「でもさ、やっぱりお兄さんにご迷惑だよね……」
一時の興奮が過ぎて。冷静になってしゅんとした僕に、望は相変わらずの無表情で言った。
「いや、行けると思うよ。兄ちゃんだし」
「どういう意味?」
「兄ちゃん、押しに弱いから」
「ふうん?」
望の家のリビング。僕は望のお兄さんに会うために望の家にお邪魔していた。朝陽は「俺はちょっと止めとくわ……」と言って帰ってしまったので、僕だけで。
望の家、二階堂家は母と兄の三人家族。シングルマザーのお母さんはバリバリ働いていて、夕ご飯はお兄さんと二人で食べることが多いんだって。
――弓道部のお兄さん。名前は朔、二階堂朔。
――弓道部の部長で、今日も部活でもうすぐ帰って来る。
僕は緊張でドキドキしながら、正座して太ももの上で拳を握っていた。望はこんな時でも無口で、僕のことは放ったままソファでスマートフォンを見ている。
「……」
静寂の中でしばらく待っていると、玄関から物音がした。僕の心臓がドキリと跳ねた。望は「帰ってきた」と言うと、スマートフォンを置いてリビングを出ていった。
「兄ちゃん、おかえり」
「うわ、何、出迎えとか怖い」
「ただいまくらい言えよ」
「何? 金? にーちゃんも無いよ」
「言ってねーよ」
なんだか兄弟らしい会話が聞こえてくる。望は僕達といるときより喋るようだ。
僕には兄弟がいなくて、こんな風にざっくばらんに話せる相手もいない。望のことがちょっぴり羨ましい気持ちがした。
――お兄さん、声、綺麗だな。
僕は太ももの上の拳を握りしめる。ドキドキが大きくなって、緊張が高まった。
「夕飯は? なんか作ってる? 米炊いた?」
「何もしてない」
「なんでだよ。先帰ってるんだったらちょっとくらい――わっ!」
リビングに入ってきた制服姿の男の人が、僕を見て目を丸くした。
ネクタイの色が三年生だ。背が高くて、スラリと姿勢が良く、細身だけど筋肉のありそうな体格で、どことなく望に似ている気がする。間違いなく、望のお兄さん――朔先輩だ。
「なんだ、お友達来てたの。――言えよ、お前」
「言う前に兄ちゃんどんどん喋るんだもん」
「ごめんね、こんばんは。望の兄貴です」
「あ、はい……」
「兄ちゃん、こいつ、満月。クラスメイト」
「ああ、そうなんだ。はじめましてだよね? 中学校は別?」
「は、はい……」
僕は余計なことが何も言えなくて、狩りてきた猫のように大人しくしていた。
だってそれだけ、朔先輩が素敵だったから。変なことをいって嫌われたくない。
――この人が弓道着を着たら……
僕は制服姿の朔先輩を見つめる。
制服も十分にカッコいい。だけど、弓道着姿になって弓矢を構えた朔先輩を想像すると、あまりの神々しさに眩暈がするようだ。同じ弓道部の人たちは、本物を見てよく倒れずに耐えられていると思う。
じっと自分を見つめている僕を見て、朔先輩はハテナを浮かべて小さく首を傾げた。
――変な子だと思われてる!
僕は恥ずかしくなって思わず俯く。
朔先輩は近くのソファに鞄を置くと、キッチンの方に歩いて行った。
「えーっと、満月君は今日は夕ご飯を食べていくのかな?」
対面式キッチンのシンクで、手を洗いながら朔先輩が言った。
「あ、いえ、帰ります」
僕は顔を上げ、慌てて言う。
――言わなきゃ、早く。自分の口でちゃんと伝えなきゃ。
――こんな夕飯時に、帰らないで自分の家のリビングで正座してる弟の友達。先輩から見たらめちゃめちゃ変な子だ。
「そうなの? ――大丈夫? 俺は別にいいけど」
朔先輩は首を傾げて、後半は僕の隣に立っている望の顔を見た。
「うん、メシはいいんだけど。満月、兄貴に用事あって待ってたんだよ」
「俺に?」
朔先輩は目を丸くする。
「え、なんだろう、ちょっと待ってね」
そう言って、朔先輩はうがいするための水を口に含んだ。
その先輩に向かって、望はいつも通りの抑揚の無い声で言った。
「満月、兄ちゃんに抱いてほしいんだって」
――ごほんっ!
朔先輩は思いっ切り噎せて、水をシンクに吹き出した。
「待って、待って望、言い方!」
僕は真っ赤になって慌てる。
「なに……何言ってんのお前……」
朔先輩は咳き込んで、げんなりした顔で弟を見た。
「あー、そっか。え、でも他になんて言うの?」
「ええと……だから……あのう……」
朔先輩は戸惑った顔で僕を見ている。弟よりは僕の方が、まともな説明をしそうだと思ったのかもしれない。
「あの、僕、弓道してる人に憧れがあって……」
「うん……」
「弓道着を着た姿が大好きで……」
「……うん」
「その姿で! 抱きしめられたいんです!」
最後は勢いで言った。朔先輩はしばしぽかんとして
「えーっと、つまり僕が、弓道着を来て、君のこと抱きしめたらいいの?」
僕は恥ずかしくて、こくりと頷いたまま俯いた。改めて考えるととても恥ずかしいお願いだ。とても朔先輩の顔を見られない。
「まあタダでとは言わねーよ。ちゃんと礼はする」
頭上から望の声がした。
「お前の礼なんてろくなもんじゃないだろ」
「満月が」
何も聞いていなかった僕は、望が何を言い出すのか分からなくて俯いたまま戸惑っていた。
――いや、勿論お礼はして当然だ。なんだってするし、いくらだって払います! 勿論! 貯金の範囲で!
僕は心の中で力強く言って、望が何を言うのか待った。
「兄貴、最近スランプじゃん?」
「は? ああ……まあ……」
朔先輩が少し動揺したような声を出した。
「満月ね、茶道部なんだよ。満月に茶でも点ててもらって、茶道の心で精神落ち着けたらなんか解決に近付くんじゃないか?」
「茶道……」
朔先輩は呟いて
「いや、そんなご迷惑でしょ。部外者が行ったら」
僕はバッと顔を上げる。
「いえ、茶道は部員以外も来ていいんです! ご予約があれば、歓迎です!」
「あ、そうなんだ……」
「というわけで兄ちゃん、茶立ててもらうのと引き換えに、弓道着で満月を抱いてやってくれ。こう一発! ぎゅっと!」
「ええー……」
朔先輩は明らかに引いた顔をしている。
それを見て、僕は居た堪れない気持ちになってしょんぼりした。
「あの、すみません。変なこと言って。やっぱりいいです。ごめんなさい」
朔先輩は困った笑顔を浮かべる。
「こっちこそごめんね。でも、うーん、やっぱりちょっと抵抗はあるかな……」
「やっぱり気持ち悪いですよね……」
「いやいや、気持ち悪いとは思ってないよ! ただ……、なんかあんまり良くない感じがするというか……」
朔先輩は戸惑った声で否定したけれど、それは精一杯の優しさだろうと僕は思った。
その優しさだけで、十分だ。
「ありがとうございます。――あの、もしよかったら一回、茶道部に来てください。お茶、御馳走します」
「え、そんな」
「変なこと言ったお詫びです。お役に立てるか分からないですけど、来てくださったら嬉しいです」
僕はそう言って、精一杯笑顔を作った。
一時の興奮が過ぎて。冷静になってしゅんとした僕に、望は相変わらずの無表情で言った。
「いや、行けると思うよ。兄ちゃんだし」
「どういう意味?」
「兄ちゃん、押しに弱いから」
「ふうん?」
望の家のリビング。僕は望のお兄さんに会うために望の家にお邪魔していた。朝陽は「俺はちょっと止めとくわ……」と言って帰ってしまったので、僕だけで。
望の家、二階堂家は母と兄の三人家族。シングルマザーのお母さんはバリバリ働いていて、夕ご飯はお兄さんと二人で食べることが多いんだって。
――弓道部のお兄さん。名前は朔、二階堂朔。
――弓道部の部長で、今日も部活でもうすぐ帰って来る。
僕は緊張でドキドキしながら、正座して太ももの上で拳を握っていた。望はこんな時でも無口で、僕のことは放ったままソファでスマートフォンを見ている。
「……」
静寂の中でしばらく待っていると、玄関から物音がした。僕の心臓がドキリと跳ねた。望は「帰ってきた」と言うと、スマートフォンを置いてリビングを出ていった。
「兄ちゃん、おかえり」
「うわ、何、出迎えとか怖い」
「ただいまくらい言えよ」
「何? 金? にーちゃんも無いよ」
「言ってねーよ」
なんだか兄弟らしい会話が聞こえてくる。望は僕達といるときより喋るようだ。
僕には兄弟がいなくて、こんな風にざっくばらんに話せる相手もいない。望のことがちょっぴり羨ましい気持ちがした。
――お兄さん、声、綺麗だな。
僕は太ももの上の拳を握りしめる。ドキドキが大きくなって、緊張が高まった。
「夕飯は? なんか作ってる? 米炊いた?」
「何もしてない」
「なんでだよ。先帰ってるんだったらちょっとくらい――わっ!」
リビングに入ってきた制服姿の男の人が、僕を見て目を丸くした。
ネクタイの色が三年生だ。背が高くて、スラリと姿勢が良く、細身だけど筋肉のありそうな体格で、どことなく望に似ている気がする。間違いなく、望のお兄さん――朔先輩だ。
「なんだ、お友達来てたの。――言えよ、お前」
「言う前に兄ちゃんどんどん喋るんだもん」
「ごめんね、こんばんは。望の兄貴です」
「あ、はい……」
「兄ちゃん、こいつ、満月。クラスメイト」
「ああ、そうなんだ。はじめましてだよね? 中学校は別?」
「は、はい……」
僕は余計なことが何も言えなくて、狩りてきた猫のように大人しくしていた。
だってそれだけ、朔先輩が素敵だったから。変なことをいって嫌われたくない。
――この人が弓道着を着たら……
僕は制服姿の朔先輩を見つめる。
制服も十分にカッコいい。だけど、弓道着姿になって弓矢を構えた朔先輩を想像すると、あまりの神々しさに眩暈がするようだ。同じ弓道部の人たちは、本物を見てよく倒れずに耐えられていると思う。
じっと自分を見つめている僕を見て、朔先輩はハテナを浮かべて小さく首を傾げた。
――変な子だと思われてる!
僕は恥ずかしくなって思わず俯く。
朔先輩は近くのソファに鞄を置くと、キッチンの方に歩いて行った。
「えーっと、満月君は今日は夕ご飯を食べていくのかな?」
対面式キッチンのシンクで、手を洗いながら朔先輩が言った。
「あ、いえ、帰ります」
僕は顔を上げ、慌てて言う。
――言わなきゃ、早く。自分の口でちゃんと伝えなきゃ。
――こんな夕飯時に、帰らないで自分の家のリビングで正座してる弟の友達。先輩から見たらめちゃめちゃ変な子だ。
「そうなの? ――大丈夫? 俺は別にいいけど」
朔先輩は首を傾げて、後半は僕の隣に立っている望の顔を見た。
「うん、メシはいいんだけど。満月、兄貴に用事あって待ってたんだよ」
「俺に?」
朔先輩は目を丸くする。
「え、なんだろう、ちょっと待ってね」
そう言って、朔先輩はうがいするための水を口に含んだ。
その先輩に向かって、望はいつも通りの抑揚の無い声で言った。
「満月、兄ちゃんに抱いてほしいんだって」
――ごほんっ!
朔先輩は思いっ切り噎せて、水をシンクに吹き出した。
「待って、待って望、言い方!」
僕は真っ赤になって慌てる。
「なに……何言ってんのお前……」
朔先輩は咳き込んで、げんなりした顔で弟を見た。
「あー、そっか。え、でも他になんて言うの?」
「ええと……だから……あのう……」
朔先輩は戸惑った顔で僕を見ている。弟よりは僕の方が、まともな説明をしそうだと思ったのかもしれない。
「あの、僕、弓道してる人に憧れがあって……」
「うん……」
「弓道着を着た姿が大好きで……」
「……うん」
「その姿で! 抱きしめられたいんです!」
最後は勢いで言った。朔先輩はしばしぽかんとして
「えーっと、つまり僕が、弓道着を来て、君のこと抱きしめたらいいの?」
僕は恥ずかしくて、こくりと頷いたまま俯いた。改めて考えるととても恥ずかしいお願いだ。とても朔先輩の顔を見られない。
「まあタダでとは言わねーよ。ちゃんと礼はする」
頭上から望の声がした。
「お前の礼なんてろくなもんじゃないだろ」
「満月が」
何も聞いていなかった僕は、望が何を言い出すのか分からなくて俯いたまま戸惑っていた。
――いや、勿論お礼はして当然だ。なんだってするし、いくらだって払います! 勿論! 貯金の範囲で!
僕は心の中で力強く言って、望が何を言うのか待った。
「兄貴、最近スランプじゃん?」
「は? ああ……まあ……」
朔先輩が少し動揺したような声を出した。
「満月ね、茶道部なんだよ。満月に茶でも点ててもらって、茶道の心で精神落ち着けたらなんか解決に近付くんじゃないか?」
「茶道……」
朔先輩は呟いて
「いや、そんなご迷惑でしょ。部外者が行ったら」
僕はバッと顔を上げる。
「いえ、茶道は部員以外も来ていいんです! ご予約があれば、歓迎です!」
「あ、そうなんだ……」
「というわけで兄ちゃん、茶立ててもらうのと引き換えに、弓道着で満月を抱いてやってくれ。こう一発! ぎゅっと!」
「ええー……」
朔先輩は明らかに引いた顔をしている。
それを見て、僕は居た堪れない気持ちになってしょんぼりした。
「あの、すみません。変なこと言って。やっぱりいいです。ごめんなさい」
朔先輩は困った笑顔を浮かべる。
「こっちこそごめんね。でも、うーん、やっぱりちょっと抵抗はあるかな……」
「やっぱり気持ち悪いですよね……」
「いやいや、気持ち悪いとは思ってないよ! ただ……、なんかあんまり良くない感じがするというか……」
朔先輩は戸惑った声で否定したけれど、それは精一杯の優しさだろうと僕は思った。
その優しさだけで、十分だ。
「ありがとうございます。――あの、もしよかったら一回、茶道部に来てください。お茶、御馳走します」
「え、そんな」
「変なこと言ったお詫びです。お役に立てるか分からないですけど、来てくださったら嬉しいです」
僕はそう言って、精一杯笑顔を作った。



