文化祭準備は着々と進み、文化祭まであと一ヶ月となった。
夏休みも終わり、九月。準備は最終段階へ向かっている。
気づけば翔は、真一と一緒にする実行委員の仕事を悪くないと思い始めていた。
最初は面倒だったが、ひたむきに準備を進める真一を見ていると、自然と手伝う気になっていく。
それに、真一といる時間は穏やかで居心地がいい。
まっすぐな真一は嘘をつかない。変に翔に媚びたり、自分を大きく見せようとすることもない。
翔の周りにいるのは、自分をアクセサリーのように扱う女や、少し悪いことをするのが格好いいと思っていて、常にマウントを取り合う悪友たちばかりだ。
薄い会話で薄い関係を結ぶのは楽だが、特別なにかを感じることもない。
一人ひとりと丁寧に向き合う真一は、翔にとって新鮮だった。
そう、新鮮。新鮮だから一緒にいるだけ。
最近はそう自分に言い聞かせる時間が増えている。
何のために言い聞かせているのかは、翔自身もよくわかっていない。
悪友と会うことはすっかり減り、真一との実行委員の時間を優先するようになっていた。
だが翔の中では、真一といるのは居心地がいいから。別に特別じゃない。そういうことになっている。
*
「入口の看板なんだけど……昨日、ペンキの入ったバケツを倒してしまって。書き直しが必要なんだ」
教室の入り口付近。真一は男子生徒から相談を受けているようだった。
教室の奥辺り、翔のいる店員チームの数人が聞き耳を立てている。
翔も同じように聞き耳を立てていた。
看板は二ヶ月かけて作ったものだった。下書きは美術部の生徒が担当し、色塗りは看板チームの生徒たちが進めていた。
バケツを倒した生徒は青い顔をしている。
それも当然だろう。二ヶ月かけて作ったものだ。残り一ヶ月で修復するのは簡単ではない。
真一は特に驚いた様子もなく、「わかった」と答えた。
「バケツを倒すなんて誰にでもあることだよ。俺もよく物を落とすし。次からはバケツは近くに置かないようにすればいい。今回ので気をつける場所が分かったんだから、それは収穫だと思う。」
真一は、失敗ではなく次に活かせる経験として話していた。
「ひとまず下書きは僕らにはできないから、美術部の人たちには俺から声をかけてみる」
「うん……」
「大丈夫、絶対間に合うから。まかせて」
穏やかだがはっきりとした声色でそう言って、青い顔をした生徒を別の教室へ連れていく。
生徒が今にも泣きそうだったからだろう。
人目のない場所で泣けるようにしたのだ。
どこまでも気遣いの男だ。
翔の周囲では、ひそひそと声が聞こえる。
「せっかく二ヶ月もかけたのに」
「ちょっと困るよね」
「おい」
その声に苛ついて、翔は思わず声をあげた。
「バケツを近くに置いてても、誰も気にしてなかっただろ。たまたまあいつが引っ掛けただけだ」
普段の翔なら、こんなことは面倒だと無視していただろう。
けれど今回は声をあげた。
人目のない場所で泣けるように生徒を気遣った真一を見たあとでは、黙っていることができなかった。
ここ二ヶ月で、真一の正義感がうつったのかもしれない。
翔の言葉に、ひそひそ話をしていた生徒たちはびくりと肩を震わせた。
「ご、ごめん」
謝る相手が違うだろ。
そう思ったが、翔は黙って作業に戻った。
戻ってきた真一の行動は早かった。
美術部の部長に相談し、美術部の生徒数人に下書きの半分をその日のうちに仕上げてもらった。
残り半分は翌日に回し、色塗りを少しでも早く始められるようにする。
チームリーダーたちと相談し、作業が落ち着いているチームから何人か看板チームへ回してもらう。人数は一気に倍になった。
ペンキを倒した生徒は、一旦調理チームに入ってもらったらしい。気まずく感じさせないための配慮だろう。
ペンキが足りなくなることを見越して、近くのクラスから余ったペンキを譲ってもらう。それでも足りない分は、担任に確認を取り、食材費や装飾費から少しずつ回して購入することにしたようだった。
真一の指示は的確で、丁寧な交渉を重ねながら着実にリカバリーを進めていた。
翔はそれを見ながら
(すげえな。なんでこいつ、こんなに人のために動けるんだよ)
と思った。
そこまでして、その日は解散となった。
「真一」
夕暮れが夜に飲み込まれる頃。
最後まで残っている真一に翔は声をかける。
真一は毎日のように残って実行委員の仕事をしていた。
「あれ、翔。まだ帰ってなかったのか?」
「それはお前もだろ……」
真一はペンキ代の振り分けがきちんとできているか確認しているようだった。
「ペンキ買うのか」
わかっていて翔は聞く。
「ああ。このあと、まだ開いてるホームセンターがあったから」
「ペンキ倒したやつに行かせた方がいいんじゃねーの」
「いや。今日は早く帰って寝てもらった方がいい。昨日、あまり眠れなかったみたいなんだ」
お人好しめ、と翔は思う。
どれだけ自分が損をしても、困っている人を放っておけないのが真一なのだ。
「それと、今日はありがとう」
真一に唐突にお礼を言われて、翔は疑問に思った。
翔は真一が看板問題の対応を進めているあいだ、特に何もしていない。 感謝されるようなことはしていないはずだ。
「看板の、バケツの件。不満が出ていたところにフォローしてくれてただろ」
言われて、翔は「あ」と思い出す。
確かに、フォローと言われればフォローかもしれない。
実際のところ、ただ苛ついて言っただけのことだったが。
「別に。苛ついて言っただけ」
「けど、そのおかげで彼は責められずに済んだみたいなんだ」
さすが翔だな。と言われて、翔はまたむず痒い気持ちになる。
「どうでもいい。ていうか、ホームセンター閉まるんじゃねーの」
むず痒さに耐えられなかった翔は、無理やり話題を変えた。
「本当だ。そろそろ出ないと」
真一は周囲のものをしまって、準備をし始める。
それを見ながら、翔は少し悩んだ末に口を開く。
「……重いだろ、俺も行く」
「えっ、いいのか?正直助かるけど、このあと予定は?」
「ない」
嘘だった。
悪友たちと会う約束がある。
翔は真一から見えない角度で、『今日パス』とグループメッセージを送った。
すぐに『OK』を意味する変なキャラクターのスタンプが並ぶ。
軽い返事だった。相手も別に、翔がいなくても構わないのだ。薄い関係。
「助かるよ。それじゃあ、お願いしたい」
「ん。早く出ないとホームセンター閉まるぞ」
荷物をまとめる真一に、なんとなく声をかける。
「真一ってさ、そういうの損してるって思わねーの」
翔の失礼な物言いは健在だ。
本当は、そんなに頑張って大丈夫なのか、と言いたかった。
だが、それを口にするのは妙に気恥ずかしかった。
「思わないな。困ってる人のために動くのは当然のことだし」
「けど、一人で抱え込むことないだろ」
「一人じゃないだろ」
翔は一瞬、真一が何を言ったのかわからなかった。
「今日は翔が来てくれた。一人じゃない。頼もしいよ」
そう言って笑う真一に、翔は何も言えなくなる。
悪友たちとの約束は、翔がいなくても何も変わらない。
けれど真一は、翔がいて頼もしいと、本気で言っているのだ。
真一は嘘をつかない。
首が熱い。
「……別におまえのためじゃない」
翔の口から出るのは、やはり憎まれ口だった。
けれど真一は笑って、そうだな、と言った。
「行こうか」
準備を終えた真一は、教室の電気を消すと、翔の背中を軽く叩いて促した。
叩かれた部分が熱いのは、夏の暑さがまだ残っているからだ。
そう翔は思い込むことにした。
