白鳥座の恋

わんわんと目の前で声をあげながら泣きわめく友人を、相田洋は複雑な思いで見つめていた。
呆れ半分、同情半分、そしてほんの少しの――
いや、本当は胸の奥をどす黒く満たしている、己の邪な思いを抱きながら。

樹仁心という男は、滅多に泣かない。
少なくとも、相田が知る限り彼はそういう人間だった。三好高校野球部という県内でも指折りの、地獄のような練習量で知られる強豪校で、樹は1年生の春から過酷な環境に身を置いてきた。鬼と恐れられる監督に怒鳴り散らされようが、昭和の空気が抜けない厳しいシニアコーチに容赦なく泥まみれにされようが、あるいは公式戦の大事な局面で手痛いヘマをしてチームを危機に陥れたとしても、樹が他人の前で涙を流すことなど絶対に家族やチームメイトの前でもなかった。
そもそも、樹は人前で泣くという行為そのものを「恥」として酷く嫌っている節があった。しきりに「俺は男だから泣かない」「マウンドの上で泣くのはマナー違反だ」と言っていたのを覚えている。厳しいことで有名な彼の両親から、男はそう簡単に涙を人に見せてはいけない、弱音を吐く暇があるなら身体を動かせと教わって育ったせいもあるのだろう。

そういえば、と相田は膝を抱えながら、目の前で鼻を真っ赤にしている幼馴染を眺めて思う。
樹の泣き顔を見るのは、これが人生で2回目かもしれない。

1回目は、つい先月のことだった。
樹と相田が在籍する三好高校野球部は、3年間の集大成である夏の甲子園予選・準決勝の舞台に立っていた。相手は長年のライバルであり、全国常連の強豪・伊豆見高校。
炎天下の地方球場、鳴り響くブラスバンドの音と地を震わせるような大歓声の中、試合は9回裏までもつれ込む大熱戦となった。キャプテンであり、チームのエースとしてマウンドを守り続けてきた樹は、指の皮がめくれ、ユニフォームを泥と汗で泥濘にしながらも気迫のピッチングを続けていた。
だが、結果は非情だった。1点という、あまりにも小さく、それであまりにも巨大な僅差で、三好高校は敗れた。
球審のゲームセットの声が響いた瞬間、高校最後の夏が、俺たちの3年間が唐突に終わりを告げた。
ホームベースを挟んで整列し、涙を堪えて声を震わせながら頭を下げ、握手を交わした。そのとき、樹の顔はまだ引き締まっていた。キャプテンとしてのプライドが樹を支えていたのだろう。
ベンチ裏へ引き揚げる際、なんとなく、その大きく頼もしかったはずの背中が小さく寂しそうに見えた。だから、副キャプテンであり、ずっと彼の後ろを守ってきたファーストの相田は、自然と樹の肩を抱いた。俺が支えてやらないといけない、そう思ったのだ。
そのときは、樹は相田の方を振り返り、「良い試合だったな。悔いはねえよ」と、どこか憑き物が落ちたようなやりきった顔で爽やかに笑ってみせたのだ。

しかし、その言葉が強がりだったことを、相田は直後に知ることになる。
片付けを終え、誰もいなくなった薄暗い控室に忘れ物を取りに戻ったときだった。
扉の隙間から覗いた室内で、樹はひとり床に蹲っていた。
背中を丸め、肩を激しく震わせながら、大粒の涙を床にボタボタとこぼしていた。目が腫れることも、誰かに見られるかもしれないことも構わず、ずっとユニフォームの分厚い袖で目元をごしごしと擦っていた。擦りすぎて皮膚が真っ赤になっているというのに、樹の涙は止まらないようだった。
それが相田が初めて見た樹の泣き顔だった。
あのときの衝撃は今でも鮮明に思い出せる。いつも前を走り、チームを引っ張ってきた絶対的な存在の崩壊。それを目撃した瞬間、相田の胸の奥で、じわじわと焼けるような、そして同時にどうしようもなく歪んだ、苛烈な感情が渦巻いたのを覚えている。慰めたいという純粋な気持ちの裏側で、傷つき、弱り切った樹を自分だけのものにしたいという、酷く醜い独占欲が鎌首をもたげたのだ。

そして、2回目が、今だった。

「聞いてくれよ相田ぁ……っ!」

いきなり日の暮れた相田の家に、ボロボロの私服姿で突撃してきたかと思ったら、挨拶もそこそこに相田の部屋のソファへ倒れ込み、ローテーブルの上のティッシュを文字通りひと箱使い切る勢いで泣き喚き始めた。飽きもせず、もう一時間以上はずっと泣いている。挙句の果てに「今日はお前ん家に泊まる、絶対に帰らん」とまで言い出す始末だ。

あまりの泣き声の大きさに、隣の部屋から相田の母親が「洋、樹くん泣かせたらあかんよ~? 男の子同士なんだから仲良くしぃや」とのんびりとした、しかし確実に早く泣き止ませろという圧のある声をかけてきた。
相田はバツの悪さを感じながら、「おい、もうちょっと声落とせや。オカンに変な誤解されるやろ」と樹の背中を小突く。
樹は一瞬だけ、ビクッとして声を潜めた。だが、感情の波は抑えきれなかったようで、すぐに堰を切ったように涙がぼろぼろと溢れ出し、耐えきれなくなってまた一層激しく「うああああん」と枕に顔を埋めて泣きじゃくるのだった。

「で、でさあ……っ、俺は、一度の過ちくらい許すよって、そう言ったんだよ……っ! なのに、私が嫌なの、別れましょう、だと……っ! ひどすぎるだろ! なんで浮気したお前が、別れを切り出す側なんだよお!」

喉を痙攣させ、しゃっくりを繰り返しながら、樹が途切れ途切れに語る。
怒りと悲しみがちゃんぽんになったような顔で、樹の右手がキルトのカバーに包まれたティッシュボックスに伸ばされたが、引き抜こうとした指先は空虚に擦れるだけだった。すでにその箱は空っぽだ。
相田は引き出しから新しい予備のティッシュ箱を取り出し、無言で樹の前に差し出してやった。樹はすんすんと酷く情けない音で鼻を鳴らしながら、「サンキュ……」と掠れた声で言って涙を拭いた。
夕方、地元の駅でうつろな目をして歩いていた樹を発見し、そのまま家まで連れてきたときは何事かと思って緊張していたが、こうしていつも通り(いや、いつも以上に不細工だが)泣き喚く姿を見ていると、張り詰めていた身体の余計な力が少しずつ解れていくのを相田は感じていた。

詳しく理由を聞けば、中学時代から数えて足掛け3年ほど付き合っていた彼女に、完膚なきまでに振られたらしい。
しかもその状況が最悪だった。高校野球を引引退し、ようやく自由に使える時間ができた樹は、彼女との「付き合ってもうすぐ3年記念日」を祝うために、サプライズで購入したペアリングを持って彼女の家を訪ねたのだという。彼女の親が留守であることを事前に確認し、意気揚々と彼女の家に向かった樹が目にしたのは――見知らぬ男と玄関の前でぴったりと寄り添い、熱いキスを交わしている彼女の姿だった。

さらに最悪なことに、その浮気相手の男というのは、樹が中学のシニアリーグ時代に所属していた野球部で、理不尽極まりないシゴきを連日のように加えてきた、最も恐れていた嫌な先輩だったそうだ。当時のトラウマが脳裏をよぎり、身体が恐怖で竦んでしまった樹は、修羅場であるにもかかわらず、その先輩に対して声を荒らげることもできず、強く出られなかった。
やっとの思いでその先輩を追い出したあと、樹は傷つき、動揺する心を必死に抑え込んだ。キャプテンとして培ってきた『どんな時も冷静に、模範的な対応を』という悲しい習性が、ここでも働いてしまったのだろう。きわめて冷静に、それでいて彼女を責めるような刺々しい声は出さないようにと細心の注意を払いながら、樹は「……いいよ、一回だけなら、俺、許すよ。やり直そう」と言った。

それに対する彼女の返答が、樹の心を完全に粉砕した。

「なにそれ。物分かりが良いつもり? 浮気されても怒りもしないで、優しくしたら私が喜ぶとでも思ってるの? ……そういう、何考えてるか分かんない模範解答みたいなところが昔からずっと嫌なんだけど」

冷たく吐き捨てられ、わけのわからない理不尽な理由で、そのまま部屋を追い出されてふられてしまったらしい。
確かに、客観的に見れば理不尽すぎる言い分だと相田も思う。今回の件に関して言えば、樹には一ミリの非もない。浮気をした彼女と、その先輩が100%悪い。本当に可哀想だし、気の毒だと思う。
しかし。その彼女が抱いた苛立ちや言いたいことも、相田には少しだけ理解できるように思えた。
樹はいつだってそうだ。誰に対しても、傷つけないように、自分が悪者にならないように、綺麗で完璧な『模範解答』のような言葉ばかりを差し出す。だからこそ彼女は、自分という存在が樹の心に深く干渉できていないような、そんな寂しさを募らせて愛想をつかしてしまったのだろう。

優しいだけが愛じゃない。
本当に相手を大切に思い独占したいと願うなら、嫌だと怒って、気持ちを出して、喧嘩をして、泥臭くぶつかり合った方がよっぽど健全だ。
けれど、樹のへんに生真面目で臆病な性格的に、そう簡単に自分をさらけ出すことができないことも、相田は誰よりもよく知っていた。

思えば、樹という男は出会ったころから信じられないほど恋愛運がなかった。
遠目から見てもパッと目を引く精悍な顔つき、誰からも好かれる明るいフレンドリーな性格。男らしい身体、勉強もそこそこ。強豪・三好高校野球部を率いる絶対的な主将。これだけのスペックが揃っていて、女子からモテないはずがなかった。中学時代から、樹を狙ってアプローチを仕掛ける女子生徒は星の数ほどいたし、だからこそ彼は人並み、いやそれ以上に恋愛というものを経験してきたはずだった。

しかし、なぜかそのどれもが全く長続きしない。
中学1年生の頃、初めてできたという彼女は、毎日のように部活の居残り練習に励む樹に対して「野球と私、どっちが大事なの?」とベタな怒り方をし、樹が「どっちも大事だよ」とこれまたつまらない模範解答を返したことで激怒し、一ヶ月も経たずに別れを切り出してきた。
2番目に付き合った彼女のときは、さらに最悪なトラブルに発展した。その彼女は、樹があまりにも本音を話してくれないことに悩み、樹の親友である相田に何度も恋愛相談を持ちかけてきたのだ。毎日のようにトークアプリで樹の愚痴や相談を聞いているうちに、あろうことかその女子は、樹ではなく相田のことを好きになってしまった。
その事実を知ったときの樹の困惑しつつも敵意が滲んだ目は、今でも相田の脳裏に焼き付いている。
『まさか、お前は俺を裏切らないよな?』
『俺のカノジョと付き合ったりしないよな……?』
口には出さなかったが、樹の全身からはそんな必死で、哀れな無言の圧力がこれでもかと伝わってきた。
もちろん相田にとって樹の彼女など何の思い入れもなかったため、その告白は丁重に、かつ冷徹にお断りした。だが、身内から裏切られるかもしれないという恐怖を味わった樹が、そのショックから立ち直るのにはかなりの時間を要した。
そのような、歪んだ恋愛の終わり方が、彼の周囲では何度も繰り返されていた。相田が知っているだけでも、樹の恋愛経験はどれも悲惨で、傍から見ていて同情を禁じ得ないものばかりだった。

そして、ようやく落ち着いたのが、今回の彼女だった。
中3の冬から付き合い始め、厳しい野球部の活動を支えてくれる存在だと思っていた。結果的に3年も続いたのだ。いつも数週間や数ヶ月と持たずに破局を迎えていた樹にしては、驚異的な長さだった。
ついに樹も本気の恋を見つけたんだな、と相田は内心で複雑な気持ちを抱えつつも、表面上は祝福する友人を演じていた。それなのに、最後の最後でこれだ。

だからこそ、樹の落ち込みようも過去最大に凄まじい。
本気だったのだ。あの「男は泣かない」を信条にしている樹が、ここまでなりふり構わず他人の家で涙を流すということは……。それだけ彼女との未来を本気で描き、指輪まで用意して、すべてを捧げていたのだろう。

相田は、自分の内側で黒く渦巻く複雑な歓喜と歪んだ感情を完璧に隠しつつ、真摯に話を聞いた。
「大変やったな」「お前はなんも悪うないよ」と、樹が求めているであろう相槌を丁寧に打ち、ありきたりな慰めの言葉をいくつか投げた。