寒い。
吐いた息が白い。
思わずもう一度息を吐いて確かめる。
俺は、凍えるように寒い学校の廊下を急いで歩いた。
外はもう真っ暗で、校舎にも校庭にもほとんど人はいない。
部室に入る前に、廊下の窓から校庭を眺めると、凍てつくような空気の中、いまだに動いてる影がひとつ、まるでそこだけ光っているように見える。
「毎日毎日本当にすごいな…」
思わず口に出ていたことに気づいて、俺は慌てて部室の中に入った。
部室も暖房は入っていなかったが、心なしか少し暖かい。
真っ暗な部屋の電気をつけて、機材の前に座る。
電源を入れてから、いつものように少し息を吐く。そして少し吸う。この瞬間、いつだって少しドキドキしてしまう。
俺は、マイクに向かって口を開いた。
「完全下校の時刻となりました。
残っている生徒は、速やかに帰宅しましょう。
寒い中、今日も一日、お疲れ様でした。」
ボタンを押して、機材の電源を切る。
今年最後の推し活が終わった。
大仕事を終えたような気持ちで、思いっきり伸びをする。
部室である放送室を出て、靴箱に向かっていると、まだまだ忙しそうな山野先生が手を挙げて、早足で近づいてきた。
「おう、柊木。お疲れ様。」
「先生も。お疲れ様です。」
「いやあ、師走っていうのは本当に慌ただしいな。」
山野先生は困った困ったと頭をかく。
「お前も、もう暗いから気をつけて帰れよ。全く、いつもこんな時間まで残ってるのは、お前と涼原(すずはら)くらいだぞ。」
「はい。帰ります。」
「あ、冬休みの宿題はちゃんとやれよ。お前は心配してないけど、花房(はなぶさ)にしっかりやらせておいてくれ。」
不意に聞こえた幼馴染の名前に、げんなりする。
曖昧に頷くと、山野先生はまだ疲れの残る顔で笑った。
「よし。じゃあ気をつけて帰れ。良いお年をな!」
「はい。先生も良いお年を。」
軽く頭を下げて、靴箱に向かう。
靴を履いていると、後ろからドタバタとした足音が聞こえてきた。
「走るなー!!お前さっきまで散々走ってただろ!涼原!!!!」
「すいません。」
「ったく。お前も気をつけて帰れよ!良いお年を。」
「せんせーも良いお年を。」
靴箱の反対側から、ガタガタと音がする。
姿は見えないが、彼も靴を取り出しているのだろう。
俺がちんたら靴を履いているのにも気づかず、彼は靴を履くと、凄まじい速さで校舎を出ていった。
遠ざかっていく彼の姿をそっと見送る。
相変わらず綺麗なフォームだな…。
今日は最後に推しの姿を見れた。
なんだか得をした気分だ。
俺は、初めて人生初の推しができた日のことを思い出していた。
******
あれは、今年の春。
高校に入ったばかりの俺は、もうすでにルーティン化された、つまらない生活を送っていた。
クラスで話す子はいるけど、遊びに行くわけではない。
放送部に入ったけど、先輩は揃いも揃って幽霊部員で、ほぼ俺一人で放送室にいる。
一人でいるので、放課後は特に練習などの部活内容も無く、贅沢に、防音の放送室を、自習室として使っていた。
よく存続しているな、とは思うものの、放送部は部活としての面より、委員会としての面の方が強い。
何かの行事や、日頃の雑用で必要があれば、放送部員を駆り出す。先生たちにとっては、それができれば良いので、黙認されている。
1人きりで勉強して、日が沈み始めたら帰るというのを繰り返していたのに、あの日、俺は放送室で爆睡してしまった。
自習をしていたつもりだったのに、いつ寝入ってしまったのか。
目が覚めた時には、最終下校時間ギリギリになっていることに気がついて、急いで校舎を飛び出した。
日なんかとっくに落ちていて、外は真っ暗。
俺の高校は、山に囲まれているので、春でも夜になるとなんとなく肌寒い。
辺りを見回しても誰の姿も見えない。
なんとなく体が震えて、俺は、何かを振り切るように早足で歩き出した。
学校の外に出るには、校庭を横切った方が早いと思い出して、校庭に足を踏み入れた瞬間、「それ」は近づいてくる気配がした。
恐る恐る、気配のする方に目を向けると、黒い物体がこちらに向かってくる。
先ほど見渡した時は、先生の姿も生徒の姿も見えなかった。
…ということは、もしかして、お化け?
一度考え始めると、もうそうとしか考えられない。
山の中の学校だから、野生動物に出会った時の対処法は教わっていたけど、お化けの対処法は教わっていない。
喉がカラカラになっていくし、動くこともできない。
その間も、どんどん距離が縮まってくる気配と音がして、俺はいよいよ目を瞑った。
ザッザッという近づいてきていた一定の音が、急に止まる。
そして、またザッザッと音がし始めて、その音が遠ざかっていく。
恐る恐る目を開けると、その影は俺に到達する前にUターンして、また離れていったようだった。
何が起こったのかわからず、ぽかんとその影を見ていると、またUターンして、こちらに向かってきていた。
お化けは、それを繰り返しているようだった。
暗闇の中、よく目を凝らすと、どうやら足がついている。
なんだ、人間か…
それがわかると、急に自分の体温が戻ってきた感覚がした。
「涼原ー!!!もう最終下校時間だぞー!!!帰りなさーい!!!!」
急に信じられないくらいの大声が校庭に響き渡って、心臓が止まりそうになる。
思わず声の方を見ると、靴箱から学年主任の山野先生が、手をメガホンにして叫んでいた。
「うっす。」
俺がお化けと間違えた人間、もとい涼原くんは、そう軽く返事をすると、弾丸のような速さで靴箱まで走っていった。
こんな遅くまで自主練している生徒がこの学校にいるとは知らなかった。
勝手にお化け扱いしたほんの少しの申し訳なさと、16歳にもなってお化けを怖がったというほんの少しの恥ずかしさで、俺はその日、早足になって帰った。
あの日、走っていた涼原くんを見てから、なんとなく気になって、自習が終わったあとは、窓から校庭を覗くようになった。
ひたすら走っているその姿は、綺麗で、眩しくて、目が離せない。
勉強に疲れて、今日はもう帰ろうかと思っても、休むことなく走り続ける、その姿を見ると、俺も頑張ろうと思える。
勉強くらいしかやることのないつまらない俺の人生に光が差し込んだようだった。
しばらく涼原くんを観察していると、いろいろなことがわかってきた。
涼原くんは、同じ高校一年生の陸上部。ほぼ毎日、彼は最終下校時間ギリギリまで自主練をしていた。
ギリギリというか、集中して、時間に気がついていないようで、最終下校時間を大体過ぎていた。
自主練を頑張っているのに、時間を過ぎて先生から大声で怒られる。それを繰り返しているのを見て、なんともやるせない気持ちになった。
彼の、一人夜遅くまで残っている自主練を見ている人は、どれくらいいるのだろうか。
涼原くんの姿に、勝手に元気をもらっていた俺は、勝手だが、何か返したくなったのだ。
だから、最終下校時間を放送することにした。
気づかないかもしれないとも思ったけど、最終下校時間を知らせる意味と、応援の意味を込めて。
初めて放送した日、そっと校庭を覗くと、涼原くんは、校庭にはもういなかった。
偶然かもしれない、そう思ったけど、その日から、毎日、最終下校時間を放送するようにすると、涼原くんが、時間を過ぎて先生に怒られている光景を見なくなった。
これはなんていう気持ちなのだろうか。
見ているだけで、元気をもらえて。
お返しに自分もそっと応援したくなる。
そんな気持ち。
「30秒でZ世代に質問のコーナー!みなさんの趣味を教えてくださ〜い!」
「えー!やっぱり推し活ですねー!」
「めっちゃわかる!!推しを見てると幸せだよねー」
「なんか、推し見た瞬間、人生に光が!バーって差し込んだって感じです!」
朝ごはんを食べながら横目で見ていたテレビでそう言っているのを聞いて、唐突に気づいた。
それだ。これが推しっていう感覚なのか。
それからは、ひっそり、迷惑にならないように、放課後練習を見たり、最終下校時間の放送に、「お疲れ様です」の一言を添えたりして、推し活をしてきた。
そして、その年の夏、涼原くんは、なんとインターハイに進むという快挙を成し遂げた。
それからは、学校中に、涼原くんのファンが生まれた。
吐いた息が白い。
思わずもう一度息を吐いて確かめる。
俺は、凍えるように寒い学校の廊下を急いで歩いた。
外はもう真っ暗で、校舎にも校庭にもほとんど人はいない。
部室に入る前に、廊下の窓から校庭を眺めると、凍てつくような空気の中、いまだに動いてる影がひとつ、まるでそこだけ光っているように見える。
「毎日毎日本当にすごいな…」
思わず口に出ていたことに気づいて、俺は慌てて部室の中に入った。
部室も暖房は入っていなかったが、心なしか少し暖かい。
真っ暗な部屋の電気をつけて、機材の前に座る。
電源を入れてから、いつものように少し息を吐く。そして少し吸う。この瞬間、いつだって少しドキドキしてしまう。
俺は、マイクに向かって口を開いた。
「完全下校の時刻となりました。
残っている生徒は、速やかに帰宅しましょう。
寒い中、今日も一日、お疲れ様でした。」
ボタンを押して、機材の電源を切る。
今年最後の推し活が終わった。
大仕事を終えたような気持ちで、思いっきり伸びをする。
部室である放送室を出て、靴箱に向かっていると、まだまだ忙しそうな山野先生が手を挙げて、早足で近づいてきた。
「おう、柊木。お疲れ様。」
「先生も。お疲れ様です。」
「いやあ、師走っていうのは本当に慌ただしいな。」
山野先生は困った困ったと頭をかく。
「お前も、もう暗いから気をつけて帰れよ。全く、いつもこんな時間まで残ってるのは、お前と涼原(すずはら)くらいだぞ。」
「はい。帰ります。」
「あ、冬休みの宿題はちゃんとやれよ。お前は心配してないけど、花房(はなぶさ)にしっかりやらせておいてくれ。」
不意に聞こえた幼馴染の名前に、げんなりする。
曖昧に頷くと、山野先生はまだ疲れの残る顔で笑った。
「よし。じゃあ気をつけて帰れ。良いお年をな!」
「はい。先生も良いお年を。」
軽く頭を下げて、靴箱に向かう。
靴を履いていると、後ろからドタバタとした足音が聞こえてきた。
「走るなー!!お前さっきまで散々走ってただろ!涼原!!!!」
「すいません。」
「ったく。お前も気をつけて帰れよ!良いお年を。」
「せんせーも良いお年を。」
靴箱の反対側から、ガタガタと音がする。
姿は見えないが、彼も靴を取り出しているのだろう。
俺がちんたら靴を履いているのにも気づかず、彼は靴を履くと、凄まじい速さで校舎を出ていった。
遠ざかっていく彼の姿をそっと見送る。
相変わらず綺麗なフォームだな…。
今日は最後に推しの姿を見れた。
なんだか得をした気分だ。
俺は、初めて人生初の推しができた日のことを思い出していた。
******
あれは、今年の春。
高校に入ったばかりの俺は、もうすでにルーティン化された、つまらない生活を送っていた。
クラスで話す子はいるけど、遊びに行くわけではない。
放送部に入ったけど、先輩は揃いも揃って幽霊部員で、ほぼ俺一人で放送室にいる。
一人でいるので、放課後は特に練習などの部活内容も無く、贅沢に、防音の放送室を、自習室として使っていた。
よく存続しているな、とは思うものの、放送部は部活としての面より、委員会としての面の方が強い。
何かの行事や、日頃の雑用で必要があれば、放送部員を駆り出す。先生たちにとっては、それができれば良いので、黙認されている。
1人きりで勉強して、日が沈み始めたら帰るというのを繰り返していたのに、あの日、俺は放送室で爆睡してしまった。
自習をしていたつもりだったのに、いつ寝入ってしまったのか。
目が覚めた時には、最終下校時間ギリギリになっていることに気がついて、急いで校舎を飛び出した。
日なんかとっくに落ちていて、外は真っ暗。
俺の高校は、山に囲まれているので、春でも夜になるとなんとなく肌寒い。
辺りを見回しても誰の姿も見えない。
なんとなく体が震えて、俺は、何かを振り切るように早足で歩き出した。
学校の外に出るには、校庭を横切った方が早いと思い出して、校庭に足を踏み入れた瞬間、「それ」は近づいてくる気配がした。
恐る恐る、気配のする方に目を向けると、黒い物体がこちらに向かってくる。
先ほど見渡した時は、先生の姿も生徒の姿も見えなかった。
…ということは、もしかして、お化け?
一度考え始めると、もうそうとしか考えられない。
山の中の学校だから、野生動物に出会った時の対処法は教わっていたけど、お化けの対処法は教わっていない。
喉がカラカラになっていくし、動くこともできない。
その間も、どんどん距離が縮まってくる気配と音がして、俺はいよいよ目を瞑った。
ザッザッという近づいてきていた一定の音が、急に止まる。
そして、またザッザッと音がし始めて、その音が遠ざかっていく。
恐る恐る目を開けると、その影は俺に到達する前にUターンして、また離れていったようだった。
何が起こったのかわからず、ぽかんとその影を見ていると、またUターンして、こちらに向かってきていた。
お化けは、それを繰り返しているようだった。
暗闇の中、よく目を凝らすと、どうやら足がついている。
なんだ、人間か…
それがわかると、急に自分の体温が戻ってきた感覚がした。
「涼原ー!!!もう最終下校時間だぞー!!!帰りなさーい!!!!」
急に信じられないくらいの大声が校庭に響き渡って、心臓が止まりそうになる。
思わず声の方を見ると、靴箱から学年主任の山野先生が、手をメガホンにして叫んでいた。
「うっす。」
俺がお化けと間違えた人間、もとい涼原くんは、そう軽く返事をすると、弾丸のような速さで靴箱まで走っていった。
こんな遅くまで自主練している生徒がこの学校にいるとは知らなかった。
勝手にお化け扱いしたほんの少しの申し訳なさと、16歳にもなってお化けを怖がったというほんの少しの恥ずかしさで、俺はその日、早足になって帰った。
あの日、走っていた涼原くんを見てから、なんとなく気になって、自習が終わったあとは、窓から校庭を覗くようになった。
ひたすら走っているその姿は、綺麗で、眩しくて、目が離せない。
勉強に疲れて、今日はもう帰ろうかと思っても、休むことなく走り続ける、その姿を見ると、俺も頑張ろうと思える。
勉強くらいしかやることのないつまらない俺の人生に光が差し込んだようだった。
しばらく涼原くんを観察していると、いろいろなことがわかってきた。
涼原くんは、同じ高校一年生の陸上部。ほぼ毎日、彼は最終下校時間ギリギリまで自主練をしていた。
ギリギリというか、集中して、時間に気がついていないようで、最終下校時間を大体過ぎていた。
自主練を頑張っているのに、時間を過ぎて先生から大声で怒られる。それを繰り返しているのを見て、なんともやるせない気持ちになった。
彼の、一人夜遅くまで残っている自主練を見ている人は、どれくらいいるのだろうか。
涼原くんの姿に、勝手に元気をもらっていた俺は、勝手だが、何か返したくなったのだ。
だから、最終下校時間を放送することにした。
気づかないかもしれないとも思ったけど、最終下校時間を知らせる意味と、応援の意味を込めて。
初めて放送した日、そっと校庭を覗くと、涼原くんは、校庭にはもういなかった。
偶然かもしれない、そう思ったけど、その日から、毎日、最終下校時間を放送するようにすると、涼原くんが、時間を過ぎて先生に怒られている光景を見なくなった。
これはなんていう気持ちなのだろうか。
見ているだけで、元気をもらえて。
お返しに自分もそっと応援したくなる。
そんな気持ち。
「30秒でZ世代に質問のコーナー!みなさんの趣味を教えてくださ〜い!」
「えー!やっぱり推し活ですねー!」
「めっちゃわかる!!推しを見てると幸せだよねー」
「なんか、推し見た瞬間、人生に光が!バーって差し込んだって感じです!」
朝ごはんを食べながら横目で見ていたテレビでそう言っているのを聞いて、唐突に気づいた。
それだ。これが推しっていう感覚なのか。
それからは、ひっそり、迷惑にならないように、放課後練習を見たり、最終下校時間の放送に、「お疲れ様です」の一言を添えたりして、推し活をしてきた。
そして、その年の夏、涼原くんは、なんとインターハイに進むという快挙を成し遂げた。
それからは、学校中に、涼原くんのファンが生まれた。
