その少女、縁を切る。

 ふと顔を上げれば、目に映る光景はどこまでも広がる地平線だった。
 それを境界として、上には空が、下半分は土色が。どちらをとっても、果てはなかった。
 何の変哲もない景色かもしれないが、彼女の目を奪うには十分だった。
 今までずっと、貴族の屋敷という閉ざされた場所にいた彼女――ステラにとっては。
「どうかしたか?」
 ステラの視界にひとりの少女が、ティハナの姿が入り込んだ。自分だけ気がつけば立ち止まっていたからだ。
「あまり見たことのない景色だったのでつい。申し訳ございません、早く離れないといけないのに」
「まあいいんじゃないか。ここまでくれば十分だろうし」
 ティハナの目がステラよりもさらに後方を向くので、つられて振り返る。自分たちが歩いてきた足跡(そくせき)のはるか向こうに見えるのは、クラバスの街。
 ステラの身体はティハナと同じ、土色の外套に包まれていた。キャップできれいにまとめられていた頭頂部は見る影もなく、亜麻色のミディアムヘアが解き放たれたように揺れている。
 屋敷に仕えていた使用人、ステラの姿はもうどこにもない。
「……よろしかったのでしょうか」
「ボクがいた古美術商の建物に火をつけたこと? 別にいいんじゃないかな、あのじいさんだってもともと空き家だったあの場所を勝手に使っていただけだって言ってたし」
 あの(・・)騒動があってから、まだ丸一日と経っていないが、街にティハナがいた痕跡はもうどこにもなかった。ティハナのことを探そうと思っても、誰からもたどることはできないだろう。
「『人絶ち』としての仕事を終えたら速やかにその場を去る。それが鉄則だからね」
「あの、そうではなくて……」
「ん? ……ああ」
 ステラの言葉がまだ歯切れが悪かったので、ティハナは悟る。そして今度は望む答えをくれた。
「よろしいも何も、ボクは依頼を完遂したまでだよ。ふたりの依頼を平等に……ね」
 ティハナが言う。クラバスの街で受けた依頼はぜんぶで三件あったと。そのうち一件は言うまでもなく、アリアナからのもの。そしてそれよりも前に受けたものが二件あった。
 ひとつは商人からのもの。
 そしてもうひとつは、
「君だって大事な依頼人だからね。他の依頼が誰であっても」
 その言葉と同時、ステラの脳裏には一週間前の記憶がよみがえる。アリアナがティハナに声をかけるよりも数日早く、ティハナのもとを訪れた時のことを。
「にしても、君がやってきた時は驚いたよ。いきなり『主人との縁を切りたい』なんて言ってくるんだから」
「あなたが、『人絶ち』が街にきているという情報をつかんだとお嬢さまがおっしゃっていたのを聞いたらいてもたってもいられませんでしたので」
 その日、ステラはいつものようにアリアナに買い出しを命じられていた。そしてそれを利用して、あの古美術商の一角へとやってきた。自分が開口一番放った言葉は、今でも鮮明に憶えている。
 ――私を、自由にしてください。
「依頼が重なるなんてのは初めてだったよ。まあ、おもしろい経験だったかな」
 アリアナの「婚約者との縁を切りたい」というものと、ステラの「雇われているクラバス家との縁を切りたい」という。
 ――結果、ティハナは今の結末を選択した。
「こうするのが最善、だったんでしょうか」
「って言うと?」
「えっと、私に罪を着せる、とか」
「そんなことをしたって両家の婚約は解消されないでしょ。単純に君がお尋ね者になるだけで。それが君の言う『自由』なの?」
「それはそうですが……」
「ふたりとも自由を望んで、その結果あらゆる縁が切れた。ふたりとも同じだよ」
 アリアナは「クラバス家の令嬢」ではなくなり、ステラもまた「クラバス家の使用人」という肩書きをすべて失い、ただの人となった。
「まあ、ひとつだけ違うとしたら……覚悟かな」
「覚悟、ですか?」
「ああ」
 ティハナが言う。
「縁っていうのは本当にどうしようもないものでさ。切ろうと思っても切れないんだよ」
 だからこそ時に人はそれを「しがらみ」とも呼んだりもする。
「切ろうとするのなら相当な力が、覚悟が必要なのさ。簡単に切れるだなんて、ちょっとお金を払ったからといって叶うものじゃない」
 そんな甘いものじゃない、と。
「君はそれをわかってるはずだよ。だから全財産をボクに渡してきたんでしょ?」
 ティハナは懐から袋を取り出した。じゃらり、と硬貨がこすれる音。ステラが今まで使用人として働き、両親の借金返済分を引いたなけなしの給料を必死に貯めたものだ。ゆえに今の自分は、正真正銘の無一文だった。
「それだけじゃない。君は最終的に、アリアナを切り捨てる選択をしたんだ。己の自由の、望みのために他人を、仕えていた相手を陥れるっていうね」
 そう。最後の引き金を引いたのは他ならぬ自分だった。アリアナの着替えを手伝っている際に毒の小瓶をドレスに忍ばせたのは。
「その事実は、君が背負って生きていかないといけない」
「私が、背負って」
「ああ」
 復唱するステラに、ティハナは言う。
「縁を切って自由になるには、必ず代償と責任が伴うんだよ」
「代償と、責任」
「ああ。それを本質的に理解している人間だけが、資格がある」
「……はい」
 ただ願うだけでも、豊かな財産を持っていることでもない。
 自分のすべてを投げうってでも手に入れたい、という渇きにも似た感情を抱き。
 その結果、ステラは今ここにいた。
「そう……ですね」
 そう考えると、ステラは自分が今立っている両足が重たくなるのを感じた。縁が切れて、自由になったこの身体には、たしかな重量があるのを。
「さて、と。まあ説教を垂れるのはこれくらいにして」
 と、ティハナは再び前を向いて歩き出した。ステラも後を追うようにして続く。
「これから、君はどうしたい?」
 周囲には菜の花が一面に咲いていた。ゆるやかな風が吹くと甘い香りが仄かにステラの鼻腔に届く。
「もうすぐクラバス家の領地を出る。君は正真正銘『ただの』ステラだ。君はこれから、どう生きる?」
「私は……」
 ティハナの問いに、一瞬言葉を詰まらせる。だけどすぐさま答えた。どうしたいかは、もう決まっていたから。
「私は、旅がしたいです。あなたと」
「ボクと? それはまたどうして?」
「たしかに今の私は、これまでの縁……いいえ、しがらみに囚われなくなった自由の身です。ですが、そういうのはいつまた私の身体を縛るかわかりません。
 ――ですから、一緒に行かせてください」
 ステラのその言葉は、まるで決意をするようだった。
 すると、
「それは依頼ってことでいいのか?」
「え」
 ティハナからはそんな言葉が返ってくる。
「ボクは『人絶ち』だからね。依頼なら報酬が必要かな」
「で、ですが私にはもう」
 有り金なんてものは一銭たりともない。それは眼前のティハナがもっともよくわかっているはずだ。
 報酬なんて、今の私に払えるものはもう――
「そういえば」
 と、ティハナが言う。
「正直あの屋敷はなにもかもいけ好かなかったけど、ひとつだけ気に入ってるものがあってさ」
 続く言葉にステラは首をかしげるだけだった。だがさらに続いた言葉に、ステラの目は見開かれた。
「それは、君が淹れてくれた紅茶と、それからスコーンさ」
「…………!」
「言っただろ? ここ最近はまともに食べてなかったって。あのパン屋だってもう行けないし。久しぶりにうまい食事をしたくなってさ」
 言うと、ティハナは懐から袋を取り出した。それはステラが依頼した時に渡した、なけなしのお金だった。
「報酬は払う。だからボクにおいしいものを食わせてくれないか?」
 ティハナは金品の入った袋を受け取る。そして、それをすぐさまティハナに返し、言った。
「かしこまりました。では、私も依頼をします。一緒に行かせてください」
「いいよ。これだけ報酬をもらったら断るわけにはいかないな」
「ではまずは、いい茶葉を仕入れるところからですね。とびきりいい茶葉を」
「そうだな。お金はクラバスの街でたくさん稼いだし、たくさんある」
 冗談混じりに言うティハナに、ステラは思わず笑みがこぼれる。同時に、菜の花が揺れた。
「あの、ティハナ」
「なんだ?」
「もしかしてあなたも昔はどこかの……」
 そこまで言って、ステラは言葉を止めた。紅茶に詳しかったり、地方貴族のことをよく知っていたり。もしかするとこの『人絶ち』もかつては違った生き方をしていたのではないか。
「どこかの?」
「いえ、忘れてください」
 そんなことを思ったが、問うのはやめた。こんなことを訊いて、仮に知ったとしても今のふたりにとっては何にもならない。それは縁ではない。しがらみだ。
 代わりに、違う質問を投げかけることにした。未来に向けた質問を。
「いつまで、一緒にいていいですか?」
「そうだな……」
 少しだけ考える仕草をする。それからティハナは口角を上げてみせた。ほくそ笑むように。
「少なくとも今もらった報酬分は、かな」
 だってこう言うだろ? と『人絶ち』はただの少女に向かって言う。
「金の切れ目が縁の切れ目、ってね」