「嘘だ…」
高校二年生の初日、俺は、廊下に張り出されたクラス表の前で立ち尽くしていた。
そこには、「涼原 湊翔」と、間違いなく俺の推しの名前が書かれている。
二年生の教室に足を踏み入れた、という感慨を感じる間もなく教室に入り、俺は頭を抱えた。
推しと言う存在ができてから、俺は、推し活についてできるだけ勉強した。
それは、推しに絶対迷惑をかけたく無いからだ。
ファンやオタクにも色々な種類があって、例えば、本人に会いたい、繋がりたいという人もいれば、会いたいわけではない、というひともいる。
俺は、完全に後者で、できるだけ、推しの瞳に映りたくない、俺と言う存在を認識しないでほしい、なんなら同じ空間にもいたくない、そういうタイプだ。
だって、推しに俺の吸った空気を吸わせるかもしれないなんて…そんな恐れ多いことできるわけがない!
考えただけで、体が震えた。
とにかく、俺が勝手に推しているだけなのだ。絶対に、推し本人には、知られるわけにも、迷惑をかけるわけにもいかない。
1年間、隠し通さねば。と拳に力を入れて気合いを入れ直す。
「はよ!」
急に後ろからどつかれて、俺は何事かと後ろを振り向いた。
そこには、見た目だけはすこぶる良い幼馴染が立っていた。
「え、同じクラスなの?」
「嘘だろ!?書いてあったじゃん!クラス表に!!」
推しに気を取られて、幼馴染の名前なんて、全く見ていなかった。
だが、そう言うわけにもいかない。
「…気がつかなかった。」
「苗字前後じゃん…絶対目に入るじゃん…」
シクシクなどと、わざとらしく言いながら、俺の前の席に座る。
幼馴染の苗字は「花房」、俺の苗字は、「柊木」なので、確かに出席番号順だと前後だ。
「いやー、助かるわー。これで今年の課題は安泰だな!」
「そろそろ自分でやりなよ…」
「11年目にして?無理無理!!」
「誰がこんなにこいつを甘やかしたんだ…」
「優しい優しい柊木様!いつもあざっす!!」
すでにやかましい幼馴染に頭が痛くなる。
まだ始まってもいないのに、この一年が不安で仕方がない。
「えー!2組花房くんいるの?いいなぁ〜!!」
廊下の方から女子の声が聞こえてくる。
「サッカー部のキャプテン候補だし、背高いし、笑顔も可愛いし、目の保養じゃん!超うらやましい!!」
きゃあきゃあと花が咲いている話題の主人公に、俺はじっとり目を向ける。
「腹減ったな…。柊木なんか持ってない?」
本人は、全然聞こえていないようで、お腹をさすりながらそんなことを口にした。
こいつ、そんなにいいもんではないですよ…心の中で廊下の女子会に水を差しつつ、ため息をついて、放課後食べる予定で作ってきたおにぎりを取り出した。
「まじ!?ありがとう!!」
差し出したおにぎりは、すごい勢いで花房の口の中に吸い込まれていく。
「朝練でお腹ぺこぺこでさー」
「飲み込んでから話しなさい。」
米を口に入れたまま喋り出す花房を睨む。
花房は頷いて、おにぎりを食べることに集中し始めた。
「柊木はどんどん料理の腕が上がるな〜」
幼馴染は、おにぎりをまじまじと見つつそんなことを言う。
「親が忙しいから自分で作ってるだけで、誰でも作れば腕は上がるよ。花房もやってみたら?」
「いや!俺はいいや!まだ食べる専門でいるわ!」
焦ったように首を振る幼馴染は、明らかに話題を変えた。
「いや〜、それにしても、柊木、前髪長すぎない?せっかく綺麗な顔してんだから、切ればいいのに。」
「お前に言われたくない。いいんだよ。これはこれで楽だから。」
花房に言い換えしていると、騒がしかった教室が急に静まり返った。
何事かと顔を上げると、教室に入ってきた背の高い男子に、みんなが目を向けている。
少し癖のある髪、切れ長の黒い瞳、高く通った鼻筋、形がいい唇、それが完璧なバランスで配置されている。背は、180cmを超える長身。背が高いだけでなく、体つきのバランスも完璧。
間近で見ると、まるで彫刻のようにも感じた。
間違いない。本物の涼原湊翔だ…!
間近で見る推しに、一瞬固まってしまったが、急いで顔を背ける。
もちろん、少しでも推しの視界に入らないためだ。
「陸部の涼原じゃね?」
おにぎりを食べながら花房が言う。
推しを決して見ないようにしている俺を見て、花房は怪訝な顔をした。
「知り合い?」
その言葉には、全力で首を振った。
「なにより、2組は涼原くんがいるじゃん!いいよね〜!!」
廊下の女子会は、まだ続いていたようで、そんな言葉が耳に飛び込んできた。
「よーし!!2年2組!!!!初のホームルーム始めるぞー!!!」
そう高らかに宣言しながら入ってきたのは、山野先生だ。
「まあ、じゃあ自己紹介からだな!」
山野先生のその言葉に、「えー」とも、「うえーい」ともつかない音で教室が溢れる。
「ということで、花房ー!そろそろおにぎり食うのやめろー!朝練で腹減ってるのはわかるけどな。」
その言葉に今度は、くすくすという笑い声で教室が溢れた。
「すんません!柊木のおにぎりうまくて!」
その言葉に、笑いに包まれていた教室は一転、ざわざわとした空気が溢れた。
俺は戦犯の花房の背中をキツめに睨んだ。
こんなのでは先が不安でしょうがない。
小さくため息をついた。
出席番号順に自己紹介が始まる。
人の自己紹介を聞きつつ、自分の自己紹介で何を言うかを考えるのは、意外と至難の業だ。
なんとか、自己紹介の原稿を頭の中で完成させると、ちょうど次が推しである涼原くんの順番だった。
涼原くんが立ち上がる。
やっぱり、背が高い、というか存在感がある。
涼原くんは前を向いているので、後ろの席の俺は視界に入らないだろう。
それを良いことに、涼原くんをガン見する。
俺だけではなく、明らかにクラス中の視線も強まった気がした。
「…涼原 湊翔です。」
それだけ言って座ってしまう。
「涼原ー!部活と趣味!」
山野先生のその声に、涼原くんはもう一度立ち上がって口を開いた。
「陸上部です。趣味は…走ることです。よろしく。」
推しのその言葉に、毎日、暗闇の中を切り裂くように走っていた姿が頭の中に浮かぶ。
説得力あるなぁ…
「じゃあ、次!花房!」
推しの姿を頭で再生してるうちに、花房まで来ていたらしい。
次だと考えると、途端に緊張してきた。
「花房 陽介です!サッカー部で、好きなことはサッカー!最高の一年にしましょう!よろしく!!」
ピース付き超笑顔の自己紹介だ。
教室は大いに盛り上がった。
「花房〜俺は心配だよお前がいるこのクラスが」
そう言う山野先生には心の底から同意するが、それどころではない。
こんなに大盛り上げしやがって。
この後に自己紹介するやつの気持ちも考えろよ。
戦犯の花房をこっそり睨む。
「次は柊木だな!放送部!よ!本業!」
教室を盛り上げた幼馴染は、俺を振り返ってこっそり声をかけてくる。
そのニッカリとした笑みに毒気も抜かれてしまった。
そもそもなんだ、本業って。
いまだ騒がしい教室の中、俺は恐る恐る立ち上がった。
放送室のマイクの前に座った時のように、まず息を吐く。
そして軽く吸う。
口を開いた。
「柊木 宙です。」
名前を言った途端、すごい勢いで推しがこちらを向いたのが視界の端に映った。
な、なんだろうか?
変なこと言った?
まさか…さっきの自己紹介のとき、めちゃくちゃ見てたのバレてた?
とにかく言い切らねばと、再び口を開く。
「ぶ、部活は放送部です。」
ガタン!と音が響いた。
俺を含めて、みんな音のした方を向くと、なぜか推しが立ち上がってこちらを凝視していた。
やっぱり、見ていたのがバレたのだろうか?
それか、何かしてしまっただろうか?
俺はもう、恐ろしさのあまり動けなくなった。
立ち上がって固まったまま動かない涼原くんと、動けない俺と、静まり返った教室。
「なんだー涼原?もう一回自己紹介するか?」
山野先生のその声で魔法が解けたように、全てが動き出した。
ついでに俺の体も動き出した。
慌てて席に座る。
もうこれ以上立っている勇気はない。
涼原くんは、「すいません」と言って、席に座った。
花房がぐるりと俺の方を向いて言った。
「やっぱり知り合いか?」
俺は力無く首を振った。
そこからはもう他の生徒の自己紹介は耳に入ってこなかった。
******
自己紹介の後、推しがこちらを見ているような、こちらに声をかけようとしているような、そんな気配を感じなくもなかったが、全て花房を盾にしてかわした。
推しの視界に入ってはいけないという使命感と、シンプルに怖いという理由で逃げ回った。
そもそも午前中はほとんど、全校集会だとか、学年集会とかで体育館にいたので、逃げ回ることは難しくなかった。
「涼原ここ座れよ!!」
なぜか一緒にお昼ごはんを食べることになるまでは。
そもそも昼休みが始まった当初はこうではなかった。
涼原くんの周りには人だかりができていて、彼を取り囲んでの食事が始まろうとしていたのだ。
だから、俺は安心して、隅の方でひっそり食べようと思っていたのに…!!
取り囲まれた涼原くんを横目に、俺はお弁当を広げた。
俺のお弁当を見て、朝練が終わってから持参したお弁当を食べてしまったと、捨てられた子犬のような顔で言う幼馴染を見捨てられずに、お弁当の蓋に、おかずと白米を半分ずつよそってやっていた。
せっせとお弁当移植作業をしていると、俺と花房とその間の弁当に大きな影が落ちた。
急に曇りでもしたのかと顔を上げると、そこには涼原くんが直立していた。
「うわあ!」
「おー!涼原!おつかれ!」
驚いた俺に対して、花房は全く動じていない。
なんで!?さっきまで人に囲まれてたのに!!
思わず推しの席の方を見ると、なぜか、本人不在の席を取り囲んでみんな昼ごはんを食べていた。
宗教のような異様な光景に驚く。
そんな俺の様子に気づいたように、涼原くんが言った。
「みんなあの辺の席で食べたかったみたいだ。俺は邪魔になりそうで…。だから一緒に食べても良いか?」
絶対にそうではない。
むしろ、みんなあなたが目当てだったのに。
俺の推しは天然だったのだろうか…。
顔からは想像もつかなかった推しの新たな一面を発見した。
******
「もちろん!一緒に食おうぜ!」
状況を把握する間もなく、持ち前の明るさでそう返した戦犯の花房をこっそり睨む。
「涼原!ここ座れよ!」
空席の椅子を引き寄せて、俺の机を取り囲むように、推し、花房、俺が座る。
これはもう逃げられない。
取り調べを受ける犯人の気分だ。
俺は、肩幅をできるだけ狭めて、そっと座り直した。
「俺は花房!よろしくな!」
どこぞの少年漫画主人公よろしく、ニッカリ笑って花房が言う。
「おう。よろしく。俺は、涼原。」
次はお前だとでも言うように、二人の視線が俺に集まる。
俺は、恐る恐る口を開いた。
「柊木です…。よろしくお願いします。」
推しはやっぱり俺をじっと見ている気がする。
できるだけ目を合わせないように、下を向いた。
「よし!じゃあ食べようぜ!俺もうお腹ぺこぺこだよ!」
そう言って花房は蓋の上に乗せたおかずを食べ始める。
俺も、恐る恐る箸を持った。
できるだけ、気配を消すように努める。
「そう言えばさぁ、涼原、去年のインターハイ出たんだろ?すげえよな!そんなやつがこの高校にいるの知らなかった。」
「去年、急にタイムが伸びたんだ。たまたまだ。」
たまたまなんかじゃない。毎日遅くまで自主練してたじゃないか。努力の結晶だろ…!
ダメだ。推しの話を聞くとどうしてもファン心が出てしまう。
絶対バレてはならないのだ。
気を引き締め直さないと!!
「柊木は…」
推しに急に名前を呼ばれて飛び上がるほど驚く。
気配が漏れていたのだろうか。
「柊木は、放送部…なんだよな…?」
「あ、うん。そうです…。」
平静を装え。
絶対にバレてはならない。
「もしかして…柊木?いつも下校時間の放送してるの。」
バレてた!!
頭が真っ白になる。
「去年の5月くらいから、放送してるよな?俺の自主練たまに見てたのも、柊木?」
ぜ、全部バレてた…
どうしよう。なんて言おう?
ずっと見られてたなんて気味が悪いに決まってる。
推しにそんな思いをさせたのが申し訳なくて、俺はもう涙が出そうだった。
「ご、ごめん。その、いつも遅くまで練習してるよね?それで、その、下校時間、いつも過ぎてるみたいだったから…」
しどろもどろの謝罪なのか、言い訳なのか、どちらともつかない言葉が出る。
肝心なときにうまく話せないなんて…!
自分の不甲斐なさに絶望したときだった。
「…あれ、ずっと俺のために放送してくれてたのか?」
しどろもどろの言い訳を遮られる。
涼原くんは、真っ直ぐに俺を見ていた。
その顔を見たら、それ以上言い訳を言えるわけもなく、ただ黙って頷く。
顔を上げるのが怖くて俯いた。
取り調べどころではない。死刑宣告を受ける気分だ。
急に手が暖かいものに包まれたような感覚がして、思わず顔を上げる。
なぜか、俺の手は、涼原くんに握られていた。
「じゃあ、柊木は俺をずっと応援してくれてたのか。ファン一号だな。」
…怒ってない…?
…気味悪がってもない…?
「これからも、俺のことずっと応援してほしい。」
そう言って笑う涼原くんを見て思った。
俺の推しは神様かもしれない。
「なんか、よくわかんねえけど良かったな?」
もぐもぐと食べながら話す花房の声に、我に帰った。
なぜかよくわからないが、推しに手を握られているので、素早く手を引っ込める。
「そういやさ、」もぐもぐしながら花房が何事もなかったように話し出す。
「涼原のファンクラブできてるよな?」
「インターハイ出てから、応援してもらえるようになって…」
「確かに!秋ごろから急に陸上部の練習場所に女子が増えたよな!サッカー部でも話題になってたぞ。」
「サッカー部こそ多いだろ?」
「うちはそもそも大所帯だから!その分差し入れもらえるからラッキー。涼原は?差し入れとかめちゃくちゃもらうんじゃねえ?」
「いや…俺は断ってる。」
「そうなのか?ああ、制限とか?」
花房は涼原くんのお昼ご飯をじっと見つめる。
そこには、栄養バーとゼリー飲料がいくつかあった。
「いや、これは別に…」
そう言った後、涼原くんは、花房の弁当の蓋を見つめた。
「花房の弁当箱…変わった形だな。」
「違う違う!俺、朝練の後我慢できずに昼の分の弁当食っちゃったんだよ。だから、柊木に分けてもらったの。これは弁当箱じゃなくて、弁当箱の蓋ね。」
涼原くんは、心配そうな顔をして、俺を見る。
「分けて昼飯足りるのか?大丈夫か?」
推しに心配させてしまうなどファン失格だ。
俺は、慌てて手を振った。
「大丈夫です!今日は多めに作ったから!」
「…作った…?」
「柊木は料理うまいんだ。弁当も自分で作ってて。な!」
「いや、必要に駆られてやってるだけだから、うまいわけでは、」
「サッカー部にもたまに差し入れ作ってくれてさー!クッキーとかめっちゃ美味くて!みんなまた食べたいって言ってたわ!」
「…俺、もらったことない。」
急に涼原くんがじっとこちらを見つめてきた。
「な、なにを…?」
「柊木は、俺のファン一号なんだよな?でも、俺は柊木から差し入れ、もらったことない。」
「えっと、でも、差し入れ受け取らないんじゃ…」
「柊木の差し入れなら喜んでもらう。」
推しの端正な顔立ちに見つめられ過ぎて、頭がくらくらしてきた。
耐えきれなくなって頷いてしまう。
「えっと、じゃあ、何か作って差し入れさせていただきます。」
「じゃあサッカー部にも!!」
高らかに挙げられた花房の手を、なぜか、涼原くんはそっと掴んで下ろす。
「差し入れ、これからは俺だけに作ってほしい。」
花房のブーイングをものともせず、見つめてくる涼原くんに、俺はやっぱり頷くことしかできなかった。
******
放送室で、俺は頭を抱えていた。
もう最終下校時間だ。
放送をするべきか。しないべきか。
今日はずっとこればかり悩んでいて、勉強も手につかなかった。
本人にバレてしまった以上、なんというか、恥ずかしいし、今日は辞めてしまおうかと、100回目ほどの問答が始まる。
でも…。
「これからも俺のこと応援してほしい。」
そう言った涼原くんの顔を思い出す。
推しにそんなことを言ってもらえたのだ。
それならファンとしてできることを、やはり俺は全うしなければ…!
いつもよりドキドキする心臓を落ち着かせるために、胸を抑える。
少し息を吐いて、吸って、マイクに向けて口を開いた。
******
放送を終えて、靴箱に向かう。
いつもはない靴箱にもたれている人影を見つけた。
「柊木、一緒に帰ろう。」
俺に向かって片手を上げ、微笑んだその人影は、推しの形をしていた。
なぜか、推しと一緒に歩く帰り道。
こんな状況、昨日までは想像もしていなかった。
昼はまだ、花房もいたからなんとかなった。
でも、二人きりは…!!
「柊木は電車?」
「そうです!」
「昼間も思ってたんだけど、なんで敬語?」
推しに緊張しているからです!とは流石に言えない。
「な、なんとなく?」
「じゃあ、タメ口にして。ファン一号におねがい。」
そう言われると、ファンである俺は頷くしかない。
学校の最寄駅には、すぐに着いてしまう。
涼原くんは、駅の前で立ち止まった。
「俺は、向こうのバス停からバスなんだ。」
「あ、そうなんだ…。じゃあ…」
涼原くんを見送ろうとしたが、動く気配がない。
な、なんでだ…?と思っていたら、涼原くんが口を開いた。
「行っていいよ。俺、ここで見てるから。」
「ありがとう…?」
思わず感謝を述べてしまったが、これでは推しに見送らせてしまう。
それは、ファンとしてどうなのだろうか。
迷ったが、涼原くんは、動く気配が無い。
「ありがとう。」
もう一度頭を下げて、涼原くんに背を向けて歩き出す。
改札を通ってから、振り返ると、涼原くんはまだ見送ってくれていた。
高校二年生の初日、俺は、廊下に張り出されたクラス表の前で立ち尽くしていた。
そこには、「涼原 湊翔」と、間違いなく俺の推しの名前が書かれている。
二年生の教室に足を踏み入れた、という感慨を感じる間もなく教室に入り、俺は頭を抱えた。
推しと言う存在ができてから、俺は、推し活についてできるだけ勉強した。
それは、推しに絶対迷惑をかけたく無いからだ。
ファンやオタクにも色々な種類があって、例えば、本人に会いたい、繋がりたいという人もいれば、会いたいわけではない、というひともいる。
俺は、完全に後者で、できるだけ、推しの瞳に映りたくない、俺と言う存在を認識しないでほしい、なんなら同じ空間にもいたくない、そういうタイプだ。
だって、推しに俺の吸った空気を吸わせるかもしれないなんて…そんな恐れ多いことできるわけがない!
考えただけで、体が震えた。
とにかく、俺が勝手に推しているだけなのだ。絶対に、推し本人には、知られるわけにも、迷惑をかけるわけにもいかない。
1年間、隠し通さねば。と拳に力を入れて気合いを入れ直す。
「はよ!」
急に後ろからどつかれて、俺は何事かと後ろを振り向いた。
そこには、見た目だけはすこぶる良い幼馴染が立っていた。
「え、同じクラスなの?」
「嘘だろ!?書いてあったじゃん!クラス表に!!」
推しに気を取られて、幼馴染の名前なんて、全く見ていなかった。
だが、そう言うわけにもいかない。
「…気がつかなかった。」
「苗字前後じゃん…絶対目に入るじゃん…」
シクシクなどと、わざとらしく言いながら、俺の前の席に座る。
幼馴染の苗字は「花房」、俺の苗字は、「柊木」なので、確かに出席番号順だと前後だ。
「いやー、助かるわー。これで今年の課題は安泰だな!」
「そろそろ自分でやりなよ…」
「11年目にして?無理無理!!」
「誰がこんなにこいつを甘やかしたんだ…」
「優しい優しい柊木様!いつもあざっす!!」
すでにやかましい幼馴染に頭が痛くなる。
まだ始まってもいないのに、この一年が不安で仕方がない。
「えー!2組花房くんいるの?いいなぁ〜!!」
廊下の方から女子の声が聞こえてくる。
「サッカー部のキャプテン候補だし、背高いし、笑顔も可愛いし、目の保養じゃん!超うらやましい!!」
きゃあきゃあと花が咲いている話題の主人公に、俺はじっとり目を向ける。
「腹減ったな…。柊木なんか持ってない?」
本人は、全然聞こえていないようで、お腹をさすりながらそんなことを口にした。
こいつ、そんなにいいもんではないですよ…心の中で廊下の女子会に水を差しつつ、ため息をついて、放課後食べる予定で作ってきたおにぎりを取り出した。
「まじ!?ありがとう!!」
差し出したおにぎりは、すごい勢いで花房の口の中に吸い込まれていく。
「朝練でお腹ぺこぺこでさー」
「飲み込んでから話しなさい。」
米を口に入れたまま喋り出す花房を睨む。
花房は頷いて、おにぎりを食べることに集中し始めた。
「柊木はどんどん料理の腕が上がるな〜」
幼馴染は、おにぎりをまじまじと見つつそんなことを言う。
「親が忙しいから自分で作ってるだけで、誰でも作れば腕は上がるよ。花房もやってみたら?」
「いや!俺はいいや!まだ食べる専門でいるわ!」
焦ったように首を振る幼馴染は、明らかに話題を変えた。
「いや〜、それにしても、柊木、前髪長すぎない?せっかく綺麗な顔してんだから、切ればいいのに。」
「お前に言われたくない。いいんだよ。これはこれで楽だから。」
花房に言い換えしていると、騒がしかった教室が急に静まり返った。
何事かと顔を上げると、教室に入ってきた背の高い男子に、みんなが目を向けている。
少し癖のある髪、切れ長の黒い瞳、高く通った鼻筋、形がいい唇、それが完璧なバランスで配置されている。背は、180cmを超える長身。背が高いだけでなく、体つきのバランスも完璧。
間近で見ると、まるで彫刻のようにも感じた。
間違いない。本物の涼原湊翔だ…!
間近で見る推しに、一瞬固まってしまったが、急いで顔を背ける。
もちろん、少しでも推しの視界に入らないためだ。
「陸部の涼原じゃね?」
おにぎりを食べながら花房が言う。
推しを決して見ないようにしている俺を見て、花房は怪訝な顔をした。
「知り合い?」
その言葉には、全力で首を振った。
「なにより、2組は涼原くんがいるじゃん!いいよね〜!!」
廊下の女子会は、まだ続いていたようで、そんな言葉が耳に飛び込んできた。
「よーし!!2年2組!!!!初のホームルーム始めるぞー!!!」
そう高らかに宣言しながら入ってきたのは、山野先生だ。
「まあ、じゃあ自己紹介からだな!」
山野先生のその言葉に、「えー」とも、「うえーい」ともつかない音で教室が溢れる。
「ということで、花房ー!そろそろおにぎり食うのやめろー!朝練で腹減ってるのはわかるけどな。」
その言葉に今度は、くすくすという笑い声で教室が溢れた。
「すんません!柊木のおにぎりうまくて!」
その言葉に、笑いに包まれていた教室は一転、ざわざわとした空気が溢れた。
俺は戦犯の花房の背中をキツめに睨んだ。
こんなのでは先が不安でしょうがない。
小さくため息をついた。
出席番号順に自己紹介が始まる。
人の自己紹介を聞きつつ、自分の自己紹介で何を言うかを考えるのは、意外と至難の業だ。
なんとか、自己紹介の原稿を頭の中で完成させると、ちょうど次が推しである涼原くんの順番だった。
涼原くんが立ち上がる。
やっぱり、背が高い、というか存在感がある。
涼原くんは前を向いているので、後ろの席の俺は視界に入らないだろう。
それを良いことに、涼原くんをガン見する。
俺だけではなく、明らかにクラス中の視線も強まった気がした。
「…涼原 湊翔です。」
それだけ言って座ってしまう。
「涼原ー!部活と趣味!」
山野先生のその声に、涼原くんはもう一度立ち上がって口を開いた。
「陸上部です。趣味は…走ることです。よろしく。」
推しのその言葉に、毎日、暗闇の中を切り裂くように走っていた姿が頭の中に浮かぶ。
説得力あるなぁ…
「じゃあ、次!花房!」
推しの姿を頭で再生してるうちに、花房まで来ていたらしい。
次だと考えると、途端に緊張してきた。
「花房 陽介です!サッカー部で、好きなことはサッカー!最高の一年にしましょう!よろしく!!」
ピース付き超笑顔の自己紹介だ。
教室は大いに盛り上がった。
「花房〜俺は心配だよお前がいるこのクラスが」
そう言う山野先生には心の底から同意するが、それどころではない。
こんなに大盛り上げしやがって。
この後に自己紹介するやつの気持ちも考えろよ。
戦犯の花房をこっそり睨む。
「次は柊木だな!放送部!よ!本業!」
教室を盛り上げた幼馴染は、俺を振り返ってこっそり声をかけてくる。
そのニッカリとした笑みに毒気も抜かれてしまった。
そもそもなんだ、本業って。
いまだ騒がしい教室の中、俺は恐る恐る立ち上がった。
放送室のマイクの前に座った時のように、まず息を吐く。
そして軽く吸う。
口を開いた。
「柊木 宙です。」
名前を言った途端、すごい勢いで推しがこちらを向いたのが視界の端に映った。
な、なんだろうか?
変なこと言った?
まさか…さっきの自己紹介のとき、めちゃくちゃ見てたのバレてた?
とにかく言い切らねばと、再び口を開く。
「ぶ、部活は放送部です。」
ガタン!と音が響いた。
俺を含めて、みんな音のした方を向くと、なぜか推しが立ち上がってこちらを凝視していた。
やっぱり、見ていたのがバレたのだろうか?
それか、何かしてしまっただろうか?
俺はもう、恐ろしさのあまり動けなくなった。
立ち上がって固まったまま動かない涼原くんと、動けない俺と、静まり返った教室。
「なんだー涼原?もう一回自己紹介するか?」
山野先生のその声で魔法が解けたように、全てが動き出した。
ついでに俺の体も動き出した。
慌てて席に座る。
もうこれ以上立っている勇気はない。
涼原くんは、「すいません」と言って、席に座った。
花房がぐるりと俺の方を向いて言った。
「やっぱり知り合いか?」
俺は力無く首を振った。
そこからはもう他の生徒の自己紹介は耳に入ってこなかった。
******
自己紹介の後、推しがこちらを見ているような、こちらに声をかけようとしているような、そんな気配を感じなくもなかったが、全て花房を盾にしてかわした。
推しの視界に入ってはいけないという使命感と、シンプルに怖いという理由で逃げ回った。
そもそも午前中はほとんど、全校集会だとか、学年集会とかで体育館にいたので、逃げ回ることは難しくなかった。
「涼原ここ座れよ!!」
なぜか一緒にお昼ごはんを食べることになるまでは。
そもそも昼休みが始まった当初はこうではなかった。
涼原くんの周りには人だかりができていて、彼を取り囲んでの食事が始まろうとしていたのだ。
だから、俺は安心して、隅の方でひっそり食べようと思っていたのに…!!
取り囲まれた涼原くんを横目に、俺はお弁当を広げた。
俺のお弁当を見て、朝練が終わってから持参したお弁当を食べてしまったと、捨てられた子犬のような顔で言う幼馴染を見捨てられずに、お弁当の蓋に、おかずと白米を半分ずつよそってやっていた。
せっせとお弁当移植作業をしていると、俺と花房とその間の弁当に大きな影が落ちた。
急に曇りでもしたのかと顔を上げると、そこには涼原くんが直立していた。
「うわあ!」
「おー!涼原!おつかれ!」
驚いた俺に対して、花房は全く動じていない。
なんで!?さっきまで人に囲まれてたのに!!
思わず推しの席の方を見ると、なぜか、本人不在の席を取り囲んでみんな昼ごはんを食べていた。
宗教のような異様な光景に驚く。
そんな俺の様子に気づいたように、涼原くんが言った。
「みんなあの辺の席で食べたかったみたいだ。俺は邪魔になりそうで…。だから一緒に食べても良いか?」
絶対にそうではない。
むしろ、みんなあなたが目当てだったのに。
俺の推しは天然だったのだろうか…。
顔からは想像もつかなかった推しの新たな一面を発見した。
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「もちろん!一緒に食おうぜ!」
状況を把握する間もなく、持ち前の明るさでそう返した戦犯の花房をこっそり睨む。
「涼原!ここ座れよ!」
空席の椅子を引き寄せて、俺の机を取り囲むように、推し、花房、俺が座る。
これはもう逃げられない。
取り調べを受ける犯人の気分だ。
俺は、肩幅をできるだけ狭めて、そっと座り直した。
「俺は花房!よろしくな!」
どこぞの少年漫画主人公よろしく、ニッカリ笑って花房が言う。
「おう。よろしく。俺は、涼原。」
次はお前だとでも言うように、二人の視線が俺に集まる。
俺は、恐る恐る口を開いた。
「柊木です…。よろしくお願いします。」
推しはやっぱり俺をじっと見ている気がする。
できるだけ目を合わせないように、下を向いた。
「よし!じゃあ食べようぜ!俺もうお腹ぺこぺこだよ!」
そう言って花房は蓋の上に乗せたおかずを食べ始める。
俺も、恐る恐る箸を持った。
できるだけ、気配を消すように努める。
「そう言えばさぁ、涼原、去年のインターハイ出たんだろ?すげえよな!そんなやつがこの高校にいるの知らなかった。」
「去年、急にタイムが伸びたんだ。たまたまだ。」
たまたまなんかじゃない。毎日遅くまで自主練してたじゃないか。努力の結晶だろ…!
ダメだ。推しの話を聞くとどうしてもファン心が出てしまう。
絶対バレてはならないのだ。
気を引き締め直さないと!!
「柊木は…」
推しに急に名前を呼ばれて飛び上がるほど驚く。
気配が漏れていたのだろうか。
「柊木は、放送部…なんだよな…?」
「あ、うん。そうです…。」
平静を装え。
絶対にバレてはならない。
「もしかして…柊木?いつも下校時間の放送してるの。」
バレてた!!
頭が真っ白になる。
「去年の5月くらいから、放送してるよな?俺の自主練たまに見てたのも、柊木?」
ぜ、全部バレてた…
どうしよう。なんて言おう?
ずっと見られてたなんて気味が悪いに決まってる。
推しにそんな思いをさせたのが申し訳なくて、俺はもう涙が出そうだった。
「ご、ごめん。その、いつも遅くまで練習してるよね?それで、その、下校時間、いつも過ぎてるみたいだったから…」
しどろもどろの謝罪なのか、言い訳なのか、どちらともつかない言葉が出る。
肝心なときにうまく話せないなんて…!
自分の不甲斐なさに絶望したときだった。
「…あれ、ずっと俺のために放送してくれてたのか?」
しどろもどろの言い訳を遮られる。
涼原くんは、真っ直ぐに俺を見ていた。
その顔を見たら、それ以上言い訳を言えるわけもなく、ただ黙って頷く。
顔を上げるのが怖くて俯いた。
取り調べどころではない。死刑宣告を受ける気分だ。
急に手が暖かいものに包まれたような感覚がして、思わず顔を上げる。
なぜか、俺の手は、涼原くんに握られていた。
「じゃあ、柊木は俺をずっと応援してくれてたのか。ファン一号だな。」
…怒ってない…?
…気味悪がってもない…?
「これからも、俺のことずっと応援してほしい。」
そう言って笑う涼原くんを見て思った。
俺の推しは神様かもしれない。
「なんか、よくわかんねえけど良かったな?」
もぐもぐと食べながら話す花房の声に、我に帰った。
なぜかよくわからないが、推しに手を握られているので、素早く手を引っ込める。
「そういやさ、」もぐもぐしながら花房が何事もなかったように話し出す。
「涼原のファンクラブできてるよな?」
「インターハイ出てから、応援してもらえるようになって…」
「確かに!秋ごろから急に陸上部の練習場所に女子が増えたよな!サッカー部でも話題になってたぞ。」
「サッカー部こそ多いだろ?」
「うちはそもそも大所帯だから!その分差し入れもらえるからラッキー。涼原は?差し入れとかめちゃくちゃもらうんじゃねえ?」
「いや…俺は断ってる。」
「そうなのか?ああ、制限とか?」
花房は涼原くんのお昼ご飯をじっと見つめる。
そこには、栄養バーとゼリー飲料がいくつかあった。
「いや、これは別に…」
そう言った後、涼原くんは、花房の弁当の蓋を見つめた。
「花房の弁当箱…変わった形だな。」
「違う違う!俺、朝練の後我慢できずに昼の分の弁当食っちゃったんだよ。だから、柊木に分けてもらったの。これは弁当箱じゃなくて、弁当箱の蓋ね。」
涼原くんは、心配そうな顔をして、俺を見る。
「分けて昼飯足りるのか?大丈夫か?」
推しに心配させてしまうなどファン失格だ。
俺は、慌てて手を振った。
「大丈夫です!今日は多めに作ったから!」
「…作った…?」
「柊木は料理うまいんだ。弁当も自分で作ってて。な!」
「いや、必要に駆られてやってるだけだから、うまいわけでは、」
「サッカー部にもたまに差し入れ作ってくれてさー!クッキーとかめっちゃ美味くて!みんなまた食べたいって言ってたわ!」
「…俺、もらったことない。」
急に涼原くんがじっとこちらを見つめてきた。
「な、なにを…?」
「柊木は、俺のファン一号なんだよな?でも、俺は柊木から差し入れ、もらったことない。」
「えっと、でも、差し入れ受け取らないんじゃ…」
「柊木の差し入れなら喜んでもらう。」
推しの端正な顔立ちに見つめられ過ぎて、頭がくらくらしてきた。
耐えきれなくなって頷いてしまう。
「えっと、じゃあ、何か作って差し入れさせていただきます。」
「じゃあサッカー部にも!!」
高らかに挙げられた花房の手を、なぜか、涼原くんはそっと掴んで下ろす。
「差し入れ、これからは俺だけに作ってほしい。」
花房のブーイングをものともせず、見つめてくる涼原くんに、俺はやっぱり頷くことしかできなかった。
******
放送室で、俺は頭を抱えていた。
もう最終下校時間だ。
放送をするべきか。しないべきか。
今日はずっとこればかり悩んでいて、勉強も手につかなかった。
本人にバレてしまった以上、なんというか、恥ずかしいし、今日は辞めてしまおうかと、100回目ほどの問答が始まる。
でも…。
「これからも俺のこと応援してほしい。」
そう言った涼原くんの顔を思い出す。
推しにそんなことを言ってもらえたのだ。
それならファンとしてできることを、やはり俺は全うしなければ…!
いつもよりドキドキする心臓を落ち着かせるために、胸を抑える。
少し息を吐いて、吸って、マイクに向けて口を開いた。
******
放送を終えて、靴箱に向かう。
いつもはない靴箱にもたれている人影を見つけた。
「柊木、一緒に帰ろう。」
俺に向かって片手を上げ、微笑んだその人影は、推しの形をしていた。
なぜか、推しと一緒に歩く帰り道。
こんな状況、昨日までは想像もしていなかった。
昼はまだ、花房もいたからなんとかなった。
でも、二人きりは…!!
「柊木は電車?」
「そうです!」
「昼間も思ってたんだけど、なんで敬語?」
推しに緊張しているからです!とは流石に言えない。
「な、なんとなく?」
「じゃあ、タメ口にして。ファン一号におねがい。」
そう言われると、ファンである俺は頷くしかない。
学校の最寄駅には、すぐに着いてしまう。
涼原くんは、駅の前で立ち止まった。
「俺は、向こうのバス停からバスなんだ。」
「あ、そうなんだ…。じゃあ…」
涼原くんを見送ろうとしたが、動く気配がない。
な、なんでだ…?と思っていたら、涼原くんが口を開いた。
「行っていいよ。俺、ここで見てるから。」
「ありがとう…?」
思わず感謝を述べてしまったが、これでは推しに見送らせてしまう。
それは、ファンとしてどうなのだろうか。
迷ったが、涼原くんは、動く気配が無い。
「ありがとう。」
もう一度頭を下げて、涼原くんに背を向けて歩き出す。
改札を通ってから、振り返ると、涼原くんはまだ見送ってくれていた。
