104Hzから愛を込めて

 過去に一度、佐柳と俺は別れたことがある。
 高校二年から付き合い、大学に進学する前に一度別れた。その後二年の春に再会して、すぐにまた付き合って、今。
 半年以上経っているのに、まだ佐柳が隣にいることが夢かなんかじゃないかと思ってしまう。大学に進学して数ヶ月も経たないうちに、佐柳が海外に行っていたからすれ違うことも、声を聞くこともなかったことが大きな原因な気もする。
 
 佐柳はその気になれば、すぐに俺の目の前から消えてしまえる。それをまざまざと見せつけられた。
 仲のいい高校の同級生の奴らから聞かされる佐柳の近況に、俺はあいつのことをなにも知らなかったんだと思い知らされた。
 そのくせ、なにを見ても佐柳の姿が頭をチラつく。あいつの存在の大きさを再確認させられた。
 俺のような平凡な奴からしてみれば、佐柳は高嶺の花のような存在だと、知っていたつもりだった。
 容姿よし、座学よし、運動神経も悪くないし、性格もいい。

 ねぇ、佐柳。なんで俺なの?
 なんで俺なんかの事好きになったの?

 心のどこかで常に思っていたこと。
 その答えも知らないままだった。聞いたことがないから当たり前だ。聞いたら答えてくれたのに、怖がって聞けなかった。
 そのくせ、一人前に被害者面してた。
 佐柳に捨てられたんだって、馬鹿みたいに女々しいこと考えて一年過ごした。俺の不幸になりたくないなんて、それっぽいこと言ってどっか行ったんだって。
 それがとんでもない誤解だったと知った今となっては、とんだめんどくぇメンヘラ野郎だ。多少大声を出しても怒られないからと、入ったカラオケの一室で頭を抱えて悲鳴を上げたことは忘れてしまいたい。

 俺が悪夢に飛び起きることを知った佐柳から、同棲を持ちかけられたのを断ったのは俺。まだ頭の整理ついてないとか、お互いの生活リズムだとか、そういうのがあるから、少し慎重になろって。お泊まりを重ねて、考えよって。
 それなのに、佐柳の声が戻るまでの制限付きの同棲を提案した。嫌な顔をすることなく、むしろ嬉しそうな佐柳に、心配したのが杞憂だったんじゃって、少しだけ後ろめたい。

「……惚気?」
「ちっげーわ馬鹿」

 呆れた顔でもぐもぐと昼飯を飲み込む檜山(ひやま)に顔を顰める。これでも真剣に悩んでいるのに、こいつは。
 俺と佐柳の関係を知っている数少ない高校からの友人の一人。軽いノリで話しやすいかと思ったのに。

「いーやいやいや、惚気だってそれ」
「んでだよ」
「同棲おめでとーじゃん。ケーキいる?」
「要らねぇ」

 ひゅーひゅーと楽しそうに笑っているが、俺だって檜山の彼女との惚気話や相談事には散々のってやったんだ。お互い様だろう。

「つーかあれだな、お前佐柳に対してはくっそ面倒臭いな。ネガティブっつーかなんつーか」
「言うな。自覚してんだわ」
「まあ、相手が佐柳だしなぁ」

 うんうん、ともっともらしく頷く檜山の頭を叩く。
 だってどう考えても俺と佐柳は釣り合ってない。色んな意味で。じゃあ誰が佐柳と釣り合うのかって言われたら困るけど。

「で?同棲が不満なわけ?」
「……逆」
「最高なんじゃん!よかったじゃん!」

 やっぱ惚気じゃんか!と笑う檜山をじっとりと見つめる。確かにまあ、惚気に聞こえてもいたしかたないけど。でも俺からしてみれば切実な悩みだ。

「朝野も幸せそうだし、別にいいんじゃね?てか佐柳元気なの?まだ声出ねぇんでしょ?」
「ん?あぁ、まあ、体は元気なんだって。しなくていいって言ってんのに毎日家事してくれるし」
「惚気だ……」
「ちげえって」
「まあ、そうやってストレス発散してんのかもよ?佐柳って歌好きなんでしょ?」
「あー……やっぱストレス溜まんのかな。風呂とかで歌いそうになってっし」
「風呂一緒に入ってんの?狭くね?てかやっぱ惚気じゃん」
「……もういいよ、惚気で」

 これみよがしに溜息をつきながら、残り一個の唐揚げを口に押し込む。
 
 夢なんじゃって何度もこっそり頬をつまむほどには、佐柳との生活は想像以上に楽しい。冗談抜きで不満がない。
 おはようからおやすみまで、佐柳がいる。
 ヘトヘトで帰ってきても、先に帰っていた佐柳の音がない「おかえり」と「ご飯ある」で冗談抜きで疲れが半減した。あとご飯すんごいうまい。風呂も湧いてるし至れり尽くせりが過ぎて駄目になりそう。
 割と本気で佐柳が天使に見えている。羽が見える。いつうっかり「結婚して」って本音が零れないか、割と本気でヒヤヒヤしている。不安で仕方がなかった。

「もうしろよ、結婚。佐柳嫌がんないって」
「んなことしたら俺ダメ人間になるって」
「もうなってんだろ」
「やめろ。半年前までのガチ病み期の話持ち出すな」

 あの時は本気で檜山に迷惑をかけた。
 駄目になったどころではなかった俺を助けてくれたし、守ってくれた。頭が本気で上がらない。
 
「てかさ、俺いまだにわかんない。佐柳がお前と別れよって言った理由」
「俺の不幸になりたくないって」
「それは聞いた。じゃなくて、なんでお前の不幸になるって思っかってこと。ほら……聞くに聞けなかったじゃんか。佐柳もあんなんだったし」

 再会した時、佐柳は文字通りの満身創痍だった。
 顔の半分を包帯が覆っていた。左足に関しては今でも後遺症が残っていて、杖がないと生活ができなくなっていた。リハビリを続ければ杖がなくても生活できるらしいけど、きっと運動はもう出来ない。
 だから聞けなかった。俺も、檜山も。

「ん〜……まあ、なにはともあれ、お前の不安なんて傍から聞けばぜーんぶ惚気よ?幸せそうでなによりだわ、俺は」

 本気で安堵してくれている檜山に重ねて礼を言って、残っていたデザートをトレイに置く。ラッキーと笑う顔に釣られて、俺も口角が上がった。
 少し気も楽になって、午後の講義も集中しようと決めた……——はずなのに、気を抜くとすぐにネガティブな面が顔を見せる。
 
 家事をしてくれるのも、なぜか風呂に引っ張られてあれよあれよという間に一緒に入ってんのも、ちゃんと来客用敷布団あるって言ってんのに俺のベッドで当然のように寝るのも、佐柳から始めた。
 気を使われているのか、それとも心配をかけているのか。一番大変な佐柳がなんのケアも受けていない気がして、いたたまれなかった。

「ねぇ、佐柳。ケアとかっていいの?俺なんもしてないよ?むしろ俺がケアしてもらってる気がすんだけど」

 その日の夜。
 わしゃわしゃと佐柳の頭を乾かしてやりながら、少し言葉を選びながら聞いてみることにした。

『ケア?』
「いや、喉痛いとか」
『ない』
「そ?ならいいけど」
『朝野にしたいことしてる。ずっと楽しいよ、俺』

 控えめに顔を綻ばせる佐柳に、なんとも言えない気持ちになる。楽しいならいいが、楽しませるようなことなど、なにもしていない。
 俺の不安を感じ取ったのか、スマホを置いて抱きしめてくる。ぽかぽかと暖かい体温が、じんわりと指先にまで届いた。
 声はなくても、心配してくれていることが、よくわかる。
 主体性が欠落していて、でもそれを上回る程のお人好し。というより、自分の為に動けない。佐柳が自主的に動くのは、いつも誰かのため。
 だから、佐柳がこんなにも俺に良くしてくれているのは、一重に俺の為だけだと、わかっている。

 満たされている。
 満たされている、のに……——

 ずっと一人だったワンルームに、大切で大好きな人がいて、小さな世界で、途方もない幸せを感じてる。
 佐柳の声が戻るまでの期限付きの同棲でも、大切な人との生活であることには変わらない。家に帰って、鍵を開けて、そこに佐柳がいてくれているだけで、どうしようもなく満たされている。
 だけど、少しだけ、本当に少しだけ……——

 ——……佐柳の声が、恋しい。
 
 声が聞こえないだけで、どうしようもなく寂しい。
 音がないのが、不安で仕方がない。
 本当に目の前にいるのは、佐柳遥なのか。たまに不安で押しつぶされそうになる。

『俺、朝野の不幸になりたくない』

 耳にこびりついた、聞いたこともないくらい感情の読めない無機質な声が、ずっと心を蝕んでいる。
 話せば楽になるのかもしれない。きっと、佐柳は一緒に考えてくれる。
 それでも、目を開けたら佐柳がまた居なくなってるんじゃないかと思うと、どうしても素直に話せなかった。