ハヤテ先輩からは逃げられない


 翌日、昼休みももうすぐ終わるという頃だった。
 次の授業へ移動するため渡り廊下を進んでいると、ふと中庭に颯先輩の姿を見つけた。近くにはベンチもあるのに、なぜか植え込みの陰の草むらに寝そべっている。
 おそらく居眠りをしているだけだろうけど、万が一体調が悪くて倒れているのだったらどうしよう。そんな不安が過ぎる。迷った末に、俺は友達に先に行ってもらうよう声をかけてから、中庭に踏み込んだ。
 念のため生存を確認するだけ。そう心に決めて、そっと颯先輩の様子を窺う。
「よかった、ちゃんと息してる」
 大丈夫どころか、颯先輩はすやすやと気持ちよさそうに眠っていた。
 子どもみたいな可愛い寝顔をしている。なんだか目が離せなくなり、両膝をついてまじまじと見ていると、颯先輩が急にパチッと瞼を開いた。
「うおっ!」
 ばっちり目が合ってしまい、驚きのあまり声を上げる。
 颯先輩は勢いよく体を起こすと、俺に抱きついてきた。背中に腕を回し、俺のお腹のあたりに顔を埋めている。
「えっ、どしたんですか!?」
 いきなり抱きつかれ、さらに驚く。
 けれど、颯先輩からの返事はなく、すーはーと息を吸って吐く音が聞こえてきた。
「あの……」
 恐る恐るもう一度声をかけると、颯先輩が顔を上げた。
「あ、ごめん。いい匂いがしたから、つい」
 言葉とは裏腹にあまり悪びれた様子もなく、颯先輩は腕を解いた。
「匂いしますか? なんだろう、柔軟剤の匂いかな」
 俺は自分の腕を上げて、シャツに鼻を近づけてみる。よくある普通の洗剤の匂いがするだけだ。
「違うよ。甘い匂い。お菓子の匂いだと思う」
 そう否定しながら、颯先輩は俺に顔を近づけ、すんすんと匂いを嗅ぐ。
「もしかして、お菓子持ってる?」
「いえ。今は持っていないですよ」
「そっか」
 この頃、立て続けにお菓子を作っていたせいで、匂いが体に染みついてしまったのだろうか。でも、颯先輩以外にそんなふうに言われたことはないので、颯先輩のお菓子に対する嗅覚が異常に鋭いのかもしれない。
 すると、颯先輩が何か思い出したように「あっ」と声を上げた。
「な、なんですか?」
 次はなんだろうと身構えていると、颯先輩はほわほわした調子で答える。
「俺、佐々木颯」
 このタイミングで、自己紹介をされた。
 拍子抜けしつつも、よく考えたら、きちんと会話するのは初めてだ。
 とは言え、名前は知っている。
「知ってます。健斗先輩から聞きました」
 そう答えながら、俺が一方的に知っているだけだろうと気づく。
 俺は慌てて、続けた。
「あっ、俺は1年の桜井光希です」
「知ってる。お菓子作ってくれた子でしょ?」
 どうやら颯先輩も健斗先輩から俺の名前くらいは聞いていたみたいだ。ちゃんと話すのは初めてなのに、自己紹介があまり意味をなさないという妙なことになってしまった。
 それにしても、颯先輩はこうして落ち着いて話してみると、印象が違う。走っているときはあんなに機敏なのに、今は穏やかでゆったりしている。柔らかい雰囲気で、もっと言うと少しぼんやりしている。
 颯先輩は、のほほんとした調子で口を開いた。
「お菓子、すごくおいしかった。ありがとう」
 作った側としては、やっぱりおいしかったというストレートな感想が一番嬉しいものだ。
 けど、不意打ちで言われると、必要以上に照れてしまう。
「いえ……こちらこそ。食べてくれて、ありがとうございます」
「健人のやつさ、ひどいんだよ。お菓子が食べたかったら、部活に参加しろって。餌でつるような真似して」
 それについては俺も共犯なので、罪悪感に胸がちくりと痛む。
「馬の目の前に人参ぶら下げて走らせるのとやり方同じじゃん。人のことなんだと思ってるんだろうね」
「きっと、それだけみんな颯先輩に走ってもらいたいと思ってるんですよ」
 方法はさて置き、健斗先輩を含めた陸上部の人たちは本気で颯先輩のことを心配しているはずだ。颯先輩の復帰を待ち望む気持ちは本物だと思う。
「期待してくれるのは嬉しいんだけどさ。肝心な理由が見つからないんだよね」
「理由……?」
「走る理由」
 颯先輩はどこか悲しそうに微笑む。
 事情を知ったような気になって、「走ってもらいたい」なんて軽々しい発言だったと俺は反省した。
 お菓子のご褒美があれば走れるなんて単純なように聞こえるけれど、颯先輩が抱えている問題はそう簡単なものでもないのかもしれない。
 返す言葉を見失い黙っていると、颯先輩が明るい調子を取り戻して言う。
「ねえ、またお菓子作ってよ。光希が作るお菓子があれば、また走れる気がするんだ。あ、でも、光希にメリットがないか」
 断る理由なんて別にないのだけど、俺の返事も聞かずに颯先輩は矢継ぎ早に続ける。
「お金払うから、作ってもらえない? 材料費もあるし、手間や時間だって結構かかるよね。そういうの全部ひっくるめて、いくらくらいになりそう?」
 具体的なことまで詰めようとする颯先輩に、俺は慌てて答える。
「いえ、お金なんてもらえません! 材料費は部費から出ますし。俺どうせ部活で何かしら作るので、手間や時間もいつもと何も変わりませんから」
 俺の説明に、颯先輩はまだ納得いっていないようで、「そう?」と首を傾げている。
「それに俺、何か作っても食べてくれる人って家族くらいしかいないんです。誰かに作ってって言ってもらえるの、嬉しくて。だから、俺にとっても全然悪くない話で……むしろ、食べてもらえるなんて、ありがたい話です!」
 勢い込んでそう伝えると、颯先輩はようやく満足げに頷いた。
「よかった。じゃあ、楽しみにしてる」
 そのとき、渡り廊下のほうから声が聞こえてきた。
「おーい、颯ー。そんなところにいたのかよ。次体育だから、そろそろ着替えないとやばいぞ」
 声をかけてきたのは、颯先輩のクラスメイトのようだ。
「今、行くー」
 そう答えてから、颯先輩は腰を上げる。
「じゃあ、またね」
「はい……」
 クラスメイトが「早く、早くー」と急かすが、颯先輩は「はい、はい」とゆっくりとした足取りで中庭を歩いていく。
 風のように走る先輩の姿とは、やっぱりうまく重ならなくて、不思議な人だなと思った。