それから大会までの数日間、俺は部活を休んだ。
調理室にも足を運ばなかったので、颯先輩と顔を合わせることもないまま大会当日の土曜日を迎えた。
自室で時間を潰しながらも、頭の中には颯先輩のことがずっと頭にある。
颯先輩の出場時間を思い出しては時計を見て、気を逸らすために何か別のことをして、また時計をみる。そんなことを何回も繰り返した。
「……颯先輩と約束したのに」
応援に行ける立場ではないと思いつつも、俺は颯先輩とした約束を破るのが嫌だった。
何より俺自身、颯先輩が走り切る姿を見届けたかった。
「こっそり応援に行くだけならいいよね」
時計を見ると、今から会場へ向かえばギリギリ間に合いそうだ。
俺は気持ちがしぼんでしまう前に勢いよく腰を上げ、部屋を出た。
駅から少し離れた会場まで走り、息を切らしながら観客席にたどり着いた。
流れてきたアナウンスから、ちょうど颯先輩の出場種目である400メートル走の決勝だとわかる。
スタート地点には、他の選手に混じって颯先輩の姿があった。
「……颯先輩、頑張れ」
まもなくして、スタートの合図とともに選手が一斉に走り出した。
出だしは3番手にいた颯選手は、中盤あたりから勢いを増し、ひとり、またひとりと抜き去る。
他の選手との距離はどんどん開き、圧倒的な差をつけて颯先輩はゴールラインを超えた。
「……やっぱり颯先輩はかっこいいや」
感動のあまり、少し笑いがこぼれるくらいだった。
颯先輩はもうお菓子がなくても走れる。それが今、証明された。
寂しいけれど、受け入れるしかない。これでいいのだと、自分に言い聞かせる。
せめて最後に颯先輩の勇姿を目に焼き付けておこう。そんな思いで、じっと見つめていると、不意に颯先輩が観客席を振り返った。
視線が合ったような気がして、どきりとする。
いや、気のせいだろう。結構離れているし、他にも観客は大勢いる。その中で俺を見つけられるはずがない。
けれど、いつまで経っても、颯先輩がこちらを見ている気がしてならない。
俺は視線を切るように背中を向け、慌てて観客席から離れた。
会場を後にし、駅に向かうため川沿いの道を歩く。
颯先輩は俺が来ていたことに気づいただろうか。もし気づいていたら、俺のことをどう思っただろう。
料理部を休んだくせに、のこのこ応援に来たのかと呆れたかもしれない。母親からもう俺とは話さないように言いつけられているかもしれない。
「……俺、颯先輩に嫌われたくなかったなぁ」
考えるうちにため息がこぼれ、視界が曇る。気がつくと、涙がこぼれていた。
そのとき、遠くから聞き覚えのある声がかすかに聞こえてきた。
「……光希! ……光希!」
声は何度も俺のことを呼んでいる。
歩いてきた道のりを振り返ると、その先に颯先輩の姿があった。
「なんで……」
颯先輩は走っていた。
遠くに小さく見えていた姿が、どんどん近づいてくる。
俺は軽く混乱して、思わず颯先輩とは逆方向に駆け出した。初めて追いかけられたときと同じように、どうしていいかわからず、とにかく逃げた。
けれど、走り出してそう経たないうちに、颯先輩につかまえられてしまう。
腕を掴まれ、足を止めると後ろから抱き締められた。
颯先輩の息遣いが、耳元で聞こえる。
「なんで逃げるの?」
「颯先輩に合わせる顔がなくて……大事な大会の前なのに、何も考えずお菓子作って渡したりして」
「なにそれ。この前も言ったけど、俺がお願いしたんだから。光希が気にすることじゃない」
「でも……」
「でも、じゃない。母さんにはちゃんと説明しておいたし、光希は何も悪くない。わかった?」
「……はい」
ようやく受け入れると、颯先輩が安心したように息をつき、抱きしめていた腕を解く。
俺は照れくささを感じながらも、颯先輩のほうに向き直った。
「てか俺、ずっと待ってたんだけど?」
「すみません……お菓子、持ってきてません」
「違うよ。光希のお菓子ももちろん好きだけど、俺が待ってたのは光希自身だから」
「えっ……」
「俺、光希のおかげでまた走れるようになったんだよ。光希が走っている俺を褒めてくれて、好きって言ってくれて、応援するって言ってくれたから頑張れた。俺に走る理由をくれたのは光希だよ」
それは、俺が本当にほしかった言葉だった。
「颯先輩……」
嬉しさを噛み締めていると、不意に颯先輩が顔を寄せた。
目を閉じる間もなく、唇が触れ合う。
「……!」
唐突なキスに、俺は目を瞬いた。少し遅れて顔がぼっと熱くなる。
「俺、光希のことが好きだよ」
「あの、そういうのって普通、告白が先じゃ……」
「ああ、それもそっか」
慌てふためく俺をよそに、颯先輩は余裕そうに微笑む。
その顔は幸せそうで、返事を聞かなくても俺の気持ちがわかっているかのようだった。
「……俺も。颯先輩のことが好きです」
言わなくてもわかってるかもしれないけれど、言葉にする。
「走ってる颯先輩も、走ってない颯先輩も、全部……」
そこまで伝えると、余裕そうに笑っていた颯先輩が少し照れくさそうにした。
「……うん、ありがと」
それから颯先輩は続けた。
「じゃあ、また月曜日。部活の時間に」
「はい、楽しみにしてます」
笑顔で答えると、颯先輩は会場までの道を戻っていく。
その背中を見送っていると、心地よい風が通り抜ける。
走っている颯先輩の姿はやっぱりきれいで、俺はいつまでも眺めていた。

