金銭を出せ

 深夜、星影の一つも瞬きはしない都会の闇空に墓石の如く突き刺さる高層ビルの片隅にある、とある企業のオフィス。静まり返った薄暗いフロアに、鋭いタイピング音だけが響いていた。その音が、ピタっと止まる。代わりに流れてきたのは女の嗚咽。
「うう、終わらない……終わらないよ……こんなの、朝までになんて、絶対に無理だよ……」
 泣きながら独り言を漏らすのは、その企業の営業部に所属する東条サクラ(女性・24才・仮名)である。彼女は命じられた仕事を期限までに終わらせようと必死に頑張っていたが、いつまで経っても終わらない。どう考えても明日の提出期限には間に合いそうになかった。それに気付いたショックで涙を流しているのである。
 これが雑な人間だと面倒になって上手い言い訳を考える方へ流れるのだが、そこは真面目な人間のサクラの美点が裏目に出て、一心不乱にやっても駄目なことが彼女の心を痛めつけてしまう。
 自分のせいで会社に迷惑を掛けるのは申し訳ない……と思い詰めるほど精神的に追い詰められたサクラは、明日にも退職届を出そうと考えた。すっかり仕事を忘れ、退職届の出し方についてスマホで検索し始めていた、そのときである。
 サクラしかいないはずのオフィスに、鋭い女の声が響き渡った。
「あーあ、またこれ。残業代は『みなし』、手柄は上司、責任は部下。この会社、本当に腐ってる」
 声のする方を見る。そこに立っていたのは先輩のノベマコ(女性・年齢不詳・仮名か本名←どっちだ)だった。
 ノベマコは、山積みの書類を前にため息をついた。
「可哀想に、これを独りでやるなんて、無理だって。よし、私に任せな」
 そう言うとノベマコはサクラの机に置かれた書類の分厚い束をつかんだ。
「手伝ってくれるんですか?」
 喜びを声と顔に出すサクラの目の前でノベマコは、何処からともなく取り出したライターで書類の束に火を点けた。
「あ~!」
 悲鳴を上げるサクラを尻目にノベマコは銜え煙草を書類の炎に近づけた。そして深々と紫煙を吐き出す。
「あんたも吸う?」
「吸いません! ていうか、ここ禁煙ですよ! そんなに燃やしたら火災報知器が反応しますって!」
 ノベマコは壁際に置かれた観葉植物の根元に燃える書類を置き、その前に仁王立ちした。スカートを捲る。そして、股の間から水を出し、消火を完了させた。
 唖然とするサクラへ、ノベマコは肩越しに言った。
「この書類、部長のスターツ(仮名)がやれって言ったやつでしょ。こんな書類、真面目にやることないから。全然、意味ないから」
 意味が分からず、サクラは尋ねた。
「大事な書類だと、スターツ部長は仰っていましたよ? 明日までに終わらせないと、大変なことになるって」
 用を終えたノベマコがスカートを直しながら振り返った。
「そのスターツが大変なことになるから、いいの。さあ、帰った帰った。後は、この私に任せて!」
「え? でも、どうして?」
 戸惑うサクラにノベマコは札束を手渡した。グスリと笑う。
「これ、残業代と迷惑料。受け取って」
 サクラの顔が強張る。
「こんなの、受け取れません!」
 その手に札束を押し付け、肩をポンと叩き、ノベマコは言った。
「これは口止め料でもあるの。お願い、受け取って頂戴」
 サクラは、どうしてよいのか分からなかった。
 ノベマコは社内で「冷徹で協調性のない問題児」と噂されている。定時になれば仕事が残っていても帰る。上司の説教は無視。同僚の愚痴には「時間の無駄です」と言い放つ。一見、極めて自分勝手で常識外れな女。それが彼女の表の顔だった。
 だが、ノベマコにはもう一つの顔がある。
 夜の街で「未払いの代償」を強制徴収する、裏の回収屋(ブラック・コレクター)それがノベマコの裏の顔だった。
「私は、これから一仕事あるの。あなたを苦しめている、あのスターツって悪党をシメてやるのよ――あなたには、迷惑が掛からないようにしたいから」
 優しげだが、有無を言わさぬ口調だった。サクラは不安を抱きつつオフィスを出た。札束は受け取らなかった。ノベマコは返された札束を懐に戻すとサクラの椅子にドッカリ座り二本目の煙草に火を点けながらスマホを操作した。
「さて、ターゲットの今日の様子は……」
 ノベマコが画面を見つめる。そこには営業部長のスターツが部下にパワハラをしている姿が映っていた。酷い言いがかりをつけられた社員が、泣き崩れている防犯カメラの映像だ。スターツは部下の営業成績を自分のものにし、さらに「従わなければクビだ」と脅している。脅された部下は泣く泣く従っていた。
「自分勝手に生きられない弱者を、システムが踏みにじる。ああ……胸糞悪いったら、ありゃしない」
 ノベマコは冷たく微笑んだ。彼女の信念は一つ。「奪われたものは、百倍にして奪い返す」。そこに慈悲や倫理、法律の常識など存在しない。
 偽のパスワードでサクラのパソコンを操作しスターツのログイン状態をチェックする。現在も使用中だった。
 ニヤッと笑ってノベマコは呟いた。
「良からぬ残業、ご苦労さん」
 その時スターツ部長は、誰もいない役員室で一人、不正な裏金口座のデータをいじっていた。彼は会社の金を横領し、それをすべて部下たちのミスに見せかけて処理していたのだ。
「へへ、これで今月も億単位のボーナスだ。あの能無しの部下どもめ、一生俺のために這いつくばってろ」
 スターツがほくそ笑んだその時、役員室の電気が一斉に消えた。
 暗闇の中、赤いLEDだけが不気味に光るスマートフォンが、スターツのデスクの上で振動した。
『もしもし、スターツ部長。悪いことすんのは、今夜で終わりだからね』
 スピーカーから聞こえたのは、変声機を通したノベマコの声だった。
「だ、誰だ!悪質な悪戯は止めろ!」
『悪戯? いいえ、これはただの『等価交換』の請求です。あなたが今まで部下から奪った時間、尊厳、そして会社の金。すべて計算しました……ふふふ、もう終わりですわよ』
「な、何を言って――」
『あなたの隠し口座から、先ほど1億2千万、全額引き抜きました。ついでに、その横領の証拠データと、日頃のパワハラ音声の詰め合わせを、全社員のメールアドレスと警察の通報フォームに一斉送信しておきました』
「な、なんだと!?」
 スターツが慌ててパソコンを開こうとするが、画面には「GAME OVER」の文字と、ノベマコのトレードマークである黒い蝶のマークが表示されるだけだった。
「お前、一体何者だ! こんなことをして、タダで済むと思っているのか! これは犯罪だぞ!」
 顔を真っ赤にしたスターツの怒号に対し、スピーカーの向こうの声はくすくすと嘲笑うように響いた。
『犯罪? ええ、そうですね。私は悪ですよ。でも、あなたのような『合法的な悪魔』を裁くには、これくらい常識外れな悪でなきゃ意味がないでしょう?』
 その直後、役員室の扉が勢いよく開いた。
 入ってきたのは、警備員と、緊急連絡を受けて駆けつけた社長、そして警察官たちだった。
「スターツ! お前、本当に横領を……!」
「ち、違うんです社長! これは罠で、誰かが俺のパソコンを――」
 スターツは言い訳を叫びながら、無残に連行されていった。
 翌朝。
 会社はスターツの逮捕と、サクラをはじめとする部下たちへの適切な補償の発表で大騒ぎだった。
 サクラは涙を拭い、前を向いてデスクに向かっている。
 ノベマコはいつも通り、定時の1分前に出社した。周囲の社員たちがまだ事件の噂話で持ち切りの中、彼女は一切興味なさそうに、お気に入りのブラックコーヒーを一口すする。
「ノベマコさん、聞いた!? スターツ部長が逮捕されたの! 誰かが告発したみたいで……」
 同僚が興奮気味に話しかけてくるが、ノベマコは冷淡な目で一瞥した。
「興味ありません。それより私のデスクの書類、邪魔なんですけど。片付けてもらえます?」
「相変わらず冷たいなぁ……」と苦笑いして離れていく同僚。
 それに代わって近づいてきたのはサクラだった。彼女は無言で頭を下げ、それから小走りで自分のデスクへ戻った。
 その背を見送ったノベマコはフッと口元を緩め、パソコンの画面を起動した。一見、冷酷。一見、悪。しかし、彼女が踏み荒らした戦場には、確かな救いと正義が残される。
「さあ、今日の定時までは、真面目なOLごっこを始めましょうか」
 黒いヒロインは、今日も誰にも知られず、静かに牙を研いでいる。