バスケットボールが好きだった。
他に特にやっていた事もなかったから、特技や趣味は何だと聞かれればバスケットボールですと言うしかないくらいには、小学生の時からそれだけを続けていた。
それなのに……中学2年生の時、3年生の引退試合の途中でコート上に落ちた汗で滑った相手チームのプレイヤーともつれた状態で転び、膝と腰を負傷した。
不可抗力だったとはいえ、3年生の引退試合という大切な場面に泥をぬってしまった気分になったし、部活としては続けていけないだろうと診察した医師に言われた事で、俺にはもう何も誇れるものがなくなってしまったと無気力になった。
家と学校と、リハビリをしに病院に通うだけの日々。
昼休みに校庭ではしゃぐ生徒の声を聞くのが辛い日だってあった。
そんな俺を救ったのは、偶然見つけた格ゲー配信者の『Negoto』
格闘ゲームはゲームセンターで友達に誘われて少し触る程度だったものの、技のコンボが繋がっていくのをかっこいいと感じたり、相手の攻撃をガードできた時の気持ち良さは知っていた。
でも、配信で見た格ゲーの画面はもっと綺麗で鮮やかで、『Negoto』が操るキャラクターは画面の中を自由自在に動き回っていた。
もしかすると、そこにバスケットボールを楽しんでいた時の自分自身を重ね合わせていたのかもしれない。
複数いる相手をどう掻い潜るか、ボールを誰に回せばゴールに繋がるのか、フェイントは効くか——周囲から見ればほんの一瞬でも無数の選択肢から少しでも点数になる択を選び取る為に練習で経験を積んで、対策をする。同じだと思った。
体を動かさずとも、同じように熱中できそうなものがある。
その事実が、何もないと感じていた俺にとってはこれ以上ない希望の光になった。
そして、もう一つ。俺は『Negoto』の声や、上手くいかなかった時に文句が出てしまいそうなところで、人を傷つけない言い回し、自分自身の改善点を話す、そんな人柄に尊敬の念を抱いた。
* * *
「航輝! 早く起きなさい。今日は高校の入学式なんだから」
母親の声でハッと目を覚ました。
暖かな日差しが窓から差し込むが、ほんのり冷たさの残る空気が立て付けの悪い部屋のドアの隙間から侵入してくる。
握ったままだったスマートフォンのボタンを押して時間を確認すると、6時を少し過ぎていた。そのままスワイプして画面を開くと、『Negoto』の配信アーカイブが表示される。
「配信見ながら寝落ちしたのか……それで夢にまで」
もう感じる事はないと思っていた『Negoto』に出会った瞬間の感動が、あの日と同じ鮮度で胸の中をじんわりとあたためている。
それだけで今日一日、いい日になると決まったように思えた。
* * *
真新しいシャツやブレザーはまだ体に馴染んでいなくて、サイズは大きめのはずなのに少し窮屈に感じる。
シャツの襟元をしきりに気にしながら、俺は全ての行程が終わり人が少なくなった校内をのんびりと散策していた。
入学式の片付けに駆り出されていた生徒とすれ違った後、まだ午前中の時間帯で大きな窓から差し込む光が舞い上がった埃をキラキラと光らせている。ドラマだったら何かロマンチックなことが起こりそうなワンシーンになりそうだとぼんやり考えていた。
——ドンッ
鈍い衝撃が背中に走った。
「ご、ごめんなさい……掲示板、見てて……その、ぶつかって。えっと、大丈夫……ですか?」
「俺もぼーっとしてて、すみません」
手に何枚か紙を持ってあたふたとしている男子生徒、恐らくは先輩なのだろうが、あまりの焦りようにこちらの方が落ち着いてしまうほど。
自分とそう変わらない、男子の中でも高身長の部類に入るはずの体躯に見合わない小さくポソポソとした声から自信のなさや、不安が垣間見えた。
彼が一言発する度に頭の中で言葉を探しているようなテンポ感。例えるなら動画を見ている途中で通信回線が悪くなって、こまめにローディングが入ってしまう感覚で、どうにもソワソワして落ち着かない気分になる。
「ぶつかったのはお互い様なんで、気にしないでください」
会釈でもしてその場を立ち去ろうと思ったのだが、彼の手にある紙が気になって言葉を続けた。
「その、手に持ってる紙って何ですか?」
「あ、え? えっと……1枚どうぞ。部員……募集してて」
受け取った紙を見てみると「eスポーツ部‼︎格ゲー、FPSのプレイヤーが在籍」というデカデカとした文字が目に飛び込んできた。ふと頭に浮かんだのは『Negoto』で、今朝の夢は何かの思し召しかと錯覚してしまいそうになる。
「格ゲー……」
「興味ある?」
先ほどの自信なさげな小さな声ではなく、随分とクリアな声が返ってきた。それだけでなく、何故かほぼ毎日配信やアーカイブ動画で耳にしている『Negoto』の声のように聞こえてしまって、さっきとは違う意味で落ち着かない。
何か喋った方が落ち着くかもしれないと無理やり言葉を探した。
「興味はあるんですけど、初心者でも入部できますか?」
「うん、大歓迎」
「先輩?は、どんなゲームをしてるんですか?」
「僕は、格ゲー。だから興味持ってくれて、嬉しい」
手に持った紙の「格ゲー」と書かれた部分を指さして丁寧に教えてくれる。その指から手、腕と辿るように視線を上げていくと、表情を見る頃には先ほどまでの自信無さげな様子は消えていて、言葉通り、嬉しそうに微笑んでいた。
自分の得意分野であれば会話が弾む人がいる。もしかすると、この先輩もそういうタイプの人なのかもしれない。そんな小さな発見が少し嬉しかった。
それに短く、はい、いいえで答えられるような質問であれば、コミュニケーションに支障はなさそうだ。
「これから見学に行ってもいいですか?」
「うん、是非! 活動場所は、すぐ近くのパソコン室だから」
あ、今度は少し長めの文章でも流暢に話している。
上手く話せない時と、上手く話せる時の差は何だろう。
頭に浮かぶ疑問は先輩に関して上手くコミュニケーションをとるにはどうしたらいいのかを模索しているようだった。自分がどうしてここまで、初対面で、まだ名前も知らない先輩を深く知ろうとしているのか、この時は全然分からなかった。
思い当たるとすれば、先導する先輩は言葉を交わさないまでも、時折振り返ってはちゃんとついて来ているか、自分の歩くペースが早過ぎないか確認しているように見える。その細かな気配りや、声の向こうに、不思議と『Negoto』に通じる何かがあるように感じているのかもしれない。
まだ共通点は“格闘ゲームをしている“という一点だけなのに、とも思う。
さっきまで居た靴箱や職員室、掲示板がある場所は校舎の中央に位置していたが、そこから校舎の端の方まで歩いた場所にパソコン室はあった。
ドアの前には腰くらいの高さで、横に長い靴箱が備え付けられている。先輩は上履きを脱いで、空いている場所に押し込むとパソコン室の引き戸を開いた。
「怜(れい)、戻りが早いな。ん? おいおいおい、ポスター全部持って帰ってきてんじゃねーぞ」
出入り口のドアに近い場所に居たらしい部員の低い声が響く。
ぶっきらぼうな言い方ながら、親しみからくる荒さを感じつつ、声の迫力には圧倒される自分がいる。先輩にならって空いている場所に上履きを押し込んでから、パソコン室をチラリと覗き見るが壁際の方に部員たちが座っているようで、かちゃかちゃとキーボードやマウスを動かしている音だけが聞こえる。視覚情報は無数のモニターがあることくらいだ。
「これは、違くて……えっと、新しい部員…………というか、見学。ポスターは……後で、また」
「見学? それなら明日の方がよかったんだけどな。とりあえず怜も、見学の奴も中に入って」
姿は見えない相手のその声の後、怜と呼ばれた先輩がにこりと目配せをして中に入るように促される。
先に中に入って、声のしていた方へ目をやると、175cm以上はある自分でも見上げてしまうほど大きな人物が立ち上がって待っていた。
「初めまして。eスポーツ部の部長で3年の牛木快晴(うしきかいせい)。よろしく」
声だけ聞いていると威圧的に感じてしまっていたが、にこりと笑顔を浮かべて握手を求められると、途端に爽やかで人懐っこい大型犬のような雰囲気になって少し緊張が解れた。
差し出された手を握って、簡単に自己紹介と挨拶をする。
「今日入学した、1年の伊熊航輝(いくまこうき)です。よろしくお願いします」
「名前、どんな漢字だ? ポスターの裏にでも書いてみて」
牛木先輩からボールペンを差し出されて、手に持ったままだったポスターの裏に漢字で自分の名前を書いていく。
「伊熊……航輝。あ、僕まだ…………えっと」
傍で見ていた、案内役の先輩が俺からボールペンを受け取ると丁寧な字で「朝凪怜 あさなぎれい 3年生」と書いてくれた。
自分の鼻先と文字の朝凪怜を交互に指し示してニコニコと自己紹介してくれるのが新鮮で、朝凪先輩特有の愛嬌のように思えてきた。
「怜、自己紹介もなしに連れて来たのかよ。お前らしいわ」
「ご、ごめん……」
「熊、もう一点申し訳ないんだけど、今日の部活時間が入学式ってこともあって短縮されてて、もう少ししたらここ戸締りして帰るんだわ。活動内容の見学は明日の放課後に頼む。LINEかDiscordのアカウント持ってる?」
「どっちもあります」
「じゃあ、一旦LINEのQRで友達登録しよう。正式に部活に入るってなったらグループとDiscordの方に招待する流れで大丈夫か? そういや、熊って呼んじゃったけど呼び方もそれでよさそ?」
「はい、大丈夫です」
牛木先輩がスムーズな流れで状況説明や、今後の流れを話している横で、朝凪先輩はその様子を眺めていた。やや時間を置いてから声にならない声を発して、頭を抱えてしゃがみ込む姿にびくりとする。
「今日が短縮って忘れてて、熊を連れてきたことを反省してんだよ」
「ああ、そういう」
「こんなんだけど良い奴だから、仲良くしてやって」
コントのワンシーンのような展開に笑いが堪えきれず、肩を揺らしながら返事をすることになってしまった。
「ンフッ……ふふ、はい、是非とも」
「……ごめぇん」
「いい自己紹介になったじゃねーか。そうそう、明日は部員全員揃う予定だから、他のメンツに関してはその時に紹介する」
俺の入学初日は、そんな賑やかなものになって、新しい高校生活が俄然楽しみになっていた。
* * *
夜。夕食を食べ終えて、風呂を済ませ、自室へと向かうタイミングでスマホの通知が入る。
最新の通知として表示されたのは『Negoto』の配信開始を知らせるものだった。
ベッドにごろりと横になって、ワイヤレスイヤホンを耳に装着して、通知から配信アプリを開くと、ランクマッチではなく、トレーニングモードでコンボ練習をしながら雑談をメインにする予定らしい。
『リアルの話だから、あんまり詳しくは言えないんだけど。今日、格ゲー初心者の人に声を掛けてもらったんだよね』
偶然だろうか?
今日、自分が朝凪先輩に「初心者でも入部できますか?」と訊ねたことと重なったように感じてドキリとする。
『誰だって初心者だった時期があるわけじゃん。興味を持ってくれただけでも嬉しくて、舞い上がっていろいろテンパってヘマしちゃったんだよね。もっと上手く対応できたら良かったのにな……ちょっと反省でした』
イヤホンから聞こえてくる声が、昼間の校舎、掲示板前で朝凪先輩が「興味持ってくれて、嬉しい」と話したあの場面と重なる。
そこから配信が終わるまで開きっぱにしていたのに、雑談の内容も、格ゲー練習の内容も全然頭に入ってこなかった。
朝凪先輩と『Negoto』が同一人物かもしれないと考える自分と、話し方があまりにも違うではないかと考える自分が一生争っていて、なかなか寝付くことができなかった。
