クジラは今日も空を飛ぶ

「熱はもう大丈夫?」
「うん。小鳥遊のおかげだよ。あの日の僕に小鳥遊がいなかったら……僕は本当にあのままだったと思う……」

 小鳥遊と交友関係になっていなかったら。そう思うと恐ろしい。「僕がいないことの違和感にどうやって気づいたの?」と問えば「内海くんの荷物を教室から出してグラウンドに放置する生徒たちを見かけて」と返ってくる。

「……え」
「教室に荷物があったら教師にまだ誰か残っているとわかるから、証拠隠滅しようとしたんだと思う。……内海くんを閉じ込めた奴らは陰湿だよ。その後、奴らから内海くんのことを白状させて、職員室に戻って体育倉庫に走って……」
「白状って、どうやって? そんな簡単に吐くとは思えないんだけど」

 素朴な疑問をぶつければ、小鳥遊はただニコッと笑い、そして自分の腕を軽く叩いた。……僕はゴクン、と生唾を飲み込み何も見なかったことにして「助かったよ、ありがとう」とだけ言う。そういえば誰かが病院送りになったとクラス中で話題になっていたけど、それって……。

 小鳥遊が美術部なのに意外と体格がいいのは。こういう時のためだったりするのだろうか。舐められないため? 大事な人を守るため? もちろん、暴力は良くないけど、だけど。僕は実際に助けられて。だから僕はそのことには何も突っ込まない。

 ……僕は、小鳥遊の大事な人なのだろうか。

「……部活、行かなくていいの」

 放課後の教室で。2人窓際に並んでグラウンドを眺める。僕を閉じ込めた人たちは今は病院にいるだろうから見かけないけれど、今も黙々と練習をしている生徒たちを見つめる。

「……怖くなっちゃった」
「そっか」
「ごめん」
「なんで?」
「……クジラ、もう描かせられなくて」

 小鳥遊が描くクジラが好きだった。「内海くんのようだよ」と毎回言ってくれるのが嬉しかった。
 最近ぼっちになって苦しかったけれど、毎日頑張ることが出来たのは、小鳥遊の影響が大きい。

 クジラは、もう飛ばない。

「……じゃあさ。時間あるなら、モデルになってくれない?」

 小鳥遊に誘われるままに僕は頷き、教室の椅子に座る。正面に小鳥遊が座り、スケッチブックと鉛筆を手に取る。

「どんなポーズとか、ある?」
「自然体で」
「しぜんたい……とは」
「うーん。俺も良くわかんない。モデルとか頼んだことないし」
「なんだよ」

 拍子抜けして笑ってしまえば、小鳥遊の右手が動いた。シュッシュッ、と軽快な音を立てながら線が走っていく。

 描いていく時の音が心地良い。今までは外だったから気づかなかったけど、教室という静かな空間だと鉛筆の芯が削られていく音がわかる。そっと目を閉じて音を聞いていれば「内海くん」と声をかけられる。

「なあに?」
「……好きだよ」
「……。……え?」
「内海くんに声をかけられる前から……俺の絵を、褒めてくれた時から」
「……?」
「だよね、覚えてないよね。いいんだよ。僕が勝手に気持ちを募らせているだけだから。気にしないで」

 ……と、言われたら気になってしまう。
 淡々とデッサンしながら。小鳥遊は僕に告白した。その好き、は。どんな好き?

 友達として? それとも。

「……1年生の頃ね、美術部の絵が廊下に飾られてたの。でも俺、その時は全然上手くなくて、ムシャクシャして適当に青と黒を混ぜた色でぐちゃぐちゃに描いたものを展示した。多くの人が素通りしていく中、内海くんは立ち止まって」
「……」
「『深海みたいだな』って、褒めてくれた」
「……覚えてない。ごめん」
「はは、だよね。それから俺は内海くんのファンだった。……内海くんに声をかけられるまでは」

 僕が声をかけてから。小鳥遊の気持ちは変化していった。

「こんなに優しい子だと知らなかった。美術についても深く知ろうとしてくれていた。友達としてじゃなく、どんどんそれ以上のものに気持ちは昂っていった」

 ファンから、恋心へ。

「閉じ込められる事件があって、自覚した。もう泣かせない。嫌な目に遭わせたくない。……でも、ほんとうは──」
「……ほんとうは?」

 手の動きが止まった。小鳥遊は何かを迷っているようだった。当時描いた真っ黒な海。それはムシャクシャして、悩みがたくさんあった頃。今も、そんなものを描きそうな雰囲気。僕は彼の本音を知りたくなって「教えて」と身を乗り出して言う。

「……もう一度だけ、内海くんが飛ぶ姿をみたい」

 小鳥遊からそう言われるのは想定外だった。頷いてやりたいが、僕は今部活には行かず、保留状態だった。今は平和でも、閉じ込めた人たちが戻ってきたら。今度こそどうなるかわからない。

「内海くんの最高の瞬間を見て、俺もコンテストに挑みたい」

 美術部ももうすぐ始まると言っていた。
 僕が飛ぶことで、小鳥遊に勇気を与えられるの。僕の背面跳びに、そんな力があるの。部活はもう懲り懲りだが、背面跳び自体は好きだった。……だったら、やることは決まっている。

「3日後の大会、俺出るよ。だから……小鳥遊、絶対観にきて。それが条件」
「……! 絶対行くよ! その姿をデッサンするから!」

 嬉しそうにする小鳥遊に、僕の胸もとても熱くなっていく。
 頑張ろう。大丈夫。大会に閉じ込めた人たちは参加しないから。2週間のブランクがあるけど、きっと大丈夫。結果は著しくなくても、小鳥遊のために飛ぶ。

 チャイムが鳴り、帰り支度をしながら今日小鳥遊が描いたものを覗き込む。

「……モデル頼んだ割にまたクジラじゃん!」
「えへ、えへへ、内海くんってクジラっぽくて……」
「いや、今日は飛んでないんだから人間として描いてよ!」

 そんなこんなで2人で一緒に帰る。

 *

 大会当日。
 直前の練習に僕は全く参加しなかったものの、ストレッチをしていくうちに感覚を取り戻していく。

 鳴らされるホイッスルを合図に、僕は走り出す。クロスバーが近づいた時。いち、に、と大きく踏み込み……さん! で地面を強く蹴る。体を仰向けにして背を反らす。

 一瞬だけ浮遊する感覚にああ好きだな、とぼんやり感じた。

 観客席には小鳥遊が約束通り観に来ていた。祈るように両手で手を組んでいた。成功すれば、誰よりも喜んでくれていた。

「これで、俺もいいものが描けるよ」

 2人で落ち合った時にそう言われた。「頑張れよ」と今度は僕が応援する番だった。

 *

 デッサンのコンテスト。
 残念ながら大賞になることはなかったが、それでも小鳥遊はやり切った顔をしていた。

「ねえ、コンテストの絵は最後まで見せてくれなかったけど、何を描いたの? クジラ?」

 受賞者一覧をスマホで眺めている小鳥遊に尋ねる。小鳥遊は僕を見て「知りたい?」と尋ねてくる。

「そ、そりゃもちろん! 知りたい! 見たい!」
「少し恥ずかしいけど……コホン! ……こちらです」

 小鳥遊は佳作に選ばれていた。名前が書いてあり、その下にデッサン。そこに描かれていたのはクジラ……ではなくて。

「……これ、」
「モデルは……内海くんです」

 背面跳びしている選手の姿だった。躍動感があり、本当に地を蹴っているようだった。鉛筆1本でこんなものが書けるのかと感嘆した。
 体を仰向けにして飛ぶ姿は、彼がよく言うクジラのようだった。

「俺がずっと、描きたかったもの」
「……好きだなあ」

 ぽろっと。自然と口から言葉が、気持ちが溢れた。

「……好きだよ、小鳥遊。……嬉しいんだ。こんなに……僕を好きになってくれて……っ。僕、これからも飛んでいたいし、小鳥遊とも一緒にいたい……っ」
「……もちろん。内海くんがそうしたいなら俺はずっと応援する! それから、安心して部活に励めるように陰湿な奴らのことも考えないとね」

 大人しいようで、案外物騒で、ウインク姿がお茶目で。僕は小鳥遊にたくさん笑わせてもらって、今後もクジラのように飛ぶ日々を過ごすようになる。

 今はただただ、小鳥遊の最上級の愛を受け取り、感謝を込めて彼に抱きついて「好きだよ」と囁くのだった。





 クジラは今日も空を飛ぶ【完】