大阪女子大生シィカ:行間は夜に埋まる

難波駅近く、狭い路地にある立ち飲み屋『たよし』。
店内に漂う串カツの油の匂いと、誰かがこぼしたビールの甘酸っぱい香りが、私の脳の「文学モード」を少しずつ溶かしていく。


「……でね、織田作之助の『夫婦善哉』って、実は食文化のカタログじゃなくて、あの救いようのない停滞感こそが大阪のリアルだと思うわけよ」


ゼミの先輩、河野(こうの)さんは、ジョッキを片手に熱っぽく語る。
彼は院進を控えた、いわゆる「インテリ崩れ」の空気を纏った人で、眼鏡の奥の瞳だけは妙に爛々と輝いていた。


「停滞、ですか。でも、柳吉と蝶子は結局、法善寺の善哉(ぜんざい)を食べて、また歩き出すじゃないですか。それって結構、前向きなんじゃないかなって思うんですけど」


私は、紅生姜の串カツを齧(かじ)りながら標準語で応戦する。
口の中に広がる刺激的な酸味。それが、河野さんの理屈っぽい話を中和してくれるような気がした。


「そこが甘いんだよ、シィカちゃん。彼らは『歩き出した』んじゃなくて、『ループ』に入っただけなんだ。大阪という街の、出口のない円環構造にね」
河野さんはニヤリと笑い、私の空になったグラスを指差した。


「もう一杯、行くでしょ?」
「……しゃあないですね」


三杯目。
話題が中上健次から、なぜか最近のサブカルチャーに移行し始めた頃、店内の喧騒がふっと遠のいた。
時計の針は零時半を指している。


もう南海も、近鉄も、地下鉄も、私を家に帰してくれる鉄の塊は動いていない。
「あー……。シィカちゃん、ごめん。話しすぎた。電車、もうないよね」
河野さんは申し訳なさそうな顔をしてみせたが、その瞳には「予定通り」という色が微かに混じっていた。


私はそれを責める気にはなれなかった。
だって、彼が語る文学論は確かに面白かったし、私もまた、その言葉のシャワーを浴び続けたいと願っていたのだから。


「タクシーで帰るのも、もったいないですよね。……どうします?」
私はあえて、選択権を彼に委ねた。
これは、私なりの「読者としてのマナー」だ。作者がどんなプロットを用意しているのか、まずは見届けてあげたい。


「……すぐそこに、友達がやってる静かな宿があるんだ。あ、変な意味じゃなくて、ほら、始発まで資料の整理の続きでもしようかなって」
「友達がやってる宿」なんて、大阪のど真ん中にそんな都合のいい場所があるわけがない。


けれど、私は彼の不器用な「伏線」を、あえて見逃してあげることにした。
「資料の整理、ですか。じゃあ、続きを聞かせてくれるなら」
夜のミナミは、昼間よりもずっと親密だ。


千日前から相合橋を渡り、少し歩いたところにある、古いビルの上階。
「ビジネスホテル」という名前の付いた、けれど明らかにビジネス目的ではない部屋の重い扉が開く。


部屋の中は、安っぽい芳香剤と、少しだけ煙草の匂いがした。

「……狭いですね」
「ああ、ごめん。まあ、座ってよ」


河野さんはベッドの端に腰掛け、さっきまでの饒舌さが嘘のように黙り込んだ。
私も、反対側の端に座る。


手元には、バイト先で借りてきた大正時代の歌集。
けれど、今の私はその頁をめくるよりも、隣にいる男の「行間」を読むことに夢中になっていた。


「シィカちゃん、さっきの続きだけど……」
河野さんの手が、私の肩に触れた。


その指先が少しだけ震えているのが分かって、なんだか可笑しくなった。
文学を語るときはあんなに強気なのに、現実の頁をめくるときはこんなに臆病なんだ。


「続き、教えてくださいよ」
私は標準語でそう言いながら、自分から少しだけ距離を詰めた。


そこから先の展開は、どの恋愛小説にも書かれているような、ありふれた、けれど確かな熱量を持った描写だった。
窓の外では、道頓堀のネオンが消え、深い青色が街を包んでいく。


河野さんの肌の温もりと、規則正しい鼓動。
私は彼の腕の中で、まるで難しい古典を読み終えたあとのような、心地よい疲労感に浸っていた。


「……シィカちゃん、寝てる?」
「……起きてますよ」


私は彼の胸元に顔を埋めたまま、短く答えた。
彼は満足そうに、私の髪を撫でている。


きっと彼は、これで私を「手に入れた」と思っているのだろう。
けれど、私にとってはこれもまた、一つのフィールドワークに過ぎない。


(……この人の伏線回収、ちょっと丁寧すぎて飽きるかも。知らんけど)
頭のどこかで冷めた批評をしながら、私はゆっくりと目を閉じた。


翌朝。


カーテンの隙間から差し込む、遠慮のない陽光に目を覚ます。
隣では、河野さんがまだ泥のように眠っていた。


私は物音を立てないように服を着替え、乱れた髪をシュシュで手早くまとめる。
鏡に映った自分の顔は、少しだけ寝不足そうだったけれど、肌の艶は悪くなかった。


枕元に、バイト先で借りた歌集を一冊、わざと置いていくことにした。
「また会うための理由」を残したわけではない。


ただ、彼が目覚めたときに、昨夜の出来事が夢ではなく、ちゃんと文学的な一幕であったことを思い出してほしかっただけだ。


部屋を出て、難波駅へと向かう。
御堂筋線のホームには、すでに現実という名の戦場へ向かうスーツ姿の人々が溢れていた。


スマホを取り出すと、一限の講義のグループLINEが騒がしい。
『誰か、今日の出席カードお願いできる?』


私はそれに返信せず、代わりに大きく伸びをした。
首筋に残った微かな痛みが、昨夜の「読書」の証。


「……さて。一限、代筆頼める相手、探さなあかんなぁ」
私は小さく呟くと、雑踏の中に紛れ込んだ。


都会の朝は、いつだって新しい物語のプロローグだ。
そして私は、今日もまた、面白い頁を探して街を歩き始める。