白鳥座の恋

しかし、どんな言葉を尽くしても、樹の目から溢れる涙が止まることはなかった。
「……なぁ、相田ぁ。俺たちさ、将来どっちかが結婚するときはさ……友人代表のスピーチは、絶対にお互いにしようって中学のときに約束したじゃんか……」
新しく開けたばかりのティッシュが、もうすでに半分ほどに減っている。樹はそれを丸めては床に放り投げ、また新しい一枚を引き抜く。
その、あまりにも気が早すぎる、そしてあまりにも無邪気な未来の約束に、相田の胸がキリ……と痛んだ。
「は? しとらんし。勝手に決めんなや」
少し冷たいトーンになってしまったのを自覚しながら、相田は短く突き放す。
「なんでだよぉ、いいだろケチ。じゃあ、もし俺が一生結婚できなくても、お前の結婚式には俺が絶対にスピーチしてやるからな。マイク奪ってでも、お前がいかに良い奴かぶちまけてやる」
何が「じゃあ」なのかは全く分からないが、樹は涙で濡れた顔を上げて、何の気なしにそう言った。
相田は、心の底からうんざりした。
その言葉が、どれほど残酷に自分を切り刻んでいるのか、この男は一生気づかないのだろう。
そんな日は、永遠に来ない。相田が誰か別の女と結婚する日も、樹の結婚式を笑顔で祝福する友人代表の席に座る日も、この世界のどこを探したって存在しないのだ。
「……ほかの奴に頼め。俺は絶対嫌や」
「なぁんでだよ! 誰よりも付き合い長いじゃん! 保育園のときからずっと一緒なのは、俺だろ!」
樹は子供のように地団駄を踏み、またワッと大声を上げて泣きだした。
部屋の中のうるささは確実に増したし、近所迷惑も甚だしいのだが、相田の胸の奥には、不思議と少しだけスッとするような、胸のすく思いがあった。
無自覚に俺の心を傷つけた分、こちらも無自覚な冷たい友人を装って、ほんの少しだけ仕返しをしてやりたくなる。
自分が呆れるほど子どもっぽく、執念深い思想を持ち合わせていたことが分かって少し自分自身にがっかりもしたが、そうでもしなければこの切なさに耐えられそうになかった。

時計の針はすでに夜の10時を回っている。寝るまでこの調子だろうな、と相田は小さくため息をついた。
彼は腰を上げると、一階のキッチンへと向かった。実家の冷蔵庫を開け、よく冷えたコーラの缶を2缶取り出す。さらに、リビングの棚から適当なスナック菓子をいくつか掴んで、自分の部屋へと戻った。

部屋に戻ると、樹はまだソファの上で丸くなってシクシクと泣いていた。その枕元に、キンキンに冷えたコーラの缶をコトッと音を立てて置く。
「ほら、これでも飲んで落ち着けや」
差し出された赤色の缶とスナック菓子を見て、樹は涙をボロボロと流したまま、驚いたように目を丸くした。そして、おもむろに缶のプルタブを引き抜くと、カチリと心地よい音が響き、中から弾けるような炭酸の気泡が立ち上った。
樹はそれを一気に口に含み、喉を鳴らしてゴクゴクと煽った。
「うま……っ!!」
涙で顔をぐしゃぐしゃにしたまま、樹が感嘆の声を漏らす。
ふたりの所属する三好高校野球部では、体調管理と増量・減量、そして精神を鍛えるという名目のもと、「炭酸飲料および糖分の高いジュースの摂取」が鉄の掟として固く禁止されていたのだ。練習終わりに自販機の前で、一般の生徒たちが美味そうにサイダーやコーラを飲んでいるのを、樹と相田は羨望の目で見つめることしかできなかった。
先月部活を引退したとはいえ、3年間の習慣というのは恐ろしいもので、樹は今日まで自主的に炭酸を絶っていたらしい。
「気が利くなぁ、お前は……。マジで良い奥さんになるぞ、相田」
「誰が奥さんや。お前、泣いたら頭のネジ飛ぶな」
相田は呆れたようにコーラを口にしながら、ツッコミを入れる。
聞けば、樹は今日の朝から失恋のショックで何も喉を通っていなかったらしい。空っぽの胃袋に、激しく泣き疲れた身体。そこへ一気に強烈な炭酸と大量の糖分が流れ込んだのだ。まるでアルコールでも回ったかのように、樹の身体へ急激な睡魔が襲いかかっていくのが見て取れた。
相田の目論見通りだった。樹はコーラの缶を完全に飲み干す頃には、急速に目がトロンとし始め、ふにゃふにゃと呂律が回らなくなっていった。あれほど止まらなかった涙もようやく引き、次第に目はうつろになり、顔から一切の表情が消え失せていった。
うとうと、座ったまま舟をこぎはじめた樹の身体が、限界を迎えて横に傾く。
相田は咄嗟に動き、樹の大きな脇の隙間に自分の腕を滑り込ませた。がっしりとしたその身体を、抱きあげるようにして狭いシングルベッドの中央へと運ぶ。
樹の肌に触れるたび、相田の心臓は太鼓のように激しく打ち鳴らされ、自分の感情が抑えきれなくなる。肌がかぁっと熱くなるのを感じる。
試合中にがっちりと固い握手を交わすときも。ベンチ裏でその広い肩を抱きしめたときも。練習終わりに悪ふざけで、ふいに後ろから抱きつかれたときも、いつもそうだった。
この、身体の芯から湧き上がるような異常な熱が、どうかこの純粋な友人にだけは伝わらないでほしいと、相田はいつも祈るような気持ちで自分を押し殺していた。
「……おれさあ……」
ベッドに横たわり、すでに半分眠りに落ちてぼんやりとしていた樹が、いきなり脈絡もなく口を開いた。静まり返ったその声に心臓が跳ね、相田はびっくりして危うく樹の身体をベッドから落としそうになった。
「お前が女だったらさあ、絶対、お前と付き合ってたと思うんだよねぇ……」
どきりと、相田の心臓が今度こそ爆発しそうなほどの質量で跳ね上がる。耳の奥でドクドクと不快なほどに血流の音が響いた。
「だって、理想だもん、お前みたいなやつ。俺のつまんない話もたくさん聞いてくれてさ、こうやっていつも、優しくしてくれるじゃん。そんで、誰よりも誠実だしさ。浮気とか絶対しなさそう、一途だし……。俺の事、ずっと好きでいてくれそうだしさぁ……」
相田は一瞬、完全に思考が停止してその場に凝固した。
あまりの動揺に呼吸の仕方を忘れそうになる。その動揺を、1ミリたりとも目の前の酔っ払い(炭酸だが)に悟られないようにするため、相田は素早く、かつ乱暴に樹の身体をベッドの上に転がした。
「ぐえっ」
蛙が潰れたみたいな情けない声を出す樹を見下ろす。胸の鼓動はまだうるさいほどに鳴り響いている。
「なんだよ。怒った?」
「べつに」
「……俺、そういう、お前みたいな模範解答みたいな恋愛が良いんだよなぁ。刺激なんか、一回もいらないからさ……普通の恋がしたい。普通の恋人と、ずっと一緒に、仲良くしていたいだけなのに、なぁ……」
もぞもぞと不器用に動いて、仰向けになる樹。相田はそんな彼の顔を見ないようにしながら、足元に丸まっていたタオルケットを無造作に頭の上からかけてやった。
「あ、お前、今どうせ冗談だって思ってるだろ? 本当だぞ。俺、お前が女だったら、今すぐ告白してるもん」
「はいはい、分かったから早よ寝んかい」
普通。
普通、か――……。
樹の目が、うっすらと、微かに開いて、暗がりの中で相田の視線をまっすぐに捉えた。
「でもなあ~。お前も俺も、男だもんなあ~」
苦笑するような、寂しげな樹の声。
悟られないように、悟られないようにしなければ。
タオルケットを握る相田の微かな指先が、怒りと悲しみで小さく震えた。
「おっぱいもないし、そーだよなあ、お前が女なわけねぇか」
ケラケラと力なく笑う樹。
単純に、男だから対象外だと言われたのだ。
相田の胸の中に、どれほど深く、どれほど狂おしい執着が眠っているのか、その本心など露ほども知らない樹が。無意識のうちに、何の悪気もない無自覚さで、相田の心を綺麗に一刀両断して振ったのだ。ただの、何の気のない雑談の一環として、あっさりと。
「……早よ寝ろや」
いつもよりずいぶんと低い、ドスの利いた声が出てしまった。
樹に「怒っているのか?」と指摘されたら、どうやって言い訳を繕おうかと一瞬で思考を巡らせたが、激しい眠気に完全に囚われた樹は、相田の声のトーンの変化など何も気にしていないようだった。
「なあ、相田」
「……」
「相田ってば、聞いてる?」
「……何やねん、しつこいな」
「俺はさ、やっぱり……お前が友達で、本当に良かったって思うよ」
まだ言うのか。
これ以上、その綺麗な言葉で俺をなぞるな。
もう聞きたくない、と相田は耐えかねて視線を激しく逸らした。
「彼女は、裏切るけどさ……。友達は、絶対に裏切らないもんな」
樹は満足したように目を閉じ、小さな寝息を立て始めた。
相田は無言のまま、壁のスイッチに手を伸ばし、パチリと部屋の電気を消した。室内は一瞬にして、濃密な暗闇に包まれる。

誤解してる。お前は俺のことを、ずっと、ずっと最初から誤解してる。
友達ちゃうわ。俺はお前を、最初から友達としてなんか見とらん。お前をただの友達として見ていた時期がいつやったんか、もう覚えてへんほど大昔の話や。
裏切っとるんや、俺は。ずっと前から、お前のことを、お前の信じる友情の全てを。
お前が安心していられるように、お前が傷つかんように、お前が好む『模範解答』みたいな都合の良い親友を、俺はずっと演じ続けとるだけなんや。

「……相田がいてくれて、本当によかった……」

暗闇の向こうから、消え入りそうな樹の呟きが聞こえた。それが最後の言葉だった。

ここで――もし、ここで俺がお前の上に乗り、その自由を奪い、唇を重ねたらどないする?
お前のその太い腕を頭上でまとめあげ、無理矢理その身体を暴いて、俺のものにしてもうたら。
「友達なんかちゃう、俺はお前に抱かれたいんや」と、ずっと、ずっと前から腹の底で抑え込んできたその狂気的な衝動をぶちまけたら、お前は一体どんな顔する?
怪訝な顔をするやろか。気持ち悪いって叫んで、俺を拒絶するやろか。
『裏切り者』って、激しい涙を流して、『俺たちは友達じゃなかったんかよ』って、絶望に満ちた声で俺を責めるやろか。
それとも――……。

相田は、光の届かない暗闇の部屋の中、ベッドの脇でひとり、幽霊のように佇んでいた。
しばらくして、すうすうと一定のリズムを刻む、穏やかで静かな呼吸音が聞こえてきた。完全に眠りについた証拠だった。
カーテンの隙間から差し込むわずかな月光が、ベッドに横たわる樹の顔を微かに照らし出す。
形の良い、男らしい唇。
日焼けした肌に映えるその唇を見ているだけで、胸が締め付けられて、泣きそうになる。
相田は磁石に引き寄せられるように、ゆっくりと、音を立てずに樹の顔へと近づいた。
そっと、本当にそっと、自分の唇を重ねる。
樹を絶対に起こさんように、自分の肺にある全ての空気を止めて、息を顰めながら。
ほんのわずかだけ触れ合った樹の吐息が、相田の頬の産毛を優しく撫でた。それだけで、全身の血が逆流するほどの快感が走る。
心臓の音が樹に聞こえてまうのではないかと恐怖するほどに、激しく息を殺しながら、ゆっくりと唇を離した。

あたたかくて、柔らかくて、そして夏の終わりの日差しのせいで、ちょっとだけカサついていた。
それだけのことが、今の相田に許された最大の裏切りだった。
相田はなるべく足音を立てないように、部屋の窓を静かに開けてベランダへと出た。
夜の空気は、昼間の猛暑が嘘みたいに少しだけひんやりとしていて、火照った身体を心地よく冷やしていく。

見上げた真っ黒な空には、姪っ子が床にビーズをちりばめたときのような、息をのむほどにうつくしい夏の星が広がっていた。
あまりの美しさに、相田は肺に残っていた熱い息を深くため息として漏らした。星空を見ると、胸を支配していた嫌な緊張や、ドロドロとした黒い感情が少しだけ解けていくような気がする。

墨汁をどっぷりと垂らしたかのような真っ黒な空の中に、ひと際強く、傲慢なほどに輝く星があった。
……あれは確か、ベガや。

1年生のときの、あの地獄のような夏の遠征合宿の夜のことを思い出す。