好きになるということ

「じゃあ、またな」


ーーーーーーあぁ、しんど。

【友人】に背を向ける。

その瞬間、重い重い鉛が体にのし掛かる。
隙間のない笑顔の仮面を引き剥がし、真の顔が露になる。

「空気ってこんなに美味しかったんだっけ」

築年数のたった家が立ち並び飲み屋の排気扇、普通自動車やバス、大型トラックなんかの排気ガス、建物と建物の間にはカラスに破かれたゴミが散らばっている。

そんな町中の空気でさえ美味しいと感じてしまうほど俺の肺は、脳は、身体は腐っていた。

当たり前に動く足がピクリとも動かなくて、太ももに力を入れて足を数センチ浮かせやっとの思いで一歩を踏み出す。

学校が終わり【友人】に付き合っていると駅につくのは大体午後6時頃、ちょうど社会人の帰宅ラッシュが始まるくらいの時間になる。

改札の前までやってくると人酔いしてしまうぐらいの人が隙間なく構内へと吸い込まれていく。
慌ててSuikaをだして自動改札機にタッチする。

「もう一度タッチしてください」

ーーー最悪だ。

「チッ」

後ろを振り向くと大柄のスーツを着た中年男性が俺を見下すように立ち、邪魔だといった表情で俺を外に突き飛ばす。

また、一番後ろから並び直さなければならない。
定期券だから残高不足じゃないし、100%機械側の過失なのにも関わらず俺が代償を追うのが納得いかない。

「チッ」

思わず小さく舌打ちをする。

サブバックを握り強くもち、肩を竦め下を向いて立ち止まっていると、

「どうぞ」

きっと新卒だろう。

背が高く、長い髪の毛を1本結びにし、前髪をピン止めで綺麗にとめ、体のラインに添ったピッチリめのスーツを着た女の人が声をかけてくれた。

「ありがとうございます」

もう一度自動改札機に定期券をかざす。

ピッ…。

すんなりと改札を通り抜けた。

後ろを振り向きお礼の気持ちで頭を下げる。
そして頭をあげたときその人の顎と俺の脳天がぶつかった。

最悪だ。

「ご、ごめんなさい。だ、大丈夫ですか」

女の人は痛ててと両手を顎に添え下を向いていた。
焦って顔を覗き込もうとするとすっと顔を上げて「うわぁ顎外れてないかなぁ、なんちゃって!」と笑った。

赤の他人、しかも女の人にこんなことをやらかしてしまう、本当に情けないやつだ。

「すいません、すいません、すいま…せん」

謝る声が小さくなると同時に心臓も体もどんどん萎縮していく。

するとポンッと肩を叩かれた。

「ほんと、大丈夫だって。急に近づいた私がよくなかった。過失割合は10対0。逆に高校生くんの方大丈夫?私は石頭ならぬ石顎だからなんともないよ。バスケやっててなんども顎にボールぶつけてたから」

「俺も石頭なんで平気です」

「そしたら切り火で、厄介ものが吹き飛んだね!ほらっ」

そういって女の人は男子トイレの方向に指を指した。
指差した方向のその先に視線を向けるとさっきの大柄中年男性が男子トイレからでてきたところだった。
それが何かと目を泳がせていると、耳元で「チャック」と囁いた。

少し耳がそわそわしたが一呼吸で平常心を取り戻し中年男性の下の方に目を向けた。
ものの見事に社会の窓のが開け放たれ中の水玉模様のボクサーパンツが露になっていた。

「開いてますね、清々しいほどに」

「開いてるね、最&高」

顔を見合わせると心の底から笑いが込み上げてきて二人ともぷっと息を吹いた。

「鉛は消えたかな」

「えっ…」

気付けば重たい鉛はどこかに消え去っていた。
さっきの自然な笑み。
あれは本当に心の底から嘘偽りのない真の心情だった。

「俺、まだ笑えるんだ」

あまりの動揺に無意識に口からこぼれでてしまっていた。
慌てて掬い上げるように右手を口元にあてる。
そんな俺を横目に女の人はニヤリと笑う。

「高校生くん、世の中捨てたもんじゃないよ、じゃあね」

「あ、ありがとうございま…」

俺の言葉は聞こえただろうか。
一つ結びをした長い髪を左右に揺らし、右手で爽やかに手を振ると人混みの中にまみれ姿が見えなくなっていく。

雑音が渋滞する構内の中であの人の力強いパンプスの音だけが俺の耳に響いていた。

「世の中捨てたもんじゃない…っか」

あの人が歩いていった方とは逆方向に足先を向け歩きだす。

帰宅ラッシュの下り電車。
電車の到着が10分後だというのにホームの半分、一つのドアに7、8人がもう列になって並んでいた。

山ノ手線のように2、3分できてくれるような区間じゃないから仕方がないが、近郊都市勢の多さをなめてもらっては困る。

特に意味もなく、スマホをいじっていると電車が到着した。

並んだのは後ろの方だったためそもそもが満員電車のところに入りきれるか微妙なところだった。
ギリギリ乗れそうだと一歩を踏み出したときだった。

「邪魔だ」

ドンと勢いよくぶつかられホームドアの外に突き飛ばされた。

そして、ピロンピロン…っとドアが閉まる。

俺を突き飛ばした空き缶を持ったじいさんが鼻で笑うように俺を見下した目で俺に視線を向けていた。
周りの社会人は哀れむような目で俺を見ていた。

そういう目が嫌いなんだよ。

「世の中捨てたもんじゃないよ…か」

俺にはその意味がやっぱりわからなかった。

その後20分、電車がくることはなかった。