大阪女子大生シィカ:行間は夜に埋まる

千日前の道具屋筋を一本折れた先にある、小さな古書店。
天井まで届く本棚の隙間で、シィカは黙々と背表紙の埃を払っていた。

「シィカちゃん、もうええよ。二十二時半や、御堂筋線終わってまうで」
帳場に座った店主の源さんが、新聞を畳みながら声をかけてくる。
シィカは棚の奥から見つけたばかりの、大正時代の歌集をパラパラとめくりながら返事をした。

「あ、はい。あとこれだけ整理したら終わります。……これ、次のレポートの資料に借りていってもいいですか?」
シィカは普段、丁寧な標準語で話す。

それは彼女にとって一種の「よそ行き」の服のようなものであり、文学という学問に向き合うための、彼女なりの矜持でもあった。

「ええよ。あんた、ほんま本好きやなぁ。早う帰らんと、千日前は夜になると化け物が出るで」
「……知らんけど」

シィカは小さく笑って、短く答えた。
「知らんけど」や「しゃあない」といった短い大阪弁は、彼女にとっての「句読点」だ。
バイトを終え、店を出る。

夜のミナミは、昼間よりもずっと濃密な空気が流れていた。
法善寺のあたりを通り抜けると、出汁の匂いと、どこかの店のカラオケの音、そして酔客たちの賑やかな声が渾然一体となって押し寄せてくる。

(……お腹空いたな。何か食べてから帰ろうかな)
そう思ったのが運の尽き、あるいは「物語」の始まりだった。

難波駅へ向かう途中の立ち飲み屋の軒先で、偶然、大学のゼミの先輩を見かけた。

「あれ、シィカちゃん? こんなところで何してんの」
「あ、先輩。バイト帰りです。資料探してて」

「相変わらず熱心だね。あ、これ、今から飲むんだけど、一杯だけどう? ちょうど面白い資料の話があるんだ」

先輩は、シィカが興味を持ちそうな話題をエサに、ひらひらと手を振る。
シィカは時計を見た。今から飲めば、確実に終電はなくなる。

けれど、彼女の頭の中では、手元にある古い歌集と、先輩が持っているという「面白い話」が天秤にかけられていた。

「一杯だけですよ。明日、一限ありますから」
そう言いながら、シィカは先輩の隣に滑り込む。

彼女にとって「一杯だけ」という言葉が守られたためしがないことを、彼女自身も薄々感づいてはいた。

「生、二つ」
先輩が注文する。

冷えたグラスが運ばれてくる。
喉を鳴らしてビールを流し込み、美味しい串カツを頬張っているうちに、街の喧騒はどんどん遠ざかり、代わりに「二人だけの時間」が色濃くなっていく。

「……あ、もう零時回ってますね」
シィカは、わざとらしくスマホの画面を先輩に見せた。

すでに電車はない。タクシーで帰るには、今日のバイト代が全部飛んでしまう距離だ。
「悪いことしたな。……どうする? 近くに、静かに話せるところあるけど」

先輩の誘い方は、ひどくありふれていて、そして優しかった。
シィカはビールの残りを飲み干すと、少しだけ赤くなった顔で、いつもの「句読点」を打った。

「……しゃあないですね」
それは、彼女が自分自身に与える、免罪符のような言葉だった。
資料が欲しくて、ミナミまで来た。

夜が遅くなって、帰れなくなった。
だから、これは不可抗力。

シィカは先輩の後に続いて、ネオンが反射する夜の街へと歩き出す。
明日のレポートのことなんて、今はもう、文字の羅列の中に消えてしまっていた。

都会の夜は、ページをめくるたびに新しい顔を見せる。
シィカの大学生活は、そんな「書き込みだらけの余白」で満たされていた。