ハヤテ先輩からは逃げられない


 部活の時間になると、健人先輩との約束どおり俺は調理室でお菓子作りを始めた。
 条件を揃えるため、昨日とまったく同じクッキーを作る。
 生地をオーブンに入れて焼き始めると、だんだんといい香りが広がっていく。匂いが遠くまで届くように、一応窓も開けておくことにした。
「なんか、狩りでもしてるみたいだな」
 餌で誘い出し、獲物がやってくるのを待つ。
 こんな方法で本当に颯先輩はやって来るのだろうか。とはいえ、あと俺にできることは待つだけだ。
 昨日焼いて余った分のクッキーを冷蔵庫から取り出し、透明なラッピング袋に入れてリボンを巻いていく。
 そのとき、調理室の扉が勢いよく開いた。
「……!」
 扉の前に立っているのは、間違いなく颯先輩だった。
 軽く息を弾ませているので、ここまで走ってきたのだろう。さっと視線を滑らせ、調理室にひとり立ち尽くしている俺に目を留める。
「それ……」
 昨日と同じように颯先輩が呟く。颯先輩が見つめる先は、俺の手の中にあるクッキーだ。
 健斗先輩を信じていなかったわけではないけれど、本当にお菓子につられて来たことに少なからず驚いた。
「あの、これは……」
 鋭い視線を向けられ、俺はもごもごしながら後ずさる。
 すると、窓側から健斗先輩の声がした。
「光希、こっち!」
 振り返ると、窓の外から健斗先輩が手を差し伸べている。
「パス!」
「あっ……」
 俺は段取りを思い出し、慌てて健斗先輩のほうへ駆け寄る。そして、窓越しにクッキーの袋を渡した。
「あとはお願いします!」
「ああ、任せとけ!」
 健斗先輩は俺に答えてから、颯先輩に目を移した。
「おい、颯! お菓子がほしかったら俺に追いついてみろよ!」
 クッキーを颯先輩に見せつけるように掲げてから、颯爽とグラウンドのほうへ走り去る。
 その背中が遠くなっていくのを眺めていると、不意にすぐ横を風が通り過ぎた。
 颯先輩が助走をつけ、開け放たれた窓へと突っ込んでいく。
「えっ……」
 颯先輩は窓の枠に両手を着き、軽々と飛び越えた。ふわっと地面に着地するのとほぼ同時に、勢いよく駆け出す。
 グラウンドを走る健斗先輩のことを、颯先輩が追いかける。
 昨日は逃げるのに必死だったから、颯先輩が走っているところをきちんと見るのは初めてだった。
 そして、颯先輩が走る姿は美しかった。
「風みたいだ」
 あんなに地面を力強く蹴り上げているのに全体は軽やかで、颯先輩自身が風になって、他の風と一緒に走っているようだった。
「かっこいいな……」
 見惚れているうちに、颯先輩はついに健斗先輩に追いついた。
 手を掴んで引き留めると、後ろから抱きつくようにして捕まえ、クッキーの袋に手を伸ばしている。
 しばらくクッキーを渡そうとしない健斗先輩との攻防が続いたが、何やら言葉を交わしたあとで、颯先輩はずるずると部室棟のほうへと引きずられていった。
 とりあえず、俺の役目は終わったようだ。
 オーブンに入れたままのクッキーのことを思い出し、俺は焼き加減を確かめるため窓際を離れた。