ハヤテ先輩からは逃げられない


 それからというもの、俺は部活の時間になると颯先輩のためにお菓子を作り、颯先輩は俺のお菓子を食べたいがために陸上部の活動に参加した。
 調理室からはグラウンドが見渡せるので、時折手を止めては颯先輩の姿を探した。颯先輩も休憩時間に窓の外から顔を出すようになり、少しの時間だけ他愛もない話をする。
 そんな生活が当たり前になり始めたある日。
「……というわけで、すみません。今日は、家に早く帰らなくちゃいけなくて」
 休憩時間、俺は2年生の教室まで行き、健斗先輩に事情を説明した。
 今朝、小学生の弟が熱を出して学校を休むことになり、家にひとりでいる。うちは両親共働きのため、学校が終わり次第、俺が看病することになったのだった。
「そういうことなら、弟くんのために早く帰ってあげて」
 健斗先輩は俺を気遣って、明るく返してくれた。
「颯先輩、部活に出てくれますかね?」
 俺が心配することでもないのかもしれないけど、やっぱり気がかりではある。
「うーん、どうかなぁ。まあ、その辺は心配しないで。光希のおかげで最近部活にも来てるし、俺たちがなんとか説得してみせるから。光希のことは、俺から颯に説明しておくよ。家のことが落ち着いたら、また作ってあげて!」
「……はい。じゃあ、お願いします」
 健斗先輩と別れ、廊下を進みながら颯先輩のクラスもちらっと覗く。移動教室なのか、教室にはほとんど生徒がおらず、颯先輩の姿もなかった。

 放課後、ホームルームが終わると、まっすぐ自転車置き場へ向かう。
 運動部はすでに活動を始めているようで、グラウンドから活気に満ちた声が聞こえてくる。思わず足を止めて見ると、陸上部の中にジャージ姿で柔軟をしている颯先輩の姿もあった。
「……ちゃんと部活、出てるんだ。よかった」
 ほっと安心するのと同時に、なぜか胸に小さな痛みが走る。
 この頃、颯先輩が陸上部にいるのは当たり前になってきている。健斗先輩たちは俺のおかげだと言うけれど、本当にそうなのだろうか。
 お菓子だって俺が作ったものでなくてもいいのかもしれないし、お菓子がなくても走れるようになったのかもしれない。
 もう俺がお菓子を作らなくても、颯先輩は以前のように走れるのではないだろうか。
 そうなれば、颯先輩と話す時間もきっとなくなってしまう。
 まだそうとは決まったわけでもないのに、そんな想像をするだけでため息がこぼれた。

 部活を休むのは1日だけのつもりだったが、弟の体調がなかなか回復せず、結局3日連続でまっすぐ家に帰ることになった。
 今朝は熱も下がっていたし、食欲も出てきたようだ。何を作ってあげようかと考えながら、校門を出たところで自転車に乗った。
「おーい、光希!」
 少し自転車を走らせたところで、後ろから呼びかけられた。声の大きさからして、かなり距離がありそうだと思いながら振り返る。
「颯先輩?」
 校門の前で手を振っていた颯先輩が、こちらに走ってくる。短距離走を全力で走るのと同じくらいのスピードと勢いだ。
「はやっ……!」
 何十メートルも離れていたはずなのに、颯先輩はあっという間に俺の目の前まで来た。
「健斗から聞いた。弟さんの調子どう?」
「だいぶよくなりました。念のため今日も休んでますけど、朝は元気そうでしたし。明日には学校に行けそうです」
「そっか。よかった」
「あの……」
 一瞬、お菓子を作れないことを謝ろうとしてやめた。陸上部のジャージを着ているあたり、颯先輩は今日もきちんと部活に参加しているのだろう。
「何?」
「いえ。部活、頑張ってください」
 颯先輩がまた走れるようになったのなら、俺だって嬉しい。寂しい気持ちを押し隠して笑顔でエールを送ったつもりだったのだけど、颯先輩は目を伏せた。
「あのさ、これはただの俺のわがままで、負担に思わないでほしいんだけど……」
 気まずそうに切り出してから、颯先輩はまっすぐに俺を見つめた。
「またお菓子作ってほしい。なんとか頑張って部活に出てるんだけど、全然調子が上がらなくて……やっぱり俺、光希が作ったお菓子がないとだめみたい。だから、また作ってくれる?」
「はい……もちろんです!」
 思ったよりずっと張り切った声で俺は返事をしていた。
「ありがと。じゃあ、また明日」
 颯先輩は安心したように頬を緩め、来た道を戻っていく。
 走っているときの颯先輩の背中はまっすぐに伸びてて、少し眩しかった。