ハヤテ先輩からは逃げられない


 弟も元気になり、また颯先輩のためにお菓子を作る日々が始まった。
 レシピの研究のために使っていたノートは、その日何を作ったのか、食べたときの颯先輩の反応、颯先輩の好みの分析など、颯先輩についての情報や記録で埋まっていく。
 調理室でノートをまとめていると、窓が開く音がした。
「今日もいい匂いがする」
 見れば、休憩時間になったのか、颯先輩が窓際に立っている。
「颯先輩、お疲れさまです」
 颯先輩のところまで行くと、開け放たれた窓から熱気が入り込んでくるのを感じた。
 冷房の効いた調理室にいると忘れてしまいがちだが、季節は本格的な夏を迎えたようだ。
「何してたの?」
「レシピとかいろいろ書き込んでたんです。料理の研究ノートみたいなのをつけてるですけど」
「へえ、どんなのか気になる。見せてよ」
 いいですよ、と言いかけて言葉を切る。
 最近のノートは颯先輩のことでいっぱいだ。
 いくらお菓子作りのためとは言え、本人に見せるのは気が引ける。
「……別に大したこと書いてないので」
「そんなことないでしょ。見せてよ」
「いや、字も汚くてごちゃごちゃしてるので、もう少し整理してから見せますね!」
「うーん、そう? じゃあ今度、絶対に見せてね」
 颯先輩は少し残念そうにしながらも、引き下がる。
 ノートのことから意識を逸らすため、俺は話題を変えることにした。
「本当に最近の夏って暑くて大変ですよね! 運動部の方たち、尊敬します。俺なんて、ここから見てるだけで溶けそうですよ」
「運動部のこと見てるんだ?」
「えっ、そうですね。たまに、ここから見てますよ」
 主に颯先輩の走る姿を目で追っているとは言えない。それが部活中の密かな楽しみだとも。
「俺のことは? 見てくれてる?」
 言わずに隠しておこうとしたことを、颯先輩がストレートに尋ねてくる。
「見てますよ」
 間を置くと変な感じになるかと思い、即答する。
「ふうん。走ってる俺、好き?」
 今度はさすがに即答できなかった。
「……好きですよ。そうじゃなきゃ、こんなに毎日お菓子作ったりしません」
 照れ隠しに冗談っぽく言うと、颯先輩がふっと笑う。
 それから、俺は少し真面目に、今まで考えていたことを話した。
「颯先輩が走る姿、すごくきれいなんですよ。初めてちゃんと見たとき、風みたいだなって思いました。俺、料理とかお菓子以外でこんなに心を動かされたのってたぶん初めてです。初めて料理に興味を持ったのは、ケーキ屋で見たデコレーションがあまりにきれいだったからなんですけど、そのときみたいに、なんか見ているだけでワクワクする感じで……」
 つい語りすぎていることに気づき、ハッとする。
 また笑われるかもしれないと思ったけれど、颯先輩は真剣に耳を傾けてくれていた。そのせいで、俺は余計に気恥ずかしくなる。
「とにかく! 走ってる颯先輩のこと好きですよ」
「そう? ありがと。じゃあさ……」
 颯先輩は窓枠に腕をつき、俺をまっすぐに見つめる。
「走ってないときの俺は?」
「それは……」
 答えようとした瞬間に、心臓がばくばくと鳴り始めた。
 素直に答えてしまっていいのだろうか。
 迷っているうちに、こちらに近づいてくる足音が聞こえた。
「颯、またここにいたのか」
 顔を向けると、健斗先輩だった。
「もうすぐ休憩終わるぞ」
「なんだよ、いいところだったのに」
「それが呼びにきてやったやつにする態度か。どうせ光希のお菓子、つまみ食いしに来たんだろ」
「そんなんじゃないし」
「どうだか」
 健斗先輩は、颯先輩との言い合いをやめて、俺に話を振った。
「なあ、光希。俺にもお菓子ちょうだい」
「マカロンでよければ、ありますけど」
「いい、いい。むしろ最高!」
 今日ラッピングしたばかりのマカロンの袋をテーブルの上から取り、窓際へと戻る。
「あっ俺、手汚れてる。光希、代わりに食べさせて」
 健斗先輩は、あーんと口を開けて雛鳥のように待つ。
「もう、仕方ないですね……」
 マカロンをひとつ袋から取り出し、健斗先輩の口元へ運ぶ。
 そのとき、颯先輩がぐいっと健斗先輩を押しのけて前に出た。そのままマカロンをぱくりと食べてしまう。
「ああああっ!? 俺のマカロン!」
 つかみかかりそうな勢いの健斗先輩をよそに、颯先輩はじっくりマカロンを味わって「うまい」と呟く。
「颯、人のマカロンとるなよ!」
「ただのマカロンじゃない。光希が作ったマカロンなんだから、俺のだよ」
「はあ? 光希はお前の専属料理人じゃないだろ」
「専属? 専属かぁ……」
「おい。『それありだな』みたいな顔するな!」
 また言い合いを始めた2人を「まあ、まあ」となだめるが、俺の言葉はたぶん届いていない。
「だいたい、光希のお菓子はすごく美味しいから、もっとたくさんの人が食べるべきだって言ってたの、颯じゃん!」
 健斗先輩の言葉に、俺は驚いた。
「颯先輩、そんなふうに言ってくれてたんですか?」
 ちらっと見ると、颯先輩はふいっと顔を逸らす。
「確かに前はそんなふうに言ったかもしれないけど、事情が変わったんだよ」
「どんな事情だよ」
 健斗先輩が突っ込むのを聞きながら、俺も知りたくなる。
 けれど、颯先輩はそれには答えずに、健斗先輩の背中を押した。
「ほら、練習、練習」
「ああ、まだマカロン食べてないのに……」
 名残惜しさを漂わせながらも、健斗先輩はグラウンドに戻っていく。
 颯先輩もその後を追うように歩き始めたが、ふと足を止めて俺を振り返った。
「あのさ、光希。もうすぐ大会があるんだ。夏の結構、大きめの大会なんだけど」
「そうなんですか。頑張ってください」
「もし、その大会で一番になったら、お菓子作ってよ」
 そんな大事な大会のときでも、お菓子をお願いしてくれることが嬉しかった。
「わかりました、とびきりのやつ作ります!」
 俺は調理室の窓からでもちゃんと届くよう声を張った。
「俺、応援しにいきますね!」
「うん、約束な」
 颯先輩は満足そうに微笑んで、小走りでグラウンドへと去っていった。
 その姿を見送りながら、さっきの質問を思い返す。走っていないときの颯先輩が好きかと聞かれたら答えは決まっている。
「颯先輩こそ、どうなんですか……」
 そう口にしながら、はっきりと自覚が芽生える。
 俺はたぶん、お菓子以外の部分で颯先輩に求められたいのだと思う。