この分の労働はあとで報酬に追加しないとな。
「それにしてもうまいな。毎日でも食べたいくらいだ」
「大げさですよ」
「お世辞じゃないさ。まあここのところロクなものを食べてなかったってのもあるけど」
「どうしてですか? その、報酬をたくさんいただいているのですから好きなものを食べられると思うのですが」
「そういうわけにもいかないよ。うまい食事に慣れると、それしか受け付けなくなる」
それこそ、アリアナが形の悪いスコーンを受け付けないように。
「だから食事は質素に、がボクのモットーなわけ。まあ単純にお金を持っておきたいっていうのもあるけどね。お金なんていつどこで価値が減るかわからない存在だから、たくさん持ってるに越したことはないでしょ」
「そういう、ものですか」
「そういうものだよ。だからボクは求める報酬に妥協はしないってわけ」
まあそれだけじゃないけどね。ティハナは心の中でだけつぶやく。
報酬は、覚悟を量る指標でもあるから。その多寡は二の次だ。
自身の願いを、求めた代償を背負えるだけの覚悟があるかどうか――
「ティハナさま?」
「ああ、うん、なんでもないよ。なんだっけ」
「いえ、これならもう少し多めにつくってもよかったと思いまして」
「かもね。でもどうせつくるなら失敗作を多めにしてほしいかな」
「ティハナさまったらご冗談を……どうかなさいましたか?」
失敗作がティハナさまは……どうかなさいましたか?」
と、ステラが言葉を止めて訊いてくる。無理もない、ティハナがじっと彼女のことを見ていたからだ。
「その『ティハナさま』っていうのはやめにしないか。今の立場上、ボクと君は同じこの家の使用人なんだから」
それにどちらかといえばステラの方が先輩になる。だというのにティハナのことをさまづけで呼んでいたら周囲に不審がられてしまう。
「では、なんとお呼びすれば」
「ふつうに呼び捨てでいいんじゃないか」
「かしこまりました。では……ティハナ」
なじませるように唇を何度か動かしてから、言う。細かいことを言えば「かしこまりました」も変なのだが、まあいいだろう。
「さてと。腹ごしらえも済んだし」
ふう、と息を吐いて切り替える。そろそろ本来の仕事にとりかかるとしよう。
「パーティ会場の場所に案内してくれないか?」
悪戦苦闘の末、最後のベッドメイクを済ませたところで、ティハナは大きく息を吐いた。
疲労に続いてやってくる開放感から、眼前のベッドに思いきり身体を沈めたい気持ちに駆られたが、ぐっとこらえる。やっとの思いで終わらせたのに、また埃が立ってしまったら台無しだ。
と同時。小さく腹の虫が鳴る音が聞こえる。ほかでもなくティハナのものだった。
「って、もう昼をまわってるじゃないか」
壁の時計を見れば、針は予想以上に進んでいた。道理で腹が減るわけだ。
ティハナは掃除道具を脇に抱えて部屋を出て、廊下を歩く。目指すは本来の仕事の準備――ではない。
「厨房に行けば昼メシの残りが何かあるだろ」
腹ごしらえをしないことには、いい仕事は始まらない。それはメイドであろうが『人絶ち』であろうが同じことだ。
階段で一階へと下りる。迷いなく足を進めてはいるものの、勘だった。なにせまだティハナは屋敷を案内されていない。朝に屋敷に着くなりメイド服に着替えさせられたからだ。
アリアナを探した方が手っ取り早いのかもしれないが、その選択肢はなかった。もし別の仕事をするよう言われたらたまったものじゃない。
「しっかし、メイド服ってのは歩きづらいな」
歩くたびに長いスカートがひらひらと揺れる。普段の調子で歩くと足にからまって転んでしまいそうだ。とはいえ、そうも言っていられない。おそらく自分は明日もこの服を着て過ごすことになる
……三日後までには慣れないといけないな。
なんてことを考えていた時だった。
「ん……?」
不意にティハナの足が止まる。いや止めさせられた。
それは単純な話だった。彼女の鼻腔を、豊かなバターの香りがくすぐったからだった。
ボクの勘も冴えてるってことだな。
心の中で自画自賛しながら、匂いをたどる。やがて廊下の一番奥までたどり着くと、特に遠慮することもなく扉を開く。
思った通り、そこは厨房だった。だが予想外のこともあった。
そこには、自分と同じメイド服に身を包んだ少女の姿があった。
「ティハナ、さま?」
「あんた、たしかステラ……だったか」
アリアナが依頼に訪れた際に侍らせていたメイドだ。自分とさほど変わらない身長に、自分とは違ってきちんと着こなしている。亜麻色の髪はきちんと後頭部のキャップに収められていて、これぞ屋敷のメイド、というかんじだ。
ステラはまさかティハナがここにいるとは思いもしなかったのか、目を瞬かせている。だがティハナにとっては好都合だった。ティハナの素性を知っているのだから、話が早い。
「どうしてこちらに?」
「アリアナ嬢に言いつけられた部屋の掃除がようやく終わってね」
厨房の外に置いた掃除道具を一瞥する。
「申し訳ございません。お任せしてしまって」
「本当だよ。まさかご令嬢の部屋を掃除する方にまわるなんて思いもしなかったよ」
勝手がわからず苦労した。おかげでこんな時間までかかってしまったわけだが。
「あのお嬢さま、本当にボクのことを新しい使用人か何かだと勘違いしてるんじゃ――って、それは?」
ティハナは愚痴をこぼすのを止める。ステラの手もとにある皿が目に入ったからだ。正確には、その上にある焼き菓子を。
スコーンか。いい匂いはこれだったってことか。
「お嬢さまからティータイムに召し上がりたいとおっしゃいましたのでお作りしていたのです」
「ふうん」
聞けば、アリアナは現在昼食を済ませて今度は礼儀作法を学ぶ時間らしい。まあティハナにとってはどうでもいいことだが。
「といっても、これは失敗してしまったものですが」
「失敗?」
「はい。お嬢さまは見た目の悪いものは口にしたがりませんので」
たしかにステラの言う通り、そこにあるのはいささか焦げていたり焼き目がきちんとついていなかったりと、不ぞろいなものばかりだ。よく見れば少し離れたところにはきれいに焼き上がったスコーンが数個、これまたきれいな模さまの入った皿にのっていた。
「ふうん……じゃあこれは余りものってことだよね?」
「はい、そうなりますが……」
「ならいただくよ」
あ、というステラの声よりも早く、ティハナは残り物のスコーンをつまんで口に運ぶ。瞬間、より一層香りが強く届く。サクサクとした食感に続いて、ちょうどよい甘さが広がった。
「うん、うまい」
気づけばスコーンはすっかり消えてなくなっていた。朝から何も食べていないこともあって、まさに一瞬の出来事だった。
「自由、ですね。ティハナさまは」
「そんなことはないだろ。自由なやつは少なくとも朝から他人の部屋を掃除するなんてしないだろ」
まったく、この分の労働はあとで報酬に追加しないとな。
「それにしてもうまいな。毎日でも食べたいくらいだ」
「大げさですよ」
「お世辞じゃないさ。まあここのところロクなものを食べてなかったってのもあるけど」
「どうしてですか? その、報酬をたくさんいただいているのですから好きなものを食べられると思うのですが」
「そういうわけにもいかないよ。うまい食事に慣れると、それしか受け付けなくなる」
それこそ、アリアナが形の悪いスコーンを受け付けないように。
「だから食事は質素に、がボクのモットーなわけ。まあ単純にお金を持っておきたいっていうのもあるけどね。お金なんていつどこで価値が減るかわからない存在だから、たくさん持ってるに越したことはないでしょ」
「そういう、ものですか」
「そういうものだよ。だからボクは求める報酬に妥協はしないってわけ」
まあそれだけじゃないけどね。ティハナは心の中でだけつぶやく。
報酬は、覚悟を量る指標でもあるから。その多寡は二の次だ。
自身の願いを、求めた代償を背負えるだけの覚悟があるかどうか――
「ティハナさま?」
「ああ、うん、なんでもないよ。なんだっけ」
「いえ、これならもう少し多めにつくってもよかったと思いまして」
「かもね。でもどうせつくるなら失敗作を多めにしてほしいかな」
「ティハナさまったらご冗談を……どうかなさいましたか?」
失敗作がティハナさまは……どうかなさいましたか?」
と、ステラが言葉を止めて訊いてくる。無理もない、ティハナがじっと彼女のことを見ていたからだ。
「その『ティハナさま』っていうのはやめにしないか。今の立場上、ボクと君は同じこの家の使用人なんだから」
それにどちらかといえばステラの方が先輩になる。だというのにティハナのことをさまづけで呼んでいたら周囲に不審がられてしまう。
「では、なんとお呼びすれば」
「ふつうに呼び捨てでいいんじゃないか」
「かしこまりました。では……ティハナ」
なじませるように唇を何度か動かしてから、言う。細かいことを言えば「かしこまりました」も変なのだが、まあいいだろう。
「さてと。腹ごしらえも済んだし」
ふう、と息を吐いて切り替える。そろそろ本来の仕事にとりかかるとしよう。
「パーティ会場の場所に案内してくれないか?」
