佐柳の声が戻って、早いことで一ヶ月が過ぎた。同棲は終わりを迎えたが、以前よりも佐柳が家に来ることが増えた。逆に、俺が佐柳の家に行くことも増えたし、泊まる頻度も増えた。
当然だ。合鍵を貰ったし、渡したから。同棲の話もかなり前向きに進んでいる。どっちかの契約期間が切れたら一緒に住もうかという話に、一応落ち着いている。
そしてどうやら今回のことで檜山だけでなく馬場にまで心配をかけていたらしく、声が戻ったことと、きちんと仲直りが終わったことを知らせた時には俺が驚くくらいには喜んでくれた。優しい人達にも恵まれている。
ちょっとあまりにも俺に都合が良すぎない?夢?やだ俺バチ当たっちゃうわ、こんな幸せで。
そう、都合がいいくらいに物事が上手くいっている。行き過ぎている。そのせいか、心にゆとりが出来たらしく、おざなりにしていた自分自身へと目を向けることができてしまった結果、俺は佐柳に対して仄暗い優越感を抱いていると自覚した。
脚が動かない佐柳を抱えた時、俺しか写さない目を見た時、俺に大人しく撫でられている時、俺の為だけに音を口ずさんでくれる時、言いようもない優越感と独占欲が満たされていると気がついた。
はっきり言ってそんなもの、自覚なんてしたくなかったし、持っていたくない。
佐柳は時々驚く程に無垢だ。完全な憶測でしかないがら、家庭環境がそうさせたのではと、今の俺は疑っている。
……じゃなくて、今はそうじゃなくて。
ワンルームで一人、ぺたりと座って考える。
佐柳は優しい。時々こっちが苦しくなるほど純粋な好意を渡してくれる。あまりにも面倒くさい俺を受け入れてくれた。自分の方が何倍だって大変だろうに、俺を気遣って、支えてくれた。
そんな相手に対して抱いていい感情じゃない。何様なんだよと、嫌になる。
「気持ちわりぃ……」
ぐるぐると腹の中を這い回るように渦巻く感情に、うげぇっと顔を顰めた。
俺が佐柳に向けている感情のデカさは自覚している。それを表に出してしまいたくなくて、講義を沢山取った自覚だってある。
だって不安なんだもん。ここから先何十年の時間、佐柳の隣を誰かに譲る気なんてサラサラない。でも、佐柳はいつだって俺から離れられる。
もちろん、あの日の佐柳の言葉を疑うわけではない。けど、人間どう変わるかなんてわからないから。
離れていかないでって、みっともなく縋るしかない。自分に骨抜きになるように、他の人のところに行かないようにって、必死になって俺の存在を佐柳の人生に刷り込もうとしている。
そんな策略なんかして、情けないし、滑稽だ。必死すきで嫌になる。
「こんな俺なんて、死んじまえばいいのにね……」
なーんて、心の奥底で思っていたことを、ポツンっと声に出す。ツンツンって佐柳と買ったマグカップの縁をなぞる。おセンチなんて柄じゃねえーって。
そう思った時、後ろからガタンッと大きな音がした。少し肩を跳ねさせ、ふりかえる。
そこには佐柳がいた。
杖が床に倒れている。背負った鞄が肩から少し、上着ごとずり落ちていた。表情は読めない。空っぽのようにも、怒っているようにも見えた。
「ぁ……、佐柳、おかえ」
「朝野」
凍りついたような声に、思わず肩が跳ねる。あまりに冷たい視線から身体を隠すように、膝を折りたたむ。
「さな……」
「お前今なんつった?」
喉の奥でヒュッと引き攣った音がする。こんなに怒っている佐柳を見るのは初めてだ。
あまりの恐怖に震えが止まらなくなる。でも今は震えている場合じゃない。佐柳になにか言い返さないと。
「ぁ……ぇ、と……」
でも俺の口から出てくるのは、言葉にもなれないものばかりで、呼吸音ばかり大きくなる。
後ずさろうとした時にはもう遅く、佐柳の腕伸びてきて、俺の手を掴んだ。ミシミシと骨が僅かに軋む。
バランスを崩した佐柳が、床に崩れ落ちるようにしゃがみ込む。それを支える余裕なんて、俺にはなくて。
「さな、ぎ……」
鋭い目が、冷たい手が、痛いくらい掴まれた手が、怖くて顔を見れない。逸らして、俯いて、息が上手くできない。
力任せに腕を引っ張られる。あれ、佐柳ってこんなに力強いっけ?ぐらりと重心が揺れて、前のめりに倒れ込んで——
「朝野が死んだら、俺は、明日から誰におはようって言えばいい?」
強く強く、抱きしめられる。
痛いくらい、強く。
「え?」と声にもならない声が、シンっと静まり返った部屋に、ことんっと落ちた気がした。反響することなく、どっかに行った。
「おかえりは?行ってきますは?おやすみ、ありがとう、ごめんは?好きだって、誰に言えばいい?」
「佐柳……っ」
「死んでしまえって、自分に言ってるの、聞こえた時、心臓……潰れるかと思った」
あまりにも弱々しい声に、思わず息が詰まる。震える背中に、そっと手を添える。
ぴくりと小さく肩を跳ねさせ、佐柳はゆっくり顔を上げた。今にも泣き出しそうな顔と目が合った。
「……っ!」
こんなに弱った顔をした佐柳を見た事なんてない。こんな悲しそうな、苦しそうな顔を見たことなかった。
「さな、ぎ……」
まって、まって。お願いまって。
ねぇ、俺って、お前の中でそんなに大きい存在なの?
「死にたいって思うの、悪いことじゃない。けど……ちがう、朝野を否定したいんじゃない、のに……」
「……うん」
「朝野がいない、明日が、怖い……」
「っ、うん」
怖い。
そんなことを言わせてしまったことが申し訳ない。明かりもついていない部屋で、佐柳の涙が頬を伝うのが見えた。
「朝野と、もう会えなくても、朝野が生きてるって思えたら、大丈夫だって……」
「佐柳……」
「ずっと、朝野の不幸になりたくなくて……朝野を傷つけたくなくて……なのに、なにも上手くできなくて……泣かせて、苦しめてばっか……」
不幸になりたくない。
別れ話を出された時に、言われた言葉。
知ってる。知ってたよ。
あれは佐柳の本心なんだって。心の底から、俺の不幸になりたくないんだって。
でも、俺は我儘だから。
佐柳がいない毎日の方が、ずっとずっと不幸だって思ってる。それを本人に伝えもしなかったくせに、勝手に傷ついていたのは俺の方。
「朝野」
「な、に……?」
「……ごめん、死ぬな」
「……うんッ」
佐柳の肩に顔を埋めて、声を殺して俺は泣いた。そんな俺を慰めるように、何度も優しくキスをしてくれる佐柳に寄りかかる。
佐柳に生きてて欲しいって願われているなら、一人になったとしても、生きてみたっていい。でも、やっぱり隣にいて欲しい。俺は我儘だから。
「あのさ、佐柳……」
「……なに」
「お願い、聞いて?」
涙で潤んだ目が、真っ直ぐ俺を見つめる。なんでも言って、って言いたそうな、そんな顔。
少しだけ息を吸って、ゆっくり吐いた。
「俺は、多分また、不安になる。また、お前のこと、泣かせると思う。だから、さ、お願い」
ぎゅって首に腕を回して、引き寄せる。
耳に向けて囁くように、口を開いた。
「俺がダメんなった時、一番に名前呼んで」
「……朝野」
「違う」
「……光太」
「……うん」
「光太、光太、こーた」
何回も何回も、確かめるように名前を呼ばれる。
繋ぎ止めるように、何度も、何度も。
「遥、ねぇ、遥」
「なに?」
「……こんな俺なんかでいいの?」
「光太、がいい」
「また、お前のこと悲しませるよ?」
「悲しくてもいい。お前じゃないと、嫌だ。今の俺は、光太がいる明日がいい」
抱きしめられたまま、ゆっくり押し倒され、寝かされる。ラグに押し付けるように、体重を預けてくる。逃げ場を無くすようなその行動に、胸の奥がぎゅーっと締め付けられるような感覚がした。
そっと体を離して、佐柳の頬を両手で包む。
綺麗な目から、ぽろぽろと涙が降り注いでくる。男にしては少しだけ長い髪が上から降りてきて、佐柳のことしか見えなくなる。
「俺も、明日に遥がいるなら、生きてみたいよ」
明日、お前と生きられるなら、こんな自分をもう少し続けてみたっていい。
「光太」
「なぁに?」
「一生好きでいるから、結婚して」
その後のことは、実はよく覚えてない。
ボロッボロに泣きながら遥かに抱きついて「よ゙ろ゙じくお゙願い゙じま゙すぅ!!」って言ったことは覚えてる。けど、目を開けたら朝だったし、ベッドで遥かに抱きしめられていた。
ぽかぽかと温かい。遥がちゃんと隣にいる。
優しい体温と匂いに甘えて、もう一度目を閉じた。
当然だ。合鍵を貰ったし、渡したから。同棲の話もかなり前向きに進んでいる。どっちかの契約期間が切れたら一緒に住もうかという話に、一応落ち着いている。
そしてどうやら今回のことで檜山だけでなく馬場にまで心配をかけていたらしく、声が戻ったことと、きちんと仲直りが終わったことを知らせた時には俺が驚くくらいには喜んでくれた。優しい人達にも恵まれている。
ちょっとあまりにも俺に都合が良すぎない?夢?やだ俺バチ当たっちゃうわ、こんな幸せで。
そう、都合がいいくらいに物事が上手くいっている。行き過ぎている。そのせいか、心にゆとりが出来たらしく、おざなりにしていた自分自身へと目を向けることができてしまった結果、俺は佐柳に対して仄暗い優越感を抱いていると自覚した。
脚が動かない佐柳を抱えた時、俺しか写さない目を見た時、俺に大人しく撫でられている時、俺の為だけに音を口ずさんでくれる時、言いようもない優越感と独占欲が満たされていると気がついた。
はっきり言ってそんなもの、自覚なんてしたくなかったし、持っていたくない。
佐柳は時々驚く程に無垢だ。完全な憶測でしかないがら、家庭環境がそうさせたのではと、今の俺は疑っている。
……じゃなくて、今はそうじゃなくて。
ワンルームで一人、ぺたりと座って考える。
佐柳は優しい。時々こっちが苦しくなるほど純粋な好意を渡してくれる。あまりにも面倒くさい俺を受け入れてくれた。自分の方が何倍だって大変だろうに、俺を気遣って、支えてくれた。
そんな相手に対して抱いていい感情じゃない。何様なんだよと、嫌になる。
「気持ちわりぃ……」
ぐるぐると腹の中を這い回るように渦巻く感情に、うげぇっと顔を顰めた。
俺が佐柳に向けている感情のデカさは自覚している。それを表に出してしまいたくなくて、講義を沢山取った自覚だってある。
だって不安なんだもん。ここから先何十年の時間、佐柳の隣を誰かに譲る気なんてサラサラない。でも、佐柳はいつだって俺から離れられる。
もちろん、あの日の佐柳の言葉を疑うわけではない。けど、人間どう変わるかなんてわからないから。
離れていかないでって、みっともなく縋るしかない。自分に骨抜きになるように、他の人のところに行かないようにって、必死になって俺の存在を佐柳の人生に刷り込もうとしている。
そんな策略なんかして、情けないし、滑稽だ。必死すきで嫌になる。
「こんな俺なんて、死んじまえばいいのにね……」
なーんて、心の奥底で思っていたことを、ポツンっと声に出す。ツンツンって佐柳と買ったマグカップの縁をなぞる。おセンチなんて柄じゃねえーって。
そう思った時、後ろからガタンッと大きな音がした。少し肩を跳ねさせ、ふりかえる。
そこには佐柳がいた。
杖が床に倒れている。背負った鞄が肩から少し、上着ごとずり落ちていた。表情は読めない。空っぽのようにも、怒っているようにも見えた。
「ぁ……、佐柳、おかえ」
「朝野」
凍りついたような声に、思わず肩が跳ねる。あまりに冷たい視線から身体を隠すように、膝を折りたたむ。
「さな……」
「お前今なんつった?」
喉の奥でヒュッと引き攣った音がする。こんなに怒っている佐柳を見るのは初めてだ。
あまりの恐怖に震えが止まらなくなる。でも今は震えている場合じゃない。佐柳になにか言い返さないと。
「ぁ……ぇ、と……」
でも俺の口から出てくるのは、言葉にもなれないものばかりで、呼吸音ばかり大きくなる。
後ずさろうとした時にはもう遅く、佐柳の腕伸びてきて、俺の手を掴んだ。ミシミシと骨が僅かに軋む。
バランスを崩した佐柳が、床に崩れ落ちるようにしゃがみ込む。それを支える余裕なんて、俺にはなくて。
「さな、ぎ……」
鋭い目が、冷たい手が、痛いくらい掴まれた手が、怖くて顔を見れない。逸らして、俯いて、息が上手くできない。
力任せに腕を引っ張られる。あれ、佐柳ってこんなに力強いっけ?ぐらりと重心が揺れて、前のめりに倒れ込んで——
「朝野が死んだら、俺は、明日から誰におはようって言えばいい?」
強く強く、抱きしめられる。
痛いくらい、強く。
「え?」と声にもならない声が、シンっと静まり返った部屋に、ことんっと落ちた気がした。反響することなく、どっかに行った。
「おかえりは?行ってきますは?おやすみ、ありがとう、ごめんは?好きだって、誰に言えばいい?」
「佐柳……っ」
「死んでしまえって、自分に言ってるの、聞こえた時、心臓……潰れるかと思った」
あまりにも弱々しい声に、思わず息が詰まる。震える背中に、そっと手を添える。
ぴくりと小さく肩を跳ねさせ、佐柳はゆっくり顔を上げた。今にも泣き出しそうな顔と目が合った。
「……っ!」
こんなに弱った顔をした佐柳を見た事なんてない。こんな悲しそうな、苦しそうな顔を見たことなかった。
「さな、ぎ……」
まって、まって。お願いまって。
ねぇ、俺って、お前の中でそんなに大きい存在なの?
「死にたいって思うの、悪いことじゃない。けど……ちがう、朝野を否定したいんじゃない、のに……」
「……うん」
「朝野がいない、明日が、怖い……」
「っ、うん」
怖い。
そんなことを言わせてしまったことが申し訳ない。明かりもついていない部屋で、佐柳の涙が頬を伝うのが見えた。
「朝野と、もう会えなくても、朝野が生きてるって思えたら、大丈夫だって……」
「佐柳……」
「ずっと、朝野の不幸になりたくなくて……朝野を傷つけたくなくて……なのに、なにも上手くできなくて……泣かせて、苦しめてばっか……」
不幸になりたくない。
別れ話を出された時に、言われた言葉。
知ってる。知ってたよ。
あれは佐柳の本心なんだって。心の底から、俺の不幸になりたくないんだって。
でも、俺は我儘だから。
佐柳がいない毎日の方が、ずっとずっと不幸だって思ってる。それを本人に伝えもしなかったくせに、勝手に傷ついていたのは俺の方。
「朝野」
「な、に……?」
「……ごめん、死ぬな」
「……うんッ」
佐柳の肩に顔を埋めて、声を殺して俺は泣いた。そんな俺を慰めるように、何度も優しくキスをしてくれる佐柳に寄りかかる。
佐柳に生きてて欲しいって願われているなら、一人になったとしても、生きてみたっていい。でも、やっぱり隣にいて欲しい。俺は我儘だから。
「あのさ、佐柳……」
「……なに」
「お願い、聞いて?」
涙で潤んだ目が、真っ直ぐ俺を見つめる。なんでも言って、って言いたそうな、そんな顔。
少しだけ息を吸って、ゆっくり吐いた。
「俺は、多分また、不安になる。また、お前のこと、泣かせると思う。だから、さ、お願い」
ぎゅって首に腕を回して、引き寄せる。
耳に向けて囁くように、口を開いた。
「俺がダメんなった時、一番に名前呼んで」
「……朝野」
「違う」
「……光太」
「……うん」
「光太、光太、こーた」
何回も何回も、確かめるように名前を呼ばれる。
繋ぎ止めるように、何度も、何度も。
「遥、ねぇ、遥」
「なに?」
「……こんな俺なんかでいいの?」
「光太、がいい」
「また、お前のこと悲しませるよ?」
「悲しくてもいい。お前じゃないと、嫌だ。今の俺は、光太がいる明日がいい」
抱きしめられたまま、ゆっくり押し倒され、寝かされる。ラグに押し付けるように、体重を預けてくる。逃げ場を無くすようなその行動に、胸の奥がぎゅーっと締め付けられるような感覚がした。
そっと体を離して、佐柳の頬を両手で包む。
綺麗な目から、ぽろぽろと涙が降り注いでくる。男にしては少しだけ長い髪が上から降りてきて、佐柳のことしか見えなくなる。
「俺も、明日に遥がいるなら、生きてみたいよ」
明日、お前と生きられるなら、こんな自分をもう少し続けてみたっていい。
「光太」
「なぁに?」
「一生好きでいるから、結婚して」
その後のことは、実はよく覚えてない。
ボロッボロに泣きながら遥かに抱きついて「よ゙ろ゙じくお゙願い゙じま゙すぅ!!」って言ったことは覚えてる。けど、目を開けたら朝だったし、ベッドで遥かに抱きしめられていた。
ぽかぽかと温かい。遥がちゃんと隣にいる。
優しい体温と匂いに甘えて、もう一度目を閉じた。
