翌日の放課後。僕は茶道部の部室にいた。
うちの茶道部の部室は、恐らく全国的には珍しく本物の茶室だ。
高校を創立したなんたらさんが茶道の家元で、学校の裏庭の隅に小さな庭園と茶室を造り、それが代々受け継がれているんだって。
そんなありがたい茶室には、他の部員の姿は無い。今日は――いや、今日もかな――僕一人しかいない。
朔先輩は今日、弓道部の活動を中抜けしてお茶を飲みに来てくれることになっていた。僕は先輩を迎えるため、念入りに準備をしていた。
茶釜にお湯を沸かして、とっておきの茶器を用意して、お菓子も。それと、僕は着物に着替えていた。
茶道部の活動は制服でやってもいいし、着物に着替えてもいいことになっている。毎日着替えているわけではないけれど、今日は先輩を迎えるためにちょっとでもきちんとしたいと思ったのだ。
全ての準備を終えて、畳の上に正座で座る。朔先輩を迎えた後のことを一人で脳内シミュレーションをしていると、開けておいた入り口から朔先輩がひょいと顔を覗かせた。
「こんにちは」
「こ、こんにちは!」
朔先輩は紺色の弓道着を着ていた。
想像通り、いや、想像以上に、スラリとした朔先輩の体格にとても似合っている。
――きゅ、弓道着だ!
僕は思わず目を輝かせた。それは朔先輩にもバッチリ気付かれてしまったようで、先輩は苦笑いした。
「本当に弓道着が好きなんだね」
僕はカーッと赤くなる。
「す、すみません」
「いえいえ。面白いし、良いと思ってもらえるのは単純に嬉しいし、いいよ」
朔先輩がクスクス笑って、僕はドキリとした。
――先輩は、こんな風に人懐こそうに笑うんだ……
「本当に来てくださるなんて……すみません。お手間掛けて」
「そんなそんな。お招きくださってありがとう。――満月君、いつも着物着てるの? 大変だね」
「いつもってわけじゃないんですけど」
「そうなんだ」
――今日は先輩が来るから。
そう言おうかなと思って、恩着せがましい気がして呑み込んだ。
「どうぞ、お座りください」
僕は先輩に茶室の中へと促す。
「失礼します」
畳に上がった先輩は、僕が示した場所に正座で座った。弓道着を着た先輩は、その座り姿も凛として美しかった。
――やっぱり弓道をしている人は姿勢も違うなぁ……
僕は「ほぅ……」と息を吐く。当たり前かもしれないけど、先輩は敷居や畳の縁を踏んだりもしなかった。弓道をしている人はそういうマナーも分かっているんだなって、僕の中で憧れの値が更に上がった。
先輩は茶室の中を軽く見回す。
「他の部員さんは? 誰も来ないの?」
「はい、みんなサボり――っていうか……」
「うん?」
「うちって、ほとんどみんな幽霊部員なんです」
僕は苦笑する。
「成果物無いから来なくてもバレないですし。内申上げるためにとりあえずどこか所属しとこう……で入っているって人が多いみたいで。五月位まではそれなりに来てたんですけど、最近はパッタリ。お茶の先生が月一で来るので、そのときだけは出席率いいんですけど……普段は大体、僕だけなんです」
「一人で大丈夫なの? 淋しくない?」
「僕、一人って結構好きです」
「そうなんだ」
朔先輩は意外そうに瞬いた。
きっと、朔先輩は人気者だから。ひとりで過ごすのが好きなんて、変わり者の淋しい奴だと思われてしまったかもしれない。
でもそれは本当のことで、僕はひとりここでお茶を点てる時間が大好きだったから。無理に取り繕うのは違う気がした。
「お菓子をどうぞ」
僕は先輩の前にお盆に乗せたお菓子を差し出した。本当はお客さんが自分で懐紙に乗せて菓子切りで食べるのだけど、今日はもう僕の方で懐紙に乗せてしまって、菓子切りも付けてある。
「ありがとうございます」
先輩は少し緊張した面持ちでお辞儀をした。
「――すごい、綺麗なお菓子だね」
「そうですね」
そう言ってもらえてホッとする。
いつも部活で食べるのは、もっと安価な一袋二百円とかのお菓子なのだけど。僕は昨日の帰り道和菓子屋さんに寄って、先輩のために練り切りを購入していた。
用意した練り切りは花火を題材にしたもの。七色のパステルカラーがグラデーションで広がって、見ているだけで美しくてワクワクする。
ちょっとでも先輩が元気になれるように、スランプの克服の手助けができるように。和菓子屋さんに並んだ練り切りたちの中から、先輩が喜んでくれそうなものを本気で選んだ。
何か見返りを求めてるわけじゃない。僕はこの一席を、先輩が心休めることのできる良い時間にしたかった。
先輩が練り切りを食べている間に、僕は道具を清めてお茶を点てた。
お茶を立てている間、先輩が僕の方を見ている視線を感じた。こんな風に見つめられて、本当なら緊張してしまうところなのだけど、僕はお茶を点てている間は自然と平常心でいられる。
「お茶をどうぞ」
「ありがとうございます」
僕がお茶を差し出すと、先輩はまた少し緊張した様子で一礼した。
「……なんか、回したりするんだっけ」
茶器を手に取った先輩が助けを求めるような視線を向けてきて、僕は思わずふふっと笑った。
「いや、ごめんね無知で……。一応調べてはきたんだけど」
「いえ、ごめんなさい、笑って。なんか、可愛いなと思って」
「ええっ」
先輩は目を丸くする。
「先輩、すごく完璧だったから。微笑ましくなっちゃいました。分からなくて当たり前ですよね。――すみません。左手にこう乗せて……右手で回すんです、手前に二回。それで、茶器の正面――この器だと、ここなんですけど、そこを少し避けて召し上がってください。三口半で飲むことになってるんですけど、おいしく飲んでくださるのが一番ですから、それは気にしないで大丈夫です」
「分かった。ありがとう」
先輩は頷くと、真剣な目で茶器を見つめながら回した。
「――おいしい」
三口半で飲んで茶器から口を離し、先輩は呟くように言う。僕はホッとして、心の中で肩を撫で下ろした。
「僕、お抹茶ってそんなに飲んだこと無いし、こんな風に点ててもらうのも初めてだけど。なんか――すごく落ち着くね。不思議な感じ」
「そうですか?」
そう言ってもらえると嬉しい。
「こんないい経験ができるのに、幽霊部員ばっかりなんて勿体無いな」
「多分、みんな飽きちゃうんでしょうね」
「でも満月君は飽きないで毎日来てるんだ」
「僕は、お茶を立てるの好きだから」
僕は微笑む。
「僕、こうやって畳の上で、大好きな器にお茶を点てて、静かに飲む時間がとっても好きなんです。一人でも、全然平気。むしろ楽しいです」
「そっか」
朔先輩は優しく笑った。
「そうかなとは思った。お茶を立ててるとき、満月君ホントに楽しそうというか、幸せそうだもんね。好きでやってるんだろうなって、伝わってきたよ」
「そ、そうですか?」
僕は先輩に褒めてもらった嬉しさと恥ずかしさで、体がカァッと熱くなるのを感じた。
「――さて、そろそろ行かないとな」
「そ、そうですよね、すみません!」
そうだ、先輩は弓道部を抜けて来ているのだ。帰そうとしなかった自分の気の利かなさを恥ずかしく思って、僕は慌てた。
「いやいや、長居してしまってごめんね。今日は本当にありがとう、ごちそうさま」
先輩は立ち上がって、入り口の方に少し歩く。見送りに付いて行こうとして、先輩がふと立ち止まったので、僕も立ち止まって戸惑った。
「朔先輩?」
「――満月君、おいで」
先輩が振り返って、僕の方に体を向けて両手を広げた。
「え……」
僕は目を見開いて、フラフラと先輩に近付いていった。
――ぎゅっ
先輩が包み込むように抱いてくれた、その瞬間。僕は思わず息を止めた。そして、思い切り息を吸って先輩の体を抱き返した。柔らかな洗剤の香りがして、胸の堅い筋肉と体の温かみを感じた。体が痺れるようなジーンとした感覚がして、頭がクラクラする。
――ああもう永遠に、時が止まってしまえばいいのに。
天にも昇るような気持ちとは、まさにこれのことだろう。
「今日はいい気分転換になった。満月君のお茶を飲んで、心が洗われたような気がしたよ。今日からまた頑張れる。ありがとうね」
「はい……」
朔先輩が腕を緩めたのを感じて、僕も素直に体を離した。そして、正面から朔先輩を見る。
僕はきっと夢の中のようにほわほわとした顔をしているだろう。
「ありがとうございました……」
「こっちの台詞だって」
朔先輩は照れ臭そうに笑った。
「――これ、本当にお礼になってるのかな。今日は本当にありがとう」
*
二階堂家のリビング。朔が学校から帰ると、昨日と違って当たり前に迎えに出てこなかった弟は、ソファに寝転んでスマートフォンでゲームをしていた。
「望……」
朔は呆然と言う。
「うーん?」
気も漫ろに返事をした弟は、スマートフォンの画面をタップしながらこちらを見もしない。
「久々に正鵠得た……」
“正鵠を得る”とは、弓道で矢が的の中心を射抜くことだ。
「良かったね」
望は興味無さそうにスマートフォンを操作している。
茶室を出た後、なんだかほかほかしている体で弓道場に戻った。定めの場で矢を射るための準備をし、射位に立って弓を引く。それまでの間ずっと、久々に思った通りに体がスッと動いている気がした。
そのまま心を落ち着け、的を見定め弓を引くと、矢は力強く的の中央に突き刺さる。心地の良い的中音と共に、眠っていた体が覚醒したような、そんな感覚がした。
「そういや今日、満月に抹茶飲ましてもらったの?」
望がふと思い出したように顔を上げると、彼の兄はなんだか呆然とした顔をしていた。
「飲ましてもらった……」
「良かったじゃん。それで的射れたの? スランプ脱出? 俺の言った通りになったじゃん!」
「あのさ」
朔は起き上がった望の隣にドサリと座った。
「なんかさ、あの子、満月君? すごく可愛いよね。素直で、いい子で、――お前と全然違って」
「ほっとけよ」
「でさ、俺、抱きしめてみたんだよね」
望は瞬いた。
「え、そうなの? なんか『よくない感じがする』とか言ってたのに」
「いや、そうなんだけど、なんか……。お茶凄くおいしくて、ありがたくて。そんなことで喜んでくれるならいいかなって気になって……」
「喜んだでしょ」
「うん。喜んでくれたと思う……いや、分からん」
「うん?」
「なんかさ、満月君って抱きしめてみたらめっちゃ温かくて、ちっちゃくて、か弱くて、『俺が守らなきゃ!』って庇護欲みたいなのが湧いて」
「はぁ」
「それと同時に、なんて言うのかな、安心感? 包んでるのは自分のはずなのに、包まれてるみたいな安心感があって。心の中にある膿っていうの? 澱? そういうのがスーッと消えていって……。――お礼のつもりだったんだけど、普通に、なんか、俺の方が癒されたんだよね」
「ふーん、良かったじゃん」
望は気が無さそうにスマートフォンに目を落とす。
――話す相手を間違えたな。
いやしかし、他にこんなこと話せる相手もいないし。
このどこかソワソワするような不思議な気持ちはなんだろうって、朔は不思議に思った。
うちの茶道部の部室は、恐らく全国的には珍しく本物の茶室だ。
高校を創立したなんたらさんが茶道の家元で、学校の裏庭の隅に小さな庭園と茶室を造り、それが代々受け継がれているんだって。
そんなありがたい茶室には、他の部員の姿は無い。今日は――いや、今日もかな――僕一人しかいない。
朔先輩は今日、弓道部の活動を中抜けしてお茶を飲みに来てくれることになっていた。僕は先輩を迎えるため、念入りに準備をしていた。
茶釜にお湯を沸かして、とっておきの茶器を用意して、お菓子も。それと、僕は着物に着替えていた。
茶道部の活動は制服でやってもいいし、着物に着替えてもいいことになっている。毎日着替えているわけではないけれど、今日は先輩を迎えるためにちょっとでもきちんとしたいと思ったのだ。
全ての準備を終えて、畳の上に正座で座る。朔先輩を迎えた後のことを一人で脳内シミュレーションをしていると、開けておいた入り口から朔先輩がひょいと顔を覗かせた。
「こんにちは」
「こ、こんにちは!」
朔先輩は紺色の弓道着を着ていた。
想像通り、いや、想像以上に、スラリとした朔先輩の体格にとても似合っている。
――きゅ、弓道着だ!
僕は思わず目を輝かせた。それは朔先輩にもバッチリ気付かれてしまったようで、先輩は苦笑いした。
「本当に弓道着が好きなんだね」
僕はカーッと赤くなる。
「す、すみません」
「いえいえ。面白いし、良いと思ってもらえるのは単純に嬉しいし、いいよ」
朔先輩がクスクス笑って、僕はドキリとした。
――先輩は、こんな風に人懐こそうに笑うんだ……
「本当に来てくださるなんて……すみません。お手間掛けて」
「そんなそんな。お招きくださってありがとう。――満月君、いつも着物着てるの? 大変だね」
「いつもってわけじゃないんですけど」
「そうなんだ」
――今日は先輩が来るから。
そう言おうかなと思って、恩着せがましい気がして呑み込んだ。
「どうぞ、お座りください」
僕は先輩に茶室の中へと促す。
「失礼します」
畳に上がった先輩は、僕が示した場所に正座で座った。弓道着を着た先輩は、その座り姿も凛として美しかった。
――やっぱり弓道をしている人は姿勢も違うなぁ……
僕は「ほぅ……」と息を吐く。当たり前かもしれないけど、先輩は敷居や畳の縁を踏んだりもしなかった。弓道をしている人はそういうマナーも分かっているんだなって、僕の中で憧れの値が更に上がった。
先輩は茶室の中を軽く見回す。
「他の部員さんは? 誰も来ないの?」
「はい、みんなサボり――っていうか……」
「うん?」
「うちって、ほとんどみんな幽霊部員なんです」
僕は苦笑する。
「成果物無いから来なくてもバレないですし。内申上げるためにとりあえずどこか所属しとこう……で入っているって人が多いみたいで。五月位まではそれなりに来てたんですけど、最近はパッタリ。お茶の先生が月一で来るので、そのときだけは出席率いいんですけど……普段は大体、僕だけなんです」
「一人で大丈夫なの? 淋しくない?」
「僕、一人って結構好きです」
「そうなんだ」
朔先輩は意外そうに瞬いた。
きっと、朔先輩は人気者だから。ひとりで過ごすのが好きなんて、変わり者の淋しい奴だと思われてしまったかもしれない。
でもそれは本当のことで、僕はひとりここでお茶を点てる時間が大好きだったから。無理に取り繕うのは違う気がした。
「お菓子をどうぞ」
僕は先輩の前にお盆に乗せたお菓子を差し出した。本当はお客さんが自分で懐紙に乗せて菓子切りで食べるのだけど、今日はもう僕の方で懐紙に乗せてしまって、菓子切りも付けてある。
「ありがとうございます」
先輩は少し緊張した面持ちでお辞儀をした。
「――すごい、綺麗なお菓子だね」
「そうですね」
そう言ってもらえてホッとする。
いつも部活で食べるのは、もっと安価な一袋二百円とかのお菓子なのだけど。僕は昨日の帰り道和菓子屋さんに寄って、先輩のために練り切りを購入していた。
用意した練り切りは花火を題材にしたもの。七色のパステルカラーがグラデーションで広がって、見ているだけで美しくてワクワクする。
ちょっとでも先輩が元気になれるように、スランプの克服の手助けができるように。和菓子屋さんに並んだ練り切りたちの中から、先輩が喜んでくれそうなものを本気で選んだ。
何か見返りを求めてるわけじゃない。僕はこの一席を、先輩が心休めることのできる良い時間にしたかった。
先輩が練り切りを食べている間に、僕は道具を清めてお茶を点てた。
お茶を立てている間、先輩が僕の方を見ている視線を感じた。こんな風に見つめられて、本当なら緊張してしまうところなのだけど、僕はお茶を点てている間は自然と平常心でいられる。
「お茶をどうぞ」
「ありがとうございます」
僕がお茶を差し出すと、先輩はまた少し緊張した様子で一礼した。
「……なんか、回したりするんだっけ」
茶器を手に取った先輩が助けを求めるような視線を向けてきて、僕は思わずふふっと笑った。
「いや、ごめんね無知で……。一応調べてはきたんだけど」
「いえ、ごめんなさい、笑って。なんか、可愛いなと思って」
「ええっ」
先輩は目を丸くする。
「先輩、すごく完璧だったから。微笑ましくなっちゃいました。分からなくて当たり前ですよね。――すみません。左手にこう乗せて……右手で回すんです、手前に二回。それで、茶器の正面――この器だと、ここなんですけど、そこを少し避けて召し上がってください。三口半で飲むことになってるんですけど、おいしく飲んでくださるのが一番ですから、それは気にしないで大丈夫です」
「分かった。ありがとう」
先輩は頷くと、真剣な目で茶器を見つめながら回した。
「――おいしい」
三口半で飲んで茶器から口を離し、先輩は呟くように言う。僕はホッとして、心の中で肩を撫で下ろした。
「僕、お抹茶ってそんなに飲んだこと無いし、こんな風に点ててもらうのも初めてだけど。なんか――すごく落ち着くね。不思議な感じ」
「そうですか?」
そう言ってもらえると嬉しい。
「こんないい経験ができるのに、幽霊部員ばっかりなんて勿体無いな」
「多分、みんな飽きちゃうんでしょうね」
「でも満月君は飽きないで毎日来てるんだ」
「僕は、お茶を立てるの好きだから」
僕は微笑む。
「僕、こうやって畳の上で、大好きな器にお茶を点てて、静かに飲む時間がとっても好きなんです。一人でも、全然平気。むしろ楽しいです」
「そっか」
朔先輩は優しく笑った。
「そうかなとは思った。お茶を立ててるとき、満月君ホントに楽しそうというか、幸せそうだもんね。好きでやってるんだろうなって、伝わってきたよ」
「そ、そうですか?」
僕は先輩に褒めてもらった嬉しさと恥ずかしさで、体がカァッと熱くなるのを感じた。
「――さて、そろそろ行かないとな」
「そ、そうですよね、すみません!」
そうだ、先輩は弓道部を抜けて来ているのだ。帰そうとしなかった自分の気の利かなさを恥ずかしく思って、僕は慌てた。
「いやいや、長居してしまってごめんね。今日は本当にありがとう、ごちそうさま」
先輩は立ち上がって、入り口の方に少し歩く。見送りに付いて行こうとして、先輩がふと立ち止まったので、僕も立ち止まって戸惑った。
「朔先輩?」
「――満月君、おいで」
先輩が振り返って、僕の方に体を向けて両手を広げた。
「え……」
僕は目を見開いて、フラフラと先輩に近付いていった。
――ぎゅっ
先輩が包み込むように抱いてくれた、その瞬間。僕は思わず息を止めた。そして、思い切り息を吸って先輩の体を抱き返した。柔らかな洗剤の香りがして、胸の堅い筋肉と体の温かみを感じた。体が痺れるようなジーンとした感覚がして、頭がクラクラする。
――ああもう永遠に、時が止まってしまえばいいのに。
天にも昇るような気持ちとは、まさにこれのことだろう。
「今日はいい気分転換になった。満月君のお茶を飲んで、心が洗われたような気がしたよ。今日からまた頑張れる。ありがとうね」
「はい……」
朔先輩が腕を緩めたのを感じて、僕も素直に体を離した。そして、正面から朔先輩を見る。
僕はきっと夢の中のようにほわほわとした顔をしているだろう。
「ありがとうございました……」
「こっちの台詞だって」
朔先輩は照れ臭そうに笑った。
「――これ、本当にお礼になってるのかな。今日は本当にありがとう」
*
二階堂家のリビング。朔が学校から帰ると、昨日と違って当たり前に迎えに出てこなかった弟は、ソファに寝転んでスマートフォンでゲームをしていた。
「望……」
朔は呆然と言う。
「うーん?」
気も漫ろに返事をした弟は、スマートフォンの画面をタップしながらこちらを見もしない。
「久々に正鵠得た……」
“正鵠を得る”とは、弓道で矢が的の中心を射抜くことだ。
「良かったね」
望は興味無さそうにスマートフォンを操作している。
茶室を出た後、なんだかほかほかしている体で弓道場に戻った。定めの場で矢を射るための準備をし、射位に立って弓を引く。それまでの間ずっと、久々に思った通りに体がスッと動いている気がした。
そのまま心を落ち着け、的を見定め弓を引くと、矢は力強く的の中央に突き刺さる。心地の良い的中音と共に、眠っていた体が覚醒したような、そんな感覚がした。
「そういや今日、満月に抹茶飲ましてもらったの?」
望がふと思い出したように顔を上げると、彼の兄はなんだか呆然とした顔をしていた。
「飲ましてもらった……」
「良かったじゃん。それで的射れたの? スランプ脱出? 俺の言った通りになったじゃん!」
「あのさ」
朔は起き上がった望の隣にドサリと座った。
「なんかさ、あの子、満月君? すごく可愛いよね。素直で、いい子で、――お前と全然違って」
「ほっとけよ」
「でさ、俺、抱きしめてみたんだよね」
望は瞬いた。
「え、そうなの? なんか『よくない感じがする』とか言ってたのに」
「いや、そうなんだけど、なんか……。お茶凄くおいしくて、ありがたくて。そんなことで喜んでくれるならいいかなって気になって……」
「喜んだでしょ」
「うん。喜んでくれたと思う……いや、分からん」
「うん?」
「なんかさ、満月君って抱きしめてみたらめっちゃ温かくて、ちっちゃくて、か弱くて、『俺が守らなきゃ!』って庇護欲みたいなのが湧いて」
「はぁ」
「それと同時に、なんて言うのかな、安心感? 包んでるのは自分のはずなのに、包まれてるみたいな安心感があって。心の中にある膿っていうの? 澱? そういうのがスーッと消えていって……。――お礼のつもりだったんだけど、普通に、なんか、俺の方が癒されたんだよね」
「ふーん、良かったじゃん」
望は気が無さそうにスマートフォンに目を落とす。
――話す相手を間違えたな。
いやしかし、他にこんなこと話せる相手もいないし。
このどこかソワソワするような不思議な気持ちはなんだろうって、朔は不思議に思った。



