俺は、今、朝凪先輩の……『Negoto』の配信部屋にいる。
あまりにも現実離れしすぎていて、またしても夢なのではないかと疑ってしまう。
人の家のにおいにも、格ゲーに使う機材や、これまでの大会で入賞した時の小ぶりなトロフィーも丁寧に飾られているこの雰囲気にも、気持ちが落ち着かない。
飲み物を取りに行ってくるからと1人にされてしまったことも相まって緊張状態が最高潮になっている。どうにか意識を逃すため、どうしてこうなったんだっけと思い返してみることにした。
* * *
事の発端は自己紹介をした入部体験初日。
机に頭をぶつけた後、なんとか普通に話せるようにはなったものの、当たり障りのないゲームの話をしながら、アケコンの調子を確認した。
するとある程度動きはするものの、レバーで一部が反応しないことがあって、そのままその日はトレーニングモードで朝凪先輩と紺野がコンボ研究や練習をするのを見せてもらうだけになってしまった。
でも、配信だと対戦画面を見ているだけだったが、実際には忙しなく手指が動いていて、2人がどれだけ難しいことをやってのけているのかを知る良い機会になった。
だからこそ、コントローラーの一部が上手く反応しないことに渋い顔をしていた先輩の気持ちも理解できた。管理ができていなかった自分に対しての憤りもあったのだろう。
【Negoto】今週末、僕の家に来ない?今日のお詫びというか、家にあるアケコンならこまめにメンテナンスしてるから、安心して触らせられると思ってね
そんなチャットが来て、落ち着いたはずの心臓がまた跳ねた。
【伊熊】お詫びされるようなことは何も……寧ろ、先輩の手に頭を守ってもらった俺がお礼をするべきといいますか、してほしいことがあれば何なりと
【Negoto】伊熊くんのは気にすることじゃないのに。してほしいこと……それこそ、僕の家に来てほしい
【伊熊】どうしてそこまで家に来てほしいんですか?
チャットを打ち込んで、変なところで強情な人だという思いをのせてジトリと先輩へと視線を向けた。
「伊熊くんに期待してるから」
真っ直ぐな眼差しに、真っ直ぐな言葉が刺さって、思わず目を逸らしてしまう。
自分が『Negoto』のリスナーでありファンであることを話していないから、先輩が俺の気なんて知るわけもないのだが……それにしたって、そんな言葉を投げかけられたら誰だってドキリとしてしまう。
配信を視聴していて思っていたが、カリスマ性も見え隠れしていて。でもきっと本人は無自覚なのだ。
と、何やら視線を感じてその方向を見てみると、ノイズキャンセリング機能付きのヘッドフォンを装着したまま、紺野が冷ややかな目をこちらに向けている。
自己紹介の時から面白くなさそうな紺野の表情や態度を不思議に思っていたが、ここで何となく察しがついた。それが全てではないと思うけれど、朝凪先輩が初心者の俺に目をかけるのが不服なのだ。
例えるなら、一人っ子だった子供のもとに、突然弟だよと見知らぬ赤ん坊が現れて、赤ん坊は何もできないからと最優先にお世話をされて、一人っ子だった子供が疎外感を感じてしまうような。
とはいえ、例えでは子供だったけれど、高校生にもなれば分別もついて大人一歩手前なお年頃なわけで。あからさまに不服を露わにするのはナンセンスだと、紺野の態度に対して、変に対抗心が芽生えた。
朝凪先輩は良かれと思って招待してくれている。先輩の期待に応えて、格ゲーでの実力をつけることで、やたらと敵対視してくる紺野を見返してやろうと心に決めた。
【伊熊】分かりました、行きます。時間と待ち合わせ場所を後で相談しましょう
* * *
つまらないプライドでこうなったのだと再認識して、大きなため息を吐く。同学年である以上に、不思議と紺野にシンパシーを感じる部分もあって、どうしてだか張り合いたくなってしまうのだ。
紺野を子供みたいだと思っている自分自身も、大概子供なんだろう。
「お待たせ。膝、崩しても良かったのに。痛くない?」
「あ、無意識でした。あんまり人の家にお邪魔することがなかったんで、緊張しちゃって……いてて、ちょっと痺れてます」
「あはは、今からでも楽にして」
どうにか緊張を解こうと持ってきてくれたオレンジジュースを飲みながら、飾られている物を何とはなしに眺めてみる。
「ジュース飲んだら、早速アケコン触ってみる?」
「いいんですか?」
「その為に来てもらったんだし。そういえば、格ゲーは配信で見てるって言ってた……よね?」
ギクリとした。自分が『Negoto』のリスナーであることを告白するべきか悩んでいたのだ。配信者とリスナーは、他の形で言えば、アイドルとファンのような関係と言っても大差ないと思う。そんな身分差のようなものがある状態で、朝凪先輩にとっての城に入り込んでしまって良かったのだろうか。
家に招いてくれたのは朝凪先輩だけれど、自分が元々リスナー、ファンであることはここまで言い出せずにいたことに、少し罪悪感を覚える。
「先輩、俺は……『Negoto』さんの配信をずっと観てきた、リスナーです。今まで言い出せずにいてすみません……そんな状態のままここまで来てしまったことに罪悪感があって、でも、純粋に後輩としての嬉しさもあります」
咎められるなら、追い出されるなら早い方がいい。
意を決して言ってみたものの、幻滅されたり、引かれるのが怖くて先輩の顔が見れず、コップにくっついている水滴を眺めている。
それなのに——
「何か問題ある? 部活のメンバーはみんな知ってるし」
あっけらかんとそんな返事が返ってきたことに驚いて思わず顔を上げて、先輩の表情を見てみてもポカンとしている。
言いたいことが募りすぎて捲し立ててしまいそうになるのをグッと飲み込んで、スマホを手にすると爆速でフリック入力を進めていく。
【伊熊】俺以外の部活メンバーって大会での顔見知りなんですよね?俺はそうじゃない、一般のリスナーな点で違うじゃないですか。Negotoのストーカーとかだったらどうするんですか?
送信するのも面倒で、文字を打ち込んだ画面をそのまま先輩の目の前に差し出した。
「伊熊くんって僕のストーカーなの?」
「そんなわけないじゃないですかっ、清く正しく推してるだけです」
「じゃあ、やっぱり問題ないよね」
「ああもう……朝凪先輩がいいなら、いいんじゃないですか。まあ、身バレさせるようなことはしないので、安心してください」
「あはは、それは有難い。なんだか懐かしい感覚……実は、紺野くんも今はあんな感じだけど、初対面の時は今の伊熊くんみたいな感じだったよ。ファンです握手してくださいって緊張してて可愛くて……いつの間にか、距離ができちゃったけど……」
紺野のことを思い出しながら話す先輩は、擽ったそうな笑顔から寂しげな表情に切り替わるまでがスローモーションでエモーショナルに見えて、そんな風に語ってもらえる紺野が少し羨ましく思えた。
俺はeスポーツ部内では圧倒的に関係値がないのだから仕方がない。
今の先輩は、その溝を必死に埋めようとしてくれているように感じる。
「伊熊くん、他に予定は?」
「特にないです」
「それなら今日はアケコン選びと、キャラクター選び、基礎まで一気に教えてもいい?」
「はい、よろしくお願いします」
今日の朝凪先輩は自宅で、配信している慣れた環境だからか、ほとんど淀みなく会話できている。その為、朝凪先輩というよりも『Negoto』と対話しているような感覚になって、ちょっとしたことにドキドキしてしまう。これはもう、恋心なのではと勘違いしてしまいそうになるほどに。
「ちょっと失礼」
「へっ」
不意に手を取られたかと思えば、お互いの手のひらをぺたりとくっつけられて、突然のことに何が何だか分からず驚く。
先輩の手は温かくて、自分のと比べてほんの少しだけ大きく、柔らかい。ただ、ボタン操作を行う親指の一部だけは、質感が違っていてそれまでの努力がそこに詰まっているようだった。
思わずその部分を人差し指で触れる。
擽ったかったのか、先輩は一瞬小さな反応を見せて、目が合うと同時に手が引っ込められてしまった。ちょっぴり名残り惜しい気持ちになっている自分がいて。
「あ、き、急に触れて……ごめん。その、あ、アケコン……えっと、ボタン配置……指届くかなとかっ」
「何をそんなに動揺してるんですか。ちゃんと声掛けて触れてくれたし、必要な確認なんでしょう? 嫌じゃないですから」
「そ……そっか、それなら……良かった、けど」
何なんだこの急な甘酸っぱい雰囲気!
よくよく考えてみれば初めて部屋に入ってドキドキするとか、2人きりなところとか、手の触れ合いだとかって、少女マンガとか恋愛ドラマで観るそれじゃあないか。
変に意識してしまいそうになる。
「先輩、アケコンってこの辺りから選んでいいんですか?」
「う、うん」
空気を変えようと、壁に掛けられるように飾られているアケコンから、ボタン配置が一番しっくりくる物を選んで先輩に差し出した。
それが先輩のゲームスイッチが入ったようで、そこからはキャラ選択、どのボタンでどんな技が出るのか、どんな動かし方をしたらコンボが繋がるようになるのかをトレーニングモードで繰り返し教えてもらいながら、練習した。
* * *
トレーニングモードである程度の動きが手に馴染んできて、実践で通用するのかランクマッチでいろんな人と対戦することになった。
ある程度のランクまでは連勝で進んでいけたが、キャラ相性の悪さや、ランクが上がっていく毎に相手の技にも翻弄されることが増えていく。
対戦中、先輩は横でジッと見ていて、対戦が終わると対戦中の様子をゲーム内機能で動画再生しながら反省会をする。
「ここでこのコンボ選択も悪くないんだけど、ガード後に相手の出したこの技の方がフレーム有利だから、それよりはゲージ削ってでもこっちの技を出した方が踏み込ませない状況を作れる。次に繋げるこの技でゲージは――これは確反取れてるから――」
先輩は、途中で止めながらその場面の流れに合わせての説明をしてくれるけど、初心者の俺からするとまだちゃんと覚えていない言葉もあって、内容が右から左に流れていって半分も理解できない。日本語で話してくれているのに外国語で話しかけられているようにも感じてしまう。
もう一度、動画の内容と理解できた部分を頭の中で反芻することでやっと、先輩が話していた内容が理解できるのだ。
ああ、そうか。
先輩のローディングの正体はこれなんだ。
先輩は毎日この苦労をしている。
話している相手が多いほど複雑に。
当たり前だと思っている人には分からないものだ。
思った以上の不安感、ちょっと待ってとも言い出せない喉の詰まるような感覚も、言葉が流れていくのに感情は受け取れてしまうから、分かっているフリをしてどうにかするしかない……全部じゃないまでも知ってしまった今、ごく最近知り合った分際で知った気になるのも烏滸がましいかもしれないけれど、理解者として隣にいたいと思った。
俯いていたところからゆっくりと顔をあげ、視線が合うと、先輩の表情が心配している時のそれになる。
「ごめんね、一気に説明しすぎた……それに、ずっとプレイしてたから疲れたよね。休憩しよう」
「はい……」
先輩はさっきの視線を、ゲームの内容に追いつけずに俺が凹んでいるのだと受け取ったようだった。半分正解で、半分不正解。
でも、今思ったことを正直に話してしまうには、やはりまだ関係が浅い気がして言葉にできずにいる。
「伊熊くんは楽しみながら頑張る才能があると思う」
先輩はボタン操作していた方の手を取ると、両手で包んで温め、少しすると今度は指を一本ずつ手の平から指先に向けてマッサージし始めた。ここで初めて自分の手が強張っているのを自覚する。
「こんなに長い時間、同じような動き繰り返したことないから、あんまり感じたことなかった。ボタンに指を置いた状態の形で固まっちゃうんですね」
「途中からコンボミス増えたでしょう。入力したつもりでも、指が緊張して押し込んだ判定までいかない時に起こったりするんだ。だから、こういうマッサージも、大事」
朝凪先輩の顔の近くまで持っていかれた僕の手は、先輩の温かな吐息で包まれ、スラリと長い指で部分毎に圧迫されていく。先輩自身がハンドケアにも気を使っているのか、柑橘系の香りも漂ってきて……むずむずとどうにも落ち着かない気持ちになる。
指をほぐされる度に、俺の心の中の憧れのヴェールが剥がされ、別の形を自覚してしまいそうだ——
「せ、先輩? だいぶ解れて、擽ったいくらいになってきました。マッサージありがとうございます」
先輩の手をもう片方の手でやんわりと制止してすると、もういいの?と先輩の目が訴えかけてくる。
これ以上してもらった先、尊敬や憧れが全て剥がれ落ちた全容を知ってしまうのが——まだ怖い。
