みーんみーん、と窓の外で合唱する蝉の声。昔に比べたらずっと静かになったように感じる。温暖化が進んで、暑すぎると鳴かない蝉もいるらしい。ニュースで言っていたことを頭のなかで反芻しながら、映汰は放課後の視聴覚室でひとり、席に座って頬杖をついていた。
七月も後半、夏休み目前。きょうは一学期最後の映画研究部活動日だった。それなのに、カーテンも閉めずプロジェクターの電源もつけず、借りてきたDVDは机の上に出しただけ。刻々と、時間だけが無為に過ぎていく。
笹生が、映画研究部を辞めた。
あの課外活動日の、次の金曜日。恐怖耐性が多少ついた笹生向けに映汰がチョイスしたDVDを一緒に観て、また潰されん勢いで抱きつかれた。鑑賞後、片付けの最中に映汰からめずらしく、来週はなにがいい?と尋ねた。返ってきたのはリクエストではなく、来週からバスケ部に復帰する、と。決定事項のようだった。
なんで?も、どうして?も声が出なくて聞けなかった映汰を見抜いたのか、笹生は自分から話し始めた。
『麦野が、映画は好きだから好きって言ったじゃん』
『あれ聞いてさ、俺も、バスケがまだちゃんと好きだって思い出せたんだよ』
あんな特別でもなんでもない、そこらに転がっている石ころと大差ないひとことが、彼の琴線にふれたらしい。冬の大会に向けた練習が夏休みから本格的に始まる。だからもう金曜日は、ここには来ない、と。穏やかな表情の裏にさみしさが見えたから、映汰はなにも言えなくなってしまった。
それから、二週間が経った。
別に、笹生が映研に来なくなっても、関係がすべて終わるわけじゃない。オフの日はまた遊びに行こうと話をしたし、連絡先も交換してある。ただ、そうじゃない。そうじゃないのだ。
あの偶然がなければ、たぶん映汰と笹生は出会うこともなかっただろう。クラスも、性格も、属しているグループも、部活もぜんぶ違う。ふたりを繋ぎ止めたのは金曜日と映画だった。
先週はひとりで借りた新作を観たが、内容をうっすらとしか覚えていない。話が進むたび、笹生だったらいまのところで飛び上がるだろうなとか。映画館での約束のやりとりとか、犬みたいな笑顔とか、一緒にいたときの記憶ばかりがカラフルに色づいていて。
(もうとっくに、ここは、)
ずっとひとりきりの劇場だった視聴覚室は、いつしか隣に笹生がいることが当たり前になっていた。そこにぽっかり空席ができたら、嫌でも理解してしまう。ひとりでいるには広すぎるのだと。
オフの日に会えたらいいなんて、ぜんぜん足りない。笹生のなかに映汰の存在が有る、それ以上に瑛太のなかはいつの間にか、笹生という存在でいっぱいだった。体じゅうが熱いのは夏のせいじゃない。さみしい、会いたい。大粒の雫が頬を伝い、ぼたぼたとDVDのパッケージに落ちる。目の奥が熱い。ああ、泣いているのか。もう否定しようがない。映汰は、笹生に恋をしていた。
「ゔ、ぅう……っ」
眼鏡も外さないまま突っ伏して嗚咽を漏らす。溺れた魚が地上で跳ねるみたいに、不規則にしゃくり上げた。泣き慣れていないから、悲しいときの呼吸のしかたなんて分からなかった。けれど泣いて泣いて、酸欠で頭が真っ白になると、鮮烈で痛いくらいの感情にも靄がかかり、気持ちの昂りがなだらかになっていくことを知った。
どれくらい時間が経ったのか、吸って吐いてもようやくふつうになってきた。ぐしゅぐしゅの洟をずずーっとすする。波立っていた心はやっと平常を取り戻しつつあるが、それでもさみしさがなくなったわけじゃない。ああもう、レンズの内側が涙でべちゃべちゃだ。なにも見えなくて眼鏡を一度外した瞬間、コンコン、と視聴覚室の戸がノックされる。
「!?」
突然、ましてやこのタイミングでの来訪に映汰は心臓を縮こまらせた。正直デジャブで、あの四月の光景も脳裏に過ったが、笹生は部活の真っ最中のはずだ。とにかく誰でも、この情けない面を見せるわけにはいかないと映汰は腕で乱暴に顔を拭った。まだ泣き濡れている声で精一杯ふつうを取り繕い、どうぞ、と映汰はノックをした誰かに呼びかける。がらがらと開いた戸の向こうに立っていたのは、いつも通りやつれている顧問の高橋だった。
「ハイ、お疲れ。なんか目赤いけど大丈夫か?」
「っ、花粉です」
「あ〜、イネ科は年中って言うもんなあ。大変なとこ悪いんだけど、ちょっと頼みごとしてもいい?」
腫れぼったい目、まだ赤くすんすん鳴っている鼻。ばればれの嘘を吐いたが泣いたあとだと気づいていないのか、高橋はほい、ピンクのノートを差し出した。映汰は受け取って、表紙に見つけた名前に目を見開く。
「これ、笹生の……」
「あいつしょっちゅう教科書とかノート、使った教室に忘れていくんだよ。これ届けてもらえないか?」
「……先生が届けたらいいじゃないですか」
「ヤダ!熊元先生怖いじゃん。無断であいつを映研に入れてたのもあるしさあ、怒られたら嫌なんだよ」
いい年した大人が駄々をこねている、あまりにも情けない理由に映汰は若干引いた。そしてやっぱり、笹生の臨時入部も熊元に無断だったらしい。ほんとうにちゃらんぽらんというか、なんというか。断る気力もなくなってしまった。
「……じゃあ、届けてきます」
「オゥ、テンキュー!最近笹生もぼーっとして元気ないから、あれだったらちょっと話してきたら」
グッバイ!と高橋は手を振って、仕事は終わったと言わんばかりにすたこら部屋から出て行った。流暢な英語に多少イラついたが、笹生のことのほうが引っかかる。元気がないって、そんなに練習がハードなのか。たしかに三ヶ月もこのゆるい映研にいたのだ。体が鈍って、遅れをとっているのかもしれない。
心配なのは本心だがタイミングが悪い。気持ちを自覚したばかりで情緒もごちゃごちゃで、会いたいけど会いたくない。こんな、さっきまで大泣きしてましたと丸わかりの顔面で!
「……顔洗お」
それでも受け取ってしまったものは仕方がない。腹を括って、すこしでも赤みをましにするために、映汰は廊下の水道へ向かった。
活気ある声とバッシュが床に擦れる音。体育館全体に響く叱咤とホイッスル。ハーフコートのなかを駆け、躍動するバスケ部の選手たち。その振動と熱を浴びながら、映汰は後方の入口から顔を覗かせて笹尾の姿を探していた。
どうやらいまはパスの練習をしているようだ。ディフェンスとオフェンスに別れて、ボールを矢のように飛ばしている。二階の大きな窓から差し込む容赦ない日差しもあり、体育館内の温度はどんどん高まっていくようだ。選手たちはもちろん映汰ですら、軽く額に汗を滲ませた。つ、と眉の上に垂れた塩水を拭って、またコートの方に視線を戻す。ちょうど誰かの手にボールが渡った。
(あ、)
いた。この二週間、会えなかった男が。笹生はオフェンス側のようで、ゴール下で彼より身長の高い生徒ふたりに行く道を阻まれていた。一瞬で周りの状況を確認すると、俊敏なドリブルで一気にふたりを躱して踏み込んだ足で軽く飛び、ディフェンスからマークの外れていた選手にボールを投げた。綺麗な放物線を描いて宙を泳いだオレンジ、短くて黒い髪がふわっと風を受ける。どうしよう、死ぬほどかっこいい。映汰がノートのことを忘れて釘付けになっていると、コートの角にいた熊元が電子ホイッスルのボタンを押す。ビーッと警報のような音が鳴った。
「次シュート!用意ー!」
指示に負けじと、選手たちは声を上げスリーポイントエリアに散らばる。シャツの襟元で汗を拭いながら、笹生もそこに合流した。皆、お互いのタイミングを読みながらシュートを打つ。リングに吸い込まれていくボールは見ていて気持ちがいい。そして、笹生にボールが回ってきた。
ドリブルを数回、キュ、と床が鳴って止まる。ゴールを見据え腕を上げて──綺麗なシュートフォームから、ボールは放たれない。尋常じゃない汗、顔から血の気が引いている。笹生は、石像になったみたいに固まっていた。すぐに他の部員が笹生に駆け寄って、肩を支えられて熊元のところへ向かう。ひとことふたこと会話を交わした後、笹生はひとりで体育館を出ていった。映汰もとっさにあとを追う。
ただの体調不良というには、ひどく痛々しい様子だった。まるで、そう。ホラー映画のなかで、抗いようのない恐怖に直面したキャラクターたちのように。けれど、真昼間のコートには幽霊も悪魔もいない。
(お前は、なにが怖いんだ?)
体育館からそう遠くない、外の渡り廊下の隅で笹生は蹲っていた。壁に寄りかかり早く浅い呼吸を繰り返している。映汰はノートを放り出して、縮こまる背中に駆け寄った。ひかりが刺激になって辛いのかぎゅっと目を閉じて、口を手で必死に押さえている。余計に苦しいだろう。手を外させようとしても力が入っていてびくともしない。とにかく落ち着かせるのが先だ。
「笹生、笹生!大丈夫だからゆっくり吐け!」
「かは、はっ、はぁ、はあ、は、っ」
背中をさすって何度呼びかけても、笹生は映汰に気づかない。大人を呼んできた方が──と、誰か見つけるより先に、コンクリートに転がっているピンクのノートが目に入った。油性ペンで書かれた、癖字の名前。最後の一文字が日陰のなかでも、ぱっとひかるようだった。
「っりく……陸、陸!」
もしかしたらこれなら、とはじめて下の名前で呼んだ。すると聞こえたのか、呼吸はまだ荒いながらも瞼が開く。朧げな、生理的な涙で潤んだ瞳で、笹生は映汰を捉えた。よかった、戻ってきてくれた。それからも背中をさすりながら声をかけ続けて、ようやく笹生の意識がはっきりとしてきた。
「ぁ、むぎ、の……」
「おまえ、なんで」
「へ、ばれちゃった……」
掠れた声で笑う。無理して作ったいたずらっぽい表情は、彼が強がるときの癖だった。
映汰の買ってきたミネラルウォーターを何口か飲んだあと、笹生はゆっくりと話し始めた。
「インターハイ……夏の大会の地区予選が、四月にあったんだ。おなじポジションの先輩が膝壊してて、俺がレギュラー入りすることになって。がんばれって、すごく期待してもらってさ」
隣に座って、映汰は聞いていた。上履きとバッシュのつま先がよっつ、足の大きさがぜんぜん違う。
「最終クォーターのフリースロー、バカみたいに緊張して、失敗して負けたんだ。次の日コートに入ろうとしたら、足が動かなくなっちゃって」
昨日のことのように笹生は覚えている。目を焼かれそうなほど真っ白な照明、ベンチからの声援。すべて背負って、フリースローラインの前に立った。審判が投げたボールがワンバウンドして手に収まった瞬間、世界から音が消えて、全身が黒くて大きな怪物に飲み込まれた。狂気の画家が描いた絵みたいに、ぐわんと体の形が歪みばらばらになる。なにが起きたか理解できないまま放った一投はゴールリングどころかバックボードに当たって跳ね返り、相手のカウンターに繋がった。所謂、コートの魔物に喰われたのだ。
「だからはじめて麦野に会った日、ホラー映画でビビんなくなって強心臓になれたら、コートにまた戻れるんじゃないかって思いついたんだよ。修行みたいなさ」
映汰は懐古するその横顔を見ながら、すべてに合点がいった。さっき笹生が怖がっていたのは、幽霊でも悪魔でもなく、バスケットボールそのものだった。
「俺、なんでバスケできなくなったんだろうってずっと考えてた。でも麦野は『好きだから好き』って、映画館でスクリーンだけまっすぐ見てた。かっこよくて、綺麗だったんだよ。前の俺も、こんなふうに単純にバスケが好きだったって、ちゃんと思い出せた。だからバスケ部に戻ったんだ。でもシュートだけは打とうとすると、どうしてもだめで。あはは、ダサいよな。あーあ……」
乾いた笑みを浮かべたあと、笹生は俯いた。彼の手にしているペットボトルのなかの透明な水面が揺れて、ふたりを沈黙が包む。すこし奇妙にすら思えた。ずっと映汰と笹生のあいだには映画が流れていて、笹生が叫んで、映汰が怒って、やかましかったのに。
「こんなダサいとこ、麦野にだけは見られたくなかった」
ぽつんと、笹生は最後そう言って、黙った。暗い夏の日陰に、大きな図体は溶け込んでいってしまいそうだった。
好きなものが怖くなる感覚を、映汰は知らない。もし映汰が笹生を追わなかったら、高橋にノートを渡されなかったら。笹生はずっと、これを隠したままだったのだろうか。休みの日、遊びに出かけたとして。映汰の前でなんでもないふうに笑って、映汰はずっと知らないままで。そんなの、ふたりでいてもひとりでいるのと変わらない。いつか壊れるに決まっている。無性に腹が立った。
映汰は笹生の手にぶら下がっていたペットボトルを払い飛ばし、その手を無理やり取って握った。かなりの勢いで飛んで行ったペットボトルは派手な音を立て床に落ち、ころころ転がっていく。突然のことに笹生は顔を上げた。声もなく驚いて、まなじりにはうっすら涙が滲んでいた。
──ああ、そうだ。こいつはほんとうにビビりなんだった。
「俺はお前のダサいところなんて死ぬほど知ってる!大して怖くないシーンでぎゃあぎゃあ言って抱きついてきて、こんな手汗びしょびしょで!」
「……うん」
「俺は笹生の、そういうビビリなところも、約束覚えててくれるところも、弱いとこも優しいとこも、ぜんぶふくめてお前が好きなんだよ!だから勝手に、ひとりになろうとすん、なっ……!?」
この告白が恋愛として取られようが、友愛として取られようが、どっちでもよかった。本音なんて一生かかっても言えないと思っていたのに、好きなひとのためなら曝け出せた。どうか、どうかまっすぐにこの言葉が届くように、手に力がこもる。
は、と笹生が息を呑む。自己嫌悪に苛まれていた瞳に、ぱちぱちと星が降るのを映汰はたしかに見た。安堵したのもつかの間、気づけば手を握り返され引き寄せられて、抱きしめられていた。今度は映汰が驚く番だった。
「さ、さお……!?」
「怖いから……ちょっと、こうさせて」
きゅ、と腕のが強まる。まだすこし笹生は震えていた。そうだ。あの視聴覚室で、怖いときはずっとこうしていた。不思議だ。最初のころは暑くて、うざったかったのに。いまじゃ広い背中に手を回している。ああ、もう。これでお前が怖くなくなるんだったら、なんだっていい。
柔軟剤と汗のにおいがする。正直すこし、いやかなり、映汰の心臓は早鐘を打っている。それが伝わったのか、ふふ、と笹生が肩口で笑った。
「麦野、めっちゃどきどきしてる」
「っ、してない」
「そういうとこもかわいくて、好き」
「はあ!?暑い、バカ、離せ!」
意地を張って怒ったテンションから戻ってこられない。またさらっと好き、と言われて映汰はじたばた腕のなかで暴れた。笹生にとっては猫がじゃれついているようにしか思えない。ふたりとも服が汚れることも忘れてぎゃあぎゃあ、久しぶりに地べたに座って騒いだ。
しばらくして、おーい、と笹生を呼ぶ声が聞こえてきた。くっついていた映汰と笹生も急いで離れる。バスケ部の部員がなかなか戻ってこない笹生を心配して、探しに来たらしかった。練習はインターバルの最中で、もうすぐ再開だから無理すんなよと言って、彼は先に体育館へ戻っていった。
「麦野」
各々別方向に放り投げたノートとペットボトルを拾っていると、映汰はうしろから笹生に呼ばれた。いろいろめちゃくちゃしてしまったから、冷静になると今更だがちょっと気まずい。
「な、なに」
「こっち向いて」
「やだ」
「一生のお願い」
「……なんだよ」
渋々見上げると、映汰の長い前髪をさらりと優しく撫でるように払われる。そしてそのまま、額にキスを落とされた。ちゅ、と控えめな音を立ててくちびるが離れる。なにをされたか理解して頬を真っ赤にした映汰に、笹生はやわらかく目を細めた。おなじように、彼もすこし照れていた。
「俺、頑張んね」
ふたりだけの夏日陰は青く染まる。もう、暗くない。
七月も後半、夏休み目前。きょうは一学期最後の映画研究部活動日だった。それなのに、カーテンも閉めずプロジェクターの電源もつけず、借りてきたDVDは机の上に出しただけ。刻々と、時間だけが無為に過ぎていく。
笹生が、映画研究部を辞めた。
あの課外活動日の、次の金曜日。恐怖耐性が多少ついた笹生向けに映汰がチョイスしたDVDを一緒に観て、また潰されん勢いで抱きつかれた。鑑賞後、片付けの最中に映汰からめずらしく、来週はなにがいい?と尋ねた。返ってきたのはリクエストではなく、来週からバスケ部に復帰する、と。決定事項のようだった。
なんで?も、どうして?も声が出なくて聞けなかった映汰を見抜いたのか、笹生は自分から話し始めた。
『麦野が、映画は好きだから好きって言ったじゃん』
『あれ聞いてさ、俺も、バスケがまだちゃんと好きだって思い出せたんだよ』
あんな特別でもなんでもない、そこらに転がっている石ころと大差ないひとことが、彼の琴線にふれたらしい。冬の大会に向けた練習が夏休みから本格的に始まる。だからもう金曜日は、ここには来ない、と。穏やかな表情の裏にさみしさが見えたから、映汰はなにも言えなくなってしまった。
それから、二週間が経った。
別に、笹生が映研に来なくなっても、関係がすべて終わるわけじゃない。オフの日はまた遊びに行こうと話をしたし、連絡先も交換してある。ただ、そうじゃない。そうじゃないのだ。
あの偶然がなければ、たぶん映汰と笹生は出会うこともなかっただろう。クラスも、性格も、属しているグループも、部活もぜんぶ違う。ふたりを繋ぎ止めたのは金曜日と映画だった。
先週はひとりで借りた新作を観たが、内容をうっすらとしか覚えていない。話が進むたび、笹生だったらいまのところで飛び上がるだろうなとか。映画館での約束のやりとりとか、犬みたいな笑顔とか、一緒にいたときの記憶ばかりがカラフルに色づいていて。
(もうとっくに、ここは、)
ずっとひとりきりの劇場だった視聴覚室は、いつしか隣に笹生がいることが当たり前になっていた。そこにぽっかり空席ができたら、嫌でも理解してしまう。ひとりでいるには広すぎるのだと。
オフの日に会えたらいいなんて、ぜんぜん足りない。笹生のなかに映汰の存在が有る、それ以上に瑛太のなかはいつの間にか、笹生という存在でいっぱいだった。体じゅうが熱いのは夏のせいじゃない。さみしい、会いたい。大粒の雫が頬を伝い、ぼたぼたとDVDのパッケージに落ちる。目の奥が熱い。ああ、泣いているのか。もう否定しようがない。映汰は、笹生に恋をしていた。
「ゔ、ぅう……っ」
眼鏡も外さないまま突っ伏して嗚咽を漏らす。溺れた魚が地上で跳ねるみたいに、不規則にしゃくり上げた。泣き慣れていないから、悲しいときの呼吸のしかたなんて分からなかった。けれど泣いて泣いて、酸欠で頭が真っ白になると、鮮烈で痛いくらいの感情にも靄がかかり、気持ちの昂りがなだらかになっていくことを知った。
どれくらい時間が経ったのか、吸って吐いてもようやくふつうになってきた。ぐしゅぐしゅの洟をずずーっとすする。波立っていた心はやっと平常を取り戻しつつあるが、それでもさみしさがなくなったわけじゃない。ああもう、レンズの内側が涙でべちゃべちゃだ。なにも見えなくて眼鏡を一度外した瞬間、コンコン、と視聴覚室の戸がノックされる。
「!?」
突然、ましてやこのタイミングでの来訪に映汰は心臓を縮こまらせた。正直デジャブで、あの四月の光景も脳裏に過ったが、笹生は部活の真っ最中のはずだ。とにかく誰でも、この情けない面を見せるわけにはいかないと映汰は腕で乱暴に顔を拭った。まだ泣き濡れている声で精一杯ふつうを取り繕い、どうぞ、と映汰はノックをした誰かに呼びかける。がらがらと開いた戸の向こうに立っていたのは、いつも通りやつれている顧問の高橋だった。
「ハイ、お疲れ。なんか目赤いけど大丈夫か?」
「っ、花粉です」
「あ〜、イネ科は年中って言うもんなあ。大変なとこ悪いんだけど、ちょっと頼みごとしてもいい?」
腫れぼったい目、まだ赤くすんすん鳴っている鼻。ばればれの嘘を吐いたが泣いたあとだと気づいていないのか、高橋はほい、ピンクのノートを差し出した。映汰は受け取って、表紙に見つけた名前に目を見開く。
「これ、笹生の……」
「あいつしょっちゅう教科書とかノート、使った教室に忘れていくんだよ。これ届けてもらえないか?」
「……先生が届けたらいいじゃないですか」
「ヤダ!熊元先生怖いじゃん。無断であいつを映研に入れてたのもあるしさあ、怒られたら嫌なんだよ」
いい年した大人が駄々をこねている、あまりにも情けない理由に映汰は若干引いた。そしてやっぱり、笹生の臨時入部も熊元に無断だったらしい。ほんとうにちゃらんぽらんというか、なんというか。断る気力もなくなってしまった。
「……じゃあ、届けてきます」
「オゥ、テンキュー!最近笹生もぼーっとして元気ないから、あれだったらちょっと話してきたら」
グッバイ!と高橋は手を振って、仕事は終わったと言わんばかりにすたこら部屋から出て行った。流暢な英語に多少イラついたが、笹生のことのほうが引っかかる。元気がないって、そんなに練習がハードなのか。たしかに三ヶ月もこのゆるい映研にいたのだ。体が鈍って、遅れをとっているのかもしれない。
心配なのは本心だがタイミングが悪い。気持ちを自覚したばかりで情緒もごちゃごちゃで、会いたいけど会いたくない。こんな、さっきまで大泣きしてましたと丸わかりの顔面で!
「……顔洗お」
それでも受け取ってしまったものは仕方がない。腹を括って、すこしでも赤みをましにするために、映汰は廊下の水道へ向かった。
活気ある声とバッシュが床に擦れる音。体育館全体に響く叱咤とホイッスル。ハーフコートのなかを駆け、躍動するバスケ部の選手たち。その振動と熱を浴びながら、映汰は後方の入口から顔を覗かせて笹尾の姿を探していた。
どうやらいまはパスの練習をしているようだ。ディフェンスとオフェンスに別れて、ボールを矢のように飛ばしている。二階の大きな窓から差し込む容赦ない日差しもあり、体育館内の温度はどんどん高まっていくようだ。選手たちはもちろん映汰ですら、軽く額に汗を滲ませた。つ、と眉の上に垂れた塩水を拭って、またコートの方に視線を戻す。ちょうど誰かの手にボールが渡った。
(あ、)
いた。この二週間、会えなかった男が。笹生はオフェンス側のようで、ゴール下で彼より身長の高い生徒ふたりに行く道を阻まれていた。一瞬で周りの状況を確認すると、俊敏なドリブルで一気にふたりを躱して踏み込んだ足で軽く飛び、ディフェンスからマークの外れていた選手にボールを投げた。綺麗な放物線を描いて宙を泳いだオレンジ、短くて黒い髪がふわっと風を受ける。どうしよう、死ぬほどかっこいい。映汰がノートのことを忘れて釘付けになっていると、コートの角にいた熊元が電子ホイッスルのボタンを押す。ビーッと警報のような音が鳴った。
「次シュート!用意ー!」
指示に負けじと、選手たちは声を上げスリーポイントエリアに散らばる。シャツの襟元で汗を拭いながら、笹生もそこに合流した。皆、お互いのタイミングを読みながらシュートを打つ。リングに吸い込まれていくボールは見ていて気持ちがいい。そして、笹生にボールが回ってきた。
ドリブルを数回、キュ、と床が鳴って止まる。ゴールを見据え腕を上げて──綺麗なシュートフォームから、ボールは放たれない。尋常じゃない汗、顔から血の気が引いている。笹生は、石像になったみたいに固まっていた。すぐに他の部員が笹生に駆け寄って、肩を支えられて熊元のところへ向かう。ひとことふたこと会話を交わした後、笹生はひとりで体育館を出ていった。映汰もとっさにあとを追う。
ただの体調不良というには、ひどく痛々しい様子だった。まるで、そう。ホラー映画のなかで、抗いようのない恐怖に直面したキャラクターたちのように。けれど、真昼間のコートには幽霊も悪魔もいない。
(お前は、なにが怖いんだ?)
体育館からそう遠くない、外の渡り廊下の隅で笹生は蹲っていた。壁に寄りかかり早く浅い呼吸を繰り返している。映汰はノートを放り出して、縮こまる背中に駆け寄った。ひかりが刺激になって辛いのかぎゅっと目を閉じて、口を手で必死に押さえている。余計に苦しいだろう。手を外させようとしても力が入っていてびくともしない。とにかく落ち着かせるのが先だ。
「笹生、笹生!大丈夫だからゆっくり吐け!」
「かは、はっ、はぁ、はあ、は、っ」
背中をさすって何度呼びかけても、笹生は映汰に気づかない。大人を呼んできた方が──と、誰か見つけるより先に、コンクリートに転がっているピンクのノートが目に入った。油性ペンで書かれた、癖字の名前。最後の一文字が日陰のなかでも、ぱっとひかるようだった。
「っりく……陸、陸!」
もしかしたらこれなら、とはじめて下の名前で呼んだ。すると聞こえたのか、呼吸はまだ荒いながらも瞼が開く。朧げな、生理的な涙で潤んだ瞳で、笹生は映汰を捉えた。よかった、戻ってきてくれた。それからも背中をさすりながら声をかけ続けて、ようやく笹生の意識がはっきりとしてきた。
「ぁ、むぎ、の……」
「おまえ、なんで」
「へ、ばれちゃった……」
掠れた声で笑う。無理して作ったいたずらっぽい表情は、彼が強がるときの癖だった。
映汰の買ってきたミネラルウォーターを何口か飲んだあと、笹生はゆっくりと話し始めた。
「インターハイ……夏の大会の地区予選が、四月にあったんだ。おなじポジションの先輩が膝壊してて、俺がレギュラー入りすることになって。がんばれって、すごく期待してもらってさ」
隣に座って、映汰は聞いていた。上履きとバッシュのつま先がよっつ、足の大きさがぜんぜん違う。
「最終クォーターのフリースロー、バカみたいに緊張して、失敗して負けたんだ。次の日コートに入ろうとしたら、足が動かなくなっちゃって」
昨日のことのように笹生は覚えている。目を焼かれそうなほど真っ白な照明、ベンチからの声援。すべて背負って、フリースローラインの前に立った。審判が投げたボールがワンバウンドして手に収まった瞬間、世界から音が消えて、全身が黒くて大きな怪物に飲み込まれた。狂気の画家が描いた絵みたいに、ぐわんと体の形が歪みばらばらになる。なにが起きたか理解できないまま放った一投はゴールリングどころかバックボードに当たって跳ね返り、相手のカウンターに繋がった。所謂、コートの魔物に喰われたのだ。
「だからはじめて麦野に会った日、ホラー映画でビビんなくなって強心臓になれたら、コートにまた戻れるんじゃないかって思いついたんだよ。修行みたいなさ」
映汰は懐古するその横顔を見ながら、すべてに合点がいった。さっき笹生が怖がっていたのは、幽霊でも悪魔でもなく、バスケットボールそのものだった。
「俺、なんでバスケできなくなったんだろうってずっと考えてた。でも麦野は『好きだから好き』って、映画館でスクリーンだけまっすぐ見てた。かっこよくて、綺麗だったんだよ。前の俺も、こんなふうに単純にバスケが好きだったって、ちゃんと思い出せた。だからバスケ部に戻ったんだ。でもシュートだけは打とうとすると、どうしてもだめで。あはは、ダサいよな。あーあ……」
乾いた笑みを浮かべたあと、笹生は俯いた。彼の手にしているペットボトルのなかの透明な水面が揺れて、ふたりを沈黙が包む。すこし奇妙にすら思えた。ずっと映汰と笹生のあいだには映画が流れていて、笹生が叫んで、映汰が怒って、やかましかったのに。
「こんなダサいとこ、麦野にだけは見られたくなかった」
ぽつんと、笹生は最後そう言って、黙った。暗い夏の日陰に、大きな図体は溶け込んでいってしまいそうだった。
好きなものが怖くなる感覚を、映汰は知らない。もし映汰が笹生を追わなかったら、高橋にノートを渡されなかったら。笹生はずっと、これを隠したままだったのだろうか。休みの日、遊びに出かけたとして。映汰の前でなんでもないふうに笑って、映汰はずっと知らないままで。そんなの、ふたりでいてもひとりでいるのと変わらない。いつか壊れるに決まっている。無性に腹が立った。
映汰は笹生の手にぶら下がっていたペットボトルを払い飛ばし、その手を無理やり取って握った。かなりの勢いで飛んで行ったペットボトルは派手な音を立て床に落ち、ころころ転がっていく。突然のことに笹生は顔を上げた。声もなく驚いて、まなじりにはうっすら涙が滲んでいた。
──ああ、そうだ。こいつはほんとうにビビりなんだった。
「俺はお前のダサいところなんて死ぬほど知ってる!大して怖くないシーンでぎゃあぎゃあ言って抱きついてきて、こんな手汗びしょびしょで!」
「……うん」
「俺は笹生の、そういうビビリなところも、約束覚えててくれるところも、弱いとこも優しいとこも、ぜんぶふくめてお前が好きなんだよ!だから勝手に、ひとりになろうとすん、なっ……!?」
この告白が恋愛として取られようが、友愛として取られようが、どっちでもよかった。本音なんて一生かかっても言えないと思っていたのに、好きなひとのためなら曝け出せた。どうか、どうかまっすぐにこの言葉が届くように、手に力がこもる。
は、と笹生が息を呑む。自己嫌悪に苛まれていた瞳に、ぱちぱちと星が降るのを映汰はたしかに見た。安堵したのもつかの間、気づけば手を握り返され引き寄せられて、抱きしめられていた。今度は映汰が驚く番だった。
「さ、さお……!?」
「怖いから……ちょっと、こうさせて」
きゅ、と腕のが強まる。まだすこし笹生は震えていた。そうだ。あの視聴覚室で、怖いときはずっとこうしていた。不思議だ。最初のころは暑くて、うざったかったのに。いまじゃ広い背中に手を回している。ああ、もう。これでお前が怖くなくなるんだったら、なんだっていい。
柔軟剤と汗のにおいがする。正直すこし、いやかなり、映汰の心臓は早鐘を打っている。それが伝わったのか、ふふ、と笹生が肩口で笑った。
「麦野、めっちゃどきどきしてる」
「っ、してない」
「そういうとこもかわいくて、好き」
「はあ!?暑い、バカ、離せ!」
意地を張って怒ったテンションから戻ってこられない。またさらっと好き、と言われて映汰はじたばた腕のなかで暴れた。笹生にとっては猫がじゃれついているようにしか思えない。ふたりとも服が汚れることも忘れてぎゃあぎゃあ、久しぶりに地べたに座って騒いだ。
しばらくして、おーい、と笹生を呼ぶ声が聞こえてきた。くっついていた映汰と笹生も急いで離れる。バスケ部の部員がなかなか戻ってこない笹生を心配して、探しに来たらしかった。練習はインターバルの最中で、もうすぐ再開だから無理すんなよと言って、彼は先に体育館へ戻っていった。
「麦野」
各々別方向に放り投げたノートとペットボトルを拾っていると、映汰はうしろから笹生に呼ばれた。いろいろめちゃくちゃしてしまったから、冷静になると今更だがちょっと気まずい。
「な、なに」
「こっち向いて」
「やだ」
「一生のお願い」
「……なんだよ」
渋々見上げると、映汰の長い前髪をさらりと優しく撫でるように払われる。そしてそのまま、額にキスを落とされた。ちゅ、と控えめな音を立ててくちびるが離れる。なにをされたか理解して頬を真っ赤にした映汰に、笹生はやわらかく目を細めた。おなじように、彼もすこし照れていた。
「俺、頑張んね」
ふたりだけの夏日陰は青く染まる。もう、暗くない。
