笹生くんビビんないで!

 がたん!とどこからか聞こえた音は、明かりの落ちた廊下に大袈裟なほどこだまする。制服姿の少女は怯えを顔に滲ませながら、懐中電灯を片手に夜の校内を歩いていた。いなくなった幼い弟を探し、街のはずれにある曰く付きの廃校まで来てしまったのだ。なんでも、ここで殺された女生徒の霊が出ると──。
 音楽室でひとりでに鳴るピアノ。図書室では触ってもいないのに本が棚から落ち、突然閉じ込められた教室の窓には手形が夥しく浮かび上がった。しかしどこを探しても弟はいない。途方に暮れていると、階段の踊り場にちいさな、見慣れた後ろ姿を見つけた。ああ、いた!

『たっくん!たっくん!!』

弟の名前を呼びながら少女は階段を駆け上がる。とにかく無事でよかった。揺れる視界、荒い呼吸音がどんどん大きくなる。やっと伸ばした手が弟に届きそうになった瞬間、突然少女は足を止めた。彼女の足首を、死人のような真っ白で痩せた指が掴んだからだ。爪は赤黒く汚れていた。
 少女はがたがた震えながら恐る恐る振り返る。”それ”は足元に這いつくばっていた。荒れた黒く長い髪、血塗れのセーラー服。四肢は細くおかしな方向に曲がっており、その様相はまるで蜘蛛のようだった。鳴り出した不協和音はだんだん大きくなり、最大ボリュームになったあと、グルン!と女生徒の血走った黒目がひっくり返る。おぞましい表情をして、呪霊は怨嗟の唸りを上げた。

『グオオオオ!!』
『キャアアアアアア!!』
「うおあああああああああああ!!」

少女の様式美的な断末魔に共鳴し、映汰の隣に座っていた男は負けんばかりの大絶叫をあげた。そして体格差など一切考慮せず、勢いよく抱きついてくる。きょうもまた、かけている眼鏡が吹っ飛びそうになった。映汰をちょっと大きいぬいぐるみかなにかとでも思っているのか、ぎゅぎゅぎゅぎゅ、と力を強めるくせにスクリーンに背を向けて、肩口で怖い怖いと喚いている。冷房のスイッチを押してもまだつかない五月。初夏の熱がこもる遮光カーテンと地べたのタイルカーペット。そもそもこいつの体温が高いのだ。ああもう暑苦しい、ほんとうに!

「ああああガチで怖いやばい呪われるっ、麦野守って!!」
「うるさい暑い離れろビビリ!!」

 毎週金曜日、放課後の視聴覚室。あまりにも騒がしい鑑賞会を繰り広げている映画研究部部長の麦野映汰と、臨時部員のビビリ──笹生陸の出会いは四月の終わり、週末の放課後に遡る。



 職員室に向かう映汰の足取りは基本的に重い。ノックをして戸を開けて、自分に視線が集まる瞬間は毎回ほんのり嫌だ。それでも視聴覚室の鍵を借りないと部活は出来ないので、はあ、とため息をついてから戸を叩く。

「失礼します。鍵借ります……」

ぼそぼそ言った声が届いたらしい、数人の教師はパッと振り向いて見てくるが、いつも通り映汰だと気づくと、特段気にせずどうぞー、と返事をされた。運がよかった。学年主任の体育教師がいると、聞こえない!前髪が長い切れ!と怒られるが、きょうはいないようだ。鍵をキーボックスの引っかけから外して、持ち出し表にクラス名と部活名、名前を書きそそくさと職員室をあとにした。
 階段を降り、廊下を歩いていると帰っていく数人の生徒とすれ違う。金曜日だからカラオケに行くだとかパンケーキを食べに行くだとか、楽しげな会話が耳に入った。だが映汰にとっては興味の薄い話題で、なんの感情も抱くことなく通り過ぎる。
 視聴覚室のある廊下の突き当たりは、陽のひかりが窓から入らずいつもひんやりしている。埃っぽいような空気もふくめて、映汰は嫌いじゃない。放課後みんなで遊びに行くみたいな、明るい性格ではないからだろう。ここでなくても、日陰とか暗所が好きだ。
 慣れた手つきで鍵を回す。戸を開け、上履きを脱ぐと適当に靴箱に入れた。踵と踵のあいだが若干空いたが知らんぷり。どうせ誰も来ないし。ついでにドア窓の隠す為のカーテンも閉める。使用中の意味だ。
 ミーティングチェアがずらっと並ぶなかからいつも座る席──真ん中の列、前から五番目──にリュックと、学ランも脱いで置いた。ふたつうしろの席に英語の教科書が忘れ去られているが、気にせずレンタルのDVDを取り出す。いちばん前の席に置いてあるプロジェクターと、接続されたDVDプレイヤーの電源をつけた。キュイーン、と機械が動き出す音を背に映汰は窓際へ。薄い雲間を透かして陽が差し込んでいる。春も終わろうとして、いちにちごと日差しも強くなってきた。眩しくて目を細めながら普通のカーテンと遮光カーテンをまとめて引っ張る。反対側に移動しておなじことを繰り返すと、部屋はほとんど真っ暗になった。カーテンのわずかな隙間から漏れるひかりを頼りに、プロジェクターのそばに置いておいたパッケージを開き、ディスクをプレイヤーにセットする。これで準備は完了だ。リモコンを片手に席について、ルーズリーフと筆箱を取り出す。
 ぱっとスクリーンに映し出されたのは目から血を流すマリア像と、赤文字ででかでかと書かれたタイトル『スプラッター・チャーチ〜惨劇の修道院〜』。全世界で人気のエクソシスト映画だ。今年の夏に新作が公開されるから、おさらいしておこうと今週はこのチョイスにした。
 映汰は大のホラー映画好きだ。幽霊部員ばかりの映画研究部なのをいいことに、毎週ホラー映画のDVDを持ち込んではひとりで鑑賞している。眼鏡のレンズ越しに映る恐怖のフィクションは、カラオケよりパンケーキより、映汰の心を踊らせるのだ。



『ニック、二階になにかいるわ!私見たの、嘘じゃないのよ』
『僕が見てくる。きみはここにいて、リサ』

夜の修道院。二階でなにか見たとヒステリックに騒ぐ霊感体質のシスター・リサ。それを聞いて怖いもの知らずのエクソシスト見習い・ニックが階段を上がっていく。静かな修室の並ぶ廊下を見回していると、壁に飾ってあった十字架が床に落ちて転がり、ニックの横を誰かが横切った。ばっと顔を上げた先には廊下の突き当たり、聖母の描かれた油彩画。不穏なサウンドとして、下手なヴァイオリンの音がどんどん吊り上がっていくと、額縁のなかのマリアは血の涙を流し始めた。

(あ、来る)

立ち尽くすニックを見ながら、いままでの鑑賞経験から脅かしのタイミングを探る映汰。洋ホラーはジャンプスケアが多く、いわばアトラクション感覚で楽しめる。画面を垣間見ながら、ルーズリーフに聞き取れた英単語をメモする。顧問に提出する感想レポート用だ。
 ニックは絵画に近づき赤い液体にふれると、それがただの絵の具だったことに気づく。指を擦って確認している彼の肩の向こうに、華奢な人影が映った。ニックも気配を感じ取り振り返る。一階で待たせているはずのリサが立っていた。ベールとその影がちょうど俯いた顔に垂れて、どんな表情をしているか読めない。

『リサ!脅かすなよ。待ってろって言ったじゃないか』

明らかに様子のおかしいリサにリックはうかうか近づいていく。するとどこからか吹いたものすごい風圧がニックを吹っ飛ばした。彼は絵画のあった壁に押さえつけられ苦しみに呻き、リサがゆっくりと顔を上げる。さあ来るぞ、と映汰はペンを置き、目を輝かせた──そのときだった。

「しつれーしまーす、忘れもん……」
「っ!?」
『ヴァアアアアアアアアアアアア!!』
「うわああ!?ぎゃああああああああああああ!!」

引っ掻き傷まみれの顔に歪な笑顔、邪悪なものに取り憑かれたリサがスクリーンいっぱいに映る。同時に視聴覚室に誰か入ってきたらしい。第三者の侵入は予想外かつはじめての出来事で、もう怖いものには慣れっこの映汰も流石に驚いた。しかも息つく間もなく侵入者──180センチはゆうに超えていそうな、いかにも運動部らしい短髪の男子生徒──は、その体格に似合う肺活量を一気に使うような大絶叫を繰り出して、視聴覚室どころか廊下にわんわんと響き渡らせた。
 ニックとおなじく、とんでもない声の圧を浴びて固まった映汰より、その出所のほうが先に復活した。いまだ流れ続けるスプラッター・チャーチに大慌て、半泣きで彼は訴えかけた。

「い、一旦止めて!?ちょ、おい、もしもし!?」

必死の呼びかけでやっと、映汰の飛んでいた意識は戻ってきた。急いでリモコンの一時停止ボタンを押す。取り憑いていたなにかが離れたのか、意識を失って倒れたリサをニックが抱き上げている比較的怖くないところでストップした。やっと安堵した侵入者は、へとへとになりながら上履きを脱いで映汰のほうへ歩いてくる。

「うあ、はあ……。ごめん、驚かせて……。きょうここで忘れもんしちゃって取りにきたんだ」
「お、おお、うん」

彼はちょうど、映汰のふたつうしろの席に向かう。例の英語の教科書が目当てだったらしい。あったあった、とリュックに入れたはいいものの、なぜか停止している画面をじっと見つめている。なかなか部屋から出て行かない。

「すげー、こわ……なんでこんな怖いの見てんの?」
「部活、だから」
「え、何部?」
「映研、映画研究部」
「映研か!そっか」

まさか話しかけられるとは思っていなかった。映汰はぽんぽんと進む会話に戸惑いながら答えつつも、不思議と嫌ではない。

「いつもホラー?」
「ああ、うん。俺しかいないから……?」
「へぇ、うーん……なるほど……よし!」

腕を組んでしばし悩み、彼はなにかを決めたようだった。質問責めに困惑している映汰をまっすぐ見る瞳は好奇心と期待と、すこしの恐怖がまぜものになっている。ニックの瞳に似ていると、映汰は思った。

「俺も、映研入っていい?」



 映画のメインテーマとともに数分続いたエンドロールも終わり、スクリーンがメニュー画面を映し出した。『他界子(たかこ)』は昔からある作品で、いわばジャパニーズホラーの金字塔だ。有名すぎるがゆえさまざまなパロディ作品はあれど、やはり第一作は荒い画素も相まってほかにはない味がある。二時間三十分以上にあった満足感と心地のいい脳の疲労感に、映汰はあぐらをかいたままぐっと伸びをした。反対に隣に座る侵入者改め、笹生はぼへえ、と魂が抜けたような声を出したあと、顔を手で覆いながら布張りの床に寝っ転がった。

「ガチで怖かった……先週はそんなに怖くなかったのに……いや怖かったけど……」
「こないだの『他界子VS魔魅子』はギャグだって。きょうのは怖いよって言っただろ」

ほら片付け、と映汰が立ち上がると、笹生ものっそり上体を起こす。いつも笹生が映汰に飛びついてくるものだから、彼が映研に入ってからの鑑賞は、前から真ん中あたりの机を適当に退かして地べたに座って観るようになった。最初のころは椅子に座った状態で抱きつかれ何度か危なかった。これは笹生に責があるため、元に戻す作業は彼にやらせている。
 遮光カーテンを開けると空は鮮やかな橙色とピンクのグラデーションに染まっていた。五月も後半、日もだいぶ高くなったグラウンドではまだまだ運動部が活動している。コーチや顧問が喝を入れる声、賑やかな掛け声もこんなところまではっきり届く。映汰は地上を見ながら、笹生に問うた。

「笹生」
「なにー?」
「バスケ部いつから復帰すんの?」
「あー、うーん……」

ミーティングチェアをせっせと運んでいた彼は足を止めて、数秒考えた。廊下を誰かが走っている。上履きがリノリウムで跳ねる音。

「まだいいかな」
「まだいいとか、あんの?」
「あんの」

気の抜けた返事だった。振り返って見る薄づきの影のなかにいる笹生は、ちょっといたずらっぽく笑った。これ以上突っ込んで聞ける雰囲気でもない。映汰もふーん、とだけ頷いた。
 笹生は、バスケ部を春から休部しているらしい。詳しいことは分からないが、怪我をしたのか聞いたらそうではないと言う。まあひとに知られたくないことのひとつやふたつあるだろう。映研に参加できているのも部活がないからだ。
 飛びつかれること以外映汰はとくに迷惑していないし、レポート以外で誰かと感想を言い合えるのも悪くない。教師に騒がしすぎて怒られるまではこのままでいいかと考えていた。

「それにさあ、楽しいんだよね。麦野っていままでの俺の友達にいたことないタイプだから」
「根暗ってことか?おい」
「違う違う!とにかくさ、麦野と映画見るのが楽しいってこと」

恥ずかしげもなく彼はそう言ってのけた。たぶん、映汰だったらおなじことを思ったとしても性格上、一生かかっても伝えられないだろう。友達、の響きがくすぐったい。

「なあ、来週なに観る?」
「来週は……ゾンビ系」
「えー!?あんまグロくないやつにして!」

ゴールデンレトリバーみたいに楽しげに、笹生は帰り際、いつも来週の映画を尋ねてくる。プロジェクターからDVDを取り出しながら映汰は答えたが、すこしぶっきらぼうになってしまった。柄にもなく照れているなんて、気づかれたくない。笹生がいなかったときよりも、金曜日が楽しみになっていること。