【短】追いついて、隣で。




 *



 交差点の付近に人影を見つけて、瑞稀はそちらへと駆けていった。すっかり塩素で色素が抜けた茶髪が揺れる。今日は瑞稀のほうが遅かったみたいだ。


「おはよ、澄水!」

「瑞稀、おはよう」

「今日は早かったんだな! 普段は俺のほうが早いのに」

「気分が向いたから、早く来てみただけだよ」


 部活の荷物が入ったチームでおそろいのナップサックを持った二人は並んで学校へと歩き出した。

 周囲には二人と同じジャージや、他校のジャージを着た生徒がまばらに歩いている。それもそのはず、今日は四ヶ月に一度の水泳の記録会があるのだ。


――あれから何年経ったっけ。


 瑞稀はぼんやりと思い出す。昔、澄水に『ぜったいかつ』と言ったような。


――まだ一回も勝ってないけど。


 タイムの差は0.5秒にも及ぶ。たかが0.5秒とはいえ、縮めるのは難しい。


――高校生にもなったし、そろそろ勝ちたいよな。


 澄水に勝つことだけを考えて水泳に熱中していたら、もう高校生になっていた。来年は受験が控えており、チャンスは今年が最後みたいなものだ。

 瑞稀は両頬をぱしんと叩くと、澄水に話しかけた。


「今日来るのって五校だっけ?」

「そうだよ。かなりの人数が来ると思う」

「速い選手どれくらいいるかな?」

「それなりにはいるんじゃないかな」


 話しながら歩いていると、わりと新しい校舎が見えてきた。他校の選手たちは開放玄関から入るが、この学校の生徒である二人は正面玄関から入る。

 長い廊下を通り、屋内プールへと向かう。二人が通うこの学校には記録会や大会の会場校になるほど設備が整ったプールがあり、そこで日々練習に励んでいた。

 二人がプールへ到着すると、そこは練習では見ないほどの人が集まっていた。応援しに来た保護者やマネージャーなど、選手以外の人も多い。人混みを気にせず歩いていく澄水について行って、更衣室に入る。

 水着に着替えた上からジャージを着て、水筒や補食、タオルなどをナップサックに詰め込んでからプールサイドに出た。

 本番が始まるまでは学校ごとにアップを行い、本番が始まってからは二階にある応援席で先輩や後輩を応援しながら順番が近付いてくるまで待機する。体を冷やさないようにベンチコートを着て少しずつゼリー飲料などを摂りながら、瑞稀は呟いた。


「……やばい、緊張してきた」

「この前も言ってなかったっけ。今はさすがに泳げないから、イメトレでもしてなよ」


 区大会の出場選手を決めるための記録会。タイムがいい順で、枠は各校三つ。

 前日になってまで忘れていた瑞稀は、澄水に教えてもらって『緊張してきた……!』と慌てていた。それを聞いた澄水が『今日は程々に』と注意していたのが昨日のことである。

 澄水に言われた通り今は泳げないため、瑞稀は自分の泳ぎをイメージしてみることにした。

 飛び込みのタイミング、そこからの浮き上がり、全体を通してのストローク数、ターン、ラストスパートへの体力の配分。あとは澄水や部長から言われてきた、やや右にかたむきがちのフォームをどう改善するか。

 普段のコンディションと今日のコンディションを組み合わせて考えているうちに、あることに気がついた。


「なあ聞いて! 俺さ、最近水と仲いいんだ!」

「……それって調子がいいってことだっけ」

「そうそう! 澄水に勝てる日も近いんじゃないかなー、なんて思ったり」


 何気なく放った言葉に澄水の表情が硬くなったのが、瑞稀にも分かった。知らずのうちにどこかで地雷を踏んでしまったのだろうか、まずいことを言ってしまったのだろうかと、自然に表情をうかがってしまう。


「……瑞稀には負けないよ。こっちこそ、絶対」

「澄水って基本穏やかなくせに意外と負けず嫌いだよな」

「そうかな。なにがあっても瑞稀には負けたくないってだけだよ」


 それを聞いてほっとしたのと、やっぱり澄水に勝ちたいという気持ちが膨らむのを感じた。今日こそは、と大会や記録会のたびに思うことをまた思う。


「瑞稀、そろそろアップしに行こう」

「分かった!」


 荷物を持って澄水と並ぶ。一階まで下りてプールサイドの端でストレッチをし、一つ前の組が泳ぎ始めたあたりで自分のコースのスタート台の裏にあるベンチに荷物を置いた。

 瑞稀は三コースに、澄水は四コースに。コースは内側から外側へ、タイムが速い者順に決められており、この組の中だと瑞稀は三番、澄水は一番の位置になっていた。

 ジャージを脱いで、水筒を出しておく。キャップとゴーグルを着用し、隣にいる澄水に話しかけた。


「勝つ!」

「ここんとこそれしか聞いてないよ。大丈夫、俺も本気で泳ぐから」

「……勝つ!」

「やめて、ちょっとだけ圧が来てる」


 前の組のタイムが発表されたらしく、二階から歓声が降り注ぐ。それと同時に、瑞稀は横に腕を伸ばしていた。無意識だ。

 ぱん、と拳を交わしたあと、澄水から離れた。

 両肩を回して大きく伸びをする。手足を軽く振り、改めてプールと対面したところで、

 ピーッ

 審判の長いホイッスルの音が響き、最終組の選手たちはそれぞれスタート台へ上った。瑞稀も澄水とほぼ同じタイミングで立つ。

 利き足である左足は前、右足はつま先をブロックの縁へ、重心を前にのせて前のめりに。クラウチングスタートの姿勢をとった瑞稀に、コースロープの赤と黄色は細かく揺れているように見えた。


「Take you marks」


 瑞稀が、周りの選手が、会場が、あらゆる音が静止した。聞こえるのは、自分が胸いっぱいに息を吸った音だけ。

 合図からほんの少し間を置いてから、

 ピピッ

 電子音とともに台を強く蹴り出し、無音のまま一直線に水中へ飛び込んだ。

 やや直進してドルフィンキック、浮き上がってから最後にもう一度大きく打ち、キックとストロークを始める。


――ああ。


 指先で水を切り裂き、手のひらが入水したそのときから重い水の塊をつかむ。水の壁を後ろに押し出すような感覚だ。


――今日は、いい。


 太ももの根元から駆動する鞭のようなキックが、規則正しいビートを刻む。


――水が手助けしてくれてる。


 呼吸の回数はできるだけ減らし、勢いを、タイムをロスしないように、足りない酸素でかろうじて体を動かしていく。


――味方になってくれてる。


 自分が水をかき分けて進んでいく音と、心臓の鼓動しか耳には入らない。呼吸のために水上に出るそのときだけ、歓声が細切れに聞こえる。

 あっという間に半分、迫りくる壁に向かって体を折りたたみ、全脚力で弾けるように壁を蹴り返した。

 ここからは酸欠との戦いだ。

 焼け付くように痛む腕を、意志の力だけで動かし、引いた。

 視界はとっくに狭まり、プールの底のラインと手の先の気泡しか見えない。

 ラスト25メートル。肺が熱い。両腕はすでに感覚がなく、コンクリートのようだ。

 それでも、隣の影を追い抜こうと水をかきむしる。


――あとひと搔き。

――あとひと搔き。


 掠め取ったわずかな空気を肺へ叩き込む。

 跳ねる足首とストロークのテンポを狂わせないように、だが指先を死に物狂いで壁へと伸ばした。


「――……っ!」


 触れてからすぐ、水中から現実へと引き戻され、聴覚と視覚が戻ってくる。それに合わせて痛みと疲労が全身に襲いかかってきて、体が沈みそうになった。

 キャップとゴーグルを外し、隣のレーンを泳いでいた澄水と目が合ってから電光掲示板へと視線を移した。

 白い文字を見つめる。タイムはコース順に表示されており、上から三行目に名前があった。タイムは――そして勝敗は。

 54''93

 その一つ下の行には、澄水の名前とともに、

 54''65

 負けた。僅差ではなくストレートで負けた。また、届かなかった。

 だが。

 瑞稀はどうにかプールからあがって、荷物の中から飲み物とタオルを取り出した。澄水の分も出して渡す。

 泳ぎ終わった直後で話すほどの余裕はないため、ただ水分を補給してジャージを羽織ってから観客席に戻る。疲労で普段の元気な様子はないが、瑞稀の肩は落ちておらず、背筋は伸びていた。


「……俺さ、一つ前の記録会で55''11だったんだよな」


 階段を上りながら、口を開いた。疲れがたまっていて、普段だったら観客席についてしばらくしても無言でいるくらいだ。しかしこればかりは話さずにはいられなかった。


「俺、澄水に負けたけど、タイム縮まって嬉しい。それに、大会にも出場決定したし」


 澄水はなにも話さない。それは疲労による沈黙ではなく、機嫌が悪いことによる沈黙に感じた。今度こそ地雷だったのだろうか。


――それより。


 澄水の不機嫌とやらは気にならなかった。それよりも、澄水に勝てるかもしれないという可能性が高まったことが気になった。

 今まで澄水が一番で、自分はどう頑張っても二番手でしかなかった。どうせ澄水が一番、と考えたことは数回ではない。

 そうだったのに、それがひっくり返った。

 もしかしたら、澄水に勝てるかもしれない。初めて澄水を抜いて、澄水が立っているところに上ることができる日が来るかもしれない。

 まだ可能性でしかないが、それは十分すぎるほどだった。

 反対に澄水も可能性を感じ取っていた。瑞稀が笑っていたからだ。

 前なら絶対に悔しそうな顔をしていたのに、笑っている。負けたのに、笑っている。

 自分との勝負だけを見て泳いでいた瑞稀が、そうではなくなってしまったような、澄水に勝つことへの執着が薄くなって離れていってしまったような、そんな気がした。