弓道男子に抱かれたい!

 朔先輩が帰った後、僕は一人きりの茶室で呆然と座り込んでいた。もう着物の裾が乱れるとか、着崩れるとかどうでも良くて、ぐったりと。
 ――凄かった。めちゃめちゃ良かった。
 あの心がジーンとする感覚は、小学四年生のあの日以来だった。
 この一回で十分過ぎる。十分過ぎるのに、まだまだ求めてしまいそうになる気持ちが止まらない。もっともっと、大好きになってしまいそうで堪らない。
 不純な気持ちだ。いや、「弓道着姿の人に抱きしめられたい」なんて、それ自体元々かなり不純だったとは思うけど。
 ――もう自分から朔先輩に近付くのは止めておこう……
 僕は力強く決心する。
 優しい朔先輩に、これ以上ご迷惑をお掛けするわけにはいかない。
 そう思うのに、心はずっと落ち着かなくて、また抱きしめてほしいと思ってしまう。
 翌朝、教室で望に会ったけれど、彼の方からは当たり前に朔先輩のことを何も言ってはくれない。
「お、お兄さんなんか言ってた?」
 昼休みになって意を決して僕から聞くと、望は相変わらずの無表情で「うーん」と考えて、答えた。
「要約すると『アニマルセラピーだった』って言ってた」
「何それ⁉」
 僕は叫ぶ。
「まあなんか兄貴も助かったっぽいから、ありがとう。――多分また茶道部行くと思うから、よろしく」
「そ、そっか……うん」
 アニマルセラピーはよく分からないけど、僕のお茶が役に立てたなら嬉しい。
 もし本当にまた来てくれるなら嬉しい。抱きしめてくれたら――もっと嬉しい。


 今日は茶道の先生が部活に来る日だ。月一で出席率の良い日で、全部で十人集まっていた。ちなみに部員はそもそも女子がほとんどで、今日も男は僕しかいない。
 僕がお菓子をお盆に並べていると、表からキャアと女の子たちの声が聞こえた。
 ――なんだろう。茶室の中にいた僕と、三年生の部長は顔を見合わせる。
 僕が外を覗いてみると、朔先輩が茶道部の一年、二年の女子たちに包囲されていた。
 やれ「カッコいい」だの「弓道着が素敵」だの、完全に囲まれてしまっている。
「先輩!」
「満月君」
 僕が顔を見せると先輩は明らかにホッとした顔をした。
「どうなさったんですか?」
 僕は女の子たちと先輩の中に、ちょっと強引に割って入った。
「急に来てごめんね」
「いえ、大丈夫です」
「ちょっと報告があって。――今日はひとりじゃなかったんだね」
 朔先輩は女の子たちの方を見る。
「あ、はい。今日は先生が来る日で……」
「あれ、朔」
 と、茶室の入口から顔を出した部長が目を丸くした。二人はどうやら知り合いらしい。
「おう――ね、ちょっと満月君借りていい?」
 部長は瞬いて僕と朔先輩を見比べた。
「いいけど、先生来るまでね」
「分かった。ありがとう」
「ありがとうございます」
「ほら、あんたらはさっさと入って来なさいよ。もう先生来るんだから」
「はぁい」
 女の子たちは部長の声に従って、渋々と茶室に入っていく。 
 部長もそのまま茶室に引っ込んで、僕達は外に二人取り残された。
「ごめんね、活動中に」
「いえ、大丈夫です」
「あのさ――実は昨日、あの後弓道場に戻ったら、久々にちゃんと的に、真ん中に真っすぐに当てられたんだよね。なんかすごく気持ちが落ち着いて、スランプになる前の自分が帰ってきた感じがして……」
「え、すごい」
 僕は目を丸くする。
「茶道、効果あったんですね。嬉しいです! ――あ、でも、違いますね。元々の先輩の実力です。でも僕、お助けできたなら嬉しいです」
 興奮してワクワクと拳を握ると、朔先輩は優しく笑った。
「ううん、満月君のおかげ」
「そんな……そうだとしてもお茶の力ですね。茶道ってリラックスできますよね」
「あのさ」
 朔は頬を搔きながら言った。
「ときどきまた、お茶をいただきに来てもいいかな。勿論、あらかじめ連絡するようにするから。満月君の気が進むときだけ」
「も、勿論です! あの、毎日でもいいです!」
「ホント?」
 朔先輩は楽しそうに笑う。その笑顔にキュンとして、
 ――また、抱きしめてくれたらいいのにな。
 思わずそう思って、心の中で首を振る。
 ――先輩は優しさで報告に来てくれただけなのに、僕、調子に乗ってる。
 思わず項垂れた僕に、朔先輩が耳打ちした。
「満月君、まだ時間いい?」
「え?」
 顔を上げると、思った以上の至近距離に先輩の顔があって、僕は思わずドキリとした。
「ちょっとだけ来て」
 朔先輩は僕の腕を引いて、校舎の方に歩いて行った。階段下の、ボイラー室前の空間に行きついて、先輩は僕の手を離した。
「あ、あの……?」
「あのさ、また、抱き締めてもいい?」
 僕は目を見開く。心が、音を立ててトキめいた。
「えっ、えっ⁉」
「僕がスランプを抜けられたのは、勿論立ててくれたお茶のおかげもあると思う。すごくリラックスできて、心が洗われた。でも、それ以上に満月君のおかげな気がしてて――」
「え……?」
「なんかさ、満月君のこと抱きしめると、すっごく癒されるっていうか、元気が出るんだよね。変なこと言ってるかもしれないんだけど……」
「アニマルセラピー……」
 僕が呟くと、先輩はぽかんとする。
「へ? ――あ、望でしょ。そんなこと言ったのあいつ、失礼だよね。俺は言ってないからね!」
 先輩がムキになったのが面白くて、僕は思わず笑った。
「はい、分かりました」
「全く……」
「僕もです」
「うん?」
「僕も、先輩に抱きしめてもらうと、なんだか心がジーンってして、凄く幸せな気持ちになって、元気が出ます」
「あはは、本当に弓道着の人が好きなんだ」
 朔先輩は笑う。
「……はい」
 朔先輩の言ったことは、微妙に、僕の伝えたかったこととズレている気がした。でも今この瞬間、僕はそれがどう違うのか、すぐには言語化できなくて。
 朔先輩が広げてくれた腕の中にゆっくりと抱かれると、もう何も考えられなくなってしまった。