ハヤテ先輩からは逃げられない


 知らない先輩に追いかけられる謎の出来事に見舞われた翌日。
 昼休みになってすぐに、俺はクラスメイトに声をかけられた。
「光希、なんか先輩が来てるみたいだけど」
「え、まさか昨日の先輩じゃ……」
 自席から教室の入口を振り返ると、そこにいたのは知り合いの健斗先輩だった。目が合うと、手招きをされる。
 ほっとしながらすぐに席を立ち、健斗先輩のところへ向かう。
「どうしたんですか? 1年のクラスまで来るなんてめずらしいですね」
 健斗先輩は、俺のひとつ上の学年で2年生だ。中学も同じで、合唱祭の委員会で一緒になったことをきっかけに話すようになり、家も近所だとわかった。部活で先輩後輩という関係に縁がない俺にとっては、気軽に話ができる貴重な上級生だ。
「光希に話があって。今、ちょっといい?」
「大丈夫ですよ」
 わざわざ教室まで足を運び、さらに場所まで移動するなんて、どんな話なのだろう。少し緊張しながらも、健斗先輩の後ろに付いていく。
 人通りの少ない渡り廊下まで来たところで、県と先輩が切り出す。
「光希、昨日颯に追いかけられてたらしいな」
 名前には覚えがなかったものの、追いかけられたと言えば例の一件しかない。
「はい。もしかして健斗先輩の友達ですか?」
「まあね。颯とはクラスが違うけど、部活が同じなんだ」
「ってことは、陸上部なんですね」
「そう。昨日は驚かせてごめん」
「いえ、健斗先輩が悪いわけじゃないですし」
 まさか、本人に代わって謝るためだけに来たわけではないだろう。けれど、それ以外にどんな用件があるのか。
 先が読めずに困惑していると、健斗先輩が静かな口調で話し始めた。
「颯は、陸上部の誰よりも足が速いんだ。入部してからずっと大会でもいい記録を残してきた。陸上部のエースとして、顧問も先輩も同学年のやつらも、みんな期待してた。でも、今年の春に足を怪我して……」
 健斗先輩は悲しそうに目を伏せ、続ける。
「しばらく部活も休んで療養してたんだ。みんな颯の復帰を待ってた。でも、怪我が治っても、颯は部活に顔を出さなかった。もう足はよくなっていて、走ることも問題はないはずなのに」
 健斗先輩はまるで自分のことのように沈痛な面持ちで話す。部活仲間として本気で心配しているのが伝わってきた。
「俺も他のみんなも、颯が戻って来れるようにいろいろ試してみたんだ。でも、誰が何をやってもだめで、颯は走ろうとしなかった。また颯が走るところを見ることはできないのかなって、諦めかけてたんだ……」
 そこで、健斗先輩は顔を上げた。さっきまでとはうってかわって、興奮した様子で俺の肩を掴む。
「けど昨日、そんな颯が走ったんだ! なんでだと思う?」
「さ、さあ?」
 唐突に投げかけられ、俺は首を傾げる。
「光希のおかげだよ!」
「えっ、俺ですか……?」
 健斗先輩は大きく頷く。やっと希望の光を見出したと言うように、目を爛々と輝かせている。
「理由を聞いたらさ、颯が言ったんだ。『甘くておいしそうな匂い』がしたからって」
「それって、つまり……」
「光希が作るお菓子の匂いにつられて、気が付いたら走ってたんだって!」
「え、そんな理由で?」
「どんな理由でも、颯がまた走るなんて奇跡みたいなものだよ。すごいことなんだ。陸上部の他のみんなも大騒ぎでさ」
 健斗先輩は俺の肩から手を離すと、拝むように顔の前で両手を合わせた。
「そこで光希にお願い! 颯を走らせるために、またお菓子を作ってくれない?」
「えっと……それは、別にいいですけど」
 奇妙なお願いに俺は戸惑いつつも、了承した。
 どうせ部活の時間には何かしら作るし、そんなに難しいお願いでもない。颯先輩には少し複雑な事情があるようだけれど、お菓子を作ることが役に立つのなら、断る理由もないと思った。
「ありがとう! じゃあ、さっそく今日の放課後……」
 健斗先輩は、そのまま段取りを話し始める。
 こうして、俺はほぼ面識のない颯先輩を再び走らせる作戦に加わることになった。