動揺していたはずだけど、お茶を点て始めると僕の心はスッと落ち着いた。
だから僕は茶道が好きだ。どんなに悲しい時も、苦しい時も、気に掛かることがあっても、お茶を点てているこのときは、平静な気持ちでいられる。心が落ち着く。
「……」
僕がお茶を点て始めると、三人は静かになった。三人とも僕の方をじっと見ていて、何故だろう。やっぱり茶道には人の心を落ち着かせて、神妙な気持ちにさせる力があるのかもしれない。
「――どうぞ」
三つ点てて、行き渡るように三人に茶器を回してもらった。
真面目な顔をしている三人を見て、今ならきちんと作法を知りたいと思ってくれているような気がして、僕は三人に言った。
「器を左手に乗せて、右手で手前に二回、回してください。それで、茶器の正面――絵柄の真ん中を避けてお召し上がりくださいね」
三人はたどたどしい手つきで茶器を回してお茶を飲む。
僕は内心ホッと息を吐いた。
――この人たちなりに、茶道から何か得てくれたのなら幸いだ。
「ご退出されるときは、畳の縁と、敷居を踏まないように気を付けてください」
お茶を飲んだら帰ると言っていたから。僕は彼らに退出を促した。
「あ、ちなみに本当は一席五百円なんですけど、今日はお菓子もご用意できませんでしたから、大丈夫です」
ふと思いついてそう付け足すと、彼らは驚いた顔をした。
「え、金掛かるんだ」
「菓子食うなら五百円ってことか」
「五百円出すなら菓子は自分で好きなもん買ってきた方がよくね?」
僕はちょっとムッとした。勝手なことを言っている。
今回予約無しで受け入れるのも、無料でお茶を点てたのも、ただの善意だ。お菓子が五百円なわけではない。
「持ち込みは禁止です。次回いらっしゃるのであれば、ご用意お願いします」
とにかくもうお帰りいただくだけだと思って、僕はお客さん向けの笑顔を作った。
三人の内の一人が、ちょっと不機嫌な顔をした。
「金掛かるって聞いて無かったんだけど。もしかして、もう来られたくないと思って俺達にだけ言ってない?」
「そんな!」
僕は慌てて首を振った。
「そんなことないです。正式な決まりで――」
「じゃあ朔先輩も払ってるの?」
「そんな話聞かなかったけどなー」
「……先輩からは、別でお礼をいただいていますから」
少し迷って、僕は言う。
「何それ」
「別って何」
「僕が、個人的にお願いしていることがあるだけです」
「嘘だな」
一人がはっきりと断じる声で言って、僕を怖い顔で見た。
「適当なこと言って、俺達厄介払いしようとしてるだろ、お前」
「ち、違います……」
「じゃあ、朔先輩になにお願いしてんの?」
僕は迷う。三人にじっと見られて、焦りと怖さとで、なんと言えばいいか分からなかった。
「……僕、弓道着を着た人が好きで」
僕がポツリと言うと、三人はぽかんとした。
「抱きしめられたいって願望があって。それで、朔先輩にお茶のお礼にハグしてもらってるんです」
三人は一瞬の間を置いて、大爆笑した。
「……」
僕はそれを黙って眺める。
――ああ、やっぱりこれは言うべきでは無かったな。
でも、どんな嘘を吐いて切り抜ければいいのか、咄嗟に僕には分からなかった。
一人が笑いながら涙を拭う仕草をした。
「なーんだ、じゃあさ、俺もそっちでいいや」
「はい?」
「弓道着の人に抱きしめてほしいんでしょ? 俺も支払い体でするわ」
「マジかお前」
後の二人は吹き出して笑う。
「い、いいです。いいです。そもそも今日はお金要らないってさっき――」
「遠慮しなくていいって。五百円なんてケチ臭いこと言わないでさ、千円分でも二千円分でも抱きしめてあげるよー」
「お前、ちょっとキモイ」
「うるせえわ!」
三人はこの状況が面白くて堪らないという風に笑っている。
体で支払うと言った彼は、「って言うかさ」と僕を見た。
「君、お茶点ててるときめっちゃいいよね。なんか色気あったよ、独特の」
「えっ、えっ」
焦る僕をよそに、他の二人も真顔で頷く。
「ああ、なんか分かる。思わず黙って見ちゃった」
「まあ分からんでは無い。俺も結構見入ったし」
「え、ええー……」
これは一体どういう展開だと、僕は目を白黒させる。そんな僕のパニックなんてお構いなしで、
「というわけで、俺全然嫌じゃないから。ほら、おいでー」
三人組の一人がゆっくりと手を広げて近付いてきていた。
そのニヤニヤした顔が、頭の中で、いつか見た通り魔の不気味な笑顔と重なった。
「――あ」
浮かし掛けていた腰が、ぺたりと畳に付いた。僕は腰が抜けてしまって、その場から動くことができなかった。
ただ目を見開いて、近づいて来る男を見つめていた。
「あれー、怯えてる?」
「なになに、そんな怖がんないでよ」
「可哀想。朔先輩はいいけどお前は嫌だってさ」
「えー、ひどいなー、傷つくなー」
完全に面白がられ、からかわれている。
僕に迫って来る一人は勿論、その後ろにはあとの二人が立っていて、全員が嗜虐的な笑みを浮かべていた。
「いや……」
一番手前の一人は、ゆっくりと、ゆっくりと、僕の反応を楽しむように段々と距離を詰めてきていた。このままではもうすぐ体に手が掛かるだろう。
でも抵抗したらきっと、後ろの二人が出てきてもっとひどいことになると想像できた。
ああ、でも嫌だ。このままこの人に抱きしめられるのは――嫌だ!
僕が思わずぎゅっと目を瞑ったとき、
「――おい」
低くドスの聞いた声が聞こえた。
顔を上げると茶室の入り口に、世にも恐ろしい顔をした朔先輩が立っていた。
今日の先輩は制服姿で、少し、息が荒かった。
「お前ら、部長の俺に黙ってサボりとはいい度胸だな」
こんな怒りのオーラを放つ先輩を見るのは初めてで、朔先輩にこんな顔ができると僕は思っていなかった。
「せ、先輩……!」
それは三人も同じだったのかもしれない。三人は先輩の方を見て、「ひっ」と飛び上がった。
「どけ」
朔先輩はこちらに近付いてくると、僕に一番近付いていた人の肩を掴んで思いっきり押して、僕と彼の間に入った。三人は萎縮するように部屋の奥に三人で下がった。
「何しにここ来た」
「お茶……飲みに……」
「お、俺達も先輩みたいに弓道上手くなりたくて……」
「そ、そうです! 弓道のために! 向上心で!」
「先輩みたいになりたくて!」
三人は必死で訴える。先輩が大きな声を上げた。
「アホ! お前らみたいな、二年にもなって基礎もできてない、やる気も無い、技術も磨いて無い奴が、他力本願で上手くなれるわけが無いだろうが! 弓道を舐めるな! 茶道もだ! 二度と他人に迷惑を掛けるな! 次舐めた真似をしたら許さない!」
「は、はいぃ……」
三人は縮み上がり、先輩が「戻れ」と言うと、這う這うの体で逃げ出して行った。
後には床に座り込んだ僕と、僕に背を向けたままで立っている朔先輩が残った。
「……」
「……せんぱい」
僕は朔先輩を呼んでみる。そんなつもりじゃなかったんだけど、自分で思った以上に細く震えた声になった。
朔先輩はバッと振り返って、僕の前に膝を突いた。
「大丈夫? どういうこと? 何があったの」
先輩は先ほどの冷ややかな怒りのオーラを完全に無くしていて、青い顔で僕を見つめた。
「あの……あの人たち……、先輩に聞いて来たって……。それで僕、先輩の紹介だと思って、お茶を点てたんです」
僕が言うと、朔先輩は眉を顰めた。
「それでなんであんなことになるの」
「茶道部って、外部の人が来るときは一席五百円いただいてるんですけど――」
「え」
先輩は目を丸くする。
「え、そうなの? 待って俺一回も払ってないけど」
「いいです。朔先輩はいいんです」
「いやいや、だっていつも出してくれてるお菓子とか……まさか――」
先輩は言い掛けて、落ち着こうとするように額を手で押さえる。
「いや、この話は後にしよう。それで?」
「なんか、朔先輩はどうやって払ってるのって、聞かれて」
「うん、俺、払ってないよね?」
「僕が弓道着の人が好きで、先輩にはハグしてもらってるって言ったら、自分も体で払うって――」
「馬鹿! なんでそんなの言っちゃうの!」
朔先輩は大声を上げた。
「あ……ごめんなさい。先輩、知られたら嫌でしたよね……」
「そんなこと言ってるんじゃないよ! 誰にでも抱き付かせたらダメでしょ!」
先輩が怒っている。こんな馬鹿な自分に呆れて、先輩はもう僕のことなんて見放してしまうかもしれない。情けなくて涙が滲んだ。
「軽率でした。ごめんなさい……」
「――いや」
先輩は溜め息を吐く。
「そもそも俺が、茶道部に行ってることを人に話したのがいけなかったんだ、ごめん。――真面目に弓道やってる女の子たちに聞かれてさ。最近俺が調子いい理由、話したんだ。『茶道部でお茶を御馳走になってる』って。満月君が良かったらだけど、今度一回くらい一緒に来させてもらえたら、皆の気分転換にもなっていいかなって思って……。勿論、大丈夫だったらだよ。事前に日時決めて、俺も一緒に来るつもりで」
朔先輩は苦虫を嚙み潰したような顔をした。
「まさか、あいつらに伝わると思ってなかったし、勝手に来るなんて思ってなかった。俺に一言も言わずに来るなんて、俺やっぱ舐められてたわ。――俺が不甲斐無いせいで満月君に迷惑掛けたね。ごめんね」
僕は勢いよく顔を上げて朔先輩を見つめた。
「先輩、カッコよかったです。全然不甲斐なく無いです」
朔先輩は静かに首を振った。
「……僕のスランプの原因ね、元々はあいつらなんだ」
「え?」
「弓道部っておっきい部活でさ、大体みんな真面目なんだけど、あいつらを中心にサボる奴が出て来てて。俺、部長だからなんとかしないといけなかったんだけど、なかなかしっかり注意ができなかったんだ。あいつら、先生が見てたりやらなきゃいけないときはやるんだよ。俺が注意してもへらへらして、その場しのぎで上手くやったつもりになってるのは全然隠せてなくて。どうしたらいいんだろうって悩んでるうちに失敗が増えて、そうしたらさ、自分ができてないのに人に注意するなんてもっとできなくなって――あいつらも段々増長していって、舐められて、そういう悪循環になって」
「ひどい。先輩に迷惑掛けないでほしい!」
腹が立って、思わず直情型の感想が口から出た。先輩は笑った。
「でも今日分かったよ。俺、ちゃんと言えるんだな。――満月君ありがとう。俺、明日からもっと上手くやれる気がする」
「っていうか……」
僕はぽかんと先輩を見た。
「先輩のスランプの原因って、彼女さんのことじゃないんですか?」
先輩は目を丸くした。
「あいつらそんなことまで言ってたの⁉ ――彼女ね、確かにいたけど」
先輩がなんだか淋しそうな顔をした気がして、僕の心がズキリと痛んだ。
「告白してもらったんだけど、俺、なんか恋愛感情っていうの? そういうのよく分からなくて。普通にいつも通り弓道に熱中してたら、すぐに振られちゃったんだよね」
朔先輩は苦笑する。
「結局何日かメッセージ交わしたくらいかな。デートもしてないし、手も繋いだこと無い。一回、送って帰ったけど。――だから、正直スランプとは関係無い。時期が被っただけ。いや、フラれたのなんてもっと前で、実際は被ってもいないんだけど。そんな風に思われてたのか」
「そうだったんですね……」
僕は呟くように言った。先輩は一度大きく息を吐いて、唸る。
「それにしても、よく考えたら無防備過ぎるよな。学校の中とはいえ、放課後裏庭の隅にひとりでいるなんて。あいつらはもう来ないと思うけど――っていうか、来させないけど。ねえ、満月君悪いけど、これからはひとりで活動するのは止めな? 顧問に来てもらうか、部員誰か一人は連れて来るか――誰もいないときは望に来させるから」
「先輩……、なんでそんな僕のこと心配してくれるんですか……?」
先輩は瞬いて、少しだけ考え込んだ。
「それがさ、俺、自分でもよく分かんないんだけど、満月君のことすっごく気になるんだよね。今までこういう気持ちになったことが無くて、これがなんなのか、ずっと分からなかったんだけど……そっか……なるほど……」
朔先輩はひとりで何か納得する。
「先輩?」
「俺さ、恋心ってよく分からないと思ってたんだけど、もしかして、これなのかな」
「え……?」
「お茶のお礼とか、スランプ脱出のためとか、そういうんじゃなくて、俺自身が満月君のこと、なんかすっごく愛しくて、守ってあげたいような気持ちになるんだ」
朔先輩の告白に、僕は張り裂けそうにドキドキした。
朔先輩が、まさかそんな風に、僕のこと考えてくれていたなんて。
「ねえ、今日も抱きしめていい?」
「……はい」
僕が答えると、先輩は嬉しそうに微笑む。そして僕を抱きしめようとして――「あっ」と声を上げると、両手を開いて肩の位置まで上げた。僕はきょとんと先輩を見る。
「俺、今日弓道着じゃないや。ごめんごめん。部長会議があって遅れて部室に行ったらさ、あいつらが茶室に行ったっていうから。俺、着替えないで慌てて来ちゃって――」
「先輩!」
僕は先輩に、自分からぎゅうぅと抱きついた。
「あ、あれ? いいの? 制服だけど」
「先輩、僕、弓道着の人ならいいわけじゃないです。そうじゃないって分かりました。僕、朔先輩がいい。弓道着じゃなくても朔先輩じゃなきゃ、嫌です!」
「ああ――そっか、そうなんだ」
朔先輩はくすぐったそうに笑う。
「じゃあこれからはもっと、いつでも抱きしめられるね」
そう言った制服姿の先輩に抱きしめられると、いつもと同じように体がジーンと痺れて、幸せな気持ちで心が満ちた。
だから僕は茶道が好きだ。どんなに悲しい時も、苦しい時も、気に掛かることがあっても、お茶を点てているこのときは、平静な気持ちでいられる。心が落ち着く。
「……」
僕がお茶を点て始めると、三人は静かになった。三人とも僕の方をじっと見ていて、何故だろう。やっぱり茶道には人の心を落ち着かせて、神妙な気持ちにさせる力があるのかもしれない。
「――どうぞ」
三つ点てて、行き渡るように三人に茶器を回してもらった。
真面目な顔をしている三人を見て、今ならきちんと作法を知りたいと思ってくれているような気がして、僕は三人に言った。
「器を左手に乗せて、右手で手前に二回、回してください。それで、茶器の正面――絵柄の真ん中を避けてお召し上がりくださいね」
三人はたどたどしい手つきで茶器を回してお茶を飲む。
僕は内心ホッと息を吐いた。
――この人たちなりに、茶道から何か得てくれたのなら幸いだ。
「ご退出されるときは、畳の縁と、敷居を踏まないように気を付けてください」
お茶を飲んだら帰ると言っていたから。僕は彼らに退出を促した。
「あ、ちなみに本当は一席五百円なんですけど、今日はお菓子もご用意できませんでしたから、大丈夫です」
ふと思いついてそう付け足すと、彼らは驚いた顔をした。
「え、金掛かるんだ」
「菓子食うなら五百円ってことか」
「五百円出すなら菓子は自分で好きなもん買ってきた方がよくね?」
僕はちょっとムッとした。勝手なことを言っている。
今回予約無しで受け入れるのも、無料でお茶を点てたのも、ただの善意だ。お菓子が五百円なわけではない。
「持ち込みは禁止です。次回いらっしゃるのであれば、ご用意お願いします」
とにかくもうお帰りいただくだけだと思って、僕はお客さん向けの笑顔を作った。
三人の内の一人が、ちょっと不機嫌な顔をした。
「金掛かるって聞いて無かったんだけど。もしかして、もう来られたくないと思って俺達にだけ言ってない?」
「そんな!」
僕は慌てて首を振った。
「そんなことないです。正式な決まりで――」
「じゃあ朔先輩も払ってるの?」
「そんな話聞かなかったけどなー」
「……先輩からは、別でお礼をいただいていますから」
少し迷って、僕は言う。
「何それ」
「別って何」
「僕が、個人的にお願いしていることがあるだけです」
「嘘だな」
一人がはっきりと断じる声で言って、僕を怖い顔で見た。
「適当なこと言って、俺達厄介払いしようとしてるだろ、お前」
「ち、違います……」
「じゃあ、朔先輩になにお願いしてんの?」
僕は迷う。三人にじっと見られて、焦りと怖さとで、なんと言えばいいか分からなかった。
「……僕、弓道着を着た人が好きで」
僕がポツリと言うと、三人はぽかんとした。
「抱きしめられたいって願望があって。それで、朔先輩にお茶のお礼にハグしてもらってるんです」
三人は一瞬の間を置いて、大爆笑した。
「……」
僕はそれを黙って眺める。
――ああ、やっぱりこれは言うべきでは無かったな。
でも、どんな嘘を吐いて切り抜ければいいのか、咄嗟に僕には分からなかった。
一人が笑いながら涙を拭う仕草をした。
「なーんだ、じゃあさ、俺もそっちでいいや」
「はい?」
「弓道着の人に抱きしめてほしいんでしょ? 俺も支払い体でするわ」
「マジかお前」
後の二人は吹き出して笑う。
「い、いいです。いいです。そもそも今日はお金要らないってさっき――」
「遠慮しなくていいって。五百円なんてケチ臭いこと言わないでさ、千円分でも二千円分でも抱きしめてあげるよー」
「お前、ちょっとキモイ」
「うるせえわ!」
三人はこの状況が面白くて堪らないという風に笑っている。
体で支払うと言った彼は、「って言うかさ」と僕を見た。
「君、お茶点ててるときめっちゃいいよね。なんか色気あったよ、独特の」
「えっ、えっ」
焦る僕をよそに、他の二人も真顔で頷く。
「ああ、なんか分かる。思わず黙って見ちゃった」
「まあ分からんでは無い。俺も結構見入ったし」
「え、ええー……」
これは一体どういう展開だと、僕は目を白黒させる。そんな僕のパニックなんてお構いなしで、
「というわけで、俺全然嫌じゃないから。ほら、おいでー」
三人組の一人がゆっくりと手を広げて近付いてきていた。
そのニヤニヤした顔が、頭の中で、いつか見た通り魔の不気味な笑顔と重なった。
「――あ」
浮かし掛けていた腰が、ぺたりと畳に付いた。僕は腰が抜けてしまって、その場から動くことができなかった。
ただ目を見開いて、近づいて来る男を見つめていた。
「あれー、怯えてる?」
「なになに、そんな怖がんないでよ」
「可哀想。朔先輩はいいけどお前は嫌だってさ」
「えー、ひどいなー、傷つくなー」
完全に面白がられ、からかわれている。
僕に迫って来る一人は勿論、その後ろにはあとの二人が立っていて、全員が嗜虐的な笑みを浮かべていた。
「いや……」
一番手前の一人は、ゆっくりと、ゆっくりと、僕の反応を楽しむように段々と距離を詰めてきていた。このままではもうすぐ体に手が掛かるだろう。
でも抵抗したらきっと、後ろの二人が出てきてもっとひどいことになると想像できた。
ああ、でも嫌だ。このままこの人に抱きしめられるのは――嫌だ!
僕が思わずぎゅっと目を瞑ったとき、
「――おい」
低くドスの聞いた声が聞こえた。
顔を上げると茶室の入り口に、世にも恐ろしい顔をした朔先輩が立っていた。
今日の先輩は制服姿で、少し、息が荒かった。
「お前ら、部長の俺に黙ってサボりとはいい度胸だな」
こんな怒りのオーラを放つ先輩を見るのは初めてで、朔先輩にこんな顔ができると僕は思っていなかった。
「せ、先輩……!」
それは三人も同じだったのかもしれない。三人は先輩の方を見て、「ひっ」と飛び上がった。
「どけ」
朔先輩はこちらに近付いてくると、僕に一番近付いていた人の肩を掴んで思いっきり押して、僕と彼の間に入った。三人は萎縮するように部屋の奥に三人で下がった。
「何しにここ来た」
「お茶……飲みに……」
「お、俺達も先輩みたいに弓道上手くなりたくて……」
「そ、そうです! 弓道のために! 向上心で!」
「先輩みたいになりたくて!」
三人は必死で訴える。先輩が大きな声を上げた。
「アホ! お前らみたいな、二年にもなって基礎もできてない、やる気も無い、技術も磨いて無い奴が、他力本願で上手くなれるわけが無いだろうが! 弓道を舐めるな! 茶道もだ! 二度と他人に迷惑を掛けるな! 次舐めた真似をしたら許さない!」
「は、はいぃ……」
三人は縮み上がり、先輩が「戻れ」と言うと、這う這うの体で逃げ出して行った。
後には床に座り込んだ僕と、僕に背を向けたままで立っている朔先輩が残った。
「……」
「……せんぱい」
僕は朔先輩を呼んでみる。そんなつもりじゃなかったんだけど、自分で思った以上に細く震えた声になった。
朔先輩はバッと振り返って、僕の前に膝を突いた。
「大丈夫? どういうこと? 何があったの」
先輩は先ほどの冷ややかな怒りのオーラを完全に無くしていて、青い顔で僕を見つめた。
「あの……あの人たち……、先輩に聞いて来たって……。それで僕、先輩の紹介だと思って、お茶を点てたんです」
僕が言うと、朔先輩は眉を顰めた。
「それでなんであんなことになるの」
「茶道部って、外部の人が来るときは一席五百円いただいてるんですけど――」
「え」
先輩は目を丸くする。
「え、そうなの? 待って俺一回も払ってないけど」
「いいです。朔先輩はいいんです」
「いやいや、だっていつも出してくれてるお菓子とか……まさか――」
先輩は言い掛けて、落ち着こうとするように額を手で押さえる。
「いや、この話は後にしよう。それで?」
「なんか、朔先輩はどうやって払ってるのって、聞かれて」
「うん、俺、払ってないよね?」
「僕が弓道着の人が好きで、先輩にはハグしてもらってるって言ったら、自分も体で払うって――」
「馬鹿! なんでそんなの言っちゃうの!」
朔先輩は大声を上げた。
「あ……ごめんなさい。先輩、知られたら嫌でしたよね……」
「そんなこと言ってるんじゃないよ! 誰にでも抱き付かせたらダメでしょ!」
先輩が怒っている。こんな馬鹿な自分に呆れて、先輩はもう僕のことなんて見放してしまうかもしれない。情けなくて涙が滲んだ。
「軽率でした。ごめんなさい……」
「――いや」
先輩は溜め息を吐く。
「そもそも俺が、茶道部に行ってることを人に話したのがいけなかったんだ、ごめん。――真面目に弓道やってる女の子たちに聞かれてさ。最近俺が調子いい理由、話したんだ。『茶道部でお茶を御馳走になってる』って。満月君が良かったらだけど、今度一回くらい一緒に来させてもらえたら、皆の気分転換にもなっていいかなって思って……。勿論、大丈夫だったらだよ。事前に日時決めて、俺も一緒に来るつもりで」
朔先輩は苦虫を嚙み潰したような顔をした。
「まさか、あいつらに伝わると思ってなかったし、勝手に来るなんて思ってなかった。俺に一言も言わずに来るなんて、俺やっぱ舐められてたわ。――俺が不甲斐無いせいで満月君に迷惑掛けたね。ごめんね」
僕は勢いよく顔を上げて朔先輩を見つめた。
「先輩、カッコよかったです。全然不甲斐なく無いです」
朔先輩は静かに首を振った。
「……僕のスランプの原因ね、元々はあいつらなんだ」
「え?」
「弓道部っておっきい部活でさ、大体みんな真面目なんだけど、あいつらを中心にサボる奴が出て来てて。俺、部長だからなんとかしないといけなかったんだけど、なかなかしっかり注意ができなかったんだ。あいつら、先生が見てたりやらなきゃいけないときはやるんだよ。俺が注意してもへらへらして、その場しのぎで上手くやったつもりになってるのは全然隠せてなくて。どうしたらいいんだろうって悩んでるうちに失敗が増えて、そうしたらさ、自分ができてないのに人に注意するなんてもっとできなくなって――あいつらも段々増長していって、舐められて、そういう悪循環になって」
「ひどい。先輩に迷惑掛けないでほしい!」
腹が立って、思わず直情型の感想が口から出た。先輩は笑った。
「でも今日分かったよ。俺、ちゃんと言えるんだな。――満月君ありがとう。俺、明日からもっと上手くやれる気がする」
「っていうか……」
僕はぽかんと先輩を見た。
「先輩のスランプの原因って、彼女さんのことじゃないんですか?」
先輩は目を丸くした。
「あいつらそんなことまで言ってたの⁉ ――彼女ね、確かにいたけど」
先輩がなんだか淋しそうな顔をした気がして、僕の心がズキリと痛んだ。
「告白してもらったんだけど、俺、なんか恋愛感情っていうの? そういうのよく分からなくて。普通にいつも通り弓道に熱中してたら、すぐに振られちゃったんだよね」
朔先輩は苦笑する。
「結局何日かメッセージ交わしたくらいかな。デートもしてないし、手も繋いだこと無い。一回、送って帰ったけど。――だから、正直スランプとは関係無い。時期が被っただけ。いや、フラれたのなんてもっと前で、実際は被ってもいないんだけど。そんな風に思われてたのか」
「そうだったんですね……」
僕は呟くように言った。先輩は一度大きく息を吐いて、唸る。
「それにしても、よく考えたら無防備過ぎるよな。学校の中とはいえ、放課後裏庭の隅にひとりでいるなんて。あいつらはもう来ないと思うけど――っていうか、来させないけど。ねえ、満月君悪いけど、これからはひとりで活動するのは止めな? 顧問に来てもらうか、部員誰か一人は連れて来るか――誰もいないときは望に来させるから」
「先輩……、なんでそんな僕のこと心配してくれるんですか……?」
先輩は瞬いて、少しだけ考え込んだ。
「それがさ、俺、自分でもよく分かんないんだけど、満月君のことすっごく気になるんだよね。今までこういう気持ちになったことが無くて、これがなんなのか、ずっと分からなかったんだけど……そっか……なるほど……」
朔先輩はひとりで何か納得する。
「先輩?」
「俺さ、恋心ってよく分からないと思ってたんだけど、もしかして、これなのかな」
「え……?」
「お茶のお礼とか、スランプ脱出のためとか、そういうんじゃなくて、俺自身が満月君のこと、なんかすっごく愛しくて、守ってあげたいような気持ちになるんだ」
朔先輩の告白に、僕は張り裂けそうにドキドキした。
朔先輩が、まさかそんな風に、僕のこと考えてくれていたなんて。
「ねえ、今日も抱きしめていい?」
「……はい」
僕が答えると、先輩は嬉しそうに微笑む。そして僕を抱きしめようとして――「あっ」と声を上げると、両手を開いて肩の位置まで上げた。僕はきょとんと先輩を見る。
「俺、今日弓道着じゃないや。ごめんごめん。部長会議があって遅れて部室に行ったらさ、あいつらが茶室に行ったっていうから。俺、着替えないで慌てて来ちゃって――」
「先輩!」
僕は先輩に、自分からぎゅうぅと抱きついた。
「あ、あれ? いいの? 制服だけど」
「先輩、僕、弓道着の人ならいいわけじゃないです。そうじゃないって分かりました。僕、朔先輩がいい。弓道着じゃなくても朔先輩じゃなきゃ、嫌です!」
「ああ――そっか、そうなんだ」
朔先輩はくすぐったそうに笑う。
「じゃあこれからはもっと、いつでも抱きしめられるね」
そう言った制服姿の先輩に抱きしめられると、いつもと同じように体がジーンと痺れて、幸せな気持ちで心が満ちた。



