笹生くんビビんないで!

『あの惨劇が、蘇る──。』

ナレーション音声が煽り、ジャンプスケアのシーンがいくつも流れる。六月、木曜午後。生徒たちが羽を伸ばす昼休み。映汰は屋上の日陰にひとり座り、トレイラーを映像をスマホで見ながら、おにぎりをかじっていた。
 変死者が続出する修道院。かつて悪魔を降ろしたシスターの伝説。見習いを卒業し、駆け出しのエクソシストになったニックがさらに邪悪な怪異と対峙する──。『スプラッター・チャーチⅡ〜悪魔の契約〜』。発表されてから何度も見た続編の予告の再生を終えると、映汰は有線のイヤホンを耳から外し、固まりかけていた首を軽く回した。梅雨も真っ只中だが、きょうは珍しく太陽が出ている。どこで食べようがひとりなのは変わらないので、屋上に来てみたのだった。
 濡れたアスファルトが日に照らされて、土のような黴のような、どこか懐かしいにおいが鼻をくすぐる。昼食後なのもあって船を漕ぎかけていたが、動画の最後に表示された公開日を目にして眠気が飛んだ。ちょうど来週の金曜日に差し迫っていた。

(……あ、)

ぱっと映汰の脳裏に思い浮かんだのは、あの黒いゴールデンレトリバーみたいな男。動画サイトのタブを消して、メッセージアプリを開く。一応で交換しておいた連絡先のトーク画面には、挨拶代わりに送ったスタンプ以外にまだ会話履歴はない。指が迷いながら文字を叩く。何度『来週の金曜日』という五文字を打っては消して唸ったか。友達を遊びに誘うなんて、高校に入ってからははじめてのことだから、気持ちが落ち着かない。

『来週の金曜スプラッターチャーチの新作見に行きたい 予定合うならチケット取るけど』

格闘して数分、完成した文面には絵文字すらなかったけれど、勢いに任せて送信してしまった。改めて見てみると、物言いが上から目線すぎないか?というかそもそも、明日の部活で直接伝えたらよかったのでは?やっぱり一旦取り消すかと吹き出しを長押ししようとすると、ぱっと既読のマークがついた。

『行く!!』

たった二文字にエクスクラメーションふたつ。それだけなのに映汰の心は、ぶわりと花嵐が吹いたような高揚感を覚える。犬のキャラクタースタンプが追撃で送られてきて、『りく、たのしみ!』なんて言うから、ぷはっ!と吹き出してしまった。部活以外で、学校でひとりでいるとき笑うなんていつぶりだろう。 


 約束が決まった放課後、課外活動の申請と報告に職員室へ向かう映汰の足取りは、めずらしく軽かった。楽々ノックをして、顧問がいるか呼んで確認すると奥の方でけだるげに手が上がる。馴染みのデスクまで歩いて行くと、キキキと使い込まれた椅子を回して顧問──英語教師の高橋が向き直った。歳は三十五だと聞いているが、それよりも十歳老けて見えるのは、鳥の巣頭と目の下にいつも隈があるせいだろう。

「ハロー、麦野。映研か?」
「はい。来週の金曜日、外に映画観に行こうと思って」
「了解、申請用紙書いといてくれ。顧問不参加にマルつけといて……笹生と行くの?」
「一緒に行きます」
「映画館で大絶叫してクレームだけは勘弁な……頼んだぞ……」

死にそうな顔の高橋のデスクにはちいさく山になっている未採点の小テストと、ブラックコーヒー缶がみっつもよっつも立ててある。滅多に彼が部活に顔を出さない(出せない)理由がそこに詰まっていた。笹生のことも黙認している。まったく参加しない名前だけの幽霊部員がわんさかいるので、臨時の部員がひとり増えようが減ろうが変わらない。映画観てるだけなんだから大丈夫だろ、と変なところで適当だった。麦野もひとりで退屈しなくなってよかったな、と言われたのが懐かしい。
 ただ、バスケ部の顧問がどうなのかは分からなかった。休んでいる部員がゆるい文化部にいると知ったら、竹刀を持って乗り込んできて、視聴覚室をめちゃくちゃにされて廃部にされそうな気がしなくもない。そんなことにならないといいのだが。
 忙しそうな高橋とはまた授業で、と挨拶をして別れる。入り口の窓際に揃えてある様々な提出書類のなかから課外活動の申請書を手に取ろうとしたときだった。

「おい麦野、ちょっといいか」

後ろから低い声で呼びかけられ振り向くと、そこには学年主任の体育教師・熊元が立っていた。映汰の肝が一気に冷える。名は体を表すとはまさにこのこと。大柄でムキムキの厳つい顔立ち、ジャージにホイッスルをぶら下げてまさにひとを襲うタイプのクマだ。最近は鍵を取りに来ても不在続きだったから油断していた。ついに呼び出しだ、と固まっていると熊元の口から出たのは意外な名前だった。

「笹生、どうしてる?」
「えっ?」
「映研に行ってるって聞いたんだ。どういうふうに過ごしてる?」

どうやら映汰ではなく、笹生の話らしい。そういえば熊元はバスケ部の顧問だった。拍子抜けしながらも毎週怖いもの見て大騒ぎしていますなんて素直に言えないので、なるべく言葉を選んで答える。

「えっと、普通に……一緒に映画観てます」
「そうか。バスケについてなんか言ってたか?」
「いや、別に……あの、なんで、」

なんであいつ、部活休んでるんですか?と聞こうとして、やっぱりやめた。守秘義務があるだろうし、熊元を通して笹生が隠しているであろうことを暴くのは気が引けた。映汰も笹生がバスケ部への復帰にあまり乗り気じゃなかったことは伝えなかった。お互い隠しごとのある空気は、なんとなしに重い。そのうち熊元は腕時計をちらっと見たあと、わかった、と言った。

「悪いな、時間とって。またなんかあったら教えてくれると助かる。あと前髪切れよ」
「は、はい」

頭髪への注意も忘れず、バインター片手に熊元は職員室を出て行った。かなり笹生を気にかけているようだ。バスケの詳しいことは映汰にはわからないが、あれだけ身長が高いのだ。レギュラーだったとか?

(バスケしてる笹生って、どんな感じなんだろう)

さらりと手に取った申請書にペンを走らせながらぼんやり考える。生徒名の欄に代筆した、笹生陸の三文字。復帰を待ち望まれているということは、いずれ映画研究部を抜ける日も近いうち来るのだろう。
 笹生が来る前の、ひとりの視聴覚室を思い出してみる。そこはサイレント映画のように音がなく、モノクロだった。


 約束の日まではあっという間だった。メッセージのやりとりをした次の日の部活は、改めて『スプラッター・チャーチ』の第一作目を観た。はじめて会ったときの、あの血涙を流す絵画のシーンでやはり笹生は映汰に抱きついてきたし、怖すぎたのか抱きかかえられたままエンドロールを迎えたから(暑くて死にそうになった)、正直高橋の言っていたとおりになるんじゃ、と若干不安だ。本人は見終わったあとけろっとして、来週夕飯も一緒に食おうよ、なんて能天気に笑っていた。
 学校の最寄りからいつもと違う路線に乗った先、主要駅にある大きな映画館は他校の高校生や、大学生のグループも多くいて賑やかだった。SNSで話題になっていた恋愛映画や、ライブの応援上映も近い時間帯でやるからだろう。
 発券を済ませてチケット二枚を片手に、映汰は待たせていた笹生のところへ戻る。彼はフードメニューの立て看板をすこし屈んで眺めていた。

「お待たせ、チケット渡しとく」
「ありがと!なあめっちゃ美味そう、こんないろいろあるんだ映画館って」

看板に載っているのはポップコーン、ポテト、チュロス、ドーナツ。タコス風チリドッグは期間限定らしい。映汰もひとりで劇場に行ったりするが、基本的に飲み物だけでフードは頼まないのでメニューをまじまじと見たことがなかった。ふたりで吟味して結局、財布にいちばん優しいポップコーンLサイズにドリンクがふたつ、ついてくるセットを選んだ。

「ポップコーンの味どうする?」
「あ、フレーバー半々にできるみたい。俺塩がいいな。麦野は?」
「キャラメル」
「おっけ、頼みに行くか」

フードカウンターに向かう笹生の背中を追う。誰かと一緒に映画館に行くとか、食べものをシェアするとか。普段しないことばかりしていて楽しい。誕生日に出かけたこどものような、あるいは、はじめてのデートのような。浮かれた気持ちがばれないように、映汰は口元を手で覆った。


 入場特典は監督や出演俳優の特別インタビューが載った冊子だった。最悪いつ絶叫されても連れ出せるよう、端の席についた映汰の隣で、笹生はなかみをぱらぱらと確認している。最後のページにニック役の俳優と、子役の少女が遊んでいるオフショットがあった。共有したかったらしい彼に肩を叩かれる。

「麦野、見てこれかわいい」
「んん、ちょっと待って」

映汰はリュックから、市販の痛み止めのシートを取り出したばかりだった。ぷちぷちアルミを押せば、大きめの錠剤ふたつが手のひらに転がる。まとめて口に入れて、ドリンクで一気に流し込んだ。クラッシュアイスできんきんに冷えた烏竜茶のせいで、鼻の上あたりが痛くなる。うぐ、とちいさく唸ると、笹生は心配そうに眉を下げた。

「大丈夫?どっか痛てーの?」
「平気。映画館で観ると頭痛くなるから先に飲むようにしてる」
「まじか、そこまでして……なあ、なんで麦野は、映画が好きなの?」

上映に向けてすこしずつ照明が落ちていく。長い前髪のあいだから、笹生は映汰をまっすぐ見ているのがわかる。ひとと話すとき、目をちゃんと合わせる癖があるらしい。こう見られると適当なことは言えない。
 理由になりそうなものは複数ある。映汰の『映』は映画の『映』だし、名付けた祖父がホラー映画好きで、物心つく前からいろいろな作品を観せられていたとか。家のすぐそばにレンタルビデオ屋があって、いつでも好きなDVDやビデオを借りられて──。もうシネアドが始まりそうだ。長考する時間もないし、映汰もそういうのは得意ではない。なので、飾らないことにした。

「理由とか、あんまない。好きだから好き」

結局かっこつけたみたいで気まずくて、映汰はポップコーンに手を伸ばした。タイミングよく明かりが完全に消え、スクリーンに配給会社のロゴが映る。いよいよだ。近日公開作品の宣伝映像たちに紛れ、映汰はこっそり笹生に耳打ちした。

「怖かったら、俺の手握っていいから」

こくん、と笹生が頷いたのを確認して、映汰も前を向く。盗撮厳禁のコマーシャルが終わると、ついに本編が始まる。古びた教会の屋根からカラスが何十羽も一気に飛び立った、ほんの数秒で笹生が映汰の左手を握ってきた。体温の高い、厚い手。もう怖がっているのか。ほんとうにビビり。でもなんか、ちょっと。

(どきどきする、かも……は?)

はじめて抱いた感情に一瞬脳が混乱するが、映画館の恐ろしく大きな音響に雑念は掻き消される。ストーリーに入り込み、見つめるスクリーンのひかりを、映汰の瞳はきらきら星のように反射させる。そんな無垢な表情を、隣で笹生が吸い込まれるように見ていたことを、映汰はまだ知らない。
 

「お前っ、おまえ手汗やばすぎ、まじで!」
「うわそんな洗うなよ!傷つく!」

上映が終わり、掃除の行き届いた男子トイレの洗面台でやいやいとくだらない言い合いをする。ばしゃばしゃ必死に映汰が手を水で洗い流しているのを見て、汗かきの張本人である笹生は爆笑していた。
 なんと、笹生は一回も叫ばずにエンドロールまで鑑賞した。危うい場面は何度かあったが、映汰の手を痛くなるほど握ったり、ポップコーンを口に詰めて物理的に声を出せないようにして、この夏最恐と謳われる映画に勝ったのだ。伊達に毎週映汰の選んだ作品を観ていない。これなら部活でも、もうちょっとレベルが高いものを選べそうだ。トラウマ不可避と言われる土着信仰系ホラーとか、サイコホラーとか。
 いろいろ候補を浮かべていると、くるるる、と腹が鳴った。紛れもなく映汰の腹の虫が泣いた音だった。笑いすぎて出た涙を拭っていた笹生にも聞こえたらしく、こちらを凝視している。なんで気づくんだよ、と映汰は赤くなりながら、高い位置にあるにやけ面を睨み返した。

「こっち見んな!なに笑ってんだ!」
「かわいい音だったなって、そんな腹減った?」
「かっ……!?」
「ファミレスか回転寿司どっちがいい?近いのは回転寿司だけど」
「えっ?」
「夕飯。食べ行くでしょ?」

さらっと放たれたかわいいに映汰が蹴躓いている横で、笹生はスマートフォンで近くの店を検索している。先週、映画を観たあとの話なんて映汰はすっかり忘れていた。ただの口約束だと思っていたから。でもちゃんと、笹生のなかには有ったらしい。ちゃんとした約束として。
 映汰にはほとんど友達がいないし、そこに重きを置いていない。そういう性格だから、ひとりで昼飯を食べていても、ひとりで映画を観ていても平気だった。だけど、こんなに嬉しいのか。誰かのなかに、自分の存在がちゃんと、有るということは。嬉しい、人生でいちばんと言えるほど!

「……回転寿司!」
「!」

映汰が笑って答えると、笹生はなぜか固まった。不思議に思っていると鏡の向こうの自分の顔が目に入ってちょっと引く。笑う、というよりは、だいぶはしゃぎすぎな顔をしていた。こんな、小学生でもないのに!
 絶対に気色悪いと思われた。いたたまれず映汰はハンカチをポケットに突っ込み、冷えていた手で頬をぱしぱし叩いた。これで、普通の顔に戻ったはず。

「あーっ、俺グッズ見たいんだった!さ、先行ってるから!」

先に行ってるもなにも、笹生も用は済ませてある。だいぶ苦しい言い訳を吐きながら、映汰は駆け足でトイレを出た。

 ひとり取り残された笹生は、頬をすこし染めて呟いた。固まってしまったのは、射抜かれてしまったから。

「……かわいい」

無表情か、怒っているか、驚いているか。いままで笹生が見てきたのは大体このみっつだった。前髪と眼鏡で隠れているが、幼い顔立ちをしていてかわいいなとはずっと思っていた。それが笑うと、あんなにあどけなくなるのか。たぶん、学校の誰も知らない。ポップコーンにもほとんど手をつけず映画に釘付けになっていた彼も、あの笑顔も。映汰が、なんで映画を好きなのかも。

『理由とか、あんまない。好きだから好き』

上映前に教えてくれた、シンプルな映汰らしい理由。スクリーンを見据える横顔、輪郭はひかりでなぞったかのようだった。そして瞳を見た瞬間、久しぶりにふわりと体が宙に浮くあの感覚を思い出した。足の裏が地面を離れ、指先からオレンジが離れる。大好きだった時間。
 彼の言葉に賭けてみたい。もう一度、自分の好きなものに向き合うために。いまなら、勇気が出せる気がした。そうしたら──。

「……今は、やめとこ」

 ふーっと目を瞑って息を吐く。あまりここで考えすぎるのはよくない。これから回転寿司に行くんだし。あんなに映汰は楽しみにしていたのだから。
 時刻は十九時すぎ、まだ外は明るいだろう。陽が沈むまで、沈んでも、大人に怒られるぎりぎりまで一緒にいよう。